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2009/09/18

Singapore Burning -第三部 (つづき)

12 (マレー沖海戦その2)
 プリンス・オブ・ウェールズとレパルスの距離は6キロ余りだった。日本航空戦隊の一部はプリンス・オブ・ウェールズに止めを刺すとみせかけて、180度回転のフェイントを行い、テナントが必死の操船で攻撃をかわしているレパルスを雷撃した。レパルスの時代遅れの対雷撃バルジ(ふくらみ)は効果を発揮し、船体の主要構造を破壊することなく弾頭を爆発させ、かつバルジが浸水しはじめると、反対側で反面注水が始まり船体の傾斜を回復させる。しかし壱岐春記大尉指揮下の9機のベティによる十字雷撃はついにレパルスを仕留めた。「全員デッキへ、避難用意!幸運を祈る」、テナントは叫んだ。最後の魚雷の着弾から沈没までには8分もかからなかった。戦傷者の大半は、沈着な衛生兵の動きで船を離れた。病床看護員、ウォルター・ブリッジウォーターは最後に避難できたが、このときの行動で表彰状を受けた。「全く動けなかった一人を残してしまった、哀れな面持ちは忘れられない」、後日のかれの述懐である。
 泳げない記者のギャラガーも救命胴衣を頼りに、運を天にまかせて暗い海に飛び込んだ。だれもが油で真っ黒になっていた。ギャラガーは取りあえずすでに二人の黒ん坊がとりついている救命浮き輪に助けを求めた。歌が始まった、当然「ビヤ樽ポルカ」だった。レパルス艦上ではたった一つ残っているエリコン対空砲が低空飛行の敵機を追い払っていた。童顔の少尉候補生、オーストラリア人のロバート・デイヴィスだった。レパルスは文字どおり奮戦しながら沈んだ。デイヴィスは自ら砲と一体になり、助かるには遅すぎたのである。かれは感状、メンション・イン・ディスパッチの死後褒賞を受けた。
レパルスが消えはじめると、士官たちが敬礼しているところが見られた。駆逐艦、エレクトラとヴァンパイアは生存者救出に従事した。レパルス沈没後10分ほどで、まもなくプリンス・オブ・ウェールズが同じ運命をたどることが明らかになった。 駆逐艦、エレクトラのの艦長、フランシス・カートライト少佐は、できるだけの乗組員を救おうとプリンス・オブ・ウェールズに近づいた。整然と兵員は列を作り、連結タラップを踏んで行ったが、二つの艦の距離は離れ出し、プリンス・オブ・ウェールズは逆立ちをしはじめた。エクスプレスはきわどいタイミングで離れることができた。傾いた戦艦のブリッジに寄りかかったフィリップスが、カートライトに最後の手を振るところが見えた。結局、プリンス・オブ・ウェールズの乗組員、1612名中、約8割の1285名が助かった。レパルスでは、乗員、1309名中、513名が死亡した。
 イギリス側は知らなかったが、その周辺にいた日本機すべての爆弾と魚雷は枯渇していた。日本機が現場をあとにしようとしていた数分間に最初に現われたのは、モーブレイ・ガーデンのバッファロの一隊である。次に453戦隊のヴィゴースとバッファロの10機が到着した。眼下では駆逐艦群が黒い点々となっている群集へ舳先を向けていた。「アール(R)エー(A)エフ(F)!-レア・アズ・ファッキング・フェアリーズ!(ふたりといないお調子もの!)」というようなことを叫んでいた。 リーチ艦長は脱出していたが、首を骨折して死亡した。ヘンリー・リーチは父親の死を見届けた第一副官、アルバート・スキプウィズ少佐から話をきくことができた。ヘンリーはそのときの会話の一言一言を記憶している。
 「本当に・・お気の毒なことです」、スキプウィズは声をつまらせた。「いい人でした。・・みんなが好きでした」。わたし(ヘンリー)はむやみに頷いた、「わたしも、だったんです」。
  ヴァンパイアの水兵、イタリア移民の息子、ヴィンチェ・チェザーリは、一人の浮いている男の片手を掴もうとしたが、油で滑ってうまく掴めない、ひょろ長い両腕をその脇の下に突っ込んで無作法に持ち上げ手すりを越えさせた。その男は身体のどこからかびしょ濡れになった士官の帽子を取り出してごしごしこすった。金モールがたくさんついた帽子だった。「有難う、さて艦橋に案内してくれるかな?」チェザーリは艦長のモラン大佐のところへ案内して言った。「テナント艦長っとかいう人が会いたいそうです」。
 フィリップスとリーチはどうやら船と運命をともにしたようだった。こういった儀式的自殺行為は、日本人の精神には訴えるものがあるのだろうが、英国海軍では、すでに船を喪失した責任を取るため、船と一緒に死ぬべきだという思想は過去のものになっていたのだが・・。リーチの一瞬の戸惑いがプリンス・オブ・ウェールズに一発お見舞いしたネルを成功させたのだとすれば、フィリップスが向かってきているのは雷撃機ではない、と言い張った故であることがはっきりしている。また弁解しにくいところは、クワンタン沖で明らかに日本軍に発見されたあとでも無線封鎖を続けていた点である。バッファロ機がもう2時間ほど早めに到着していれば辛勝していただろう。しかし、フィリップスがエクスプレスに手を振って別れを告げたときは、かれにはすべてがわかっていたのだろう。
 お酒の入った大宴会のあと、最後の激しいレパルス攻撃で自らの中隊から2機の犠牲を出した壱岐大尉は、翌日、二日酔いの部下の目を覚まさせて南へ飛んだ。現場を見つけるのは造作もなかった。そこはまだ油に汚れ、漂流物や遺体と思われるものが浮いていた。壱岐は低空でハッチを開けた。そこから小さくて丸い物体がコルクの浮き輪をつけて飛び出した。花輪だった。少しの間輝いてからそれは漂っているものの間に浮いた。壱岐はすべての死者に捧げたのだ、と言われた。そしてそれは多分そのとおりだったのだろう。
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