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2009/09/10

Singapore Burning - 第三部 300年の伝統 

10 (日英双方のマレー沖海戦前史)
 ロイヤル・ネイビーは救援に赴いた。自分たちの存在だけで、日本の狂信的な攻撃意図を挫くことはできなかったが、かれらに二度と忘れられない教訓を与えるべくプリンス・オブ・ウェールズとレパルスは4隻の駆逐艦をしたがえて壮途についた。レパルスはあまり戦場経験のない老兵だったが、乗艦していたオーストラリア海軍の候補生たちは張り切った。
 フォースZの司令官、フィリップス提督は、1915年、海軍士官として致命的な不運に見舞われた。ジュトランド海戦に加わっていなかったのである。しかし、自らの航海は主に海上よりデスクの上で続けられていたにしても、その知能と細部にこだわる才能(時計修理が趣味だった)で逐次出世階段を上がって行った。第二次大戦の開戦時は軍令部の次長だった。かれは地中海艦隊の司令官として転出したアンドリュー・カニンガム提督の仕事を引き継いだ。カニンガムはマタバン岬(ギリシャ南端)でイタリア艦隊に奇襲攻撃をかけて大戦果を挙げた。またクレタ島では多大の犠牲を払って陸軍の救出に成功し、自己犠牲の象徴として、チャーチルのお言葉創りに貢献した。「新しく艦隊を作るには3年かかるが、新しい伝統を創るには300年かかる」。
 フィリップスは古いタイプの戦艦信奉者だった。よく訓練された乗員による長短の対空砲で囲まれた、操船性能のすぐれた戦艦は不沈である、と、イタリア戦艦群が、タラントでソードフィッシュの雷撃の犠牲になったあとでも信じていた。RAAF(オーストラリア空軍)のハドソン機がシャム湾で最初に日本船団を発見したとき、フィリップスはマニラにいた。12月7日早朝シンガポールに戻ったとき、オーストラリアに向かっていて呼び戻されたレパルスの帰港と同時だった。フィリップスは睡眠不足だったが連続した打ち合わせのあとやっと休むことができた。このときプリンス・オブ・ウェールズを直ちにドックから引き上げて艦隊を編成し、日本船団を追っていれば、また違った展開となっただろう。
 フォースZは、12月8日日没直後に出航した。それは戦闘開始の16時間あとのことだった。日本側の護衛艦隊指揮官、帝国海軍最優秀の策士の一人、小沢治三郎中将は、英海軍の反応の悪さに怪訝の面持ちだった。すでに日本軍はタイ海岸とコタバルに上陸中で、いま、イギリス軍艦の攻撃を受けても上陸部隊に被害はない、帰りの空(から)の船がやられるくらいだ。小沢の上官、近藤信竹中将の旗艦、金剛も含め、遊弋中の戦艦はみな1914年以前の古参戦艦でレーダーもなかった。しかしフォースZのシンガポール到着のニュースを聞いて、日本軍は十分警戒策をとっており、機雷と潜水艦の配備に遺漏がなかった。また山本五十六は、台湾から余分のネル(96式陸攻)とベティ(1式陸攻)をインドシナに移動させていた。地域の682の陸軍機に加えて142の航空機が備えられていた。「戦艦を沈めるのは戦艦だけ」の理論に対し、山本は「凶暴な毒蛇も蟻の群には勝てない」という古い中国の諺を実践したのである。
 艦隊出航前、レパルスのウィリアム・テナント、プリンス・オブ・ウェールズのジョン・リーチ艦長は連れ立って上陸した。リーチは、末っ子のヘンリーに会うためだった。18歳になったばかりのヘンリーは少尉候補生として、新鋭巡洋艦、モーリシャスに乗り組んでいた。二人は午後遅く士官クラブのプールで出会ったが、それは10代の少年の心に刻まれた時間となった。
 厳重な無線管制を敷いたフィリップスは、日本の侵入艦隊をただ一度の作戦で粉砕する奇襲攻撃を考えていた。日本船団をハドソンの目から隠したモンスーンが今度はフィリップス艦隊を隠してくれた。また本人は知らなかったが、基地の巨大の浮きドックを戦艦と見誤った日本の偵察機が、戦艦群はいまだ停泊中と報告しており、幸運が重なっていた。フィリップスは機雷を認識しており、艦隊を大きく東側へ迂回させていた。出航20時間ほどのち、1隻の日本潜水艦が艦隊を発見したが、スコールのなかで見失い、また小沢の旗艦、鳥海への報告が無線の不具合で2時間ほど遅れた。報告を受け取った小沢は驚愕した。早速帰投中の輸送船団には散開を促し、60機ほどの雷撃機を敵戦艦の捜索に向かわせた。
 フォースZは、奇襲攻撃の準備に入った。士官室は救急センターに模様替えされ、食事は冷たいセルフ・サービスのものとなった。救急袋が全員に配られ、上甲板兵員は、火傷を防ぐため長ズボン、長袖シャツで体を覆った。夕刻、モンスーンの低い雲に裂け目が現われた。プリンス・オブ・ウェールズの最新のレーダーに三つの黒い斑点が現われた。航空機カタログ集でシルエットを確認すると、日本のジェイク(零式水上偵察機)であることがわかった。しかし目標はそれ以上近づいてこなかった。
 フィリップスは敵に発見された以上、奇襲を中止せざるを得なかった。フィリップスの無念は将兵全員に共有された。なかでも従軍記者、デイリー・エクスプレスのオダウド・ギャラガーはもっともがっかりし、それを隠そうともしなかった。夕食後、戦闘配置につかない乗員はできるだけ睡眠を取ることにした。レパルスの船尾を、伊58の艦長、北村惣七少佐が発射した5本の魚雷が目標を外して駆け抜けて行ったことには、だれも気がつかなかった。北村は、攻撃に失敗したが、英国艦隊の劇的な方向転換の第一通報者となった。フォースZは、南向きから、南西方向へ変針した。フィリップスは、再度奇襲の仕事に戻ったのである。シンガポールに残した幕僚長のパリサー准将から、クワンタンへ日本軍が上陸中、またRAAFの第8飛行中隊が急遽出発した、という報告を受け取ったのである。
 フィリップスは信じがたい思いでこの幸運を受け取ったが、1隻の潜水艦によって位置が知られていたことには気がつかなかった。日本軍は、まだかれが北に向かっていると思っている筈だった。 
 クワンタンの浜には大決戦の音響がとどろいた。ガルワリ第18連隊、ロイヤル砲兵第5連隊の銃砲である。クワンタン飛行場では機密書類処分の炎があがった。しかし、日本軍大部隊の上陸というのは、日本のトロール漁船群の誤認であった。これは偵察の任務を帯びていたのかも知れないが、真相不明である。飛行場の書類処分の石油缶が火を噴き、椰子の葉で葺いた飛行場の作戦室が丸焼けになった。イギリス側の損害はこの小屋の焼失だけだったことが翌朝判明した。
 
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