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2009/09/30

Singapore Burning - 第四部 退却、援軍

13 (ジットラ・ラインの攻防)
 ロイヤル・ネイビー300年の歴史で、マレー沖海戦のような大敗北は初体験であった。ダフ・クーパーにとっては、正式に、在シンガポールの駐在閣僚に任命され、総督の上位に立つことになって24時間も経たない内の出来事だった。かれはキャセイ・ビルにあるマレー放送局から事態の放送を行った。モンスーンで空中状態が悪く、よく聞き取れない聴取者が多かった。
 ロンドンで、軍令部のダドリー・パウンドから第一報を受け取ったチャーチルは、独りでいたことを感謝した、と述懐した。「戦争中これほどのショックを受けた事件はない」。かれはその夜ベッドでまんじりともしなかった。
 パーシバルにはショックを受けている暇(いとま)がなかった。制海、制空権を奪われ、これまでもっぱら基地防禦という脇役を与えられていた自らの陸軍が、急に主役に抜擢されることになったのである。しかし、舞台のシナリオを書き換えている余裕はない。テニスの達人、パーシバルは、敵のミスに期待するしか勝ち目はないものと覚悟した。パーシバルは乏しい選択肢のなかから、ミニ・マタドールとも呼ぶべきタイ侵入作戦を発令した。パンジャブ兵の小隊と技術者から成る破壊チームが装甲列車に乗りこみ、タイ国境を10マイルほど越えたクロン・ラムの鉄橋破壊に成功した。また東には、200ばかりのパンジャブ兵をトラックに乗せてジットラの防衛線を越え、シンゴラの日本軍の橋頭堡に向かわせた。この隊は、イタリアの東アフリカ部隊から押収した4基のブレダ対戦車砲、6台の無蓋無限軌道の運搬車によるブレン砲を装備しており、橋梁破壊の爆薬を多量に用意していた。タイ国境の村で、部隊は日本軍のトラック、軽戦車、小型戦車で構成する、第5師団の佐伯捜索隊に遭遇する。佐伯の兵は畑の両側に展開し激戦が始まった。多勢に無勢、インド人部隊は撤退したが、佐伯の上司、河村参郎少将は、この戦闘が大きな妨害要因となった、と想起している。
 3番目のタイ侵入作戦は、クロー小隊(コラム=略称、クローコル)の編成である。地図を一見しても、タイ国境に接するマレーの北端、クローは西海岸と南へ向かう街道の分岐点であり、枢要の地であることがわかる。そして小隊の狙いは、そこからタイへ入り、パタニへ向かう峻険な細道に沿って6マイルほど続く「ザ・レッジ(岩だな)」である。ここは日本軍の進撃を止める絶好のポイントである。ザ・レッジ爆破作戦は、開戦の2日前にはすでに樹てられていたが、実際にクローコルが動き出したのはコタバル上陸の14時間あとのことだった。小隊がタイへ侵入すると、思いがけなく、タイ軍の抵抗に会った。タイ軍は日英双方の侵略軍に容赦がなかったが、親日のピブン・ソングラム元帥は日本軍への攻撃を中止させたので、ザ・レッジへの到着競争は、辛うじて日本軍が勝った。 クローコルの指揮官、43歳、第一次大戦の勇士、ヘンリー・ムアヘッド中佐は、ザ・レッジ爆破には失敗したが、日本軍をよく押し止めた。
 山下の軍勢には、イギリス軍が1台も持たない戦車があり、また日本兵は中国で多年、実戦を経験していた。日本軍は意識してまず白人指揮官を狙い撃ちして、未熟なインド人部隊を混乱させる戦術を採った。ジットラ・ラインの構築はかねてから準備されていたが、ゴム・錫の生産を優先するという労働力の不足から満足すべき出来栄えではなかった。また海に向かって左翼を防衛するための、水田地帯の水没化案は、神聖不可侵の食糧供給という題目で否認されていた。北方、タイ国境へ向かって展開するインド第11師団を預かるデヴィッド・マレー=ライオン少将は、対戦車の罠をしかけることに腐心した。日本軍はタイ国境を突破し、北部マレーに侵入した。
 雨が降ってきた。防水シートのかげで休んでいたインド兵の前に、突然、幽霊のように佐伯隊のT95戦車群が現われた。対戦車砲指揮官、ピーター・グリア中尉のパンジャブ兵は、道路傍のゴムの木陰からブレン軽機関銃で戦った。激戦となった。パンジャブ兵たちは撃たれるか、捕虜になるか、ゴム園に逃げ込んで後日掃討の対象になるか、の運命をたどった。一つのインド部隊の敗走が、山崩れを起こす石ころの役割となった。
 ジットラ・ラインの防衛は、マレー=ライオン指揮下の、グルカ、パンジャブ、ドグラ、ジャートの混成部隊及びレスター、イースト・サレーの本国正規兵があたっていた。少将はジットラの攻略に、山下が全兵力を集中してくるものと予想していた。音少尉の存在がなければそうなっていたかも知れない。佐伯部隊のやさ男、音少尉は偵察に出たあと、英軍の防備が手薄で、脆弱な箇所に夜襲を行えば成功の確度が極めて高い、と主張した。佐伯と、旧友で、たまたま視察にきていた辻大佐がこれに賛成した。しかし、音の判断は間違っていた。佐伯隊は10倍の敵に直面することになった。佐伯の工夫による「ちょっかい部隊(ジター・パーティ)」の活躍、数少ない戦車の有効活用で何とか劣勢を挽回した。一人で形勢を逆転し、佐伯の車輌を使って4キロ後方の河村将軍に連絡をつけた、と辻は記録しているが、その真相は不明である。
 河村は佐伯捜索隊の幸運を認め、「盲蛇に怖じず」、気力(エラン)の勝利と評した。マレー=ライオンは、全軍、南方のグルンへの撤退を命じた。疲れ切った兵士がアロールスター南のケダー川を渡河していた。司令部は兵士たちに、イギリス人の特効薬、熱い甘い紅茶を振舞った。マレー=ライオンは、部下の大隊指揮官、レイ・セルビー中佐と鉄橋の橋に佇み、渡河する兵を見守っていた。突然隊列を縫う3台のオートバイに気がついた。「あ、あれはジャップだ!」、かれとセルビーは、腰のレボルバーを抜いて、後続の二人を射ち倒した。。マレー=ライオンは、すぐさま橋の爆破を命じた。道路橋は造作もなかったが、鉄道橋は亀裂を起こしただけで頑強に抵抗した。だれかの思いつきで、対岸に放置されていた装甲機関車を利用することにした。ボイラーが点火され、汽笛を鳴らしながら機関車は橋に向かって驀進した。運転士が飛び降りた、全員が息を呑んだ。機関車は何事もなく対岸へ渡った。一人の士官が飛び乗ったが、かれはブレーキの操作を知らなかった。機関車は、250マイル先のクアラ・ルンプールの側線で止り、2週間後、日本の空襲でそこで生涯を終えた。アロールスターでも喜劇が悲劇に転じていた。やはりどうしても爆破に応じない鉄橋を、セルビーの部下の将校が爆雷装置を点検していたところ、突然爆薬が誤作動したのである。
 
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2009/09/18

Singapore Burning -第三部 (つづき)

12 (マレー沖海戦その2)
 プリンス・オブ・ウェールズとレパルスの距離は6キロ余りだった。日本航空戦隊の一部はプリンス・オブ・ウェールズに止めを刺すとみせかけて、180度回転のフェイントを行い、テナントが必死の操船で攻撃をかわしているレパルスを雷撃した。レパルスの時代遅れの対雷撃バルジ(ふくらみ)は効果を発揮し、船体の主要構造を破壊することなく弾頭を爆発させ、かつバルジが浸水しはじめると、反対側で反面注水が始まり船体の傾斜を回復させる。しかし壱岐春記大尉指揮下の9機のベティによる十字雷撃はついにレパルスを仕留めた。「全員デッキへ、避難用意!幸運を祈る」、テナントは叫んだ。最後の魚雷の着弾から沈没までには8分もかからなかった。戦傷者の大半は、沈着な衛生兵の動きで船を離れた。病床看護員、ウォルター・ブリッジウォーターは最後に避難できたが、このときの行動で表彰状を受けた。「全く動けなかった一人を残してしまった、哀れな面持ちは忘れられない」、後日のかれの述懐である。
 泳げない記者のギャラガーも救命胴衣を頼りに、運を天にまかせて暗い海に飛び込んだ。だれもが油で真っ黒になっていた。ギャラガーは取りあえずすでに二人の黒ん坊がとりついている救命浮き輪に助けを求めた。歌が始まった、当然「ビヤ樽ポルカ」だった。レパルス艦上ではたった一つ残っているエリコン対空砲が低空飛行の敵機を追い払っていた。童顔の少尉候補生、オーストラリア人のロバート・デイヴィスだった。レパルスは文字どおり奮戦しながら沈んだ。デイヴィスは自ら砲と一体になり、助かるには遅すぎたのである。かれは感状、メンション・イン・ディスパッチの死後褒賞を受けた。
レパルスが消えはじめると、士官たちが敬礼しているところが見られた。駆逐艦、エレクトラとヴァンパイアは生存者救出に従事した。レパルス沈没後10分ほどで、まもなくプリンス・オブ・ウェールズが同じ運命をたどることが明らかになった。 駆逐艦、エレクトラのの艦長、フランシス・カートライト少佐は、できるだけの乗組員を救おうとプリンス・オブ・ウェールズに近づいた。整然と兵員は列を作り、連結タラップを踏んで行ったが、二つの艦の距離は離れ出し、プリンス・オブ・ウェールズは逆立ちをしはじめた。エクスプレスはきわどいタイミングで離れることができた。傾いた戦艦のブリッジに寄りかかったフィリップスが、カートライトに最後の手を振るところが見えた。結局、プリンス・オブ・ウェールズの乗組員、1612名中、約8割の1285名が助かった。レパルスでは、乗員、1309名中、513名が死亡した。
 イギリス側は知らなかったが、その周辺にいた日本機すべての爆弾と魚雷は枯渇していた。日本機が現場をあとにしようとしていた数分間に最初に現われたのは、モーブレイ・ガーデンのバッファロの一隊である。次に453戦隊のヴィゴースとバッファロの10機が到着した。眼下では駆逐艦群が黒い点々となっている群集へ舳先を向けていた。「アール(R)エー(A)エフ(F)!-レア・アズ・ファッキング・フェアリーズ!(ふたりといないお調子もの!)」というようなことを叫んでいた。 リーチ艦長は脱出していたが、首を骨折して死亡した。ヘンリー・リーチは父親の死を見届けた第一副官、アルバート・スキプウィズ少佐から話をきくことができた。ヘンリーはそのときの会話の一言一言を記憶している。
 「本当に・・お気の毒なことです」、スキプウィズは声をつまらせた。「いい人でした。・・みんなが好きでした」。わたし(ヘンリー)はむやみに頷いた、「わたしも、だったんです」。
  ヴァンパイアの水兵、イタリア移民の息子、ヴィンチェ・チェザーリは、一人の浮いている男の片手を掴もうとしたが、油で滑ってうまく掴めない、ひょろ長い両腕をその脇の下に突っ込んで無作法に持ち上げ手すりを越えさせた。その男は身体のどこからかびしょ濡れになった士官の帽子を取り出してごしごしこすった。金モールがたくさんついた帽子だった。「有難う、さて艦橋に案内してくれるかな?」チェザーリは艦長のモラン大佐のところへ案内して言った。「テナント艦長っとかいう人が会いたいそうです」。
 フィリップスとリーチはどうやら船と運命をともにしたようだった。こういった儀式的自殺行為は、日本人の精神には訴えるものがあるのだろうが、英国海軍では、すでに船を喪失した責任を取るため、船と一緒に死ぬべきだという思想は過去のものになっていたのだが・・。リーチの一瞬の戸惑いがプリンス・オブ・ウェールズに一発お見舞いしたネルを成功させたのだとすれば、フィリップスが向かってきているのは雷撃機ではない、と言い張った故であることがはっきりしている。また弁解しにくいところは、クワンタン沖で明らかに日本軍に発見されたあとでも無線封鎖を続けていた点である。バッファロ機がもう2時間ほど早めに到着していれば辛勝していただろう。しかし、フィリップスがエクスプレスに手を振って別れを告げたときは、かれにはすべてがわかっていたのだろう。
 お酒の入った大宴会のあと、最後の激しいレパルス攻撃で自らの中隊から2機の犠牲を出した壱岐大尉は、翌日、二日酔いの部下の目を覚まさせて南へ飛んだ。現場を見つけるのは造作もなかった。そこはまだ油に汚れ、漂流物や遺体と思われるものが浮いていた。壱岐は低空でハッチを開けた。そこから小さくて丸い物体がコルクの浮き輪をつけて飛び出した。花輪だった。少しの間輝いてからそれは漂っているものの間に浮いた。壱岐はすべての死者に捧げたのだ、と言われた。そしてそれは多分そのとおりだったのだろう。
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2009/09/14

Singapore Burning - 第三部 (つづき)

11 (マレー沖海戦その一)
 フィリップスは、フォースZの4隻の駆逐艦のなかでもっとも古く耐久性の乏しいテネドスを一旦シンガポールに戻し、途中、無線を使って、救援の駆逐艦群を基地に要請することを指示していた。艦隊の帰路での日本の潜水艦の待ち伏せ攻撃を警戒したのである。12月10日午前、日本軍はまずこのテネドスを発見し、9機のネル爆撃機が集中攻撃をかけた。テネドスは黒煙に覆われた水飛沫の噴出にその姿を消したと思われたが、被害は少なかった。艦長はフィリップスに攻撃の詳細を伝えた。これがフィリップスへの敵航空機群接近の第一報となったが、このニュースはシンガポールには届かず、依然フィリップスは無線封鎖を続けていた。
 その頃、帆足正音少尉候補生のネル機が戦艦群を発見した。帆足がその位置を報告したあと、その乗機が航空標識となり、航空一、二中隊がかれに続いた。白井義視大尉指揮の美幌航空隊の8機のネルは、3500メートルの高度で飛んでいたが、戦闘配置についた両戦艦からの激しい対空砲火を受けはじめた。白井部隊の標的はレパルスにあるようだった。下士官から借りた望遠鏡をのぞいていたギャラガー記者は、突然の最初の一発の砲撃で、危うく片目が潰れるところだった。レパルスが搭載していたカタパルト発進の飛行機、ウォルラスの機体が舷側に宙吊りになってしまった。タンクに穴が開き燃料が洩れていた。火災予防のため舷側から海中に投棄することになったが、作業は難航した。勇気あるニュージーランド人パイロット、ジンジャー・ホールデン中尉が、クレーンにまたがり、自在かぎを操った。
 日本機は72機を数えた。テネドスで砲弾を無駄遣いした元山航空隊も加わった。高井貞夫大尉の7機の小隊はレパルスを狙い、石原薫大尉の9機はプリンス・オブ・ウェールズを狙った。爆撃主体で来るのか、雷撃で来るのか、英国側は判断に迷った。回避行動のための操艦方法がこの二つでは正反対なのである。砲撃の場合は攻撃に対して横に構える、橋の攻撃と同じで、縦長に攻撃する方が効率が良いからである。雷撃の場合は、投下されたらすぐに魚雷に向かって縦になる。コミング(櫛けずり)という方法である。ロジェー・ハーランド少佐は魚雷攻撃を予測したが、フィリップスは空爆だろう、とこだわっていた。敵機は爆撃機であること以外は考えられない高度を保っていたが、やがて魚雷群を発射しはじめた。プリンス・オブ・ウェールズは英国海軍得意の巧みな操船で、うまく魚雷の航跡をかわしていたが、魚雷の一本がプロペラシャフトの近くに命中し、4本あるシャフトの1本を破壊した。陀輪操作のモーター電力が切断された。機械類のほとんどが狂い、砲塔も手作業で回さざるを得なくなり、対空砲としての役目はほとんど果たせなくなってきた。ロイヤル・ネイビーの最強の戦艦の一つが、傾ける巨大廃棄物と化したのだ。それもアジア人の設計した、アジア人が造った、アジア人の操縦する航空機の一団にやられたのである。そしてより多くの魚雷と爆弾を積んだ、なお少なくとも50機がフォースZに近づいていた。
 レパルスとプリンス・オブ・ウェールズはできれば同時に攻撃を受けたいところだった。そうすれば両艦は自らを防衛しながらお互いを砲撃掩護できたからである。しかし、レパルス攻撃に向かった高井貞夫大尉の中隊は、前の晩、あわや味方の鳥海を誤爆しそうになった経験から、眼下の戦艦群を所在不明だった自軍の金剛とその護衛部隊かも知れない、とやや躊躇したので時間差ができた。猛烈な対空砲火が高井の疑念を払拭した。中隊は14個の魚雷を発射したがレパルスこのすべてをかわし、不死身のようだった。ネル群は魚雷攻撃と同時に船と並行に飛び、機銃掃射を浴びせかけてきた。まだウォルラスを外そうとクレーンに馬乗りになっていたホールデンは、腰のリボルバーで応戦した。RAFはまもなく戦闘機の掩護部隊を寄越してくるにちがいない。テナントは念のため、その日の午前中の、旗艦とシンガポールとの通信傍受記録をチェックした。何と、フィリップスは頑なに無線封鎖を続け、このすさまじい航空機攻撃を受けていることを全く知らせていなかった。午前11時58分、レパルスは平文の簡単なモールス信号を打った。
 レパルスヨリ イズレカノ エイコクカンセンへ
 テキコウクウキ バクゲキチュウ ワガホウノイチ 134NTW 22X09
 プリンス・オブ・ウェールズからは、「船体を制御し得ず」の信号が揚がった。つい1週間も経たぬ前、そのデッキでは、海兵隊バンドが日本領事を含むゲストの前で、「ビヤ樽ポルカ」を演奏していたのである。新しい約50機が集結しつつあった。鹿屋航空隊の26機のベティがいた。これらは増量したマーク・トゥー魚雷を搭載していた。かれらは編隊を崩してプリンス・オブ・ウェールズに襲いかかった。海水をほぼ1万8千トン飲み込んだ新鋭戦艦は、ゆっくりと沈んで行った。レパルスが11時58分に打った無電は、21分かかってパーシバルの司令部に隣接する空軍本部に到着し、6分後、ティム・ヴィゴースと部下10人のオーストラリア人パイロットがスクランブル発進をした。シンガポールのカラン基地の2機のバッファロが加わった。現場到着は約1時間後と読まれた。
 フィリップス艦隊上空には、未使用の魚雷をかかえた20機のベティが、「幌馬車を取り巻くインディアン」のように旋回を続けていた。
 
 

 
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2009/09/10

Singapore Burning - 第三部 300年の伝統 

10 (日英双方のマレー沖海戦前史)
 ロイヤル・ネイビーは救援に赴いた。自分たちの存在だけで、日本の狂信的な攻撃意図を挫くことはできなかったが、かれらに二度と忘れられない教訓を与えるべくプリンス・オブ・ウェールズとレパルスは4隻の駆逐艦をしたがえて壮途についた。レパルスはあまり戦場経験のない老兵だったが、乗艦していたオーストラリア海軍の候補生たちは張り切った。
 フォースZの司令官、フィリップス提督は、1915年、海軍士官として致命的な不運に見舞われた。ジュトランド海戦に加わっていなかったのである。しかし、自らの航海は主に海上よりデスクの上で続けられていたにしても、その知能と細部にこだわる才能(時計修理が趣味だった)で逐次出世階段を上がって行った。第二次大戦の開戦時は軍令部の次長だった。かれは地中海艦隊の司令官として転出したアンドリュー・カニンガム提督の仕事を引き継いだ。カニンガムはマタバン岬(ギリシャ南端)でイタリア艦隊に奇襲攻撃をかけて大戦果を挙げた。またクレタ島では多大の犠牲を払って陸軍の救出に成功し、自己犠牲の象徴として、チャーチルのお言葉創りに貢献した。「新しく艦隊を作るには3年かかるが、新しい伝統を創るには300年かかる」。
 フィリップスは古いタイプの戦艦信奉者だった。よく訓練された乗員による長短の対空砲で囲まれた、操船性能のすぐれた戦艦は不沈である、と、イタリア戦艦群が、タラントでソードフィッシュの雷撃の犠牲になったあとでも信じていた。RAAF(オーストラリア空軍)のハドソン機がシャム湾で最初に日本船団を発見したとき、フィリップスはマニラにいた。12月7日早朝シンガポールに戻ったとき、オーストラリアに向かっていて呼び戻されたレパルスの帰港と同時だった。フィリップスは睡眠不足だったが連続した打ち合わせのあとやっと休むことができた。このときプリンス・オブ・ウェールズを直ちにドックから引き上げて艦隊を編成し、日本船団を追っていれば、また違った展開となっただろう。
 フォースZは、12月8日日没直後に出航した。それは戦闘開始の16時間あとのことだった。日本側の護衛艦隊指揮官、帝国海軍最優秀の策士の一人、小沢治三郎中将は、英海軍の反応の悪さに怪訝の面持ちだった。すでに日本軍はタイ海岸とコタバルに上陸中で、いま、イギリス軍艦の攻撃を受けても上陸部隊に被害はない、帰りの空(から)の船がやられるくらいだ。小沢の上官、近藤信竹中将の旗艦、金剛も含め、遊弋中の戦艦はみな1914年以前の古参戦艦でレーダーもなかった。しかしフォースZのシンガポール到着のニュースを聞いて、日本軍は十分警戒策をとっており、機雷と潜水艦の配備に遺漏がなかった。また山本五十六は、台湾から余分のネル(96式陸攻)とベティ(1式陸攻)をインドシナに移動させていた。地域の682の陸軍機に加えて142の航空機が備えられていた。「戦艦を沈めるのは戦艦だけ」の理論に対し、山本は「凶暴な毒蛇も蟻の群には勝てない」という古い中国の諺を実践したのである。
 艦隊出航前、レパルスのウィリアム・テナント、プリンス・オブ・ウェールズのジョン・リーチ艦長は連れ立って上陸した。リーチは、末っ子のヘンリーに会うためだった。18歳になったばかりのヘンリーは少尉候補生として、新鋭巡洋艦、モーリシャスに乗り組んでいた。二人は午後遅く士官クラブのプールで出会ったが、それは10代の少年の心に刻まれた時間となった。
 厳重な無線管制を敷いたフィリップスは、日本の侵入艦隊をただ一度の作戦で粉砕する奇襲攻撃を考えていた。日本船団をハドソンの目から隠したモンスーンが今度はフィリップス艦隊を隠してくれた。また本人は知らなかったが、基地の巨大の浮きドックを戦艦と見誤った日本の偵察機が、戦艦群はいまだ停泊中と報告しており、幸運が重なっていた。フィリップスは機雷を認識しており、艦隊を大きく東側へ迂回させていた。出航20時間ほどのち、1隻の日本潜水艦が艦隊を発見したが、スコールのなかで見失い、また小沢の旗艦、鳥海への報告が無線の不具合で2時間ほど遅れた。報告を受け取った小沢は驚愕した。早速帰投中の輸送船団には散開を促し、60機ほどの雷撃機を敵戦艦の捜索に向かわせた。
 フォースZは、奇襲攻撃の準備に入った。士官室は救急センターに模様替えされ、食事は冷たいセルフ・サービスのものとなった。救急袋が全員に配られ、上甲板兵員は、火傷を防ぐため長ズボン、長袖シャツで体を覆った。夕刻、モンスーンの低い雲に裂け目が現われた。プリンス・オブ・ウェールズの最新のレーダーに三つの黒い斑点が現われた。航空機カタログ集でシルエットを確認すると、日本のジェイク(零式水上偵察機)であることがわかった。しかし目標はそれ以上近づいてこなかった。
 フィリップスは敵に発見された以上、奇襲を中止せざるを得なかった。フィリップスの無念は将兵全員に共有された。なかでも従軍記者、デイリー・エクスプレスのオダウド・ギャラガーはもっともがっかりし、それを隠そうともしなかった。夕食後、戦闘配置につかない乗員はできるだけ睡眠を取ることにした。レパルスの船尾を、伊58の艦長、北村惣七少佐が発射した5本の魚雷が目標を外して駆け抜けて行ったことには、だれも気がつかなかった。北村は、攻撃に失敗したが、英国艦隊の劇的な方向転換の第一通報者となった。フォースZは、南向きから、南西方向へ変針した。フィリップスは、再度奇襲の仕事に戻ったのである。シンガポールに残した幕僚長のパリサー准将から、クワンタンへ日本軍が上陸中、またRAAFの第8飛行中隊が急遽出発した、という報告を受け取ったのである。
 フィリップスは信じがたい思いでこの幸運を受け取ったが、1隻の潜水艦によって位置が知られていたことには気がつかなかった。日本軍は、まだかれが北に向かっていると思っている筈だった。 
 クワンタンの浜には大決戦の音響がとどろいた。ガルワリ第18連隊、ロイヤル砲兵第5連隊の銃砲である。クワンタン飛行場では機密書類処分の炎があがった。しかし、日本軍大部隊の上陸というのは、日本のトロール漁船群の誤認であった。これは偵察の任務を帯びていたのかも知れないが、真相不明である。飛行場の書類処分の石油缶が火を噴き、椰子の葉で葺いた飛行場の作戦室が丸焼けになった。イギリス側の損害はこの小屋の焼失だけだったことが翌朝判明した。
 
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