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2009/08/07

Singapore Burning - 第一部 (つづき)

5 (パーシバルの着任)
 これまでのところ、志願したオーストラリア兵にとって戦争は縁が遠いようだった。南国はやたらに暑く、湿度も高く不快だった。兵士にくらべると、同じく愛国心と冒険心から志願してきたオーストラリア看護婦たちの方がしっかりしていた。彼女たちは、しばしば現地のスルタンのダンス・パーティに、将官たちとともに招かれたりしていた。
 1941年5月、マレーは新任の陸軍司令官を迎えた。パーシバルが中将となって戻ってきたのである。55歳だった。かれはフランス派遣部隊の先任参謀をつとめ、「奇妙な戦争」のときフランスにいた。新設の国土師団に戻ったあと、ドイツの電撃戦が起こった。帝国参謀総長、ジョン・ディル元帥の補佐を経て、陸軍省の適材適所の考えでシンガポールに再任された。ブルック=ポッパムは、陸軍と空軍の不和に悩んでいたが、パーシバルは、空軍司令官のプルフォード空軍少将と防禦の方策につて良い協力関係を築いた。
 日本が攻めてきたとき、橋頭堡を確保するとすれば、マレー半島の最狭部、クラ地峡である可能性が高く、周辺のソンクラ港、パタニ飛行場が狙われよう。パーシバルは、先制防禦として南部タイに進出する、懸案のマタドール作戦を実施するつもりであり、ブルック=ポッパムも、第11インド師団の司令官、D.M.マレイ=ライオン少将もこれに賛成だった。しかし、アジアで戦線を広げることにつながるこの作戦は、容易にチャーチルの同意を得られなかった。
 1941年の夏から秋にかけて、タイ、マレー国境地域は日英の諜報戦の舞台になっていた。イギリスは別働隊として、秘密裡に特殊工作班(SOE)を送り込み、訓練学校を設けて、ゲリラ戦、テロ活動要員の育成に努めた。タイ国内の工作が重要だったが、39年の外交官生活のうち、35年をタイで過ごしている英国公使、クロスビーは、現地事情を熟知しており、そのノウハウは貴重であるにもかかわらず極めて非協力的だった。サー・ルイス・ヒース中将の指揮する第3インド軍団の二つの師団は、北部、中部マレーに展開しており、マタドールが発令されればタイに侵入する手はずだった。師団は開戦後、速成で編成されたので、インド人兵士は訓練不足の志願兵で、おおむね10代の若者だった。パンジャブおよびインド北部地帯出身者で、シーク、イスラム、ヒンズー教徒、グルカ人などが混在していた。ヒースはかれらを鍛える士官の不足にも悩んでいた。実力テストに合格したウルドゥ、グルカ人の大尉、中尉はすでに戦闘地域にまわされており、その代わりを務めているのは、サンドハーストとかウールウィッチの士官学校卒業生ではなく、帝国のあちらこちらに林立した士官訓練センターで教育を受けただけの、インド大陸の民間人の臨時士官(ECO)だった。
 第一次大戦後、英国の士官学校はインド人にも門戸を開いた。1932年には、デリー近郊にインド人軍学校が開設され、「国家の安全、栄誉、福祉を常時、第一とすべし」、という標語が壁に掲げられていた。1930年代後半には、毎年56名のインド人将校を軍学校は輩出していたが、守るべきインドとは何か?国王=皇帝の治める英領インドか?それとも未来の何らかの別のインドか?1941年の晩夏、国民会議派は、チャーチルがプリンス・オブ・ウェールズ艦上でルーズベルトと署名した大西洋憲章の成立を祝った。そこには、「すべての国民が、自らの政体を選ぶ権利」がうたわれていた。

6  「フォースZ」の回航  
 単身赴任の港湾長、ケネス・アトキンソン海軍大佐は、妻を呼び寄せるタイミングとの関連で、開戦の可能性が測れる日本の政治情勢に関心を寄せていた。日本では東条内閣が成立し、戦争の危険が高まっていたが、これを「はったり(ブラフ)」とみる向きも多かった。チャーチルは日本の士気を阻喪させるため、新鋭戦艦、プリンス・オブ・ウェールズと、改装をほどこした巡洋艦、レパルスを主軸とする、サー・トム・「サム(親指)」・フィリップス海軍大将指揮下の艦隊「フォースZ」をシンガポールに回航した。プリンス・オブ・ウェールズは、対独戦の緒戦にドイツ戦艦、ビスマルクを撃沈していたが、乗組員の練度にやや不安があった。有力政治家で、前情報相のアルフレッド・ダフ・クーパーが、駐在閣僚としてシンガポールに赴任していた。フィリップス提督は、艦隊到着後、一夜プリンス・オブ・ウェールズでレセプションを主催し、クーパー夫妻もゲストとなった。日本の岡本李正総領事も招かれた。総領事が艦の手すり越しに夜の闇に浮かレパルスを凝視している姿が人々の目にとまったが、かれが本省に電報を打つことで、日本が戦争を思い直すことも期待されていた。
 しかし、フォースZには4隻の駆逐艦が随伴しているものの、航空母艦、重巡洋艦、潜水艦などの姿はなく、誰の目にも貧弱に映っていた。本来行動を共にする筈の最新空母、インドミタブルは訓練中に座礁してしまい、米国ノーフォークの海軍ドックで修理中だった。パーシバルも歩兵48大隊、軽戦車2連隊の保有を希望していたが、歩兵は33大隊にとどまり、戦車はロシア戦線に救援物資として送られていて、マレーに割く余裕はなかった。航空機も約束された336機に対して、手元にあったのは145機だった。航空性能、装備された銃器類などにも問題があった。パーシバルもジャングル上空を飛んで戦略を樹てていたが、日本側でも、第25軍の参謀長に就任した辻大佐が、自らマレー半島の偵察飛行を行った。辻は、フランスの許可のもと、ベトナム沖のフコク島に滑走路を建設し、シャム湾全域を日本機の航続範囲とした。
 第25軍の司令官、山下奉文中将は、四国高知の出身で、広島幼年学校を振り出しに、陸軍のエリート・コースを歩み、ヨーロッパの経験が長かった。1936年、若手将校のクーデターに際しては、反乱側に同情的であったため、朝鮮軍の旅団長に左遷された。1940年、航空本部長となったが、欧州の戦争状況視察も命じられた。英米との開戦は時期尚早である。ヒトラーは銀行員のようだ、という報告は東条陸相に気に入られなかったが、イギリスはドイツに勝てない、という意見は喜ばれた。その後、第25軍司令官に任ぜられたが、麾下の西村琢磨近衛師団長とはやや合わなかった。辻参謀も、東条と直接つながっていたようだが、山下は辻の才能をうまく引き出して使った。シンガポールでも、パーシバルはヒースとはうまく行っていたが、ヒースは、野戦は自分の方が得意だと思っていた。ベネットは些細なことで文句ばかり言っていた。また民間側でも、総督シェントン・トマスとダフ・クーパーとの上下関係が曖昧で、軋轢が起こっていた。ブルック=ポッパムもロンドンの覚えが悪く、更迭されようとしていた。日本の陸軍兵力は海南島に、航空機は仏印南部に、艦隊は南シナ海に集結しつつあった。サイゴンの英総領事代理は、現地の印刷会社が、マレー半島の大地図5万部と、日本語/マレー語の大量のポケット辞書の注文を受けていることを報告してきた。
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