--/--/--

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
スポンサー広告
2009/08/05

Singapore Burning - 第一部 暗夜の饗宴

1 (シンガポールの発展)
 ゴムは王様となった。マレーは地球最大のゴムの供給者で、生産の半分は米国に輸出された。シンガポールの人口は70万、多民族社会を形成し、中国系が最多であった。英国人は支配者として君臨した。
 1915年のインド兵(セポイ)の暴動事件はすっかり忘れられた。1938年、島の北岸に海軍基地が完成した。費用6000万ポンドで、22平方マイルの深水投錨地、巨大な燃料タンク、大々的な浮きドックが併設された。ここでは最大級の軍艦が修理できる。2000名の水兵の宿泊兵舎、事務所、修理工場、家族用住宅、教会、映画館、サッカー場17面ができあがった。
 シンガポールに入港した船が最初に目にするのは、10階建てのフラートン・ビルである。これは1928年に完成した。ほかに自慢の建物群は、中央郵便局、アール・デコ調の、フォードのアジアで最初のアセンブリー工場などである。アレクサンドラ郊外には、瀟洒な陸軍病院が建てられた。マラッカ海峡を望むフォート・カニング要塞は、ビクトリア様式の銃眼つき煉瓦造りで、マジノ・ラインと同じく地下司令部が設けられていた。新聞が、「東洋のジブラルタル」と評したように、シンガポールには多数の大砲が備えられた。少数を除いては、いずれも回転台座式であり、これらは敵艦砲撃のみならず、陸上攻撃にも対抗できた。
 シンガポールの防禦の考え方として、マレー半島の北側には「竜が住む」という時代は終わり、北方からの攻撃もあり得る、という方向に変わってきていた。1930年代以降、毎年、陸軍大学では、いかに日本の攻撃から防禦するか、という棋上演習を行っており、北部マレーないしシャム(タイ)からの侵入を想定していた。海軍は、依然、海上からの攻撃を念頭におき、陸軍の役割は、海上の援軍が敵艦隊を沈める間、海岸砲で防禦する、という考え方だった。
 1935年11月、シンガポール/マレー防衛の司令官が着任した。56歳の清教徒、サー・ウィリアム・ジョージ・シェドン・ドビー少将である。かれは陸上攻撃想定派だった。翌年、かれは、有能で、自らの考え方によく似た部下を獲得した。アーサー・パーシバル大佐である。48歳、痩せっぽち、反っ歯で見栄えはよくないが、第一次大戦、シベリア干渉戦争、アイルランド紛争などの勇士で、数々の勲章に輝いていた。
 1937年、日中戦争勃発、英国は国民党に同情的だったが日本を刺激したくはなかった。パーシバルは、日本の装備の優秀性に注目した。かれは、1937年12月帰国したが、北方タイ国境の防備増強を主張した。1939年、シンガポール/マレーは、歩兵9個大隊、航空機100機に増強されたが、古い型の飛行機が多かった。ドビー少将は、ライオネル・ボンド少将に替わった。海・空軍はJ.T.バビントン空軍少将が司令官だったが、防禦戦略について、ボンドとバビントンの考えは相違していた。ボンドは陸兵を北部の航空基地に展開させ、半島を死守することがシンガポール防衛の最良策と考えていた。ボンドの赴任は、インドからの歩兵大隊の増強と軌を一にしていた。1939年10月、英国がドイツと戦争を開始した1ヶ月後、シンガポールの最初の摩天楼、16階建てのキャセイ・ビルが完工した。1階にできた完全エア・コンの大映画劇場で、人々はジュディ・ガーランドの「オズの魔法使い」を楽しんだ。

2 (欧州第二次大戦の発生とシンガポール)
 結婚に失敗したインド人の女医、ラクシュミ・スワミナジャンは、シンガポールに赴く船中で、ダンケルクの撤退のニュースを聞いた。彼女は、インドの独立をねがい、当初マハトマ・ガンジーに心酔していたが、共産党の主張にも共感するところがあり、またその対極にはあるが、「血を与えよ、しかして自由を約束する」と叫ぶ、スバス・チャンドラ・ボースにも興味を抱いていた。彼女は初めてのシンガポールで、中国人が頑張っている姿に驚かされた。彼女はインド人左翼以上に、日中紛争では中国に肩入れしていた。
 民間の海軍嘱託建築士のチャールズ・ステーブルドンと妻のカスリンは、本国休暇を終えて、9月、シンガポールに戻った。潜水艦の危険はあったが、本国では灯火管制、食糧配給などの戦時下で、友人たちは帰任する夫妻を羨んだ。留守中、ドームのあるコリント様式の最高裁判所ができあがっていた。夫妻はキャセイ・ビルを初めて訪ねた。しかし、このところの建築ブームは商業施設にかぎられ、民間住宅は1932年の不況の影響で、夫妻は帰国後のアパート探しに苦労した。以前からのジャワ人のアヤ(子守)兼料理人、マレー人の運転手、インド人の庭師、そして執事役の中国人のボーイを雇いなおして元の生活に戻った。
 「戦争から安全であることに良心が痛む」、1933年、香港を振り出しにアジア勤務の長い英国国教会のジャック・ベニット師は日記に記した。妻のノラと本国休暇から戻ったときは、開戦1ヶ月目だったが、ロッテルダムへの海峡は機雷の危険があった。乗船はオランダ船で、当時、オランダは中立国だったので、船隊は煌々と灯火をともしていた。
 まもなくオランダの中立は侵された。フランスは敗れ、両国の東南アジア植民地は本国と切り離された。ドイツはその石油とゴムを戦利品とみていた。日本は交戦国ではなかったが、同じ考えで、1940年、独伊と三国同盟を締結した。戦利品の輸送には、英帝国海軍の支配水域をかいくぐる必要がある。オランダの東インド植民地は、ロンドン亡命の女王に忠誠を誓った。原料に乏しい日本が戦争に踏み切るとすれば、オランダ艦船は、連合国に心強い味方となるだろう。フランスはベトナムのカムラン湾にそこそこの艦隊を保有していた。しかし、インドシナのフランス植民地は、対独協力のヴィシー政権に帰属していた。その総督はジャン・デクー海軍中将だった。1940年9月、デクーは日本の北部仏印進駐を許した。しかし、日本は大東亜共栄圏を標榜しつつアジア解放を叫んでいる。ヨーロッパ植民地が蚕食されることがあれば、それは終わりの始まりとなる。デクーは、英国とも接触を維持し、サイゴンには引続き英国総領事館がおかれていた。一方、ド・ゴールの自由フランスの極東本部がシンガポールに開設され、そこからインドシナ半島に宣伝ビラが持ち込まれていた。インドシナの現状維持方針を阻害する行動は、日本につけいる隙を与える。それ以前、チャーチルはヴィシーの仏艦隊と、アルジェリアで、1815年以来となる英仏の海戦を行っていた。仏印が英国と結ぶことはなかった。
 オーストラリアは、すでに中東で英国を救援し、マレーでも3個飛行中隊を派遣した。世は航空戦略時代に入っていた。各国は新鋭機を続々と開発、日本は堀越二郎が「ゼロ戦」を生み出した。タラントでイタリア戦艦3隻が空からの爆撃、雷撃だけで撃沈、大破された。ロンドン大使館付武官の源田実は、ドイツの夜間空襲に対する英海軍の防禦方法を研究し、日本に報告した。
スポンサーサイト
未分類 | Comments(0) | Trackback(0)
 | HOME | 

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。