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2009/08/12

Singapore Burning - 第二部 (つづき)

9 (形勢悪化)
 不面目ではあるが、航空司令デヴィスは、コタバル基地撤退を決意した。飛行能力あるハドソン機5機は積めるだけの人員と資材を積載し、水浸しの滑走路を飛び立った。残された5機のうち2機は修理すれば飛べるが、オーストラリア人の地上作業兵は銃弾のなかでの作業を嫌がった。デヴィスは、佗美部隊の歩兵の接近によって基地を放棄するのであり、8回の空爆に耐えたことで自らを慰めた。デヴィス自身は60名の兵士と、陸路、南方のクワンタンへ向かった。一方クワンタン基地のRAAFハドソン隊では、一度の空襲で6機が破壊された。基地施設そのものに被害はなかったが、航空機すべてはシンガポールに撤退した。前夜コタバルから飛来したハドソン機によって、日本軍の爆撃情報を伝えられたときから、クワンタンの士気は阻喪していた。コタバルと同様に戦闘機の掩護が不足していること、高射砲も十分でないことから、懸念を持ったのは地上作業兵だけではなかった。また、もともとクワンタンの無線、電話設備は極めてお粗末だった。より北部(西岸)のバターワース基地は、タイ南部から発進してくる数多くのゼロ戦とオスカー(1式戦闘機「隼」)によく抵抗していた。英連邦パイロットは、依然、アジア人が「メッサーシュミット」級の戦闘機を製造できるなどと信じたくなかったが、12月9日、シンゴラ空爆に向かった6機のブレンハイム機のうち3機が撃墜された。しかし、シンゴラに急降下爆撃を行った生粋の航空士官、アーサー・スカーフのような勇敢な軍人もいた。スカーフはゼロ戦の銃弾を受けて傷だらけになったが、アロールスター基地の病院近くの水田へうまく胴体着陸した。妻が臨月まで看護婦として勤めていたその病院で、かれは息を引き取った。
 マレーでは、国内に内応者がいるのではないか、と疑心暗鬼の状態になっていた。たとえば地上からバナナや椰子の葉、あるいは白い布などで、飛行場や司令部などの在り処を頭上の日本機に連絡しているのではないか、など。そのため無実の現地人が捕らえられ、処刑されたりした。日本人自身がマレー人ないし中国人になりすまし、親日派の組織工作、電線切断の破壊工作などを行っていた例もある。
 RAFのパトリック・ヒーナン大尉は、攻撃を誘導した日本のスパイとして逮捕された。日本軍のスパイをした英軍将校がいた、という噂はあったが、確認されたのは半世紀のちのことだった。かれは秘密の軍事法廷で死刑宣告を受け、射殺されたようである。ヒーナンは、しばしば無届で休暇を取り、タイへ遊びに行っていた。紅灯の巷に出入りしているうちにマレー=タイ国境で仕事をしている英国特殊作戦局や情報部などの縄張り争いに巻き込まれた感がある。
 12月9日夕刻までには、コタバル北方のRAF基地は敵の手に落ちようとしていた。日中のキー准将の反攻は失敗に終わり、かれは別の防禦陣への撤退許可を得た。モンスーンのため水かさの増した川、湿地帯そして大雨のなかで、佗美支隊とキー准将、アーサー・カミング中佐の「第2シーク大隊」などとの死闘が続く。オーストラリア地上作業兵の突然の撤退に動転したハイデラバード連隊では、前進命令を出した司令のクライブ・ヘンドリックス中佐が味方の銃弾で射殺されたらしい。一方、コタバル撤退の後衛を務めたクローズ大尉の山砲隊は、キーが、「コタバルの英雄」と呼んだほどの奮戦をした。脱出の突破口を開きあぐねたカミングは、一旦兵を分散させたが、二日後、部隊を糾合させるのに成功した。
 
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2009/08/10

Singapore Burning - 第二部 血戦の浜、コタバル

7 (コタバル上陸開始)
 アメリカは日本の外交暗号の解読に成功し、解読機を英国に二つ提供した。英国は、一つをロンドン、もう一つをシンガポールにおいた。解読情報は、アメリカではマジック、イギリスではウルトラと呼ばれた。1941年12月2日、ブルック=ポッパムは、バンコクの日本大使が、タイ政府内の親日派が日本のコタバル上陸を促している、と東京に伝えた情報を受け取った。11月25日、山下奉文はサイゴンを出発し、海南島を経由して、第25軍の司令部要員とともに上陸用輸送船、龍城丸に乗船した。
 12月5日、ブルック=ポッパムはようやくマタドール作戦実施の許可を得たが、日本軍がクラ地峡上陸の明確な意図を持っていることの確認が条件となっていた。もし情報が誤っていたら?・・もしアメリカが中立を守って、イギリスだけが本来回避したい戦争に引き入れられてしまったら?・・折からの悪天候もあって、かれは作戦実施の決断を逡巡した。
 12月6日正午過ぎ、オーストラリアのハドソン機が、軍艦、輸送船70隻ほどの日本船団を発見した。偵察機は燃料が続かず、そのまま船団を見失った。そのあと船団の捜索に赴いたRAF第205飛行中隊のカタリナ飛行艇は未帰還となった。士官ベッデルほか7名の乗員は、英米の対日戦の最初の犠牲者となった。中国戦線で活躍した、日本のキ27戦闘機に撃墜されたのである。午後3時45分、日本艦の1隻が再発見された。甲板上はカーキ色の軍服の兵士でいっぱいだった。別の機が巡洋艦から砲撃を受けたが、とくに被害はなかった。いまや何が起こっているか、はっきりし、全部隊が非常体制に入ったが、パーシバルは、日本船隊の行動は、タイに対するデモンストレーションである可能性もあると、日本との戦争は極力回避するという公式方針にしたがい、何らか行動を取ることは差し控えた。その日夕刻、すでに日本駆逐艦4隻がクラ地峡沖に到着し、半島を南下しているという報告を得た。パーシバルは、マタドールの機会を逸したことを知った。
 8日未明、シンガポールは空襲に見舞われた。灯火管制はまだ徹底されておらず、日本機は悠々と行動した。市民の多くは、これを演習と思っていた。空襲部隊は、サイゴンを離陸した柴田弥五郎少佐率いる海軍の美幌航空隊である。ドックに入渠中のプリンス・オブ・ウェールズも対空砲で応戦したが、あまり効果はなかった。アジア人はこの空襲で、イギリスの力に疑問を持ちはじめた。日本側にも、作戦の大胆さにくらべて軍事的成果はなかった。
 淡路山丸、綾戸山丸、佐倉丸に分乗した菊兵団の佗美浩少将指揮下の6千名の支隊が、コタバル上陸を開始した。風波高く、上陸用舟艇への移乗は困難を極めた。迎え撃つのは、インド人主体の第3/17ドグラ大隊のキー准将である。キーは、かねて航空基地対岸のケランタン河口中州地点が敵軍上陸の適地とみて、二重の有刺鉄線、地雷、トーチカで防備していた。先遣の和田中隊、100名の兵士は、80名が斃された。至近距離にあるコタバル基地のハドソン機は発着を繰り返し、上陸用舟艇と停泊中の輸送船を攻撃した。そのなかで、急降下爆撃でコントロールを失ったレイトン・ジョーンズ中尉が最初の犠牲となった。別の遭難機のドーウィン副操縦士は気を失って漂流しているところを、日本軍に救助された。

8 (海の203高地)
 コタバル上陸を、日本のジャーナリストの一人は「海の203高地」と形容した。犠牲者の数の相異はあるにしても、日露戦争の203高地の戦いと、激戦の程度、また牽制作戦であったことが共通している。鉄条網と地雷の破壊に、西欧の軍隊はすでにバンガロール爆薬筒(火薬の詰まった金属筒をつなげて遠方から操作する)を使用していたが、日本軍はシャベルで砂地を掘って前進したので損耗を重ねた。船団を護衛する巡洋艦川内ほかが艦砲射撃で掩護を始めた。狙いは正確だった。トーチカ内の守備兵は砂塵、しぶきなどで目をやられた。日本軍が化学兵器を使用していたのかどうか確証はなかった。12月8日の夜明け、戦闘が6時間ほど経過すると、日本兵の相当数が上陸に成功していることが判明した。キー准将は、カミング中佐指揮の、やはり英印の第2/12国境連隊の支援を要請した。午前5時、コタバル航空司令のデヴィスは、一旦ハドソン機の燃料再注入、装備の点検をして以後の空爆の態勢を整えた。クワンタン、アロールスター航空基地のオーストラリア空軍(RAAF)のハドソン機、RAFのブレンハイム機、ヴィルデビースト複葉機、バッファロ戦闘機2機など40機が新たに加わった。デヴィスのまず放った偵察機は、タイのシンゴラ、パタニ港に向かう日本艦隊を発見した。マタドール作戦が消えたので、日本軍はタイに無血上陸することが可能だった。
 南部タイの偵察をより詳細に行うため、ミッチェル中尉操縦のビューフォート偵察機が派遣された。シンゴラ、パタニ飛行場には日本の戦闘機が駐機していた。うち6機がまもなくミッチェルを追ってきた。RAFが初めてゼロ戦に遭遇した歴史的瞬間だった。ゼロ戦の上昇力、操縦機能は噂にたがわず、ミッチェル機は被弾した。ビューフォートは燃えてしまったが、撮影した航空写真は救われてシンガポールに送られた。司令部は日本軍のタイ上陸を確認した。かつてプルフォードの大航空ショーに参加した航空機は今やコタバルに向かった。日本の上陸用舟艇は装甲されており、操船も巧みで空からの攻撃も激戦となった。その猛攻に退却する日本兵も出た。RAFはほとんど無傷だったが、RAAFの対艦船攻撃では犠牲も出た。
 日本がこの12時間の間に、真珠湾ほか世界の7ヶ所で開戦していたことをシンガポールはまだ知らず、一時、コタバルの日本軍が撃退された、というニュースで楽観的になっていた。たしかに日本は甚大な犠牲を払っていたが、パーシバルはそのムードを引き締めた。英国側でこれまで撃墜された4機はすべて対空砲火の犠牲だったが、12月8日の昼前、コタバル上空では空中戦がはじまった。日本側には少数のゼロ戦、暗号名オスカー(一式戦闘機「隼」)、ネイト(固定脚の旧式戦闘機、キ27)だった。日本は、コタバル、クワンタンの半島東部の飛行場のほか、西部のタイ国境に接するアロールスターとサンゲイ・パタニ、バターワース、ペナン島の計6ヶ所の航空基地を攻撃し、続く48時間、爆撃、銃撃を浴びせた。北部では、英軍の手持ち110機が半分以下の50機になってしまった。また、整備兵の手違いのため、発進機に銃弾が装備されていないことでパイロットといざこざがあったり、味方のインド国内軍(ハイデラバード連隊)の部隊を日本軍と見誤って撤退命令が出されたり、混乱がみられた。シンガポールからハドソン航空中隊をコタバル、クワンタンに転出させ、航続距離を延ばして日本の攻撃を水際で防ぐ、という戦略はすでに遅きに失していた。
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2009/08/07

Singapore Burning - 第一部 (つづき)

5 (パーシバルの着任)
 これまでのところ、志願したオーストラリア兵にとって戦争は縁が遠いようだった。南国はやたらに暑く、湿度も高く不快だった。兵士にくらべると、同じく愛国心と冒険心から志願してきたオーストラリア看護婦たちの方がしっかりしていた。彼女たちは、しばしば現地のスルタンのダンス・パーティに、将官たちとともに招かれたりしていた。
 1941年5月、マレーは新任の陸軍司令官を迎えた。パーシバルが中将となって戻ってきたのである。55歳だった。かれはフランス派遣部隊の先任参謀をつとめ、「奇妙な戦争」のときフランスにいた。新設の国土師団に戻ったあと、ドイツの電撃戦が起こった。帝国参謀総長、ジョン・ディル元帥の補佐を経て、陸軍省の適材適所の考えでシンガポールに再任された。ブルック=ポッパムは、陸軍と空軍の不和に悩んでいたが、パーシバルは、空軍司令官のプルフォード空軍少将と防禦の方策につて良い協力関係を築いた。
 日本が攻めてきたとき、橋頭堡を確保するとすれば、マレー半島の最狭部、クラ地峡である可能性が高く、周辺のソンクラ港、パタニ飛行場が狙われよう。パーシバルは、先制防禦として南部タイに進出する、懸案のマタドール作戦を実施するつもりであり、ブルック=ポッパムも、第11インド師団の司令官、D.M.マレイ=ライオン少将もこれに賛成だった。しかし、アジアで戦線を広げることにつながるこの作戦は、容易にチャーチルの同意を得られなかった。
 1941年の夏から秋にかけて、タイ、マレー国境地域は日英の諜報戦の舞台になっていた。イギリスは別働隊として、秘密裡に特殊工作班(SOE)を送り込み、訓練学校を設けて、ゲリラ戦、テロ活動要員の育成に努めた。タイ国内の工作が重要だったが、39年の外交官生活のうち、35年をタイで過ごしている英国公使、クロスビーは、現地事情を熟知しており、そのノウハウは貴重であるにもかかわらず極めて非協力的だった。サー・ルイス・ヒース中将の指揮する第3インド軍団の二つの師団は、北部、中部マレーに展開しており、マタドールが発令されればタイに侵入する手はずだった。師団は開戦後、速成で編成されたので、インド人兵士は訓練不足の志願兵で、おおむね10代の若者だった。パンジャブおよびインド北部地帯出身者で、シーク、イスラム、ヒンズー教徒、グルカ人などが混在していた。ヒースはかれらを鍛える士官の不足にも悩んでいた。実力テストに合格したウルドゥ、グルカ人の大尉、中尉はすでに戦闘地域にまわされており、その代わりを務めているのは、サンドハーストとかウールウィッチの士官学校卒業生ではなく、帝国のあちらこちらに林立した士官訓練センターで教育を受けただけの、インド大陸の民間人の臨時士官(ECO)だった。
 第一次大戦後、英国の士官学校はインド人にも門戸を開いた。1932年には、デリー近郊にインド人軍学校が開設され、「国家の安全、栄誉、福祉を常時、第一とすべし」、という標語が壁に掲げられていた。1930年代後半には、毎年56名のインド人将校を軍学校は輩出していたが、守るべきインドとは何か?国王=皇帝の治める英領インドか?それとも未来の何らかの別のインドか?1941年の晩夏、国民会議派は、チャーチルがプリンス・オブ・ウェールズ艦上でルーズベルトと署名した大西洋憲章の成立を祝った。そこには、「すべての国民が、自らの政体を選ぶ権利」がうたわれていた。

6  「フォースZ」の回航  
 単身赴任の港湾長、ケネス・アトキンソン海軍大佐は、妻を呼び寄せるタイミングとの関連で、開戦の可能性が測れる日本の政治情勢に関心を寄せていた。日本では東条内閣が成立し、戦争の危険が高まっていたが、これを「はったり(ブラフ)」とみる向きも多かった。チャーチルは日本の士気を阻喪させるため、新鋭戦艦、プリンス・オブ・ウェールズと、改装をほどこした巡洋艦、レパルスを主軸とする、サー・トム・「サム(親指)」・フィリップス海軍大将指揮下の艦隊「フォースZ」をシンガポールに回航した。プリンス・オブ・ウェールズは、対独戦の緒戦にドイツ戦艦、ビスマルクを撃沈していたが、乗組員の練度にやや不安があった。有力政治家で、前情報相のアルフレッド・ダフ・クーパーが、駐在閣僚としてシンガポールに赴任していた。フィリップス提督は、艦隊到着後、一夜プリンス・オブ・ウェールズでレセプションを主催し、クーパー夫妻もゲストとなった。日本の岡本李正総領事も招かれた。総領事が艦の手すり越しに夜の闇に浮かレパルスを凝視している姿が人々の目にとまったが、かれが本省に電報を打つことで、日本が戦争を思い直すことも期待されていた。
 しかし、フォースZには4隻の駆逐艦が随伴しているものの、航空母艦、重巡洋艦、潜水艦などの姿はなく、誰の目にも貧弱に映っていた。本来行動を共にする筈の最新空母、インドミタブルは訓練中に座礁してしまい、米国ノーフォークの海軍ドックで修理中だった。パーシバルも歩兵48大隊、軽戦車2連隊の保有を希望していたが、歩兵は33大隊にとどまり、戦車はロシア戦線に救援物資として送られていて、マレーに割く余裕はなかった。航空機も約束された336機に対して、手元にあったのは145機だった。航空性能、装備された銃器類などにも問題があった。パーシバルもジャングル上空を飛んで戦略を樹てていたが、日本側でも、第25軍の参謀長に就任した辻大佐が、自らマレー半島の偵察飛行を行った。辻は、フランスの許可のもと、ベトナム沖のフコク島に滑走路を建設し、シャム湾全域を日本機の航続範囲とした。
 第25軍の司令官、山下奉文中将は、四国高知の出身で、広島幼年学校を振り出しに、陸軍のエリート・コースを歩み、ヨーロッパの経験が長かった。1936年、若手将校のクーデターに際しては、反乱側に同情的であったため、朝鮮軍の旅団長に左遷された。1940年、航空本部長となったが、欧州の戦争状況視察も命じられた。英米との開戦は時期尚早である。ヒトラーは銀行員のようだ、という報告は東条陸相に気に入られなかったが、イギリスはドイツに勝てない、という意見は喜ばれた。その後、第25軍司令官に任ぜられたが、麾下の西村琢磨近衛師団長とはやや合わなかった。辻参謀も、東条と直接つながっていたようだが、山下は辻の才能をうまく引き出して使った。シンガポールでも、パーシバルはヒースとはうまく行っていたが、ヒースは、野戦は自分の方が得意だと思っていた。ベネットは些細なことで文句ばかり言っていた。また民間側でも、総督シェントン・トマスとダフ・クーパーとの上下関係が曖昧で、軋轢が起こっていた。ブルック=ポッパムもロンドンの覚えが悪く、更迭されようとしていた。日本の陸軍兵力は海南島に、航空機は仏印南部に、艦隊は南シナ海に集結しつつあった。サイゴンの英総領事代理は、現地の印刷会社が、マレー半島の大地図5万部と、日本語/マレー語の大量のポケット辞書の注文を受けていることを報告してきた。
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2009/08/06

Singapore Burning - 第一部 (つづき)

3 (兵力の増強)
 1940年11月、サー・ロバート・ブルック=ポッパム空軍大将がマレー、ビルマ、香港、ボルネオにおける陸・空軍の総司令官としてシンガポールに着任した。史上はじめて英空軍(RAF)の将官が、数千人の兵士の指揮を執ることとなった。ブルック=ポッパムは陸軍に入り、ボーア戦争に参加した。ライト兄弟が空を飛んでまもなく飛行機操縦の訓練を受けた第一世代の航空士官で、RAF創設者の一人である。
 1941年2月、大規模なオーストラリア帝国陸軍(AIF)兵士がシンガポールに到着した。第8師団2個旅団のうちの第22旅団で、初めての海外派遣である。埠頭には総督のサー・トマス・シェントン夫妻が出迎え、マンチェスター連隊の軍楽隊が「ワルツイング・マチルダ」を演奏した。師団は全員志願兵で、第8師団は、志願兵4個師団ののうちの一つである。3師団はすべて中東戦線に投入されていた。第8師団長は、第一次大戦のガリポリ上陸、フランダース戦線で、殊勲賞と数多くの感状を手にした戦士、ゴードン・ベネット少将である。ベネットは、民兵出身者として最高位に昇りつめ、日ごろ、陸軍大学出身者で、実戦を知らずに参謀本部で指図するだけで勲章を貰う職業軍人たちを厳しく批判していた。師団長への道は遠かったが、ベネット嫌いの上司二人が飛行機事故で死亡したことでお鉢がまわってきたのである。師団は、本来、ほかの3師団と同様、中東(エジプト)行きが予定されており、インド人部隊の転属待ちで一時的にマレーへ駐屯することになっていた。チャーチルは、日本がオーストラリアそのものの脅威になるとは思っていなかった。しかし、オーストラリアでは労働党が力を増してきており、自国軍隊は、「黄禍」を水際で撃退するため、効果を考えて展開されるべきである、という声が強まった。オーストラリア兵は総じて身体も大きく、肉もたくさん食べ、スポーツ好きで陽気だが粗野なところがある。ベネット自身、オーストラリア兵一人は、日本兵10人に匹敵する、と豪語していた。北アフリカ戦線ではロンメルの軍団に痛打を浴びせ、「帝国の突撃隊」といった評価を得ていた。シンガポールでもおおむね好感を以て迎えられた。
 インドシナのフランス軍は、タイと国境で小競り合いを起こし、日本がこれを調停した。デクーは日本軍の南部仏印進駐を拒否できず、日本は首都サイゴン周辺に航空基地を設けた。
 イギリスはギリシャ、クレタ島の東地中海で、イタリア軍の救援に向かったドイツ軍に苦労させられていた。ドイツ空軍の急降下爆撃は英海軍に打撃を与え、ここでも近代戦における空軍の優位が証明された。北アフリカで盛名を挙げたオーストラリアの第6師団も、ギリシャとクレタ島では甚大な被害を蒙った。
 シンガポールでは、スワミナジャン女医が、英軍の悲劇を喜んでいた。インドでは、イギリスの気力も衰え、チャンドラ・ボースを監獄より解放し、自宅軟禁の措置とした。ボースは、ラジオ・ベルリンを通じて、ロンメルの捕虜のインド兵による「インド連隊」の創設を宣言し、ヒトラーの新秩序を賞賛した。ベネット師団の中東行きは中止となり、逆にオーストラリア第27旅団が増強されることになった。ベネット麾下の兵力は5千名となった。
 アメリカは中国援助を増大させていた。日本政府は、米英中蘭のABCD網に包囲されつつあることに不満を訴えている、と駐日英国大使クレーギーは本省に報告した。

4 (日本はどうしていたか?) 
 アメリカの石油禁輸処置で、日本では木炭自動車が走ることになった。1940年の東京オリンピック用のスタディアムは解体され、その鋼材は長崎の造船所に送られた。日本は、反西欧、復古主義を標榜する半世紀後のイスラム世界に似たムードに包まれてきた。日露戦争の勝利は、西欧の技術を吸収した和魂洋才の成果で、これまで日本は、美術、絵画、文学の分野でも急速に西欧化していた。キリスト教も普及していた。しかし、西欧、とくに英米は、日本人を人種的に平等なものとは認めず、植民地とした貧しい南アジアの人々と大きく異なっているものとはみなかった。
 1900年頃から、アメリカは、中国人にくらべて日本人の移民を奨励したが、1920年、カリフォルニア人口の2%を占める日本人が、同州の農地の10%を支配するに至った。ここにきて対日警戒信号がともり、ハーストの新聞は「黄禍」を書き立てた。1924年、排日移民法が成立した。日本国内では国家主義が高まり、特別高等警察(特高)や憲兵が危険思想の統制を行いはじめた。しかし日本では、ドイツやソ連の如く膨大な政治犯が捕らえられたわけではなく、ゲシュタポ、NKVD(スターリンの秘密警察)のような機関があったわけではない。アジアの欧米植民地を、日本の指導による大東亜共栄権におきかえるという大義については、日本の左翼の一部も賛同していた。憧れのアメリカ文明も、ジャズ・エイジの堕落の側面で語られ、青少年は武道に熱中した。野球はもっとも大衆に好まれたが、英語の用語は禁止された。1937年、日中紛争勃発以来、日本人は戦時の意識を持ちはじめた。南京陥落では提灯行列が行われ、人々は芝公園にできた肉弾三勇士の記念碑を訪れた。
 かつてワシントンの日本大使館付駐在武官だった山本五十六提督が、対米英戦に反対していたことはよく知られている。裕仁天皇自身も戦争に反対、ないし運命に委ねる交錯した心理状態だった。天皇は君臨していたが、統治はしていなかった。海軍もおおむね開戦には反対だった。閣僚のなかで最強硬だったのは東条英機陸軍大将である。かれは仏印南部への派兵を主張して危機を招いた。戦争の瀬戸際に立たされたが、開戦するとすればどういう戦争をするのか?1941年6月、ソ連に侵入したヒトラーは、日本に対しシベリア攻撃を呼びかけた。しかし日本は、その前にソ連と中立条約を結んでいた。条約締結当事者の松岡洋右外相は、スターリンから、「われわれはアジア人同士だ、日本は南を目指せ」と肩を叩かれていた。ノモンハンで赤軍に痛めつけられた日本は、ソ連との戦争は避け、体力の衰えたオランダ領スマトラの石油、英領マレーのゴムを狙うことにした。台湾にある陸軍研究所では、すでに南方攻略の研究が進んでいた。九州と海南島でマレーの上陸演習が行われることになった。南方では中国のように馬匹はうまく使えず、自動車、自転車を活用する方針となった。参謀の辻政信陸軍大佐は、「これだけ読めば戦(いくさ)は勝てる」という簡便なパンフレットを刊行し、兵士に読ませた。戦争の大義名分の解説とともに、現地事情、衛生問題などに実用的なガイドとなった。
 1941年9月6日、御前会議が開かれ、10月上旬まで外交交渉が不調ならば、米英と開戦する、と正式決定した。ささやかな会議への寄与として、天皇は、明治天皇の御製を引用した。
 「四方の海 みなはらからと思う世に など波風の立ち騒ぐらむ」
 
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2009/08/05

Singapore Burning - 第一部 暗夜の饗宴

1 (シンガポールの発展)
 ゴムは王様となった。マレーは地球最大のゴムの供給者で、生産の半分は米国に輸出された。シンガポールの人口は70万、多民族社会を形成し、中国系が最多であった。英国人は支配者として君臨した。
 1915年のインド兵(セポイ)の暴動事件はすっかり忘れられた。1938年、島の北岸に海軍基地が完成した。費用6000万ポンドで、22平方マイルの深水投錨地、巨大な燃料タンク、大々的な浮きドックが併設された。ここでは最大級の軍艦が修理できる。2000名の水兵の宿泊兵舎、事務所、修理工場、家族用住宅、教会、映画館、サッカー場17面ができあがった。
 シンガポールに入港した船が最初に目にするのは、10階建てのフラートン・ビルである。これは1928年に完成した。ほかに自慢の建物群は、中央郵便局、アール・デコ調の、フォードのアジアで最初のアセンブリー工場などである。アレクサンドラ郊外には、瀟洒な陸軍病院が建てられた。マラッカ海峡を望むフォート・カニング要塞は、ビクトリア様式の銃眼つき煉瓦造りで、マジノ・ラインと同じく地下司令部が設けられていた。新聞が、「東洋のジブラルタル」と評したように、シンガポールには多数の大砲が備えられた。少数を除いては、いずれも回転台座式であり、これらは敵艦砲撃のみならず、陸上攻撃にも対抗できた。
 シンガポールの防禦の考え方として、マレー半島の北側には「竜が住む」という時代は終わり、北方からの攻撃もあり得る、という方向に変わってきていた。1930年代以降、毎年、陸軍大学では、いかに日本の攻撃から防禦するか、という棋上演習を行っており、北部マレーないしシャム(タイ)からの侵入を想定していた。海軍は、依然、海上からの攻撃を念頭におき、陸軍の役割は、海上の援軍が敵艦隊を沈める間、海岸砲で防禦する、という考え方だった。
 1935年11月、シンガポール/マレー防衛の司令官が着任した。56歳の清教徒、サー・ウィリアム・ジョージ・シェドン・ドビー少将である。かれは陸上攻撃想定派だった。翌年、かれは、有能で、自らの考え方によく似た部下を獲得した。アーサー・パーシバル大佐である。48歳、痩せっぽち、反っ歯で見栄えはよくないが、第一次大戦、シベリア干渉戦争、アイルランド紛争などの勇士で、数々の勲章に輝いていた。
 1937年、日中戦争勃発、英国は国民党に同情的だったが日本を刺激したくはなかった。パーシバルは、日本の装備の優秀性に注目した。かれは、1937年12月帰国したが、北方タイ国境の防備増強を主張した。1939年、シンガポール/マレーは、歩兵9個大隊、航空機100機に増強されたが、古い型の飛行機が多かった。ドビー少将は、ライオネル・ボンド少将に替わった。海・空軍はJ.T.バビントン空軍少将が司令官だったが、防禦戦略について、ボンドとバビントンの考えは相違していた。ボンドは陸兵を北部の航空基地に展開させ、半島を死守することがシンガポール防衛の最良策と考えていた。ボンドの赴任は、インドからの歩兵大隊の増強と軌を一にしていた。1939年10月、英国がドイツと戦争を開始した1ヶ月後、シンガポールの最初の摩天楼、16階建てのキャセイ・ビルが完工した。1階にできた完全エア・コンの大映画劇場で、人々はジュディ・ガーランドの「オズの魔法使い」を楽しんだ。

2 (欧州第二次大戦の発生とシンガポール)
 結婚に失敗したインド人の女医、ラクシュミ・スワミナジャンは、シンガポールに赴く船中で、ダンケルクの撤退のニュースを聞いた。彼女は、インドの独立をねがい、当初マハトマ・ガンジーに心酔していたが、共産党の主張にも共感するところがあり、またその対極にはあるが、「血を与えよ、しかして自由を約束する」と叫ぶ、スバス・チャンドラ・ボースにも興味を抱いていた。彼女は初めてのシンガポールで、中国人が頑張っている姿に驚かされた。彼女はインド人左翼以上に、日中紛争では中国に肩入れしていた。
 民間の海軍嘱託建築士のチャールズ・ステーブルドンと妻のカスリンは、本国休暇を終えて、9月、シンガポールに戻った。潜水艦の危険はあったが、本国では灯火管制、食糧配給などの戦時下で、友人たちは帰任する夫妻を羨んだ。留守中、ドームのあるコリント様式の最高裁判所ができあがっていた。夫妻はキャセイ・ビルを初めて訪ねた。しかし、このところの建築ブームは商業施設にかぎられ、民間住宅は1932年の不況の影響で、夫妻は帰国後のアパート探しに苦労した。以前からのジャワ人のアヤ(子守)兼料理人、マレー人の運転手、インド人の庭師、そして執事役の中国人のボーイを雇いなおして元の生活に戻った。
 「戦争から安全であることに良心が痛む」、1933年、香港を振り出しにアジア勤務の長い英国国教会のジャック・ベニット師は日記に記した。妻のノラと本国休暇から戻ったときは、開戦1ヶ月目だったが、ロッテルダムへの海峡は機雷の危険があった。乗船はオランダ船で、当時、オランダは中立国だったので、船隊は煌々と灯火をともしていた。
 まもなくオランダの中立は侵された。フランスは敗れ、両国の東南アジア植民地は本国と切り離された。ドイツはその石油とゴムを戦利品とみていた。日本は交戦国ではなかったが、同じ考えで、1940年、独伊と三国同盟を締結した。戦利品の輸送には、英帝国海軍の支配水域をかいくぐる必要がある。オランダの東インド植民地は、ロンドン亡命の女王に忠誠を誓った。原料に乏しい日本が戦争に踏み切るとすれば、オランダ艦船は、連合国に心強い味方となるだろう。フランスはベトナムのカムラン湾にそこそこの艦隊を保有していた。しかし、インドシナのフランス植民地は、対独協力のヴィシー政権に帰属していた。その総督はジャン・デクー海軍中将だった。1940年9月、デクーは日本の北部仏印進駐を許した。しかし、日本は大東亜共栄圏を標榜しつつアジア解放を叫んでいる。ヨーロッパ植民地が蚕食されることがあれば、それは終わりの始まりとなる。デクーは、英国とも接触を維持し、サイゴンには引続き英国総領事館がおかれていた。一方、ド・ゴールの自由フランスの極東本部がシンガポールに開設され、そこからインドシナ半島に宣伝ビラが持ち込まれていた。インドシナの現状維持方針を阻害する行動は、日本につけいる隙を与える。それ以前、チャーチルはヴィシーの仏艦隊と、アルジェリアで、1815年以来となる英仏の海戦を行っていた。仏印が英国と結ぶことはなかった。
 オーストラリアは、すでに中東で英国を救援し、マレーでも3個飛行中隊を派遣した。世は航空戦略時代に入っていた。各国は新鋭機を続々と開発、日本は堀越二郎が「ゼロ戦」を生み出した。タラントでイタリア戦艦3隻が空からの爆撃、雷撃だけで撃沈、大破された。ロンドン大使館付武官の源田実は、ドイツの夜間空襲に対する英海軍の防禦方法を研究し、日本に報告した。
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2009/08/04

Singapore Burning - 宝 島

宝 島
  
 マレー半島を感嘆符に見立てると、シンガポールは最下部の点(ドット)にあたり、その位置は赤道から85マイルほど北にある。ジョホールのサルタンからその名前を取った水道を隔てて、アジア大陸の南端から切り離されている。その名は、マレー語で「獅子の島」という意味を持つ。50ばかりの島々から成り、面積240平方マイルほどで、英海軍基地のあるポーツマスの南のワイト島よりいささか小さい程度である。南シナ海とインド洋を結ぶ水門であり、貿易には最適の場所にある。16世紀、ポルトガルの商人は、ここで、インド、中国、カンボジア、シャムから来る船舶を見ている。これらの船は、しばしばマングローブの沼地に潜む海賊の餌食にもなった。しかし、「砲艦の時代」とよばれる近代史にあって、シンガポールは、戦争の目的物となったことはほとんどない。
 1819年1月、サー・トマス・ラッフルズがここに寄港した。かれは、東インド会社で功績を挙げ、スマトラでの英国の拠点、ベンクーレンの準知事に任命されていた。ナポレオン戦争前後、オランダがそのほとんどを支配していたマレー半島で、イギリス(東インド会社)は、ペナンを藩王から獲得し、メラカ(マラッカ)の貿易権をオランダから譲渡されていたが、メラカは沈泥が堆積し、大型船舶は沖合いに停泊しなければならなかった。
 ワーテルローでのナポレオンの敗北後4年ほど経って、オランダは東南アジアで日の出の勢いにあった。ラッフルズは小艦隊を率いて調査航海に乗り出した。かれへの特命は、マレー半島の先で、会社用語の「仕事場」、貿易拠点の適地を設けることだった。当時のシンガポールは、ときどき海賊行為にも手を出すこともあっただろうマレー人の漁師、500人ばかりが住む小漁村だった。力ずくで占領することは容易だったが、オランダを刺激するわけにも行かない、「目的は領土ではなく、貿易である」とするラッフルズは、ここに仕事場をかまえる許可を、土地の領主(ジョホールのサルタンの臣下)から入手した。ラッフルズは、かつて、フランス、オランダ連合軍を破って、ジャワ島の占拠に主役を演じたこともあり、軍事力行使の方法を熟知していた。かれはシンガポールに砲塔と要塞を築きたかった。しかしそのために割く時間の余裕もなく、兵力の増強も必要だったので、一旦駐屯地のあるペナンに帰った。
 1822年10月、かれがシンガポールに戻ってきたとき、人口は1万人になっていた。しかし、後事を託した、マドラス工兵隊のウィリアム・ファルカール少佐は、ラッフルズの命じた街づくり、砦の建設に手抜きをしていた。中国の阿片貿易に従事している英国富商の在庫を守る必要があったのである。ファルカールは首になった。ラッフルズは、ここに「諸国の艦船へ門戸を開く自由港」を開設するためのさまざまな仕事に専心した。子どもたちを疫病で亡くしたり、乗船の火災で、自ら編纂したインドネシア語の辞書や、記録した博物の資料を焼失するなどの不幸にも襲われた。1824年帰国。その頃、英国とオランダの間で、シンガポールとベンクーレンの交換が正式に協定された。1826年、ラッフルズは脳腫瘍で死去した。45歳だった。かれはロンドン動物園の設立に奔走し、初代園長に任命されていた。シンガポールが「東方の中心、国の誇りになる」、との予言を残した。
 シンガポールの発展には時間がかかった。中国貿易での東インド会社の独占的地位は失われつつあったし、香港、またマラッカ海峡対岸のオランダ、新しくアジアに進出したフランスの仏領インドシナと競争しなければならなかった。1869年、スエズ運河開通と、蒸気船の発達によって、マレー産の茶と錫のヨーロッパへの販売が容易になってきた。半世紀後、自動車産業の勃興により、輸出の主力はゴムに取って代わられた。ゴムは、ブラジル原産の種苗が、キュー・ガーデン(英国王立植物園)を経由して輸入され、シンガポール植物園で育てられたのである。
 1914年までには、英国はマレー半島のすべてを支配していた。シンガポールとペナンの海峡租界以外はマレー州となり、形式的には各地の藩王が主権者となっていたが、慣習法とイスラム法の解釈を除いては、実質的に英国の政治顧問が統治した。ゴム農園、鉱山の拡大とともに中国南部からの移民が激増し、シンガポールでは、中国人がマレー人を数の上で凌駕した。
 英国は、アジアの新興国、日本と手を結び、1902年、日英同盟を締結した。日本はロシアを警戒し、イギリスはドイツを意識していた。1904年2月、日本は満洲をめぐってロシアと戦端を開き、1906年、日本が勝利した。日露戦争において、イギリス海軍は、ロシアのバルチック艦隊が日本遠征の冒頭に起こした英国漁船誤爆事件で、日本側に立って問題を解決し、その協力姿勢を見せた。第一次大戦でも日英同盟は英国に有利に作用した。日本艦隊は、太平洋でドイツ艦隊に打撃を加え、その植民地の島々を制圧した。青島攻略では、英陸軍インド人部隊の支援を得た。
 もう一つ特筆すべき日本の貢献がある。
 シンガポールのイギリス駐屯軍は、欧州、中東戦線に動員され、残っていたのは、居留白人の義勇隊と、イスラム教徒主体のインド人で組成する、第5現地歩兵連隊だけだった。連隊の任務の一つに、座礁させたドイツ軽巡洋艦、エムデンの水兵を含む、300人ほどのドイツ兵捕虜の監視があった。ドイツ人は、インド兵が、ドイツの友邦、オスマン・トルコに好感を抱いていることに気がついた。1915年2月15日、中国人の旧正月の祭日、連隊はパレードを行ったが、そのときどこからともなく、連隊が行き先不明の戦場に移動する、という噂が広まった。相手がトルコ軍であれば、トルコの太守(カリフ)はマホメットの後継者であるので、インド軍は戦うわけには行かない。ここで、連隊の半数が反乱に踏み切った。反乱者は、まず捕虜収容所を解放した。騒擾は規模を大きくし、総督府は連合軍に救援を要請した。これに応えたのが、巡洋艦、音羽、対馬を派遣した日本である。ほかに、フランス、ロシアも協力して反乱は鎮圧された。
 大戦後、東南アジアにおける英国の主な脅威は日本となった。英国は、香港の南に軍事基地をかまえる必要にせまられ、それにはシンガポールをおいてほかに適地はなかった。「シンガポール要塞」が、日英同盟に取って代わることとなった。しかし、戦時中、海軍予算を野放図に費った海相、チャーチルも戦後は財布の紐を絞った。1926年、海軍本部の要請もあって、ボールドウィン内閣は極東基地建設に踏み切ったが、ジャン・スマッツは、北方海域で戦争が起きないかぎり、日本がシンガポールに攻撃を仕かけることはあり得ない、また攻撃されたときはどのみち、本国からの救援は間に合わないので無意味である、とこれに反対した。
 ケッペル港に軍港をかまえることは商業発展を阻害する、またジョホール海峡沿岸では、コーズウェイ(土手道、半島との連絡道路)建設との関連で航行不能になる、などの理由で、軍港は、結局、泥沼の整備工事が必要なセンバワンに建設されることになった。
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2009/08/03

Singapore Burning - 扉、 目次

  
 そして、何の証(あかし)も残さず、初めから
 存在しなかったかのように、滅ぼされたものたち、
                  集会の書  44:9 
           (ベン・シラの知恵の書ー聖書外伝)



 目   次
  (カッコ内の小タイトルは、原作にはないものを、オーサーが内容紹介の便宜上、勝手につけたものです。)

宝 島

第一部  暗夜の饗宴
    1 (シンガポールの発展)
    2 (欧州第二次大戦の発生とシンガポール)
    3 (兵力の増強)
    4 (日本はどうしていたか?)
    5 (パーシバルの着任)
    6 (「フォースZ」の回航)

第二部  血戦の浜、コタバル
    7 (コタバル上陸開始)
    8 (海の203高地)
    9 (形勢悪化)
   
第三部  300年の伝統
   10 (日英双方のマレー沖海戦前史)
   11 (マレー沖海戦その一)
   12 (マレー沖海戦その二)

第四部  退却、援軍
   13 (ジットラ・ラインの攻防)
   14 (北部の激戦、ぺナンの放棄)
   15 (ジャングルの戦い)
   16 (シンガポールの防禦体制)
   17 (後方撹乱「ステイ・ビハインド」小隊)
   18 (カンパールの戦闘)
   19 (東海岸の防禦)
   20 (スリム川の攻防)
   21 (クアラルンプールの明け渡し)
   22 (ゲメンチェン川の戦闘)
   23 (バクリ、ムアール周辺の攻防)
   24 (パリット・スロンの戦闘)
   25 (ジョホールへ)

第五部  包 囲
   26 (包囲前夜のシンガポール)
   27 (シンガポール炎上)
   28 (接 近)
   29 (上 陸)
   30 (クランジ=ジュロン・ラインの突破)
   31 (ブキ・テマの戦闘)
   32 (降 伏)

エピローグ
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2009/08/01

Singapore Burning - 本書の批評と著者のプロフィール

「シンガポール炎上」の批評
  「なんという役柄だ。コリン・スミスは歴史家であると同時に素晴らしい作家であり(かれは第一次世界大戦中のパレスチナを題材にした、恐るべき物語、最後の十字軍を著している)、ストーリーをどう盛り上げて行くか熟知している。主な主題はここにすべてある。連合軍、そして日本軍のうぬぼれ、また勇気、犠牲者の悲哀‐罪なきマレー人、中国人の農民から白人たちの甘やかされていた奥方たちに至るまで・・。または帝国防衛のため、満足にライフルを抱えることもできず、はじめて軍靴を履くことになった、呆然としているうちに戦闘に放り込まれたインド人徴募兵・・。シンガポール炎上は、個人の記録、そして未公開の資料一杯のまことに厚みのある本である。物語は美しく、鋭く語られ、登場人物の評価は公平で、ときにホロ苦いユーモアで彩られる。この大変なドラマの決定版というべきである。」   パトリック・ビショップ、ザ・デイリー・テレグラフ

  「・・マレー半島北部に上陸した侵入者が、混乱のうちに陥落する都市へ情け容赦なく進軍する数週間を描いた叙事詩・・鮮やかにその姿を現わした出来事の数々に、それぞれ意味を与えることは決して楽な仕事ではなかったろうが、スミスは鮮やかに、数百という個々の物語を織り上げ、全体を凝集させることに成功している。」   ニック・レニソン、ザ・サンデー・タイムズ

  「スミスは生き生きと語っている・・今やまず、特別心に響く恐るべき人間悲劇を、素晴らしい歴史物語として。」   トム・バコック、ザ・リテラリー・レビュー

  「・・卓越した、正確な敗北の記録。」   サリル・トリパティ、ジ・インディペンダント

  「かれは秘史を語るに鋭い眼を持つ、そして注意深く情景を準備し、自身の解釈を加える。その文章は格調高く人を惹き入れる。オーストラリア人にはよく知られた事実、たとえばバクリでの戦車の待ち伏せ攻撃、ないしバンカ島での看護婦たちの射殺、またシスター・ブルウィンケルの逃亡などについても、新鮮味のある描写をしている。」  ハンク・ネルソン、ブック・トーク、オーストラリア放送会社

  「1941年12月7日から1942年2月15日、シンガポールが公式に降伏するまでの、同市へ向けての正確な進軍の記録・・戦って捕虜となった多くのものたちに、何が起ころうとしていたのか、それを問うことは、今やそれほど愚かなことではなさそうである。・・この難問を今一度考えるにあたって、この本は良い機会を提供してくれる。」   マイケル・セクストン、シドニー・モーニング・ヘラルド


著者のプロフィール「コリンについて」 (コリン・スミスHPより)
  「シンガポール陥落」などの戦記の著者であるコリン・スミスは、イングランドのウェスト・ミドランドで育ち、サットン・コールドフィールドにあるジョン・ウィルモット・グラマースクールに通った。16歳になる直前、英国通信隊ジュニア・リーダー連隊に入隊した。2年後、親切な従兄弟が除隊手続きを採ってくれ、見習い記者としてガーンジー・イブニング・プレス社に入社することになった。(戦友の伯父が編集者だった。)その後いくつか地域の新聞社に勤め、1968年、バーミンガム・ポストとデイリ-スケッチ社で仕事をしたのち、デビッド・アスターのオブザーバーに入社した。23歳であった。
 アフリカとアイルランドでの冒険、また当時東パキスタンと呼ばれたベンガルの動乱で初めて怒りの健筆を振るったあと、1972年、かれはオブザーバーの主任移動レポーターとなり、次の30年間、さまざまな紛争の現場に居合わせた。たとえば1973年の中東戦争。ゴラン高原の初期のイスラエル紛争で、かれは自らのフォード・エスコートが武装反撃の主要目標となってしまっていたことに気が付かなかったほどの、命からがらの体験をした。プノン・ペン包囲の際、メコン河沿いの封鎖破壊のための韓国老朽船に仕かけられたクメール・ルージュの待ち伏せ攻撃。キプロスのトルコ軍侵入。サイゴン陥落。このときかれは、最後のアメリカのヘリコプターが大使館の屋根から出発したところ、そしてそれから間もなく、最初の北ベトナムの戦車が大統領官邸に到着したところ、を目撃している。長期間のレバノン内戦。イラン革命とシャーの逃亡。イラン=イラク戦争。サダム側の強面(こわもて)の報道監督官が、イラク軍の所在を明らかにしなかったので、思いのほか、ホメイニの革命軍寄りになった。イスラエルのレバノン侵攻とベイルートの包囲(これは、かれのフォークランド行きを阻止してしまった)。ハイチとフィジーの革命。第一次湾岸戦争。クウェート市からマトラ尾根沿いに撤退するイラク軍を虐殺した米軍の空爆に関するかれの記述は、この戦争についての三つの選集となって出版された。サラエボ攻略の第一弾が放たれたとき、かれはボスニアにいた。そしてそこに長期滞在したのち、かれはワシントンDCに異動させられたが、「ザ・ガーディアン」へのその売却にともなって、最終的に「オブザーバー」と別れることになった。
  その後、ザ・サンデー・タイムズに、アルジェリアのイスラム過激派、ルワンダの大殺戮に刺激されてテロルの問題を寄稿したが、アデン港における米国船コールに対する攻撃の報道のためにイエーメンに出かけた。第二次湾岸戦争では、サダムのイスラエル向けロケット攻撃のガス、または生物兵器搭載が大いに懸念されたので、かれはガス・マスク、NBC(核、生物、化学兵器)防護服一式を取り揃え、エルサレムに送った。しかし全く幸いなことに、かれの目撃した唯一の作戦行動は、アメリカン・コロニー・ホテルのバーでの出来事だけだった。かれは2回、ブリティッシュ・プレス・アウォード(英国報道賞)のインターナショナル・レポーター・オブ・ジ・イヤー(1974及び1984)を受賞している。1974年の受賞理由について、審判員は、シンバイオニーズ(共生)解放軍による大富豪の娘、パトリシア・ハーストの誘拐、隔離事件に関する、カリフォルニアからの3部よりなる長編のオブザーバーへの寄稿を、とくに挙げている。
  最近の数年は、1970年代、オブザーバーの中東特派員として最初に根拠地をおいたニコシアに、妻のシルビアとともに移り住み、おおむね歴史を主題としたフィクション、ノン・フィクションの本を執筆している。最新作は、評判高い「シンガポール陥落」で、これは、1942年2月、最終的にシンガポールの降伏で終わったマレー半島全域でのイギリスと日本の戦闘を、詳細にわたる調査で描いたノン・フィクションである。「何という役柄だ・・・(前掲)」と、デイリー・テレグラフのパトリック・ビショップは書いている。「物語は美しく、鋭く語られ、登場人物の評価は公平で、ときにホロ苦いユーモアで彩られる」。
  かれの最初の作品は、「カルロスーテロリストの肖像」で、ベネズエラ人カルロスのウィーンのOPEC本部襲撃と石油相らの誘拐事件を取り上げて、「オブザーバー・レビュー」の1面のシリーズとして3部にわたって連載された。1995年、カルロスの逮捕のあと、内容は一新、修正され、マンダリン・ペーパーバックとして再刊された。1979、1980年には、ロンドン、キプロス、ベイルートで発生したテロとその原因を追究した小説、「カットアウト(遮断)」が、ロンドンのアンドレ・ドイッチェと、ニューヨークのヴァイキングから出版された。1990年の「最後の十字軍」は、1917年、聖地における回教徒の世紀を終焉させた、アレンビー将軍のパレスチナ戦線を主題とした歴史小説であるが、サンデー・タイムズは、「・・・昂奮し、感動し、複雑な気持ちになるが、挑戦的な作品である。最近の批評家のだれかがいう、[貧血気味の、調子は整っているが、だらけたミニチュアといったイギリスの小説]とは、はるかに遠いところにある」、と絶賛した。
  1999年には、もとBBCジャーナリスト、ジョン・ビアマンと共著で、「ファイア・イン・ザ・ナイト:ビルマ、エチオピアそしてシオンのウィンゲート」を出版した。これは、奇行で知られる英国の将軍、オード・ウィンゲートの伝記であるが、英米で大いに評判になった。同様に、「アラメインー憎悪なき戦い」(やはりジョン・ビアマンとの共著)は、イギリスの卓越した軍事史家、サー・ジョン・キーガンが、「素晴らしい作品」と評している。
  さまざまな書店で話題を提供するとともに、かれは、マレーと北アフリカ戦線についてBBCラジオで頻繁に講話を行い、またオーストラリアと北米の放送キャスターの長いインタビューに応じている。今年、かれは、チェルトナム文学祭に二度目の出演をし、「ヒロイズムと怯懦」というディベートで、3人のパネリストの一人を務めている。
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