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2009/07/31

Singapore Burning - by Colin Smith 紹介と序文

今日からは、イギリスのジャーナリスト、コリン・スミスの「Sinapore Burning -Heroism and Surrender in World War II (シンガポール炎上、 第二次大戦のヒロイズムと降伏)」 (Penguin Books 2006のペーパーバック版)という本を読んでみます。
この本は、真珠湾攻撃より時間的に若干早く始まった、文字通りの大東亜戦争の緒戦、日本軍のマレー半島上陸作戦、マレー沖海戦、シンガポール陥落までの戦史を、イギリス側から書いた作品です。コリン・スミスがジャーナリストの手法によって、詳細にリサーチした史実を淡々と記述したノン・フィクションです。攻める日本、守るイギリス、双方の描写はきわめて公平で、戦い自体の善悪などの価値判断を示すものではありません。史実はもちろん描かれていますが、むしろ史実に題材をとった生身の「人間の」物語であり、将軍、提督から、兵士、庶民にいたるまで、人名の挙げられた日、英、豪、印などの登場人物は550名以上にのぼります。まさに「銘々伝」といった趣きがあり、勇気、献身といった人間のプラス面、そして驕慢、怯懦、逡巡といったマイナス面があますところなく描かれており、シンガポール攻略戦も、まさにきわめて人間らしいひとたちによる「人間」の戦いであったことがよくわかります。このことは、本書の副題がよく示しているところです。

本文に入る前に、しばらく、「序文」「批評」「作者の紹介」などを記録します。

著者の序文(ハード・カバー版)(全訳ーHPより入手)
 この本については、調査とその執筆に3年以上かかってしまった。お世話になった謝意の表明は、ノーザンブリアからキャンベラまで拡がる。その間、マレー、シンガポール戦線の帰還兵は必然的に減少して行った。それでも1942年に20歳から25歳であった人々の数は驚くばかりであり、降伏命令を受ける前の戦闘について喜んで語ってくれた。
 そしてSingapore Burning(標題は、「シンガポール陥落」と訳すことにします。)には、ほとんど伝えられなかったマレー戦線の話が語られている。ここ半世紀の間、チャーチルの「最悪の国難」の確固としたイメージが、苛酷な虜囚生活を通じ、また良かれ悪しかれ、それに続く1957年のデビッド・リーンの映画、「戦場にかける橋」に定着して行った。マレーの防禦部隊が、日本軍の捕虜収容所で、戦闘そのものより以上の、飢餓による、また労務による死者を出したことは事実であるが、山下将軍の大勝が容易なものであったと考えることは、大変な間違いである。犠牲者の数がそのことを物語っている。英帝国側の戦死、7500、戦傷、1万に対して、日本側は、戦死、3506、戦傷、6150である。これは8週間の間での事柄である。いまわれわれは、アメリカ兵のイラクでの戦死が3年間で2千名、これは莫大である、といわれる時代に住んでいるのである。
 戦前、英国のプロパガンダは、「要塞シンガポール」という幻想を育んだ。その陥落は、海岸の重火器が「間違った方角を向いていた」こと、また、愚かな将軍たちが、北へ向かって「通り抜けられないジャングル地帯」のマレー半島を伝って攻撃してくることは考えられないと思っていたことが原因である、とする神話が戦後広く流布されているが、要塞シンガポールの幻想は、それら神話以上に真実ではなかったのである。15インチ砲のほとんどは、陸上目標を狙っていた。(高度の爆発を誘引するというよりも、軍艦の装甲を貫通するという、陸戦に適した弾薬が備わっておらず、その有効性が阻害されていたが、これが決定的な要因にはなっていない。)より重要なことは、戦前の計画、また戦争の図上演習においても、北からの攻撃は長期にわたって想定されていたのである。パーシバル自身、1930年に、この問題について報告書を書いている。
 しかし、敵の意図を推察することと、それを抑止する手段をはかることは別問題である。1926年、スタンレー・ボールドウィン内閣が一歩前進し、シンガポールの海軍基地建設に多額の支出を行うことを決定したとき、異議を唱える声が上がった。南アフリカの首相、またかつてのボーア戦争の戦士、ジャン・スマッツの声だった。第一次大戦当時、帝国戦争内閣の一員だったスマッツは、シンガポールの基地は無意味である、と主張した。日本が、唯一の考え得る脅威であることを認めるとしても、北方の海域で大規模な戦闘が行われぬかぎり、日本はあえてシンガポール攻撃には踏み切るまい、どのみち、そのような事態となったときには、帝国海軍は援軍を送って妨害することは不可能になっているのだ。
 スマッツの予言どおり、1941年の12月にいたる2年間、今世紀二度目のヨーロッパの戦争で、英軍は、マレーをしっかりと防禦するには戦線を広げすぎてしまっていた。イギリスは地中海沿岸でその存在を維持するのに精一杯であった。-5月には、クレタ島で甚大な損耗を蒙っていた。-北米の穀物と銃砲を大西洋に運ぶルートを確保しなければならなかったし、予期し得ることであったが、ソビエト軍を叩き潰したドイツ国防軍の大群が、海峡沿岸に立ち戻ってくることに備えて、防空網と国内軍を充実して行く必要もあった。にもかかわらず、1939年、満洲で、国境紛争が短時間のうちに大規模な戦争行為に発展したときの、ソ連による日本の屈服に刺激を得て、陸軍省は、東南アジアにおける「小さな黄色い連中」の冒険は充分に食い止められる、と確信を深めたのである。そして、1941年12月8日、日本は英国に挑戦した。
  戦闘は、北部マレーへの海陸の侵入、そして煌々と輝くシンガポールへの夜間奇襲空爆によって始まった。1週間で、日本は圧倒的な制空、制海の優位を確立した。戦争へ向かう東京の愚行を最終段階で説得すべく、鳴り物入りでその出航を見送られた2隻の大事な軍艦、プリンス・オブ・ウェールズと、レパルスは、800名の水兵とともに航空機によって海の藻屑となった。死者のなかには、サー・トム・「サム(親指)」・フィリップス提督がいる。この愛称で呼ばれた司令官は、一隻の船すら沈没させられなかった航空機が、かれの巨艦群を撃沈することが可能などとは夢想だにしていなかったのである。
  インドと英本国からの救援が到着するまで、日本軍のマレー半島南下を食い止めることは、いまやパーシバルの兵士と、数は減らされつつあるものの、確固とした航空兵の双肩にかかっていた。マレー北部には、中核となる強力な正規兵を交えた英軍の3個歩兵大隊があった。しかし、その大部分は、訓練半ばの、また、しばしばとんでもなく若いインドの徴募兵だった。イギリス人将校は、明からさまに狙撃兵の目標となっていた。その南にはオーストラリア兵の2個旅団がいた。溌剌としてはいるが未熟な志願兵だった。インド兵と同じように無傷で、また元気一杯だった。シンガポール本島には、英本国の歩兵の3個大隊を含む、より以上の部隊が駐屯していた。
  紙の上では、防禦兵力は攻撃兵力を問題なく上回っていた。しかし、実戦ではあまり見かけないケースだった。なぜなら、山下は兵力を集中できるのに対し、パーシバルは、つねに兵力を温存し、側面からの海陸上陸作戦の脅威に備えなければならなかったからである。また英軍と異なり、日本軍は、Aクラスのチームを野戦に投入した。山下の歩兵3個師団は、日本が保有している最強の軍隊だった。その二つは、中国との長期の戦いに習熟した古参兵が占めていた。またもう一つは、何とか証(あかし)を示そうと必死に頑張る近衛師団だった。一般に信じられたように、かれらはジャングルで訓練されたわけではなかった。日本にも中国にも、ジャングルはほとんどないのである。戦闘が発生する前に、茂みのなかでの実戦の方法を熟知していたのは、アーガイル大隊の老兵と、オーストラリア軍の一部のものだった。また、制空権を把握した日本軍が使用したのは200台の軽戦車である。これは植民者が建設した道路で、遺憾なくその効果を発揮した。
  最前線の戦闘のほとんどで、兵士は全体の構図を見ることが少なかった。パーシバルの兵隊にとって、これはかつてない現実だった。側面攻撃を受けることの懸念が全体を支配し、師団、旅団、または大隊司令部からの命令は、しばしば、奮闘の結果確保した防禦地点、または機会あれば確保しようとした地点の放棄を指示するものだった。これは疲労困憊する後退と、最低限の食糧で、塹壕で仮眠を取るという過程の繰り返しとなった。ときには、休養を取ったり、いじめっ子に一撃を加えることも許された。カンパールでのレスターとイースト・サレーの混合部隊の行動、ゲマスで見られたオーストラリア兵の血なまぐさい待ち伏せ攻撃がそれらの例である。しかし、その後は、撤退、撤退の困惑させられるような命令の連発が常態になった。
  これらのすべてにつけ加えられたことは、敵に関する見方の決定的な変化である。中国勤務の英国大使館付武官の度重なる警告にかかわらず、日本軍の侵入以前には、かれらはほとんど例外なく近眼で、どちらかといえばコミカルな人間たちだ、として描かれていた。正確な照準をつけることができないのみならず、近代的航空機を技量と勇気で操縦することができない、もちろん国王陛下の軍艦を沈めることなど問題外であると。日本の開戦前、マレーのオーストラリア人将校のなかには、戦闘が起こるにせよ、自分たちの兵士には、もう少しましな敵に遭遇させてやりたいものだ、と落胆を隠さなかったものたちがいた。
  そして英軍は、マレーで、味方に欠けていた戦車と、航空機を携えていたのみならず、かれらをシンガポールへの道筋一杯に、テリアのように執拗に追い詰める敵に遭遇したのである。最後の救援部隊、国防義勇軍の一翼、ノーサンバーランド・フュージリア機関銃大隊は、奪回を信じて、輸送船の手すり越しにヴィッカーズ機関銃を掃射し続けた。ケッペル港への道を拓く戦闘で、船の撃沈を図る日本機2機を撃墜した。8日後、ノーサンバーランド兵は、国防義勇軍に属する第18師団の、ほとんど全員が新参である将兵と同じように降伏することを命じられた。それは信じられないことだった。かれらは、ゴルフ・コースを越えて進撃しようとする日本兵を何人かなで斬りにしたばかりのところで、まずうまく行った方だと思っていたのだ。 
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