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2009/07/27

Unnecessary War ー第14章(つづき)

チャーチルの道徳性の進展
  ほとんどの伝記作家は、若きチャーチルをキリスト教戦士の典型として描いている。しかし海軍相となって、自ら望んだ戦争となってからはなかなか名誉の騎士というわけには行かなくなってきた。「成功だけが戦争を正当化する」と言ったフォン・モルトケ以上に、チャーチルは中立国の権利を尊重しなくなった。ドイツが先にベルギーの中立を冒さないのであれば、自分がそうしよう、とアントワープの封鎖を企んだ。オランダとデンマークは中立国であったにもかかわらず、両国の島嶼を占拠しようとした。トルコがまだ中立だったときに、ダーダネルスの封鎖を主張した。
 戦力に対する以外の、女子供に対する食糧封鎖は国際法違反であり、そもそも人道に抵触するものだが、チャーチルの飢餓封鎖(スタベーション・ブロッケード)は近代に前例のないものだった。ドイツが戦場で毒ガスの使用を始めたとき、チャーチルは帝国の敵に対しての毒ガス使用を主張し、1920年のイラク反乱でその使用を奨励した。ガスに致死性がなく、強力な爆弾よりも人道的だ、とチャーチルを擁護するものもあったが、クルド人、イラク人に対して使用したガスは多くのものを殺傷した。チャーチルは首相就任の日に、民間人に対する爆撃を命じた。これは空軍相、ビーヴァーブルック卿に対する書簡の形で残っている。ポール・ジョンソンは、この手紙を、「全体主義に対する道徳的相対主義が意思決定過程に入り込んできた、歴史的に非常に重要なもの」と指摘している。

「人の心を持つ狼」
  1944年5月11日、ドイツ軍のフランス侵入、そしてチャーチルの首相就任後、24時間経たぬうちに、爆撃司令部(ボンバー・コマンド)は、18機のウィットレー爆撃機を、戦線からはるかに遠いウェストファリアの夜間爆撃に発進させた。これまで2世紀にわたって築き上げた近代戦思想の、意図的な違反行為である。リデル・ハートは、非戦闘地域への爆撃を最初に決めたのはチャーチルである、という。1942年、スターリンとの初会見でも、チャーチルは、民間居住地域を軍事目的として爆撃し、士気阻喪する話をした。スターリンは、「悪くないアイディアだ」といい、二人の間の雰囲気は一層親密となった。絨毯爆撃の考案者は「教授」という綽名の、チャーチルの親しいフレデリック・リンデマンという科学者で、リンデマンは根っからのナチ嫌いだった。リンデマンは、爆撃機の生産に集中するよう進言し、爆撃の効率をよくすためには労働者階級居住地域を狙うのがよい、人口5万以上のドイツの都市を空襲し、半分の家屋を焼くのがよい、と報告書を出した。ロジャー・ウィリアムズがマサチューセッツのインディアンになぞらえた「人の心を持つ狼」の仕業となる。イギリスの空爆はドイツの報復を招いた。コヴェントリー、バーミンガム、シェフィールド、サザンプトンがやられた。
 1944年、チャーチルは、化学、生物兵器の対民間人使用も考慮し始めた。500万個の炭疽菌爆弾をドイツの農場に落とし、家畜を汚染する秘密計画を練った。この爆弾はスコットランドのウェスター・ロスで実験された。1990年になってもその実験場の汚染は浄化されていなかった。1944年7月、連合軍がノルマンディで進撃中に、チャーチルは参謀総長の「パグ」・イズメイ将軍に、毒ガスの使用を真剣に考慮するよう求めた。「わたしが、アンクル・ジョー(=スターリン)と大統領(=ルーズベルト)と対等にわたり合うのは当然のことだ」。
 ヤルタ会談から帰国する前、チャーチルは「サンダークラップ(雷鳴)作戦」を命じ、アーサー・「ボンバー」・ハリス空軍中将は、ドレスデンを目標に選んだ。空襲の最初の夜、770のランカスター機が襲った。65万発の焼夷弾と1474トンの爆弾が落とされた。1600エーカー以上が焼け野原になった。(コヴェントリーの焼失は100エーカー)そのあと朝になって500機のB-17が、300の護衛戦闘機をしたがえてやってきた。焼死者は3万5千から25万と推定されている。アメリカ人もこの戦略の後を追った。カーチス・ルメイは、その有名な東京空襲で、1945年3月9-10日にかけ、ヒロシマとナガサキの合計の犠牲者より多くを焼き殺した。西欧人の野蛮への復帰に、チャーチルは指導的役割を果たしたのである。

チャーチルの信念
  民間人に加えたチャーチルの非情は、かれの信念に基づく。チャーチルはローマの異教徒よりもさらにクリスチャン的でなかった。熱烈なキリスト教徒であるボーア人に捕らえられたとき、かれらの歌う讃美歌は、砲弾よりもかれに恐怖を与えた。本当は、ボーア人の方に「大義」があったのである。チャーチルを捕虜にしたのが、アフガン人やシュー族でなかったのは幸運というべきである。
 チャーチルは内相のとき、知的障害者、精神病者の隔離を図る広大な移住地の建設を計画した。それは最終的に民族浄化のジェノサイドに終わった、ヒトラーの精神障碍者の強制不妊の始まりと同種のものだった。チャーチルは親ユダヤで、シオニストを支持していたが、ボルシェビズムの根源については、ヒトラーとあまり変わりのない考えだった。「すべては人種だ」、とディズレーリは言ったが、チャーチルも賛成しただろう。チャーチルにとって、血液と人種は諸国民の歴史と文明について決定的な要素だった。かれにとって、黒人は「二ガー」または「黒ちゃん」、アラブ人は「価値なし」、中国人は「チンクス」ないし「豚の尻尾」、インド人は「バブー(英語を喋るインド紳士)」、南アフリカの黒人は「ホッテントット」だった。戦時中、インド人の独立要請を怒鳴りつけた。「インド人は嫌いだ。動物のような宗教を信じる動物と同じだ」、と言った。

「英国を白色に保つ」
  こうした人種観が、1950年代半ば、首相としてのチャーチルの「英連邦からの有色人種移民問題」に対する制限論の背景にあった。かれの考え方は、ソールズベリー卿のそれとほぼ同じだった。1955年4月、意向に反してチャーチルは下野した。「英国を白色に保つ」スローガンはおろされた。世は、ガンジーの承継者、マルチン・ルーサー・キングがモンゴメリーで行進を始めた時代になっていた。制限論者はいなくなった。英国は他人種社会になった。チャーチルのイングランドはもはやなくなった。

政治家ーまたは戦争屋?
  チャーチルが、英国民の偉大な戦争指導者であったことは否めない。しかし偉大な政治家だっただろうか?1940年5月13日、下院で、「政策は、と問われれば、それは、海、陸、空で、死力を尽くして悪魔の専制に対する戦争を遂行することである、そしてその目的は勝利である、いかに長期にわたろうが、いかに厳しかろうが、あらゆる犠牲を払って勝利することである。勝利なくして生存はない」、と獅子吼した。
  ナチの専制とプロシア軍国主義の打倒、これだけを頭において、チャーチルはスターリンの東ポーランドと東欧の支配を認めた。カサブランカでは、FDRの「無条件降伏」条件とモーゲンソー・プランに賛同した。ナチ宣伝相のゲッベルスは、これを、敗北して生存はない、と死ぬまで戦うというプロパガンダに利用した。アイゼンハワーは、無条件降伏の要求は、戦争を長引かせ、無数の犠牲者を生み出す、またドイツの荒廃は、スターリンがあとで埋めて行くヨーロッパの真空地帯を生み出す、と懸念した。チャーチルは専制と6年戦って、より厳しい専制への道を拓いた。しかし、鉄のカーテン演説をしたチャーチルは、キリスト教文明社会を護るため、自らが「フン族」と呼んだドイツ人の再軍備を求めることになる。クラウゼビッツは、「戦争とは、ほかの手段による政治である」と言った。戦士の目的は勝利である。政治家の目的は、国民に安全を齎す平和である。チャーチルは、戦争指導者として素晴らしい成功を収めたが、政治家としては失敗した。後年、自らもその失敗を認めた。スターリンは、常に戦後のヨーロッパの姿を心に描いて行動した。東洋的専制と野蛮の多年の障壁となっていたドイツが敗れたあと、大陸がどのような状況におかれるか、チャーチルは深く考えていなかったようだ。戦争上手は和平下手、和平上手は戦争下手、と言われるが、ワシントン、ウェリントン、ビスマルク、マッカーサーは両方を上手にやってのけた。

「英国という乳牛からミルクをしぼる」
  チャーチル伝説とは何なのだろうか?かれが入閣した1911年から、ダウニング街を去った1955年までのほぼ半世紀は、イギリス国力減衰の半世紀だった。アジアとアフリカの植民地はすべて失われた。20世紀はイギリスの世紀ではなく、アメリカの世紀となった。チャーチルは、二つの英語国は永遠のパートナーと信じ、イギリスの政治家は、アメリカのローマに対し、ギリシャを演じると思っていた。しかし、FDRは、英国の最悪の時代にあって、モーゲンソーが欲しがった、西半球の英国の資産のリストを見て、「うん、イギリスは破産していないーまだカネはある」、と言った。
  レンド・リースの前、イギリスは合衆国にあった商業資産をすべてアメリカに売却させられた。ルーズベルトは、イギリスの最後の金準備、5千万ドルを、自らの持ち船、クウィンシーでアメリカに運ばせた。FDRは何を自分がやっているのか、充分承知していた。「英国という金融の牝牛から、ミルクをしぼるのだ、以前はいっぱい出たが、近頃は乾いてきた」、と閣僚に打ち明けたことがある。テヘランとヤルタで、同盟国イギリスをもっと支援すべきところ、ルーズベルトはスターリンを面白がらせるためにチャーチルを揶揄した。FDRは英帝国をアナクロニズムと思っていた。イギリスは帝国を護るつもりだったが、その主要同盟国アメリカは、それを潰そうとしていたのだ。
  1956年、イーデンが、国有化されたスエズ運河を取り戻そうとエジプトに出兵したとき、ハロルド・マクミランは、「わたしはアイク(アイゼンハワー米大統領)をよく知っている、かれは動かない筈だ」と言った。イギリス人はアメリカ人をよく読み違える。アイクはイギリスに撤兵を迫った。アメリカにポンドを叩き売ると脅かされ、英国は引き下がった。新しいローマ人は、ギリシャ人を必要としないのである。第2次大戦で、アメリカは連合王国を防禦するつもりだったが、英帝国を護るつもりはなかった。
  チャーチルの、6巻にわたる第二次大戦史の最後の著作「勝利と悲劇」のタイトルは適切である。チャーチルの言葉は不滅である。しかしその行為は国民と世界にとって悲劇となった。フルトン演説の帰途の車中でチャーチルはアメリカ人に述懐した。「もう一度生まれ変われるなら、合衆国に生れたい。お国はこれからの国だ・・グレート・ブリテンは絶頂を過ぎた」。
 1943年、カイロでマクミランと交わした会話がある。「クロムウェルは偉大だが、一つ間違いを犯した。スペインの恐怖に捉われて、フランスの脅威を見逃したことだ、これはわたしにも当てはまるかね?」。
 かれにも当てはまる。チャーチルは偉大だったーしかし、それは自国の偉大さと引き換えになった。
  


  
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