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2009/07/24

Unnecessary War -第14章 (つづき)

勝利の犠牲
 スターリンの犯した罪の数々を知りながら、なぜスターリンと同盟したのか、と訊かれたチャーチルは、「スターリンの目的は、唯一、ヒトラーを打倒することだった。ヒトラーが地獄を侵略したというなら、スターリンは悪魔に良い顔をしようとしただけなのさ」と答えた。
  「いかなる犠牲(コスト)を払っても」ヒトラーを斃す、とチャーチルは言った。しかし、本当にイギリス、英帝国、ヨーロッパの犠牲(コスト)がどれほどになるかを考えていたのか?ダンケルク以後5年の戦争で、その財政的、戦略的、人道的犠牲は天文学的数字になった。まず、世紀の最大の虐殺者に対する、チャーチルの宥和策(アピーズメント)についての人道的犠牲のことを考えてみよう。ヒトラーが対スターリンの戦争を始めたとき、チャーチルは、ポーランドの略奪に加担したスターリンを、聖人の仲間に引き入れた。「ロシアの危険はわれわれの危険、・・そしてアメリカの危険である」。
 1942年、スターリンと初めて会ったチャーチルは、ムルマンスクへの援助船団がいかに損害を被っているかを説明した。スターリンは、イギリス海軍が尻尾を巻いて退却したところを初めて見た、ドイツ人は何もスーパーマンではない、イギリス人は戦うのを怖がっているのだ、と侮辱した。英国が単独で戦っていたとき、スターリンはナチを支援し、英仏の開戦を非難していた。1919年、チャーチルがロシア介入の急先鋒だったことをスターリンは持ち出した。「赦してくれますか?」とチャーチルが言うと、元神学生のスターリンは、「みな過ぎたことです。過ぎたことを赦すのはわたしではなく、神様なのです」、と答えた。
 チャーチルは、スターリンがヒトラーとの協定で略奪したバルト三国のソ連併合に同意した。チャーチルは、ロンドンのポーランド亡命政権から、1940年、ソ連の捕虜であった1万5千のポーランド将校が虐殺された事件の調査を求められたが、無関心だった。1943年テヘランで、チャーチルはスターリンに十字軍の剣を贈呈した。チャーチルは、1944年、ポーランド人に国境変更を求めたが、それはミュンヘン問題そのものを単純な国境変更問題にしてしまうようなものだった。
 1944年9月、ルーズベルトとチャーチルのケベック会談で、ソ連のスパイだったハリー・デクスター・ホワイトが起案した、モーゲンソー・プランが討議された。これが実施されれば、ドイツは完全な農業国となり、数百万の死刑宣告ともなり得る。モーゲンソーは、食えない人口は、連合国の船で北アフリカへ移せばよい、と示唆した。チャーチルは、レンド・リース(武器貸与)第2弾を受けたいのであれば、モーゲンソー・プランを承認せよ、とまで脅かされた。
 ワシントンではこの苛酷なプランに対して大論争が巻き起こった。国務長官のスティムソンは、FDRに、モーゲンソー・プランは大西洋憲章に違反する、と意見を伝えた。ルーズベルトは後退した。
 赤軍の示唆によってワルシャワで蜂起したポーランド国内軍(ホーム・アーミー)は国防軍(ヴェアマハト)に壊滅させられた。その間、赤軍は拱手傍観していただけだった。モスクワに飛んだチャーチルは、スターリンと、ルーマニアではロシア90%、イギリス10%、ギリシャではイギリス90%、ロシア10%とする戦後の権益の取引をしていた。チャーチルのポーランドでのスターリンへの妥協は、ミュンヘンより悪かった。ズデーテンのドイツ人はドイツ復帰を望んでいたが、ポーランド人はソ連を恐怖の的としていたのである。1945年2月のヤルタでは、チャーチルはヨーロッパの半分をスターリンに譲った。3年後、1946年3月5日、ミズーリ州フルトンで、チャーチルは、「バルト海のシュッテッティンからトリエステまで、大陸を鉄のカーテンが覆っている」、と演説した。カーテンは、テヘラン、モスクワ、ヤルタで、かれと、オールド・ベア(熊小父さん=スターリン)とが決めたものだった。

民族浄化と奴隷労働
 ミュンヘンで、チェンバレンは戦いを避け、325万のズデーテン・ドイツ人をドイツに戻すことを了承した。テヘランとヤルタで、チャーチルは1億のキリスト教徒をスターリンの恐怖のもとに引き渡した。さらに、1300万から1500万のドイツ人を父祖の地から追い払うことに同意し、うち200万は、出国の過程で死亡した。チャーチルは、ドイツ人をスターリンの奴隷労働にまかせ、ロシア人、ウクライナ人、コサックの、自らが世紀最悪の汚濁に満ちたアジア的野蛮と呼んだ、スターリン体制への強制帰国にも同意した。ノルマンディ戦で捕虜となっていたドイツ兵のなかで、数千のロシア系兵士が英国の手に渡された。かれらはドイツ軍の制服で戦ったので、1929年のジュネーブ条約に基づく戦時捕虜の規定が適用されるべきところ、チャーチルはロシアに戻した。
 1943年、テヘランでチャーチルは、ポーランドの半分のロシアへの併合を承認した。見返りに、ドイツの東部地方をワルシャワに譲ることにした。1944年10月、チャーチルとイーデンはモスクワのイギリス大使館で、ポーランドのリーダー、ミコワイチクにこれを押しつけた。
 20世紀の悲劇は、チャーチルが「個人的にスターリンと結んだ」点にある、と、A.N.ウィルソンはいう。この個人的関係から、チャーチルは、数百万の戦時捕虜とロシア人の抗議をよそに、ソ連市民であろうがなかろうが、かれらを連合軍占領地域から追いたて、NKVD(秘密警察)のもとに追いやった。 1944年5月24日、チャーチルは、大西洋憲章の諸原理は、敗戦ドイツには当てはまらない、と宣言していた。
 東プロシア、ポメラ二ア、東ブランデンブルグ、シレジア、ダンチッヒ、メメル、ズデーテンランドから、数世紀も住み着いていたドイツ人が容赦なく追い立てられた。チャーチルとFDRは、何が行われているか充分承知していたが、ニュルンベルグで、「人道に対する罪」でドイツ人が裁かれているとき、このような非人道的行為を黙認していたのである。
 戦争が終わったとき、ヒトラーとその邪悪の体制は滅びていた。チャーチルはこれに歴史的な貢献をした。しかし、かれの全生涯の三つの目標、英国の門扉を社会主義に開かない、最愛の帝国を防禦する、ヨーロッパ支配の唯一の力の出現を阻止する‐の達成のすべてに失敗した。かれは、かれが勝利に導いた自国民から解任された。そして、そのために戦争をした諸国民を裏切ったのである。

軍事戦略家として
  チャーチルの伝説的な軍事戦略家という名声も、詳しく見て行くと危ういところがある。1945年8月から1915年5月までの海軍大臣時代、かれは二つの失敗をしている。
 一つは、訓練のできていない海軍陸戦隊による、1914年のアントワープ防禦支援作戦である。数週間のうちにアントワープはドイツ軍に占拠され、船隊は壊滅、終戦まで抑留された。もう一つは、1915年、ダーダネルスの悲劇である。トルコを分断して、コンスタンチンノープルを陥とし、中立のバルカン半島を連合軍に味方させ、ロシアへの援助供給ルートを開こう、としたものである。しかし、ネルソンの、軍艦だけで要塞と戦うな、という教訓を無視して戦闘に入ったため、初日にまず戦艦3隻を失い、さらに3隻が触雷した。英仏、アンザック(オーストラリアとニュージーランド)の陸兵到着が遅れているうち、トルコ軍はガリポリ要塞を強化し、数ヶ月の戦闘で連合軍は20万の兵士を犠牲にした。
 1939年9月、チャーチルは海軍相に復帰し、ドイツのスエーデンからの鉄鉱石輸入を阻止するためノルウェーの中立を侵犯する策を上程した。1940年2月、英駆逐艦、コサックが、ドイツのアルテマルク号の針路を阻んだ。アルテ・マルクは、ドイツ戦艦、グラフ・シュペー号で沈められたイギリス船員捕虜の輸送途中だった。コサックは捕虜奪回の作戦に動いたのである。ヒトラーは、これをイギリスのノルウェー占領の思惑と受取り、先手を打つことにした。4月、ドイツ軍は軍艦を商船に偽装して、オスロ、ナルビックなど、ノルウェーの5港を抑えた。ノルウェー占領はチャーチルが呼び込んだ形となった。しかし、この作戦で責任を取らされたのはチェンバレンの方だった。
 2年後、第二戦線開設をスターリンに迫られたチャーチルは、すでに首相だったが、海峡横断のディエップ上陸作戦を強行した。この戦闘はまさに血の海となり、ほとんがカナダ兵で構成されていた6千名の攻撃隊員のうち、3分の2が死傷した。英空軍は独空軍に3対1で撃墜された。これはカナダ軍事史で最大の惨事となった。
 チャーチルは、潜水艦の役割は陳腐化したと言い、航空機の艦船攻撃の限界も指摘していた。しかし、自らが海軍相だった1939年9月、航空母艦、カレッジアスは、ブリストル海峡で魚雷攻撃で沈められ、翌月、スカパ・フロー基地にドイツ潜水艦の侵入を許し、戦艦、ロイヤル・オークを撃沈された。開戦後9ヶ月で、イギリスは80万トンの船舶を失った。首相就任の初年、イギリスのソードフィッシュ複葉機は、タラント港でイタリアの戦艦群を沈めた。ルーズベルトとの大西洋憲章調印のとき、チャーチルの乗船した戦艦、プリンス・オブ・ウェールズは、1941年12月10日、巡洋戦艦、レパルスとともに、日本の戦闘爆撃機と魚雷攻撃機によって沈没させられた。6ヶ月後、ミッドウェーでは、日本の4隻の空母がアメリカの航空機攻撃で海の底へ消えた。
 
 
 
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