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2009/07/21

Unnecessary War -第14章 マン・オブ・ザ・センチュリー(世紀の人)

 わたしは、自分の信じる原則について、わたしの言葉が与える印象、それに対する人の反応などはまったく意に介さない。
 -ウィンストン・チャーチル   1898年

 ウィンストンにはまったく原則がない。
 -ジョン・モーレイ 閣僚    1908年

 チャーチルは自分の名前を歴史に残すだろう。しかし、それが血染めで書かれないよう注意しないと。
 -A.G.ガーディナー       1913年   「Pillars of Society (社会の柱石)」

  20世紀が終わりを告げるとき、世紀の最大の偉人はだれだったろうか、と論議が起こった。ウィークリー・スタンダードはチャーチルを挙げた。キッシンジャーは疑問を呈したが、2002年のBBCの投票では、チャーチルは、イギリス人の永遠の最偉人とされた。米西戦争、インドのマラカインド制圧、スーダンのオムドゥルマン反乱、ボーア戦争などに、報道員ないし軍人として参画、数々の著作をものし、国際的名声を得た。36歳で海軍相となり、参戦におおきな発言権を持った。ダーダネルス作戦で降板したが、ロイド・ジョージ内閣では陸空軍大臣を務めた。6巻にのぼる第二次大戦回顧録は、ヘミングウェイをさしおいてノーベル文学賞を得た。あるかれの伝記は、単に「ザ・グレート・マン(偉人)」というタイトルがつけられている。かれの伝説はどこにあったのだろうか?

装甲列車
 チャーチルを有名にしたのはボーア戦争である。生涯にわたる、かれへの毀誉褒貶はここから始まった。モーニング・ポストの記者として従軍したチャーチルは、前線偵察のため装甲列車に兵士とともに乗車し、ボーア支配地区にでかけた。騎馬隊の掩護もなかったので、あっさりと攻撃を受け、捕虜になった。この偵察はきわめて無暴だったが、ここから脱走したことが大々的に報道され、一躍時の人となった。26歳で国会議員となり、2回ほどの短期欠場期間を除いて、64年間議席に座った。1904年、政権掌握前夜の自由党に移籍し、論功行賞で内務相、海軍相のポストを貰った。
  自由党からは成り上がり者、保守党からは逃亡者とみられ、評判は芳しくなかった。他人の話をあまり聞かず、自分は大声で演説した。華やかさは認められていたが、その判断には疑問が持たれた。1924-29年、第2次ボールドウィン内閣で蔵相を務めたが、1935年、ボールドウィンの第3次内閣では外された。チャーチルは移り気だと見なされたのである。金本位復帰という蔵相時代のかれの決断は、海外市場の価格と折り合わず、英国の輸出品を過大評価する結果となった。1926年のゼネストの原因となり、恐慌を深化させ、1929年のボールドウィン内閣の退陣につながった。ケインズは、「平和の経済的帰結」の続編として、「チャーチル氏の経済的帰結」という本を書いた。
 ガンジーが釈放されて、インド副王(総督)とデリーで会見したとき、議会でガンジーを誹謗した。「インドに独立を与えるなど、文明に対する罪である、世界の破局につながる」。シンプソン夫人をめぐるエドワード8世退位問題では、譲位に反対した。

全盛期 
 チャーチルを、なぜ、世紀の人とするのか?
 答: かれは西欧文明を救うのに不可欠の人物だったから。チャーチルがいなければ、1940年、イギリスは、ヒトラーの和平提案に応じていただろう。となると勝ったヒトラーは、矛先をロシアに転じこれを叩き潰す。世界はかれの足元にひれ伏すkとになる。1940年6月から1941年6月まで、イギリスのブルドッグは単独でドイツに立ち向かい、ヒトラーが致命的な失策ーソビエト侵略と対米宣戦、を冒すまで持ちこたえた。
 チャーチルを世紀の人に仕立てるのは、1940年の業績だけである。1940年5月10日、ドイツがフランス侵攻に取りかかった日にチャーチルは首相となり、ダンケルクの奇跡の撤退を演出し、世紀に残るバトル・オブ・ブリテンを戦った。もう一度人生を繰り返すとすればいつが良いか、と後日聞かれると、チャーチルは、「1940年、とにかく、とにかく1940年だ」、と答えた。しかし、ダンケルクの少し前、チャーチルもヒトラーとの和平を考えたこともある。外相のハリファックスは、当時参戦していなかったムソリーニを仲介する案を考えた。マルタ、ジブラルタル、アフリカ領土をいくつか譲れば、英帝国は保持できると考えたのである。しかし、チャーチルは、ヒトラーは英艦隊、海軍基地を要望し、わが国を奴隷国家にしてしまうに違いない、と5月28日、戦争内閣で発言し、和平案を一蹴した。
 しかし、フランス艦隊も手中にしなかったヒトラーが、英海軍を寄越せ、と言っただろうか?奴隷国家にするという証拠があったろうか?1940年6月、フランスが降伏した頂点で、ヒトラーは、英帝国の存続を願っていたのである。戦争を終わらせたかったのだ。チャーチルは和平への誘惑を断ち切って、戦争続行を決断する不可欠の人物となる道を選んだ。

必要不可欠な人物 
 チャーチルは、ヒトラー打倒に真に不可欠な人物だったろうか?
 1939年9月1日、ポーランド侵攻の数日前、ヒトラーは、ダンチッヒ危機を、英国と交渉で解決すべく、24時間以内に到着するよう、ベルリンにポーランド全権を招んだ。これは英国との戦争回避の真摯、かつ絶望的なヒトラーの努力だった。ワルシャワ陥落後、10月6日に、ヒトラーは英仏に和平提案を行った。10月12日、英仏はこれを拒否した。そして、1940年6月、フランス降伏後、ヒトラーは再度、終戦の提案を行ったのである。戦争の迅速な解決がドイツ国民の利益になる、ヒトラーは、エリッヒ・レーダー提督に語った。
 7月22日、イギリス外務省は、正式にヒトラーの和平提案を拒絶した。この回答に接し、ヒトラーは今後の方策をめぐらした。英国侵攻か、アイスランドまたはアイルランド侵入か、アゾレス、ケープ・ヴェルデ、カナリア諸島、ジブラルタル占領か、それともトルク、シリア経由でスエズを押さえるか。ヒトラーの結論はロシアだった。ジョン・ルカッチはいう、1941年のロシア攻撃は、生存圏獲得でも、ユダヤ人ボルシェビズム撲滅でも、ソ連の攻撃に対する先制でもない、これは英国の最後の望みを潰す試みだった。英国の希望はロシアとアメリカであり、ロシアが除去されれば、アメリカも出てこない。7月26日、ヒトラーは、翌年春にソ連を攻撃することをアルフレッド・ヨードル将軍に伝えた。12月18日、バルバロッサ作戦の指令が発された。
 1940年11月、ルーズベルトは再選され、合衆国の対独臨戦態勢が取られ始めた。ヒトラーは周囲の将官に、「ロシア打倒が唯一英国を屈服させる道筋だ」、と説いていた。
 こうしてチャーチルの和平拒絶が、ヒトラーのソ連攻撃を惹き起こしたといえる。戦争はそのあと4年間続いた。数千万の人命が奪われ、ヨーロッパ大陸は荒廃した、そしてヒトラーも自壊した。ヒトラー帝国の破滅と、1940年から1945年までの戦争の継続について、チャーチルはたしかに必要不可欠な人物だった。
 しかしそれは価値あることだったのか?1940年、バトル・オブ・ブリテンのあと、または1941年、ロシア侵攻のあとに戦争が終わっていれば、英国は、もう少しましな立場におかれていたのではなかろうか?4ないし5千万の生命は、ヒトラー、ヒムラー、ゲッベルスのナチ体制を打倒することと果たして引き合ったのだろうか?   

 
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