--/--/--

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
スポンサー広告
2009/07/18

Unnecessary War -第13章 ヒトラーの野心

 ヒトラーの一番やりたくなかったこと、それは次の大戦だった。
 -B.H.リデル・ハート

 一つ、ヒトラーが考えていなかったことは、大戦である。しばしば、かれの所為にされているが。
 -A.J.P.テイラー


 1933年にヒトラーが政権を掌握したとき、ミュンヘンのビア・ホール一揆(プッチ)のことや、マイン・カンプの著者であることを知っているものは、その好戦性を警戒した。国会議事堂放火事件後の共産主義者の大量逮捕、ダッハウの強制収容所建設、SSの長いナイフの夜事件などで、新しいドイツの性格もわかってきた。しかし、この章では、ヒトラーが残忍、無慈悲で、スターリン、毛沢東、ポルポトに匹敵する野蛮人として紹介するのが目的ではなく、西側との戦争をヒトラーは果たして模索していたのか、を検証してみたい。1939年に至るまで、数々の危機におけるかれの対応を見るに、答は「ノー」となる。
 1934年、オーストリア・ナチのドルフース暗殺で、ムソリーニと対決しそうになったとき、ヒトラーはヒステリックにその関係を否定した。1936年、ラインランドに軽武装の3大隊を送り込んだとき、フランスの抵抗あれば即時撤退せよ、と命令した。生涯で「最高にナーバスになった瞬間」と述懐した。1938年3月、オーストリアの危機は、ヒトラーが招いたものではなく、シュシュニクの慌てた国民投票がきっかけとなった。ムソリーニが介入しないと伝えたとき、ヒトラーはそれに感激した。1938年、ゴーデスベルグ会談で、ヒトラーがチェコ侵入の脅しをかけたとき、英仏、チェコが動員開始した。そのときヒトラーはチェンバレンに弁明書を出して、平和の模索の継続を要請した。ムソリーニのミュンヘン会談案に飛びついたのはヒトラーだった。1939年8月、リッベントロップ=モロトフ協定のあと、チェンバレンがポーランドとの同盟関係を再確認したとき、ヒトラーは驚いて英国との戦争を避けるため侵入計画を1週間延期した。9月3日、イギリスの最後通牒に接し、「これは何だね?」と言った。世界を征服するつもりなら、唯一の頼りになる同盟国、ムソリーニが鋼鉄条約から抜け出したあと、どうやって戦うつもりだったのか?ヒトラーはまったく英国と戦争するつもりはなかった。ロイヤル・ネイビーの1/3で満足する英独海軍協定どおりの考えである。英帝国の廃絶ではなく、同盟を望んでいたのである。1939年8月、ドイツの将軍たち、国民、みなそれを望み、ヒトラーもうまく交渉できると思っていた。これでかれが世界征服を企んでいたといえるだろうか?実際に、どんな段取りがヒトラーの頭のなかにはあったのだろうか?

ヒトラーの野心
  ヒトラーの企みについては議論が分かれるところである。 あるものは、まずヨーロッパを収め、イギリスを手中にして海空のアルマーダ(大艦隊)を作ってアメリカと決戦し、世界支配を狙った、という。あるものは、ヒトラーの関心は、東方にあっただけ、という。全員が一致するのは、①まず、ドイツ国内での権力確立、②ベルサイユ条約の廃棄による平等な地位の回復、とくに再軍備、③ベルサイユで分断された領土の回復、ドイツ人の帝国への復帰、④新しいドイツ帝国の領土獲得のための「ドランク・ナッハ・オステン」(東方進出)、⑤ユダヤ人、ボルシェビズムの浄化、そして自ら、フレデリック大王、ビスマルクに匹敵する歴史上の人物になること、の諸点である。
 反ユダヤ主義は、マイン・カンプのときから、一貫した主張であった。かれにとって、ユダヤ人と共産主義者は同じものだった。しかし、ヒトラーは政権掌握後、レーニン、スターリンと同じように、イデオロギーを国益の下においた。1939年8月の独ソ条約、1941年の独ソ開戦はいずれもイデオロギーによるものではない。

敗北の教訓
  1918年の敗戦を、ナチのプロパガンダが喚くように、「11月の犯罪人ども」とか「背後の一突き」の所為と考えるほどヒトラーは愚かではなかった。フランスでの敗戦は、ロシア戦線での勝利の果実を持ち去ったのみならず、苛烈なベルサイユの押しつけのもととなった。ドイツは二度と二正面の戦争をしてはならない、これがヒトラーの引き出した教訓の第一だった。 
 第二は、戦争が長引くにつれて、ドイツの国力は潜在的な敵に比較して弱くなるという点である。人口は、オーストリア合邦とズデーテンのドイツ人を編入して8千万、ちょうど英仏合計に相当するが、英帝国を考えると、その人口は4億5800万、ソ連は、1億9700万なのである。それにアメリカ人は1億4千万だった。面積のことを考えればまったく問題にならない。資源と生産性からしても世界戦争を戦えるわけはない。ヒトラーは、カイザーの外洋艦隊も愚行と考えていた。それは1904年の英仏協商を生んだ。大戦ではイギリスの海峡横断軍を阻むこともできず、植民地も護れなかった。
 ここから三番目の教訓が出てくる。ドイツは、アングロ・サクソンの海軍力から植民地を防禦できない。新しく戦争を始めるなら、その前に自給自足(オータルキー)を確保しなければならない。ドイツは輸入に頼ってはいけない。
 ヒトラーの結論。海外領土は防禦不能、したがって新しいドイツは、アフリカ、アジアではなく、中欧、東欧に築かねばならない。マイン・カンプにもこのことは記載されているが、それ以前から、ドイツの救済は唯一、ボルシェビズムの破壊からしかあり得ない、と述べている。(イアン・ケルショウ)

ヒトラーの夢想の同盟 
  ヒトラーは、ローマとの同盟のために南チロルを売った。アルザス=ロレーヌの権益は放棄した。陸軍の信頼を得るため、旧友の抹殺に加担した。かれは、「手段について最高にプラグマティック(実際的)で・・必要とあれば、いつでもイデオロギーを捨てる用意が」あった。海外政策については、歴代の為政者に比べればずっと穏健で、アフリカの失地回復など唱えなかった。
 ヒトラーは、英国民と英帝国を賛美し、その植民地を手に入れる、ロイヤル・ネイビーに対抗する艦隊を持つ、といった考えはなかった。 マイン・カンプでも、ドイツのヨーロッパにおける同盟国は二つ、英国とイタリアだけだ、と言っている。カイザーの大失敗は、イギリスとロシアと同時に戦ったことだ。イギリスは本来の同盟者である。植民力、商業力、海軍力にすぐれ、ヨーロッパ大陸における領土的関心はない。イギリスとの戦いの最中(さなか)でも、ヒトラーは英独同盟の夢を持っていた。ダンケルクでの「停止命令」も、英独関係の決定的悪化を避ける措置だった。
 フランス降伏後の1940年6月25日、ヒトラーは、ゲッベルスに英国との和平条件のとりまとめを命じた。英帝国は保持する、しかし、イギリスは、ソールズベリー卿の「光栄ある孤立」の政策に戻り、ヨーロッパのパワー・ポリティックスから手を引くこと、がその条件だった。バトル・オブ・ブリテン(ロンドン爆撃)続行中の1940年8月14日、ヒトラーは、空軍将官に訓示した。「イギリスを壊滅してはいけない。それで得をするのは、ドイツではなく、東では日本、インドでロシア、地中海でイタリア、そして世界の貿易でアメリカ、である。英国と和平を望む理由である。しかしチャーチルが首相であるかぎりは攻撃する。ルフトワッフェ(ドイツ空軍)がどこまでできるか、イギリスの総選挙を待とう」。ロンドン爆撃は、イギリス上陸の準備ではなかった。チャーチルを追い落とすためだったのである。英帝国を破滅する考えなくして、どうしてヒトラーが世界制覇を目論んだといえるだろう。シンガポール陥落の第一報を聞いたとき、ヒトラーは。「さきざきの世紀を考えると、・・イエロー・ペリル(黄禍)が大問題としてのしかかってくるだろう」、と言った。

海軍
  イギリスと戦うつもりであれば、それに匹敵する海軍を構築する必要があるだろう。ヒトラーはそれをまったくしていない。「海軍?何のために?」、1936年、かれは言った。「海軍力で力のバランスが変わるようなヨーロッパの戦争は考えていない」。1939年9月1日のドイツの海軍は、古い戦艦2、巡洋戦艦2、ポケット戦艦3、巡洋艦8、駆逐艦22・・Uボートは57、うち大西洋で行動できる性能を持つもの26、うち、同時に配備できるもの8-9隻だった。1935年、英独海軍協定で許容される範囲の隻数すら建造していなかった。ミュンヘンのあとも、提督たちには、英国と戦争しないと言い続けていた。英国攻撃をするつもりならば、兵員輸送船、上陸用舟艇、戦車、大砲の積載船、護衛艦などを作らねばならなないが、ヒトラーは何もしなかった。

東方への視線
 ヒトラーが西側への攻撃を意図していなかった別の証拠がある。カイザーはベルギーを経由するシュリーフェン・プランという攻撃計画のみを策定し、国境防禦の考え方をまったく持たなかった。一方、ヒトラーは、3年半の年月、延べ数千万労働時間をかけ、巨額を費やしてジーグフリード・ラインを構築した。フランス侵入を考えていたら、どうしてこんなことにカネをかけたのか?1939年10月6日、ポーランドが降伏すると、ヒトラーは英仏に「和平提案」を行った。それは即時拒絶された。
 イギリス戦艦、ダンケルクがUボートの射程距離に入ったとき、ヒトラーは攻撃命令を避けた。フランスを蹂躙したあと、ピレネーで止った。フランコに、スペインを通ってジブラルタルを攻めたい、と申し出たとき断られ、あっさりと引き下がった。フランスが降伏したとき、世界4位のフランス海軍をドイツに寄越せ、と言わなかった。1918年、ドイツは海軍を召し上げられていたのだ。ダンケルクでイギリスが容易に撤退できるよう、機械化部隊に「停止命令」を出した。1940年、アルザス=ロレーヌを再併合したときも、フランスに課した講和条件は、1919年、ドイツに押しつけられたものより遥かに緩やかだった。
 1939年8月10日、ポーランド攻撃の3週間前、ヒトラーは、スイスの外交官で国際連盟高等弁務官の、カール・ブルックハルト博士と狼の巣で会談した。「わたしは直接ロシアを攻める。もし西側が馬鹿なことをすれば、ロシア人と了解を取って、まず西を叩く。そして全力でソ連と戦う。前回の戦争のように国民を飢えさせるわけには行かない、わたしはウクライナが欲しい」、と言った。そこまでヒトラーが手の内を明かしたはずがない、という説もあるが、キッシンジャーは、これが明白なヒトラーの段取りだった、と言っている。ビスマルクは、ロシアと良好な関係を保っていたが、究極の目的に差異はない。ヒトラーの要求している土地は、1918年の講和(アルミスティス)の日現在ではドイツのものだったのである。1917年、独墺軍がカポレットのイタリア軍戦線を破り、ボルシェビキがペトログラードで権力を握ってドイツに講和を申し出てきたとき、英国政治家のあるものは終戦を希望していた。そして、カイザーが、アフリカと太平洋植民地を手放し、ベルギー、フランスをもとに戻すのであれば、ウクライナを含めた東方を与えよう、と示唆していたのである。端的に言って、1939年にヒトラーのドイツに拒絶した東欧の同じ土地を、1917-18年に、カイザーのドイツには与える用意があった、ということだ。ヒトラーは、暗黙の取引で、ベルサイユで奪われた、マルメディ、オイペン、アルザス、ロレーヌを戻せという姿勢を見せていない。かれは、ウィルソンの自決原則に反してチェコとポーランドに与えられたドイツの領土と国民を戻せ、と言っているだけなのだ。東への介入をしなければ、ヒトラーはライン川の西を民主主義国にまかせるつもりだった。なぜ英国がこれを否定するのか、ヒトラーの理解できぬところだった。
 連合国が、東でのヒトラーのフリーハンドを認めず、ポーランドの行動に対して戦争をしかける、と脅かしたとき、ヒトラーはスターリンと結んだ。スターリンは快く応じ、それからの2年間、戦車、航空機、大砲を製造し、徴兵して、レニングラード、モスクワ、スターリングラードでヒトラーを押し止める体力を養った。イギリスの外交的失敗は、西欧の蹂躙と、東欧におけるスターリンの安全に役立っただけだった。

ヒトラーは世界を手に入れたかったのか? 
 ヒトラーはロシア壊滅のあと、西に向かい、フランスを蹂躙してイギリスを封鎖する。そして合衆国と対峙する。アメリカは徒手空拳で、ナチ・ドイツと日本に対抗しなければならない。多くの英国の政治家はそう考えた。しかし、考えてみれば、チェコで衛星化された地域は、もともとオーストリア=ハンガリー帝国のものだった。それが世界支配の始まりといえるだろうか?20世紀の英国のエリート層には常にドイツ嫌いが蔓延していた。カイザーは、「大陸の暴虐者」で「世界支配」を企む、とされていたが、本人は25年の治世で、まだ戦争をしたことはなかったのだ。
 ヒトラーは、4年間で、GNPを37%伸ばし、600万の失業者を100万に減らした。自動車生産は、年間4万5千台が、25万台になった。都市と地方の財政赤字は消滅した。1936年11月、チャーチルは、「ドイツは強くなりすぎた、潰さなければ・・」、とお客のアメリカ人、ロバート・ウッド将軍に言った。しかし、ドイツが世界支配を企むにしては、1939年の軍需生産は、とてもフル稼働とはいえぬ状況だった。

アメリカは重大な脅威に直面していたか?
アメリカにとって、最大の危機がいつだったか、と問われれば、それは1940年夏、フランスが降伏し、イギリスが侵入されようとしたときだったろう。しかし、RAF(英空軍)は、バトル・オブ・ブリテンでゲーリングのルフトヴァッフェ(独空軍)を敗ったあと、ドイツのアメリカ攻撃は神話となった。1943年に、ヒトラーは、アメリカ海軍に対抗するため、「Z計画」という大艦隊建造計画を策定したが、これはコミック本の世界の話だった。
 ヒトラーは、ビスマルク、ティルピッツの2隻の戦艦を建造したが、前者は処女航海で沈没し、後者はノルウェーのフィヨルドにこもったままだった。世の中は航空母艦の時代を迎えていた。ドイツもグラーフ・ツエッペリン、ペーター・シュトラッサーという航空母艦2隻の建艦を計画したが、「航空機パイロットは艦上離着陸の経験が」なく、またUボート生産計画が優先されて建艦は中断された。いずれにせよ1千隻の軍艦を擁する米海軍に比べれば、ドイツ海軍は児戯に等しかった。 

ニューヨーク・ボンバー(爆撃機) 
 1939-40年、ヒトラーが、大西洋を無着陸で往復し、アメリカ本土を爆撃できるメッサーシュミット・264、通称アメリカ・ボンバーないしニューヨーク・ボンバーと呼ばれる爆撃機の製作を命じたと言われる。5トン爆弾を積んで東部まで、軽爆弾で中西部、偵察飛行で西海岸まで巡航可能という。時速480キロで西海岸を往復すると40時間かかる。現在でもこんな飛行機はできていない。戦争が終わるまで、ドイツ空軍は4エンジンの重爆撃機を持っていなかった。アメリカのB29は1回の空襲で、ルフトヴァッフェがイギリスで殺した合計人数以上の民間人を殺している。戦争全期間を通じて、北米、南米大陸にドイツの爆弾は1発も落ちていない。
 バトル・オブ・ブリテンが始まった頃、イギリスの戦闘機数はドイツより劣っていた。しかしパイロットの熟練の差で、2対1で相手を撃墜した。ゲーリングの工場が775機を製造している間、イギリスは、1900の新しいハリケーンとスピットファイアを生産していた。
 歴史家は、ドイツが合衆国攻撃のために、カナダとラテン・アメリカに出兵する、という証拠を探しているが、それは無駄な努力になっている。人員、戦車、航空機、武器輸送のための計画はみつかっていない。ロング・アイランドとフロリダに、ナチは8名のスパイを潜水艦で送り込んだが、全員検挙され、秘密裁判でうち6名は処刑されている。
 FDRは、ヒトラーが中南米を征服し、ナチ支配の5ヶ国に分割する計画がある、と警告した。これは何としてでもアメリカを参戦させようとしたチャーチルが送った、でっちあげのプロパガンダによるものである。ナチ文書が押収されたあと捜索されたが、西半球に進出するという計画はまったく残っていない。

ナチズムと共産主義 
 ナチのイデオロギーの非人間性と邪悪はスターリ二ズムに匹敵する。チャーチルは、1940年6月、ナチズムは共産主義より悪質である、英国が屈服することでもあれば、アメリカを含む全世界が暗黒の時代を迎える、とスピーチした。しかしこれには議論のあるところである。
 アメリカの文化人、知識人社会には共産主義が浸透していた。ルーズベルト政権は、ソ連のスパイ、共産主義者、同調者に食い込まれていた。1944年に、ヘンリー・ウォーレスが大統領になっていたら、ハリー・デクスター・ホワイトが財務長官に、ローレンス・ダガンが国務長官に就任していただろう。二人ともソ連のエージェントだったのだ。
 イデオロギーとしては、ナチズムは共産主義に比べればずっと狭量だった。それは「白人至上主義」のみならず、「アーリアン至上主義」である。共産主義は、植民地奪回、ヨーロッパ支配打倒 をめざすすべての人種、すべての大陸住民に訴えるものがあった。アメリカ人にとって、ヒトラー、ムソリーニはチャップリン的な滑稽な人間と映ったのに対して、レーニン、スターリン、トロツキーには追随者や賛美者がいた。
 ヒトラーはナチズムの優位を信じていたが、他国に輸出することは考えていなかった。スターリンは、従属国には有無を言わさず、そのイデオロギーを押しつけた。 独ソ戦でどちらが勝つか?ヒトラーが勝てばファシズムの勝利だし、スターリンが勝てば共産主義の勝利となる。しかし、米国にとってより脅威となるのは共産主義の方である。それは民主主義の仮面を被っているだけに大勢にアピールし易い。ソビエトが崩壊したあとになっても、マルキスト的信念とイデオロギーは、形を変えて人々の心のうちに忍び、常に表れてきているのである。
 とはいえ、ナチスがまったく脅威でなかったわけではない。ビスマルクやティルピッツを建造せず、潜水艦や磁気機雷製造に集中していたら、英国港湾とドックを攻撃できる4エンジン爆撃機を開発していたら、英国は和平を申し出ていたかも知れない。しかし、ドイツはロイヤル・ネイビー、英連邦、合衆国を打倒できなかった。基本的に陸軍国であったが、ナポレオンと違い、エジプトを征服せず、モスクワを攻めきれず、スペインも占領していなかった。ヒトラーは、その再軍備を誇張していた。民間消費の削減にも踏み切っておらず、1943年まで、生産力はフル稼動していなかった。ヒトラーは・・・明らかに電撃戦に賭けていたのだ。
 1940年5月16日、ドイツ軍がアルデンヌを越えたとき、FDRは放送で、年間5万機の航空機製造をよびかけた。アメリカの潜在生産力は、イギリス、ドイツとは桁が違っていた。1941年夏、ドイツ軍はレニングラード、モスクワ、コーカサス進撃の途上にあった。ヒトラーは中東に進み、シベリア鉄道またはインドを経由して日本と結ぶことを夢みていた。真珠湾攻撃の4週後、かれは夢からさめ、日本の大使に打ち明けた、「アメリカを負かす手立てはまだみつからない」。1942年1月10日、イギリスは孤立していた。ドイツ軍は深くロシアに侵入していたが、ヒトラーは、「アメリカと対決したら、終わりまで手を出さないのが一番だ」、と言った。アルフレッド・ヨードル大将は、ナチ降伏のあと、「1942年初めの絶頂点から」、ヒトラーは、「もう勝ちめはない」ということを認識していた、と語った。真珠湾の7週あと、ヒトラーは第三帝国の自滅を考え始めた。
   
 
  
スポンサーサイト
未分類 | Comments(0) | Trackback(0)
 | HOME | 

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。