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2009/07/09

Unnecessary War -第9章 致命的な失策

 独裁者たちには、かれらの不満の再考を訴える充分な理由があった。わたしが表に出てからあとは、うまく要請したのだったら、すでにいくらかは満足していたはずだった。
 -ネビル・チェンバレン   1939年2月


 現実政治の観点からは、ズデーテンのために戦わない、というのは妥当だったのだろうが、道徳的なイギリス人としては、ミュンヘンに、いささかうしろめたいものが残った。世論はドイツに厳しくなった。パリのドイツ大使館員がユダヤ人の亡命者に射殺された事件がきっかけとなって、ドイツで、11月9-10日の夜、水晶の夜事件として有名な、ユダヤ人商店の略奪、シナゴーグの放火、袋叩き、リンチ、中世以来最大のユダヤ人虐殺事件が起こった。これは宣伝相のゲッベルスが仕かけたものだが、暴徒は罰せられなかった。イギリスのムードは、一戦やむなし、という方向に傾いた。水晶の夜は恥ずべき罪であり、歴史的失策だった。

ポーランドの順番
 ヒトラーは次の手を考えていた。1938年10月、リッベントロップは、ポーランドに対し、ベルサイユ条約で国際連盟管理に委ねられた旧ドイツ領ダンチッヒ(住民の95%はドイツ人)の返還、ポーランド回廊を横断する高速自動車道と鉄道の建設を申し入れた。この合意のもとに、ベルリン=ワルシャワ枢軸を構成し、反コミンテルン協定の締結を目論んだのである。過去、1920年、トロツキー軍を撃退して勇名を馳せたポーランドのピウスツキ元帥は、夙にナチの危険性を察知して予防戦争なども考えていたが、同盟国、フランスの不作為に嫌気がさして、1934年、期限付きの不可侵条約をヒトラーと締結していた。ヒトラーは、反ロシアのポーランドを、新秩序のパートナーにできると思っていた。
 有能で知られるポーランドの外相、ベックはこの申し入れを断った。赤軍を撃退して以来、ポーランドは自らを列強の一員と任じていた。ヒトラーは、1939年1月、ベックをベルヒテスガーデンに招いた。ダンチッヒは返還されても経済的管理はポーランドに委ねる、ポーランドの国境を保証する、回廊は永久にポーランドに任せる、ダンチッヒの補償はスロバキア領土を割愛する、など穏健な要請に終始したが、ベックは頑強に反対した。
 ドイツ、ポーランド、ハンガリーはチェコスロバキアの残りの領土を蚕食した。スロバキアとルテ二アは独立したがっていた。3月、スロバキアは独立を宣言し、ルテ二アが続いた。チェコは解体された。ルテ二アは、ヒトラーに示唆された、もとの所有者、ハンガリーにただちに占領された。プラハの犠牲において、ヒトラーは、ハンガリー、スロバキア、ポーランド、ソ連に恩を売った。ポーランドは、石炭埋蔵量の豊富なテッシェンを得た。ソ連に敵対するウクライナのナショナリズムを抑える意味で、ルテ二アの処理は重要だった。ここに独ソ提携の一つの萌芽が見られる。
 3月15日、ヒトラーはプラハに入城した。歴史家はヒトラーのチェコ侵入を以て、転換点と見る。ここでヒトラーは、非ドイツ人をドイツ統治下におく道をたどり始めた。ドイツ軍は、ポーランドの動きに備えて、戦略拠点、オストラバを占拠した。ミュンヘンは葬られた、ヒトラーはルビコンを渡った。これはヒトラーの熟慮された長期計画の始まりとみる見方もあるが、意見の分かれるところである。いずれにせよこれはヒトラーの失策で、不必要な出来事だった。これで、ベルサイユの是正に同情的だった英国政治家との架け橋を自ら焼き落としてしまった。スコダの兵器工場は手に入れたが、英国という手厳しい敵を作ってしまった。

チェンバレンの回れ右
  チェンバレンはしばらく宥和政策を固持した。チェコの国境保証は、協定の相手国が消滅したので、その義務は解消した、と議会で報告した。しかし、反対論が少しずつ動き始めた。ハリファックスは対独姿勢を変えるべきだ、と主張しだした。
 3月16日、ルーマニアのロンドン駐在公使、ヴァージル・ティリーが外務省を訪ねてきて、ナチがハンガリーを攻め、チェコスロバキアと同様にルーマニアをドイツ化しようとしている、という秘密情報がある、と伝え、防衛のため1千万ポンドの借款を要求した。実際はこのようなドイツの動きはなかったのだが、英国政府はティリーを信用した。
 3月17日、チェンバレンは、これまでの姿勢を変えて、ヒトラーはミュンヘンでの個人的信頼を裏切った、最後の領土要求と言ったのはウソだった、と指弾するスピーチを行った。ダラディエとチェンバレンは、英仏ソとポーランドの4ヶ国で、対独統一戦線を構築する計画を立てた。これに水を差したのは、ポーランドのベックである。ポーランドはドイツよりソ連を恐れていた。ドイツ人には、自由を奪われる懸念があるが、ロシア人には、魂を奪われる。
 リトアニアは1923年、東プロシアから、15万のドイツ人が居住するメメルを手に入れた。リッベントロップは最後通告をリトアニアに出し、メメルをドイツに戻さないと電撃戦をする、と脅した。リトアニアは、3月22日、ドイツに再併合された。ヒトラーは船酔い気味になりながら、ポケット戦艦、ドイッチェランドでバルト海を渡り、群衆の歓呼に迎えられた。3月26日、ドイツとポーランドのダンチッヒをめぐる交渉が決裂した。ヒトラーは秘密指令で、ポーランド問題を武力で解決しない旨、示達していたが、ここでもルーマニアのときと同じように、ナチがポーランド侵攻を企てている、という偽情報が英国に齎された。伝達者は、26歳のニューズ・クロニクルのベルリン駐在員、イアン・コルヴィンで、かれはヒトラー体制の内部に深く侵入している、という触れ込みだった。
 3月31日、チェンバレンは、20世紀最悪の過ちとなる宣言を下院で行った。「ポーランドの独立を明白に脅かす数々の事柄に鑑み、陛下の政府は、ポーランド政府にあらゆる支援を即時に行う、またこのことを保証する」。宣言はハリファックスが起案した。ロイド・ジョージは、これを、とんでもないギャンブルだ、と言った。チェンバレンが、これでヒトラーを妨害するのだ、と言うと、ロイド・ジョージは一笑に付した。リデル・ハートは、これで戦争は不可避だ、としてチェンバレンに抗議し、タイムズの軍事記者を辞任した。チャーチルは一旦、ポーランドの維持と統合の大義を認めたが、保証が白地手形であることを見て、英仏はポーランド人以上にポーランド人になることはない、ポーランドは互いの幸せのために、ダンチッヒと回廊を返還した方が良い、と言った。しかし、西欧の二大民主国の保証を手にしたワルシャワには、今や返還の意思は毛頭なかった。
 1939年3月に至るまで、チャーチルは砂上に線を引き、ドイツがここを越えたら戦争をしかけよう、とチェンバレンをけしかけていた。後年、1948年になって、チャーチルは、あのときどうしたらポーランドを護れたか、保証を実行できたかわからない、戦争保証がたしかに何千万の人々の虐殺につながったことは否めない、と自身に責任ないかのごとく回想している。チャーチルは1939年春、なぜ保証を支持したのか?「血を流さず、容易に勝てる戦いができるときに戦わないとすれば、分の悪い場面で、一か八かの戦いをせざるを得なくなる。奴隷になるより滅びた方がまし、という勝利の見込みのない戦いをしなければならないときがくることもあり得る」、という答をしている。
 しかし、この言い方もおかしい。当時イギリスは、のっぴきならない立場にいたわけではない。ヒトラーは英国人を奴隷化する意思など持っていなかった。ダンチッヒの交渉がまとまらなければ奴隷化されるのはポーランド人だった。実際、10年のナチの占領のあと、半世紀にわたってスターリンの奴隷となった。死に体の首相に戦争保証の発行を急がせたのはチャーチルだった。そしてチェンバレンは、イギリスが東方に決定的な権益がないにもかかわらず、史上初めて、東欧に戦争保証を発行した英国首相となった。ドイツとポーランドが戦争状態になったとき、イギリスは回廊に兵士を送れるのか?第一次大戦で、英仏露伊日米が連合軍を組成しても、ドイツのパリ占領を阻止できなかった。今、露米がなく、日伊が敵方にまわり、英仏だけでどうしてドイツのワルシャワ侵入を防げるのか?ポーランドの戦争保証は、ミュンヘンに次ぐ愚行であり、ここでも英国は、「不必要な戦争(アンネセサリー・ウォー)」に引きずり込まれたのである。

英国はなぜそれをしたのか
 なぜチェンバレンは、イギリスに国益のない東欧に史上最初の保証を与えたのか?ミュンヘン協定は虚仮(こけ)にされたと、トーリー議員から嘲笑されるのを恐れたようである。ロイド・ジョージは、この気まぐれな保証を、馬鹿にされたことに対する即物的な反応と見た。このような保証はロシアの軍事的支援がなければ成り立たない、という意見だった。
 チェンバレンは、戦争保証は、ポーランド、ドイツの取引を阻止し、ヒトラーも、英国に55個師団の側面援助を与える二面作戦を考え直すだろう、そして、チャーチル、ロイド・ジョージ、労働党が押しつけようとしているスターリンとの同盟を避けることができる、と考えていた。保証の仕かけ人はハリファックスだった。ハリファックスは、英国のヨーロッパ、世界における優位を失うことより、戦争を選ぶ、という考えだった。ドイツに対してポーランドが勝てるとは見ていなかったが、Holy Fox(聖なる狐、Harifaxの綽名)は、列強の道義を優先したのである。

チェンバレンは誤解したのか?
 チェンバレンの保証が意味するものは何だったのか?イギリスが、ダンチッヒとか回廊のために戦う、という趣旨のものではなかった。それは、「明白にポーランドの独立を脅かす」攻撃に対する保証だった。宥和政策(アピーズメント)が死んだわけではない!チェンバレンは第二のミュンヘンを狙っていた。イギリスは、ダンチッヒを還させ、道路、鉄道を回廊を横断して建設させることに反対したわけではない。独立国ポーランドを破砕する試みに対して銃を執る、これが保証の意味するところだった。
 しかし、この辺の外交的デリカシーはヒトラーに通じなかった。ニュースを聞いたヒトラーは、「煮え湯を飲ませてやる」と叫んだ。ポーランド人自身も、ダンチッヒを決して返さない、という決意を固めた。

戦争保証に替わる手段
 ほかに英国のできることが何かあっただろうか?首相は馬鹿にされた。ミュンヘン協定は紙くずとなった。ヒトラーは、非ドイツ人にもナチ体制を押しつけ始めた。1939年、英仏は、どこか東欧の国を救済する手段を持っていなかった。 
 半世紀後、W.H.チェンバーリンは、「東欧は防衛不能とし、ヒトラーの東方進出にまかせておけば、必ずやスターリンと紛争になっただろう」、と論じた。ハンソン・ボールドウィンもこの意見を支持し、「共産主義、ナチズム双方が疲弊し、民主主義優位の世の中になっていた筈」、と言う。正解は、英仏とも、チェコ、ポーランドなど実質的に兵力を展開できない東方は、ロシアとドイツの戦争にまかせ、防衛線をフランス、と英仏海峡前面におき、着々と徴兵を進め、海空軍力を蓄えることにあった。全く「不必要」であったこの戦争保証は、チャーチルもチェンバレンをそそのかして出させた。違う路線を採っていれば、チャーチルも首相になることはなかっただろう。




 
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