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2009/07/04

Unnecessary War -第7章 1938:アンシュルス(独墺合邦)

 ドイツ=オーストリアは偉大なドイツ母国に回帰しなければならぬ・・・同じ血は同じ帝国に属す。
 -アドルフ・ヒトラー  1925   マイン・カンプ

 難しいのは、オーストリアでいま何が起こっているのか、眼にはとまらないことだったーこの国と別の 国が力を行使しようとしていたのならば別なのだが。
 -ネビル・チェンバレン   1938


 パリ会議で、ずたずたにされた、海のない、人口650万の国に閉じ込められたオーストリアは、飢えているドイツと自由貿易地域を持ちたい、と連合国の承認を求めた。これは拒絶された。1921年春、南チロルとザルツブルグで行われた住民投票では、圧倒的多数がアンシュルスを支持した。これはヒトラーが総統に就任する12年前の出来事である。ベルサイユとサン・ジェルマン条約では、独墺の関税同盟すら禁止していた。1931年、恐慌の浸透により、再度関税同盟を申請したが、チェコ、仏、伊が拒否した。オーストリアではクレディット・アンシュタルト銀行が潰れ、ドイツではブリューニング内閣が倒れた。後任首相のフランツ・フォン・パーペンは賠償の打ち切りを要請したが、新任蔵相のネビル・チェンバレンはこれを拒否したばかりか、新たな40億マルクを要請した。度量を示すといいながらこれを30億マルクに減額した。帰国したパーペンは、群集から腐った卵、リンゴをぶつけられた。

ヒトラー=ハリファックスのサミット
 ヨーロッパというチェス盤で、ヒトラーが打った数々の手、ドイツ再軍備、ラインランド回復、アンシュルス、ミュンヘン、プラハの一撃、ヒトラー=スターリン協定、ポーランドの電撃戦、ロンメル=グデリアンのアルデンヌ攻勢、バルカン占拠、ロシア侵入のバルバロッサ作戦、これらは悪の天才が考えだした一連の一大戦略である、という神話がある。しかし、ほとんどの場合、これらは、敵側が作りだした状況に対する、かれのその時々の反作用だったといえる。アンシュルスの場合、それがたしかに妥当する。
 ラインランド以降2年間、1938年に至るかれの行動は、大胆ではあるものの無暴ではなかった。戦力について大法螺を吹いていたものの、ヒトラーは英空軍(ロイヤル・エア・フォース)、フランス陸軍にドイツが劣っていることは認識していた。
 1937年、ヘルマン・ゲーリングに狩猟に誘われて、ボールドウィンの後任、ネビル・チェンバレン首相に近い、ハリファックス卿がドイツを訪れた。その機会に、英国大使のリッベントロップは、ベルヒテスガーデンで、ハリファックスとヒトラーの面談を設定した。
 この会談は散々なものとなった。まず到着したとき、車まで出迎えたヒトラーをドアボーイと間違えて、上背のあるハリファックスは帽子とコートを総統に渡しそうになってしまった。昼食の間中、ヒトラーは不機嫌だった。インドの話になった。ヒトラーは映画「ベンガルの槍騎兵」が好きだと言い、SSにたとえて、「優秀民族がどのように振舞わねばならないか」の話をした。ハリファックスはインド副王の経験談で、慰撫政策について弁じた。突如ヒトラーが叫んだ、「ガンジーを殺せ!」「それでも不充分なら議会の指導者たちを殺せ!それでも不充分なら、秩序が回復されるまで、200人だろうが何人だろうが殺せ!」ハリファックスは唖然となった。
 しかし、ハリファックスはチェンバレンの訓令どおりの話をした。「大騒動」が避けられるなら、オーストリア、チェコスロバキア、ダンチッヒなど中欧のベルサイユのしこりの残る地域をすべて、ドイツの好きなようにしても良い、というメッセージである。イギリスは、アンシュルス、ズデーテンランドの移譲、ダンチッヒの回復を妨げるための戦争はしない、ドイツが正当性を持つ領土の回復については、正直な仲買人の役割を果たすつもりがある。チェンバレンは、ドイツ国民と領土の分断が銃口の問題になってしまったことで、連合国は1919年に歴史的な失敗を冒したと信じるようになってきた。これこそ、ヒトラーが聞きたかったことだった。ベルリンの英国大使、ネビル・ヘンダーソンは、ヒトラーは、ハリファックスの誠意と率直さに心打たれた、と記録しているが、歴史家のB.H.リデル・ハートは違うことを言っている。ヒトラーは、1937年11月のハリファックス卿の訪独から、とくべつな勇気を貰った、のである、と。

ヒトラー=シュシュニクのサミット
 平和的手段によるオーストリアのドイツ圏への取り込みに英国の賛意は得たが、さて、オーストリア人にどう納得させられるか?温厚で知的なカソリック、大戦の勇士、クルト・フォン・シュシュニクはドルフース殺害犯の二人のナチを絞首刑に処していた。1936年7月、「紳士協定」を結び、ウィーンは、「オーストリアをドイツ人国家として認める」、ベルリンは、「オーストリア連邦の完全な主権を認める」、相互に内政干渉はしない、という約束をしていた。敬愛される親ナチ政治家が政府に入ることは許されていたが、ナチスは政治扇動、街頭運動を行うことを禁じられた。紳士協定実施の7人委員会が作られていた。 
 しかし、オーストリア・ナチ党は紳士協定を無視し、シュシュニク打倒の計画を練っていた。警察は委員会の事務所を襲って、クーデター計画の証拠を入手した。シュシュニクは怒って、パーペンに証拠を呈示した。パーペンは自身、テロのターゲットになっていたことを知っていたが、この問題はヒトラー自身と協議するよう勧めた。
 当時ヒトラーは自らがその結婚しに立ち会った国防相、ブロンベルグ将軍の新婦が売春婦であった、というスキャンダルに巻き込まれ、意気阻喪しているところだった。ブロンベルグは辞任した。後任のウェルナー・フォン・フリッチュ将軍は、その失脚を策したSSトップのハインリッヒ・ヒムラーによって、同性愛者として告発され辞任に追い込まれた。ドイツ経済を大恐慌から救ったヒャルマル・シャハトも辞め、ヒトラーはニュース沈静のため、内閣からノイラート、パーペンを含む古手の保守主義者を追い払った。
 2月12日、シュシュニクはベルヒテスガーデンでヒトラーと会談した。シュシュニクは、紳士協定を遵守している被害者の役割で、オーストリア・ナチスの非行を糾弾するつもりだった。ヒトラーは怒った、「オーストリアの歴史は裏切りの歴史である」、ドルフース殺害犯を含む、すべてのオーストリア・ナチ拘留者が3日以内に釈放されれば、ドイツは、オーストリア主権の全面支援を更改する、と告げた。加えてヒトラーは、穏健な汎ドイツ主義者のリーダー、アルトゥール・ザイス・インカルトを内務相に任命することを要求した。部屋には将軍たちが出たり入ったりして圧力をかけた。
 シュシュニクはウィーンに戻った。ザイス・インカルトは内務のポストについた。ヒトラーは最悪の条件を取り下げた。オーストリア・ナチの地下リーダー、ジョセフ・レオポルドはヒトラーの前に引き出されて面罵された。「シュシュニクは思っていたよりずっと手強かった」、ヒトラーは述懐した。 
 「両国の友好関係は確認された、オーストリア首相に感謝する」、ヒトラーは議会で述べた。「獲物を飲み込む前に、蛇はまずつばきをつける」、チャーチルは鼻先で言った。

シュシュニクの再点火
 ヒトラーはオーストリアの衛星国化を諦めていなかった。しかしそれには「段階的解決」が必要、としていた。イタリアが枢軸に加わり、孤立してオーストリアは熟した果実のように落ちてくるだろう。オーストリアのナチスは、仲間争いで、段階的解決を妨げている。
 危機は去ったように見えたが、そうではなかった。ドルフースがまた火をつけた。かれは、国民が、「自由で、独立した、社会的な、キリスト教の、統一したオーストリアを望むか否か?(ヤー・オーデル・ナイン?)」、3月13日に国民投票を行う、と発表した。この相談に乗ったムソリーニは、「それは間違いだよ!(チェ・ウン・エローレ!)」と言った。ヒトラーは呆然とした。
 ヒトラーにとって、これはベルヒテスガーデンの了解違反だった。陸軍のスキャンダルと内閣の紛糾のあとで、ヒトラーはシュシュニクの侮りを放置するわけには行かなかった。しかし、オーストリアに対する軍事計画は皆無だった。ウィルヘルム・カイテル将軍が呼ばれた。ハプスブルグ帝国の復活運動を想定してむかし策定された「オット作戦」が引っ張り出されてきた。オーストリア近辺の全軍は、ゲーリングをベルリンに残して、3月12日、オーストリア攻撃態勢に入った。ヒトラーは生まれ故郷へ侵入する軍勢の先頭に立った。

帰郷
  ドルフース事件で、ヒトラーはムソリーニの怖さを知った。ヘッセン公フィリップスに手紙を持たせ、シュシュニクとの対決を知らせ、同時にあからさまな賄賂を贈った。「貴国イタリアとの国境をブレンナー峠に引きました」。7百万のオーストリア人の囲い込みのために、20万の南チロル人を売り渡したのだ。
 3月11日、ヒトラーはオーストリア国境を閉じ、シュシュニク政府のプロ・ナチ派は13日の国民投票の中止を要求した。シュシュニクはムソリーニに電話したが、ムソリーニは受話器を取らなかった。チェンバレンが、ドイツのオーストリア侵入が切迫しているというニュースを聞いたときは、たまたま外相に就任するため帰国する、大使のリッベントロップの送別昼食会の最中だった。リッベントロップは、何かの間違いだろうと思うが、問題解決に悪いことでもなかろう、と返事した。チェンバレンは、シュシュニクに、陛下の政府は、保護しかねる貴国が危険な行動を取ることに責任を負えない、と電報した。
 孤立無援となって、シュシュニクは国民投票を中止した。しかし、ことはこれで充分ではなかった。危機を仕切ったゲーリングは、シュシュニクが辞任して、ザイス・インカルトが代わること、オーストリアの秩序維持のためにドイツ軍の派遣を要請させることを指示した。しかし、軍隊はもう国境を越えていた。ザイス・インカルトが、12日、自分がすでに就任したから、軍は入れないでくれ、と要請したが、ゲーリングは、ときすでに遅し、と返事した。 
 ローマのヘッセン公から電話があった。「いま宮殿からもどりました、ドゥーチェはニュースを歓迎し、総統にくれぐれもよろしく、と言っておられます」。「ムソリーニに、ご好意は決して、決して忘れません、と伝えて欲しい。このことはわたしは一生忘れない、かれのご要望があれば、危険にさらされたら、いつ何時でも、わたしはお役に立ちます・・」、とヒトラーは返事をした。
 13日、国民投票が行われる筈だった日、ヒトラーは生れ故郷の街に立った。眼に涙を浮かべていたが、それは芝居ではなかった。 ヒトラーはあるウィーンの雪の日、インペリアル・ホテルの前で、労働者の仲間たちとみすぼらしい姿で雪かきをしたことを回想した。ハプスブルグの貴族たちが、赤絨毯を踏んでホテルに入りダンス・パーティをしていた。自分たちにはコーヒー一杯とて振舞われなかった。いつか自分はホテルの赤絨毯を踏む、と心に誓った。いまそのときが来たのだ。
 ヒトラーは突如、オーストリアの併合を宣言した。一発の銃火もなく、国防軍(ヴェアマハト)は歓迎された。ザイス・インカルトは辞任を指示された。過去アジア遊牧民に対するヨーロッパの砦、オーストリアはドイツの一州、オストマルクになってしまった。
 ドイツ軍のオーストリア進駐で驚かされたことが二つある。一つは、戦車、装甲車の7割が故障で道路に放置されていたことで、ドイツは大きな戦争の準備ができたいなかったのである。もう一つは、ヒトラーを迎えた大衆の熱狂である。4月10日、アンシュルスの是非は国民投票にかけられたが、99%が賛成という結果だった。ヒトラーはシュシュニクの国民投票を恐れたが、オーストリア人の80%はプロ‐ヒトラーになっていた。
 ドイツはもはやベルサイユの被害者とばかり見るわけには行かなくなった。 しかしイギリスとフランスはなぜ麻痺状態にあったのか?もともとオーストリアは両国の同盟国ではない、国境も接していない。アンシュルスは、はっきりとしたベルサイユ条約違反である。しかし、1935年の英独海軍協定も違反だったことには変わりない。ドイツ再軍備反対に失敗し、ラインランドを許した英仏が、国境も共有していないオーストリアのためになぜドイツと戦わねばならないのか?ポーランド人やチェコ人に認められた、民族自決の権利を、ドイツ人、オーストリア人には認められなかった。この点、チェンバレンとハリファックスは失敗だと思っていた。問題点はこうだ。ドイツに戻りたいドイツ人をみな第三帝国に戻すことでヒトラーに協力することは、1914年のドイツが戻ってくることになる。そして今や当時のカイザーよりはるかに脅威であるヒトラーがそこにいるのである。A.J.P.テイラーは言う、「戦後は、1936年3月7日、ラインランド占領に終わり、戦前は、1938年3月13日、オーストリア併合に始まった」。チャーチルは、「一種のテロが始まった、勝者は消えた、戦場で武器を捨てて、和平に抗議をしたものが今、世界制覇に動きだしている」、と警告した。
 
 
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