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2009/07/03

Unnecessary War -第6章 1936:ラインランド

 7千万国民は、苦難の道を歩もうが死ぬことはない。
 -マティアス・エルツベルがーからフォッシュ元帥へ  1918年11月11日

 それは常にわれわれが重きをおく、ヨーロッパ全体の友好のためである、とわたしは議会に保証した。
 -アンソニー・イーデン   1936

 ストレーザの崩壊をみて、ヒトラーは「東方への道」を再開する前に西部国境を固める方針を立てた。ライン側の西側、ラインランドは、イギリスにとっての英仏海峡と同じ意味で、フランスにとっての緩衝地帯であり、永久非武装地帯として、1935年まではフランスにその占領の権利があった。しかし、フランスはイギリスの強い要請と、国家主義者の圧力に対峙していたドイツの民主主義者に良い顔をみせるため、5年早く、1930年に占領軍を撤退させた。これは戦略的破局の一つだった。
 ヒトラーは、西側の官民に、苛酷なベルサイユ条約の条件に対して、多少の罪の意識があることを承知していた。かれは直観的にこれにつけ込むことを感じていた。かれは、平等の待遇を求める悲惨な境遇の国民の自衛のポーズを取った。
 引き金を引いたのは、フランスが共産主義ロシアと締結した反独協定をフランス国会が批准したことである。1936年3月7日、クロール・オペラ・ハウスでヒトラーは絶叫した。仏ソ協定はロカルノ条約を無効にした、と。 ベルサイユ条約が脅迫によって押しつけられたものであるとすると、ロカルノ条約はドイツ自身が提案し、ヒトラーも受容していたものである。
 仮にドイツがスターリンと戦端を開いた場合、フランスがドイツを攻撃する、というのが仏ソ協定である。フランスの侵入はラインランドを通過してくる筈である。仏ソはロカルノ条約に違反した。そしてヒトラーは「平和攻勢」をかけた。ドイツは、フランス、ベルギーと不可侵協定を結ぶ、非武装地帯を双方の国境に設ける、航空協定を結ぶ、ポーランドほか東欧諸国と不可侵協定を結ぶ、国際連盟に復帰する・・
 平和の提案と同時に、軽装の数個大隊がラインの橋を渡った。ドイツ軍にとって17年ぶりのことだった。ヒトラーは、その予定を1937年においていたが、それでは遅すぎる、と考えたのだ。ゲーリング、ゲッベルスは、時期的にまだ早すぎると思っていた。ドイツ陸軍は、フランス軍に対抗できる実力をまだ備えていなかった。国防相、ブロンベルグ将軍は、オペラ・ハウスで青ざめていた。
 振り返ってみて、ここでヒトラーを打倒する結論を西側で出さなかったことは、大いに驚きであった。多少の犠牲は出たかも知れない、しかし後世失われた数千万の生命のことを考えれば・・・。

同盟国の不作為の陰で
 「全世界の民主主義を守るため」にアメリカは息子たちを送ったが、戦争は英帝国の100万平方フィートに及ぶ領土の拡大で終わった。「戦争を終わらせるための戦争」の筈だったが、それは、フランツ・ヨーゼフやカイザーより危険な、レーニン、スターリン、ムソリーニ、ヒトラーを生み出した。ウィルソンの14項目と民族自決の原則は踏みにじられてドイツは分断され、数100万のドイツ人が他国の支配にまかされ、賠償でドイツは破産した。揚句、アメリカは「死の商人」として戦争利得者だとして糾弾されている。「イギリスの火中の栗を拾う」のはもう真っ平だ。これがアメリカの姿勢だった。ドイツ兵がドイツ領を占領する、何が問題なのだろうか?
 イギリスは今や戦争の惨禍の記憶を持つ、行儀の良い人々に治められていた。西部戦線の悲惨は、詩に、回想記に、塹壕戦の生き残り兵士によって語られていた。傷痍軍人がいまだに路上で恵みを求めていた。フランス外相のフランダンが訪英し、ボールドウィンに会ったとき、ラインランドでフランスが反攻したとすれば、イギリスはどう出るか訊ねた。イギリスは、単純に、参戦しない、とボールドウィンは答えた。ボールドウィンは涙を浮かべて、イギリスにはフランス支援の力がもうないのだ、と告白した。ジョージ五世も、「わたしはもう年を取った。前の戦争は生き抜いたが、次の戦争が起こったらどうなるか?とにかくもう戦争はお断りだ。そうなりそうになったら、わたし自身がトラファルガー・スクエアで赤旗を振る」、と言った。
 ドイツの兵力に比べて、フランスははるかに強大であり、ヨーロッパのバランス・オブ・パワーからみて、ヒトラーの再軍備に賛成するものも多かった。また荒廃した国家を再建したヒトラーの手腕を高く評価するものもいた。ロイド・ジョージは、ラインランドにおける英仏の軍事行動に反対しただけでなく、問題をドイツの眼で見た。仏ソ条約以前からドイツは、ベルギー、ポーランド、ルーマニア、チェコスロバキア、ユーゴスラビアに包囲されており、ストレーザのイタリア、フランス、英国、ソ連がその包囲網に加わっている。そして重要な工業地帯、ルールが無防備で危険に曝されている。またフランスは西部戦線に、100フィートの地下に10万の兵士を収容する砦を構築し、砲口をドイツに向けているのである。
 ロイド・ジョージは、ヒトラーに招かれ、ベルヒテスガーデンで懇談した。かれはヒトラーに取り込まれた。かれの考えていることは自衛だ、侵略ではない、かれは国民のために偉大な事業をなしとげている、これがロイド・ジョージのヒトラー評だった。チャーチルも、ヒトラーとナチスの行為は愛国心の発露だ、と理解し、「史上に現われる英雄」の一人として見て良さそうだ、としている。チャーチルは、ラインランド危機の最良の解決策は、ヒトラーが雅量をみせ、個々の国に対して、というのではなく、条約を尊重して撤退するのが良い、と述べた。連合国は、ロカルノ条約にしたがえば取らねばならぬ、軍事行動を取りたくなかったのだ。

フランスはなぜ麻痺していたか?
 フランスの行動は不可解だった。ラインランドはアルザスと接しており、フランスにとってその安全が重要であることはベルサイユでも認識されていた。フォッシュ、ポアンカレは併合を、クレマンソーは緩衝国設置を主張したが、ウィルソンとロイド・ジョージが、ドイツが攻撃してきたときに英米が支援を保証するという保障条約を提案、フランスは、永久非武装化、15年間の占領、という方式を受容した。
 1936年3月16日、抵抗に会ったら即時撤退せよ、という命令を受けて侵入した僅か3個大隊のドイツ軍に、ベルサイユ、ロカルノ両条約で認められた反撃を、フランスはなぜしなかったのか?
 理由の1。1923年、賠償支払いを不履行にしたドイツに、履行を迫るため行ったフランスのルールの占領がアメリカほか世界の大不評を買った。フランスはそれを繰り返したくなかった。その2。フランスは、防衛戦略に切り替え、いわゆるマジノ・ラインをアルザス=ロレーヌの最前線に構築した。これは強力無比な砦だったが、それは全ヨーロッパに、フランスが戦うのは自国が攻撃されたときだけ、というメッセージを伝えるものとなった。
 フランス政府が軍事問題協議のため呼び寄せたモンス・ガムラン将軍は、ドイツはすでに100万の兵を武装させている、ラインランドには30万の兵力がいる、とナチについて誇張した報告をした。政治家の怠慢で、フランス軍はドイツより弱い。総選挙を控えた閣議は動揺した。ガムランはドイツ国境に13個師団を召集したが、国境は渡らなかった。後日ヒトラーは、「ラインランド進駐後、48時間は肝を冷やす思いだった」、と述懐した。フランス軍の反撃に会ったら、尻尾を巻いて逃げ出すところだった。
 チャーチルは回顧録で、フランス軍がラインランドに入ってドイツ軍を追い払ったら、ヒトラーは国内で将軍たちの反乱に会い、放り出されていただろう、と書いた。しかし1934年、オーストリアの危機を乗り越えたヒトラーは、1936年にはもっと力をつけていた。チャーチルの意見には反論もある。
 フランスの麻痺状態をみて、ベルギー国王、レオポルド三世は、1920年の仏白同盟を破棄して中立を宣言した。マジノ・ラインはベルギーで終わっていたので、フランス北部は、1914年、フォン・クルック将軍の侵入を受けたときと同じ野ざらし状態になる。フランスはロンドンで、軍事支援を行なおうとしないイギリスを非難したが、チャーチルは、「これはフランスの言い訳にすぎない、ベルサイユ、ロカルノ条約で、イギリスはフランスが戦うとき支援する、と約束している。そのフランスが動かないのではイギリスも動けない」、と書いている。
 ラインランドを獲得して、ヒトラーは西方の壁、ジーグフリード・ラインを構築した。これでドイツは兵力を節約できる。主力はベルギー、オランダを席捲する、そして東方へ向かうのだ。フランスの東方の同盟国、ロシア、チェコスロバキア、ユーゴスラビア、ルーマニア、ポーランドはヒトラーの動きの重要性を認識した。東方同盟国救援に赴くのに、ジーグフリードは一大障碍となる。中欧諸国は外交政策の転換を迫られることとなった。1936年3月29日、ラインランドの住民投票は、99%がヴェアマハト(国防軍)の進駐に賛成した。ベルサイユは死んだ。ロカルノは死んだ。ストレーザは死んだ。同盟国は戦わずしてヒトラーを抑止する最後のチャンスを逸した。
  
 
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