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2009/07/01

Unnecessary War ‐第5章 1935:ストレーザ戦線の崩壊

 オーストリアは、主権国家としてその独立を守るにあたって、わが国が頼りになる、と知っている。
 -ムソリーニ   1934

 来年秋には、ヒトラーに・・・オーストリアをドイツにするようにさせよう。1934年には、かれの軍隊を 打ち破ることができたが・・・今はもうできない。
 -ムソリーニ   1937


 イタリアはパリ会議から、苦い気持ちで帰国した。1915年、ロンドン秘密条約で、南チロル、イストリア、トリエステ、北ダルマシア、ドデカネス諸島、アルバニア保護領、の割譲を見返りに、イタリアは連合国側で参戦した。またイタリアはそのほか、クロアチアのアドリア海の港、フィウメを希望した。これらは、旧オーストリア=ハンガリー帝国とオスマン帝国の領土である。しかし約束が守られたのは、南チロル、トリエステ、イストリアだけだった。権力掌握以前からベルサイユ、サン・ジェルマン条約の見直しを主張していたムソリーニは、1922年、ローマに進軍し、ファシスト政権を樹立した。
 ヒトラーが首相に就く10年前からムソリーニはドゥーチェの座にあった。ムソリーニはヒトラーのことを軽蔑していたが、ナチスがベルサイユ体制を暴力的に否定し、欧州を不安定にする危険が見込まれたことから、かれは、英仏伊独の4ヶ国会議を提唱した。再度の戦争を防ぐため、この4国が同等の立場でベルサイユの不平等を修正して行くという目的で、ムソリーニは、1933年に協定実現のため努力を傾注した。しかし、フランス、イギリス、フランスの尻馬に乗った小国、チェコスロバキア、ユーゴスラビア、ルーマニアが反対した。各国政治家のなかで、このプランに冷水を浴びせたのはチャーチルだった。この4ヶ国協定は、平和的手段で、戦後の諸規定を見直し、ヒトラーをチェックし得るものだった。

南チロルの売り渡し 
 ヒトラーの外交政策で最初に形になって現われたのは、ローマ=ベルリン同盟である。1920年にファシズムの存在を耳にしたときから、ヒトラーはイタリアとの提携を考えていた。ベルサイユ体制打破のためには、1914年、同盟を脱退して敵側で参戦したイタリアに再び同じことをさせてはならなかった。帝国は東に向けて発展させる、ヒトラーは南チロルの領土とドイツ人を見捨てる決意をした。

ドルフース殺害
 ヒトラーの初の海外旅行、1934年6月14日のヴェネチアでのムソリーニとの会見は失敗に終わった。ムソリーニにはヒトラーはひどく貧相に見え、ヒトラーも自信がなさそうだった。話題も、ムソリーニが読む気もしない、「マイン・カンプ」の受け売りに終始した。
 議論の一つはオーストリア問題だった。ヒトラーはオーストリアを手中におさめる意図を持っていたが、まだ機は熟していなかった。アンシュルス(併合)は、ここを緩衝地帯として見るイタリアの猛烈な反対に会うに違いない。ムソリーニから介入しないよう警告を受けたヒトラーは、オーストリアの主権は尊重する、という答えにとどめた。
 SSはひそかにオーストリア・ナチ党を支援し、首相のエンゲルベルト・ドルフースにテロを仕かけようとしていた。ドルフースは熱烈なナショナリストで、サン・ジェルマン条約で分断された国家再建にファシズムに似た一党独裁体制で強権政治を行っていた。社会民主党の騒擾は武力鎮圧し、社会党、ナチ党は非合法化されていた。そしてムソリーニは、ドルフースの盟友だったのである。
 ヒトラーのヴェネチア訪問の2週間後、「長いナイフの夜」事件で、ヒトラー旧友で、自らの権力への道に協力をしたSAの隊長、エルンスト・レームが粛清された。前首相、クルト・フォン・シュライヒャー夫妻ほか150-250名が殺害された。第三帝国の国家的テロ行為の最初のもので、ムソリーニは身震いした。その4週間後、オーストリア・ナチ党員によって、ドルフースは射殺された。
 ヒトラーがこの暗殺の可能性を知っていたのかどうかわからない。このニュースが届いたとき、ヒトラーは、憤激し、オーストリア大使が要請した、犯人たちを国外へ逃すことを拒絶し、大使を解任した。ヒトラーは、これは第二のサラエヴォになる!と叫んだ。ヒトラーが神経質になるのも無理はない、ドルフース一派の後見役はムソリーニだった。ムソリーニはただちに4個師団をブレンナー峠に展開し、ドイツが侵入してくるなら、イタリアは宣戦する、とウィーンへメッセージを送った。ドゥーチェにとって、かれのファシズムは、ナチズムとは違う世界のものだった。1942年にヒトラーは述懐した、ーあのときは危なかった、当時非武装のドイツが、フランス、イタリア、英国の連合軍と戦う羽目に陥って、崩壊してしまうところだった。
 1935年1月、ザールランドで住民投票が行われ、90%がドイツへの復帰を希望した。ヒトラーは自信を深め、次のステップに動き出した。3月9日、ヘルマン・ゲーリングは、ルフトヴァッへ(空軍)が独立して軍制の一翼を担うことを表明した。翌週、ナチスは36師団、30万の兵士を招集することを発表した。公然たるベルサイユ条約違反だった。イギリス首相、ラムゼイ・マクドナルド、フランス首相、ピエール・フランダン、外相、ピエール・ラバルは、4月11-14日の間、マジョーレ湖畔のストレーザでムソリーニと会談した。ストレーザ会議のコミュニケは、ドイツのベルサイユ条約違反を糾弾し、三国のロカルノ条約の原則固持を謳っていた。

ロカルノ条約
 ロカルノ条約とは、1925年、スイスで協議され、ロンドンで締結されたヨーロッパ諸国の安全保障協定である。これはドイツの外相、グスタフ・シュトレーゼマンの産物で、民主友好のドイツが、ベルギー、フランスとの三国協定で、ラインランドを非武装地帯として相互の現存国境(アルザス=ロレーヌはフランス領)を尊重する、イギリス、イタリアがこれを保証する、というものである。そしてドイツは国際連盟に加入する。 
 しかし、ロカルノでは、ドイツの東部国境については何ら取り決められなかった。メメル、ダンチッヒ、ポーランド回廊、ズテーテンランドの、それぞれリトアニア、ポーランド、チェコスロバキアの永久譲渡をドイツは受け入れなかった。ドイツはポーランド国境を受容したが、確認しなかった。イギリス外相、ネビルの異母兄弟、オステン・チェンバレンは、ロカルノ条約成立を以てノーベル平和賞を授与されたが、イギリスはドイツとポーランドの国境問題がどれほど危険なものだったか、認識していなかった。
 東のロカルノ問題を理解していたのは、フランスのルイ・バルトゥーだった。バルトゥーは、イタリアとの協調を促進し、露仏同盟の復活を目論み、ドイツの再軍備に反対し、自らの手段で自国の安全を担保できる、と主張していた。1934年10月9日、かれは、ユーゴスラビアのアレクサンダー国王がマルセイユでモロッコのテロリストに暗殺された現場に居合わせて狙撃され、国王は手当てを受けたものの、自身は放置され、出血多量で死亡した。

ストレーザ会議
 ロカルノ会議後10年経過してのストレーザ会議である。イギリスのマクドナルドと外相のジョン・サイモンは、議会に、ドイツに敵対行動を取る約束はしない、と保証していた。両人とも1914年の開戦に反対しており、ヒトラーの新たなベルサイユ違反に際して、中、東欧での行動、ないし仏伊に味方をするつもりはなかった。ラインランドには英国の国益なく、また英国の海上優位を認めるのであれば、英独海軍協定をも締結するつもりだった。フランダンは、これ以上のヒトラーの条約違反があれば動員する、と述べた。ムソリーニはもっと強硬だった。
 4月17日、英仏伊が提出した対独非難決議は国際連盟の評議会を通過した。ヒトラーは平和攻勢に転じた。5月21日、「平穏と平和のほかに何を望もうか?ドイツには平和が必要である」、とライヒスターグ(議会)で演説し、ムソリーニに、オーストリア併合の意思なし、と再確認した。

ヒトラー=ボールドウィン協定
 「ドイツ政府は、英帝国の海上における圧倒的重要性を認める、そして二国間にただ一度あった紛争を二度と繰り返さないような、イギリス国民との関係の確立、維持に努める」、とヒトラーは宣言した。ロンドンのタイムズは有頂天になった。ヒトラーはストレーザのもっとも弱い部分を噛み千切ったのである。外洋艦隊は、対英60%の海軍を保有したが、ヒトラーは、フランスとイタリアがワシントン会議で了解したと同じ、対ロイヤル・ネイビー35%による英独海軍協定を呼びかけた。
 マクドナルドに代わったスタンレー・ボールドウィンはこのエサにとびついた。1935年、6月18日、海軍協定は締結された。艦隊は35%にとどまるが、潜水艦は英国と平等の保有が許された。交渉にあたったホアキン・フォン・リッベントロップの帰国は歓呼の声で迎えられた。スターリンは、自国攻撃に英国がドイツにバルティック艦隊建造の青信号を発した、と受け取った。ムソリーニは、イギリス政府がヒトラーを恐れるあまり、国際連盟の抑止力の信頼性を失ったのだ、と理解した。イギリスは、ストレーザ合意のパートナーより上位にドイツを置いた。チャーチルもストレーザ戦線の崩壊を見た。英国外交は、ムソリーニをヒトラーの腕のなかに追いやった。

アビシニア
 エチオピア問題のルーツは19世紀末にさかのぼる。1884-85年、アフリカ分割のベルリン会議に、後発のイタリアに残されていたのは、リビア、ソマリア、エリトリア程度だった。イタリアは、残された独立国、エチオピアの獲得を狙ったが、1896年、アドワで獰猛なエチオピア戦士に4千の兵士を虐殺された。ムソリーニは復讐の機会をうかがっていた。大戦でイタリアは46万の兵士を失っていたが、オスマン帝国とドイツ植民地解体の配分から除外されていた。1934年11月、突如エチオピア軍がイタリア領ソマリランドの国境基地ワル・ワルに侵入してきた。国境紛争は、ムソリーニに絶好の機会を提供した。ヨーロッパはイタリアのエチオピア攻撃を予期した。ストレーザでは、英仏の反対はとくに見られなかった。イタリアの新聞の大見出しに、「イタリア軍、スエズ運河を渡る!」と掲載されたが、イギリスの政治家は何も言わなかった。
 東アフリカ、アジアでイギリス国旗の翻るところ、すべてが平和的手段で英国が獲得したわけではない、ここでイタリアのエチオピア併合に反対することは偽善にほかならない。しかし、イタリア、日本のような新興の帝国主義に対しては、イギリスは反対した。日本のジュネーブ代表団長、松岡洋右は、「欧米列強は日本にポーカーの遊び方を教えた、そして多額のチップを稼いだあと、ポーカーは不道徳だから、と言ってコントラクト・ブリッジに変えた」、と言った。1904年の英仏和親で、エジプトはイギリス、モロッコはフランス、と分け合った、ストレーザのパートナーであるイタリアにアビシニアにおけるフリーハンドを与えるべきである、とムソリーニは信じていた。
 エチオピアはそれ自身が帝国だったが、原始的で奴隷制が残っていた。しかしエチオピアは国際連盟のメンバーで、ウィルソンの理想主義はイギリスの上層階級と一般の考え方に支持されていた。皮肉なことに、エチオピアの連盟入りを指導したのはイタリアだった。加盟条件の奴隷制廃止はいまだに実行されていなかった。

イーデン失墜
 ムソリーニがエチオピアに侵入することは確実だった。イギリスは新設の国際連盟担当相、アンソニー・イーデンをムソリーニのもとに派遣して、妥協案を提示させた。イーデンはあまり準備をしておらず、ムソリーニの断固たる拒否に会った。ムソリーニは、エチオピア帝国が前世紀に奪った領土のすべてを要求した。要求が通らぬと、地図からエチオピアを抹殺する、と警告した。ムソリーニは完璧なギャングだ、イーデンは語った。イーデンは外相に移り、ローマは喜んだ。イギリスの新聞は、世界最悪の独裁者と、ムソリーニのことを書き、国際連盟を仕切るイギリスは、イタリア制裁で脅かしはじめた。孤立したムソリーニは、早急に行動を起こすことを決意した。

アビシニア戦争
 1935年10月3日、イタリアは近代兵器で装備された大軍でアフリカの部族民に戦いを挑んだ。400の航空機、なかには毒ガスを積んだ爆撃機もあったがーに対して、ハイレ・セラシェ皇帝は武装のない13機しか保有しておらず、うち8機が飛行可能だけだった。25万のエチオピア兵のうち、近代兵器を持っていたのは5分の1だった。無慈悲なピエトロ・バドリオ元帥に、アビシニア人は対抗するべくもなかった。
 ほとんど全世界がこれに憤激したが、ボールドウィン内閣にはジレンマがあった。エチオピアに眼を瞑って、ドイツに対抗するストレーザのパートナーとしてのイタリアを保持するか、連盟のリーダーの立場からイタリアを侵略者として認定し、制裁を課してイタリアを失うか、だった。バルトゥの後継者、ピエール・ラバルは、イタリアを訪問したとき、ムソリーニに、フランスはイタリアを擁護する、かわりに、チュニジアにおけるイタリア権益を放棄し、フランスの優位を認めよ、と言った。ムソリーニは、明確なエチオピアにおける「フリーハンド」をラバルから手に入れた。しかしイギリスは道徳的国際主義に転じ、国際連盟の原則にしたがうことになった。

ホアル=ラバル計画
  外務相、サム・ホアルとフランスのラバルはイタリア=エチオピアの和平に動きはじめた。イタリアは豊潤なオガデンの平原を得る、シバの女王の後裔と称するハイレ・セラシェ皇帝は山岳地帯の王国を留保する、そしてイギリスが自領を一部補償に提供し、エチオピアのために海への回路も保証する、という案で、ムソリーニも了解しており、これはほぼまとまりかかっていた。安心したホアルは、皇帝に説明するためにジュネーブへ赴く前、休暇を取った。その間、情報がパリの新聞に洩れた。国際連盟規約違反の侵略に対するこの代償は囂々(ごうごう)たる非難を浴びることになった。ホアル、ラバル両人とも辞任せざるを得なくなり、ロンドンとパリは、ホアル=ラバル・プランから足を洗った。サー・ロイ・デンマンは、このプランをイギリスが葬った政治的パニックと、公衆の大騒ぎをイギリス国益に対する致命的なミスと断じている。ムソリーニにこれを受けさせれば、真の敵、ドイツに対し盟友としてイタリアを確保できた。外相となったイーデンは、ローマでムソリーニに与えられた屈辱を引きずっており、イタリアに対する制裁を課すことについて国際連盟をリードした。しかし禁輸措置に石油は含まれておらず、スエズ運河もイタリアの兵員輸送に開かれていた。ムソリーニが侵略を諦めるには弱すぎる制裁だった。制裁の唯一の効果は、イタリアを敵側に追いやったことだ、とポール・ジョンソンは書いている。
 両世界大戦間の恒久的平和の枠組みづくりに失敗した責任はイーデンにある。チャーチルのイーデンに対する評価も低い。1936年1月、ローマのドイツ大使、フォン・ハッセルは、ムソリーニが、ストレーザ協定は死んだ、オーストリアがドイツの衛星国になろうと反対しない、と言ったとヒトラーに報告した。11月1日、ミラノでムソリーニは、ローマ=ベルリン枢軸を発表した。1937年、イタリアは、日独が結んだ反コミンテルン(防共)協定に参加することになる。ヒトラーは誠意の証として南チロルを枢軸のパートナーに譲った。ヒトラーにとって南チロルは高価だが、イギリスにとってエチオピアは安価なものだった。こうしてイギリスはエチオピアを失いーそしてイタリアを失った。

チャーチルとムソリーニ
 当時チャーチルは一議員だった。かれは国際連盟違反について、イタリアを制裁すべきだとしていたが、ドイツから眼をそらさず、エチオピアはきわめて小さな問題である、と議会で主張した。1927年、蔵相のとき、かれはドゥーチェと面談したが、ムソリーニの個性に魅了され、ファシズムのボルシェビズムに対する姿勢に大いに好感を持った。英国政治家は、ヒトラーと対峙し、ムソリーニと和解すべきであったのに、「逆のことをやった、ドイツを甘やかし、イタリアと対立した」、とキッシンジャーは書いている。
 イギリスの武装は貧弱で、中くらいの国になってしまったが、今や一つ、二つならず三面の敵をかかえることになった。そして三番目の最新の敵は地中海、中東方面にあり、まったく不要に作り上げてしまったものである。イーデン自らが、「英伊関係の悪化は連盟規約遵守の義務から生じたもので、英伊間に紛争があったわけではない」と、1936年11月に議会証言しているのである。
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