--/--/--

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
スポンサー広告
2009/07/31

Singapore Burning - by Colin Smith 紹介と序文

今日からは、イギリスのジャーナリスト、コリン・スミスの「Sinapore Burning -Heroism and Surrender in World War II (シンガポール炎上、 第二次大戦のヒロイズムと降伏)」 (Penguin Books 2006のペーパーバック版)という本を読んでみます。
この本は、真珠湾攻撃より時間的に若干早く始まった、文字通りの大東亜戦争の緒戦、日本軍のマレー半島上陸作戦、マレー沖海戦、シンガポール陥落までの戦史を、イギリス側から書いた作品です。コリン・スミスがジャーナリストの手法によって、詳細にリサーチした史実を淡々と記述したノン・フィクションです。攻める日本、守るイギリス、双方の描写はきわめて公平で、戦い自体の善悪などの価値判断を示すものではありません。史実はもちろん描かれていますが、むしろ史実に題材をとった生身の「人間の」物語であり、将軍、提督から、兵士、庶民にいたるまで、人名の挙げられた日、英、豪、印などの登場人物は550名以上にのぼります。まさに「銘々伝」といった趣きがあり、勇気、献身といった人間のプラス面、そして驕慢、怯懦、逡巡といったマイナス面があますところなく描かれており、シンガポール攻略戦も、まさにきわめて人間らしいひとたちによる「人間」の戦いであったことがよくわかります。このことは、本書の副題がよく示しているところです。

本文に入る前に、しばらく、「序文」「批評」「作者の紹介」などを記録します。

著者の序文(ハード・カバー版)(全訳ーHPより入手)
 この本については、調査とその執筆に3年以上かかってしまった。お世話になった謝意の表明は、ノーザンブリアからキャンベラまで拡がる。その間、マレー、シンガポール戦線の帰還兵は必然的に減少して行った。それでも1942年に20歳から25歳であった人々の数は驚くばかりであり、降伏命令を受ける前の戦闘について喜んで語ってくれた。
 そしてSingapore Burning(標題は、「シンガポール陥落」と訳すことにします。)には、ほとんど伝えられなかったマレー戦線の話が語られている。ここ半世紀の間、チャーチルの「最悪の国難」の確固としたイメージが、苛酷な虜囚生活を通じ、また良かれ悪しかれ、それに続く1957年のデビッド・リーンの映画、「戦場にかける橋」に定着して行った。マレーの防禦部隊が、日本軍の捕虜収容所で、戦闘そのものより以上の、飢餓による、また労務による死者を出したことは事実であるが、山下将軍の大勝が容易なものであったと考えることは、大変な間違いである。犠牲者の数がそのことを物語っている。英帝国側の戦死、7500、戦傷、1万に対して、日本側は、戦死、3506、戦傷、6150である。これは8週間の間での事柄である。いまわれわれは、アメリカ兵のイラクでの戦死が3年間で2千名、これは莫大である、といわれる時代に住んでいるのである。
 戦前、英国のプロパガンダは、「要塞シンガポール」という幻想を育んだ。その陥落は、海岸の重火器が「間違った方角を向いていた」こと、また、愚かな将軍たちが、北へ向かって「通り抜けられないジャングル地帯」のマレー半島を伝って攻撃してくることは考えられないと思っていたことが原因である、とする神話が戦後広く流布されているが、要塞シンガポールの幻想は、それら神話以上に真実ではなかったのである。15インチ砲のほとんどは、陸上目標を狙っていた。(高度の爆発を誘引するというよりも、軍艦の装甲を貫通するという、陸戦に適した弾薬が備わっておらず、その有効性が阻害されていたが、これが決定的な要因にはなっていない。)より重要なことは、戦前の計画、また戦争の図上演習においても、北からの攻撃は長期にわたって想定されていたのである。パーシバル自身、1930年に、この問題について報告書を書いている。
 しかし、敵の意図を推察することと、それを抑止する手段をはかることは別問題である。1926年、スタンレー・ボールドウィン内閣が一歩前進し、シンガポールの海軍基地建設に多額の支出を行うことを決定したとき、異議を唱える声が上がった。南アフリカの首相、またかつてのボーア戦争の戦士、ジャン・スマッツの声だった。第一次大戦当時、帝国戦争内閣の一員だったスマッツは、シンガポールの基地は無意味である、と主張した。日本が、唯一の考え得る脅威であることを認めるとしても、北方の海域で大規模な戦闘が行われぬかぎり、日本はあえてシンガポール攻撃には踏み切るまい、どのみち、そのような事態となったときには、帝国海軍は援軍を送って妨害することは不可能になっているのだ。
 スマッツの予言どおり、1941年の12月にいたる2年間、今世紀二度目のヨーロッパの戦争で、英軍は、マレーをしっかりと防禦するには戦線を広げすぎてしまっていた。イギリスは地中海沿岸でその存在を維持するのに精一杯であった。-5月には、クレタ島で甚大な損耗を蒙っていた。-北米の穀物と銃砲を大西洋に運ぶルートを確保しなければならなかったし、予期し得ることであったが、ソビエト軍を叩き潰したドイツ国防軍の大群が、海峡沿岸に立ち戻ってくることに備えて、防空網と国内軍を充実して行く必要もあった。にもかかわらず、1939年、満洲で、国境紛争が短時間のうちに大規模な戦争行為に発展したときの、ソ連による日本の屈服に刺激を得て、陸軍省は、東南アジアにおける「小さな黄色い連中」の冒険は充分に食い止められる、と確信を深めたのである。そして、1941年12月8日、日本は英国に挑戦した。
  戦闘は、北部マレーへの海陸の侵入、そして煌々と輝くシンガポールへの夜間奇襲空爆によって始まった。1週間で、日本は圧倒的な制空、制海の優位を確立した。戦争へ向かう東京の愚行を最終段階で説得すべく、鳴り物入りでその出航を見送られた2隻の大事な軍艦、プリンス・オブ・ウェールズと、レパルスは、800名の水兵とともに航空機によって海の藻屑となった。死者のなかには、サー・トム・「サム(親指)」・フィリップス提督がいる。この愛称で呼ばれた司令官は、一隻の船すら沈没させられなかった航空機が、かれの巨艦群を撃沈することが可能などとは夢想だにしていなかったのである。
  インドと英本国からの救援が到着するまで、日本軍のマレー半島南下を食い止めることは、いまやパーシバルの兵士と、数は減らされつつあるものの、確固とした航空兵の双肩にかかっていた。マレー北部には、中核となる強力な正規兵を交えた英軍の3個歩兵大隊があった。しかし、その大部分は、訓練半ばの、また、しばしばとんでもなく若いインドの徴募兵だった。イギリス人将校は、明からさまに狙撃兵の目標となっていた。その南にはオーストラリア兵の2個旅団がいた。溌剌としてはいるが未熟な志願兵だった。インド兵と同じように無傷で、また元気一杯だった。シンガポール本島には、英本国の歩兵の3個大隊を含む、より以上の部隊が駐屯していた。
  紙の上では、防禦兵力は攻撃兵力を問題なく上回っていた。しかし、実戦ではあまり見かけないケースだった。なぜなら、山下は兵力を集中できるのに対し、パーシバルは、つねに兵力を温存し、側面からの海陸上陸作戦の脅威に備えなければならなかったからである。また英軍と異なり、日本軍は、Aクラスのチームを野戦に投入した。山下の歩兵3個師団は、日本が保有している最強の軍隊だった。その二つは、中国との長期の戦いに習熟した古参兵が占めていた。またもう一つは、何とか証(あかし)を示そうと必死に頑張る近衛師団だった。一般に信じられたように、かれらはジャングルで訓練されたわけではなかった。日本にも中国にも、ジャングルはほとんどないのである。戦闘が発生する前に、茂みのなかでの実戦の方法を熟知していたのは、アーガイル大隊の老兵と、オーストラリア軍の一部のものだった。また、制空権を把握した日本軍が使用したのは200台の軽戦車である。これは植民者が建設した道路で、遺憾なくその効果を発揮した。
  最前線の戦闘のほとんどで、兵士は全体の構図を見ることが少なかった。パーシバルの兵隊にとって、これはかつてない現実だった。側面攻撃を受けることの懸念が全体を支配し、師団、旅団、または大隊司令部からの命令は、しばしば、奮闘の結果確保した防禦地点、または機会あれば確保しようとした地点の放棄を指示するものだった。これは疲労困憊する後退と、最低限の食糧で、塹壕で仮眠を取るという過程の繰り返しとなった。ときには、休養を取ったり、いじめっ子に一撃を加えることも許された。カンパールでのレスターとイースト・サレーの混合部隊の行動、ゲマスで見られたオーストラリア兵の血なまぐさい待ち伏せ攻撃がそれらの例である。しかし、その後は、撤退、撤退の困惑させられるような命令の連発が常態になった。
  これらのすべてにつけ加えられたことは、敵に関する見方の決定的な変化である。中国勤務の英国大使館付武官の度重なる警告にかかわらず、日本軍の侵入以前には、かれらはほとんど例外なく近眼で、どちらかといえばコミカルな人間たちだ、として描かれていた。正確な照準をつけることができないのみならず、近代的航空機を技量と勇気で操縦することができない、もちろん国王陛下の軍艦を沈めることなど問題外であると。日本の開戦前、マレーのオーストラリア人将校のなかには、戦闘が起こるにせよ、自分たちの兵士には、もう少しましな敵に遭遇させてやりたいものだ、と落胆を隠さなかったものたちがいた。
  そして英軍は、マレーで、味方に欠けていた戦車と、航空機を携えていたのみならず、かれらをシンガポールへの道筋一杯に、テリアのように執拗に追い詰める敵に遭遇したのである。最後の救援部隊、国防義勇軍の一翼、ノーサンバーランド・フュージリア機関銃大隊は、奪回を信じて、輸送船の手すり越しにヴィッカーズ機関銃を掃射し続けた。ケッペル港への道を拓く戦闘で、船の撃沈を図る日本機2機を撃墜した。8日後、ノーサンバーランド兵は、国防義勇軍に属する第18師団の、ほとんど全員が新参である将兵と同じように降伏することを命じられた。それは信じられないことだった。かれらは、ゴルフ・コースを越えて進撃しようとする日本兵を何人かなで斬りにしたばかりのところで、まずうまく行った方だと思っていたのだ。 
スポンサーサイト
未分類 | Comments(0) | Trackback(0)
2009/07/28

Unnecessary War -第15章 英帝国を継承するアメリカ

  致命的な誤りから、人は、何か有益な教訓を引っ張りだすことがある。
  -ジェームズ・ウルフ   1757年  「ケベックの英雄」


 西洋文明の双子の破局、第一次、第二次世界大戦に、イギリスは不可欠の国家であり、チャーチルは不可欠の人物だった。カイザーが、望んでもいなかった自分の母親の国との戦争に引きずり込まれたのは、ドイツが知らなかったイギリスの秘密のフランス支援の約束の所為だった。英連邦諸国、そして日本を戦争に呼び込んだのは、1914年8月4日の、イギリスの対独宣戦布告だった。イタリアを参戦させたのは、1915年の秘密条約で、ハプスブルグとオスマン帝国の領土をイタリアに割譲する、というイギリスの約束だった。イギリスが戦争を始めなければ、アメリカが加わることもなかっただろう。
 フランス、ドイツ、ロシアの間の戦争を、4年続いた、ドイツ、ロシア、オスマン、オーストリア=ハンガリー諸帝国を包含し、レーニン、スターリン、ムソリーニ、ヒトラーの世界を生みだした、世界戦争に変えたのはイギリスである。アメリカの圧力に負けて、21年間続いた日英同盟を1922年に解消し、忠節な同盟国、日本を侮辱し、孤立させ、怒らせ、日本軍国主義を生みださせ、太平洋の第二次大戦を戦わせたのはイギリスである。アビシニア問題で国際連盟の制裁を主導し、ストレーザ戦線を潰し、孤立したムソリーニをヒトラーのもとに追いやったのはイギリスである。イギリスが強硬姿勢でパリを支援していれば、1936年、ラインランドで、フランス軍がヒトラーの大隊を追い払っていただろう。イギリスがミュンヘンに赴かなければ、ヒトラーはズデーテンランドのために戦争を起こし、ヨーロッパは団結していただろう。ポーランドに戦争保証を発行していなければ、西欧で戦争はなく、第二次大戦は起こらなかっただろう。以上が、イギリスが二つの欧州戦争を世界大戦にすることに不可欠な役割を果たした理由である。その役割はまた英雄的でもあった。しかし、それは果たして賢明だったのだろうか?

必要不可欠な人物
 1914年の戦争介入にチャーチルは主役を演じた。アスキス、グレイ、チャーチル、ハルデーンが対独戦争を世界大戦に持って行った。かれらは勝った。ナポレオン以来のライバルは敗北し、分割され、武装解除され、支払不能の債務を負った。しかし、そのコストは、70万の生命、開戦時の14倍の債務の増加、帝国各地の反乱及び一流国からの滑落だった。アメリかの世紀が始まった。第一次大戦がベルサイユを生み、ベルサイユが第二次大戦を生んだ。西欧の二つの内戦で、1億の民が戦争または戦争の生んだモンスターの犠牲となった。ヒトラーの自殺でことが終わったわけではない。スターリンの殺戮はまだまだ継続し、勝利に酔った共産主義者は、中国と北朝鮮を征服し、数千万のアジアの友人を虐殺した。
 英国自治領と植民地のすべてはアメリカの保護下に入った。母国救援に遅めに入ったアメリカは、母国の資産の所有権を主張した。ブリタ二アは、衰退の日々を海に浮かぶ小屋で過ごすことを許された。しかし、偉大なる人物は、議事堂広場にその銅像が与えられた。

アメリカはいかに勝利したか
 アメリカは当初、高みの見物だった。1939年9月3日の炉辺談話で、ルーズベルトは、「合衆国内では停電する平和などはあり得ない」、と語った。これはアメリカの戦争ではない。ノルウェーの事件、ダンケルク、フランス降伏のあった1940年、かれは、「お父さん、お母さんたち、わたしは繰り返し、繰り返し保証する、あなたがたの息子さんを海外の戦争には絶対に行かせない」、と言って再選を果たした。FDRは嘘をついた。ヒトラーがロシアに侵攻した半年後、アメリカは参戦した。
 フランス降伏後4年、独ソ戦後3年経って、アメリカは第二戦線を開設してノルマンディに上陸した。アメリカは40万を喪った。しかし西部戦線のドイツ軍は、東部の4分の1にすぎなかった。ソ連の戦闘員の死者はアメリカ人の10倍に達した。Dデイに、ロンメルとフォン・ルントシュテット指揮下に、もし70万ではなく300万のドイツ兵が存在していれば、米兵の墓標はいくつ立っていただろうか?
 アメリカは最後の幕に登場したスーパーパワーだった。長いこと同盟の外にいたおかげで、消え去った20世紀の7つの列強(英、仏、独、オーストリア=ハンガリー、露、オスマン、日本)の運命をたどらなかった。むやみに同盟を結ばない、ヨーロッパの戦争に立ち入らない、という、ワシントン、ジェファーソン、ジョン・クウインシー・アダムズの英知に学んだのである。

未経験な道すじ
 1945年、西側で申し分のない指導者としてアメリカが現われたあと、スターリンの与えるショック、反動、挑発は、1939年にチャーチルが戦争に引きずり込まれた以上のものだった。しかし、アメリカはジョージ・ケナンの賢明なる方針、封じ込め政策を採り、第三次大戦を回避した。スターリンがヤルタの約束を破ってポーランドと東欧の国民を脅したときも、米国は最後通牒を出すことはしなかった。連合軍協定に反してベルリン封鎖をしたときも、トルーマンは空輸で対処し、機甲師団とか原爆は使用しなかった。1948年、プラハのクーデターでも戦争は仕かけなかった。アメリカの答はNATOであり、ヨーロッパの西側の防衛線を赤線で引いた。
 ポーランドとチェコの運命は悲劇的だったが、両方ともアメリカにとって利権はない。1949年から1989年まで、米国はヤルタの線を越えることはなかった。1953年の東独、1956年のハンガリーの動乱で、アイクは動かなかった。フルシチョフがベルリンの壁を構築したとき、ケネディは予備役を動員したが、1年後解散した。ロシアのミサイルをキューバから撤去する取引で、ケネディはトルコからミサイルを引き上げた。1968年、プラハの春で、LBJ(ジョンソン大統領)は何もしなかった。アメリカの不作為は、臆病ではなく、核兵器を持つソ連と戦いに陥る危険を回避したのである。1981年、ポーランドの「連帯」が潰されたとき、ロナルド・レーガンは、ワルシャワとの外交関係を維持し、経済制裁を行うことをしなかった。「暴れん坊をやっつける」ことが、スターリン、フルシチョフ、ブレジネフのソ連との戦争を意味するのであれば、アメリカ人は、その必要を感じなかった。チャーチルほど華々しいものではないにせよ、レーガンは冷戦に勝った。一発も銃弾を撃たずに。

チャーチルのわだちを踏む
 1989年に冷戦終結、1991年にソ連が崩壊し、アメリカは頂点に立った。ロシアは「悪の帝国」から、ゴルバチョフと赤の広場を手を組みながら歩ける国になった。捕らわれた国民にとってレーガンは解放者だった。アメリカは、経済、政治、文化、軍事の国力で地上第一位となり、自己の持つすべてを護る政策を採ることになった。
 9月11日事件以後、外交に無関心で未熟だった大統領、ジョージ・W・ブッシュは、ウィルソン流の民主原理主義に転じた。世界中を民主主義にすることが米国の安全を保障する。1942年、シュンペーターは、「マルキシズムは宗教だ」、と言った。弟子のジェームズ・A・モンテインは、民主原理主義は「むかしの宗教的情熱」そっくりだ、と言う。ブッシュは、「人は味方でなければテロリスト」、「この戦いは善と悪の戦いだ」、「悪の信奉者には・・国家もなく、思想もない、あるのは憎悪だけだ」、「アメリカの究極の目的は・・世界から暴虐をなくすことだ」、と言った。アメリカは、ソールズベリーやバルフォアのイギリスに似てきた。敵がいたるところに現われ始めた。
 ラテン・アメリカで、カストロは、ユーゴ・チャベスという後継者を得た。中東ではイスラム諸国民がアメリカを追い出そうとしている。イラクとアフガニスタンでは泥沼にはまり込んでいる。悪の枢軸のパートナー、イランによって挑発されている。中国は、英国に対するカイザーのドイツのような役割を始めている。
 ケナン、アイゼンハワー、レーガンの知恵に学ばず、失墜したイギリスの愚行を真似ようとしている。9月11日のあと、ネオコンがイラクで進めたことは、グレイとチャーチルが、ドイツのベルギー中立侵犯に対して採ったことと同じである。ポーランドにチェンバレンが与えた戦争保証は、ワルシャワ機構6ヶ国とバルト三国、(今後ウクライナとグルジアが加わる)に与えられ始めたNATOの保証と同じものである。敵対的なモスクワ政権がこれら諸国を再支配するとすれば、アメリカは宣戦するかも知れないが、バルト三国の独立に、アメリカの利益はなく、核武装したロシアと戦う価値はないのである。
 イギリスがバランス・オブ・パワー政策で、ヨーロッパの支配者を許さなかったように、2002年の米国国家安全戦略は、アメリカ優位への挑戦は許さない、と宣言した。しかし時間は止らない、アメリカ人が歴史の歩みを止めることはできないのだ。英国が日本とイタリアをヒトラーのもとに追いやったように、アメリカは、グルジア、ウクライナ、ベラルーシに手を出し、中央アジアに基地を設けることで、プーチンのロシアを中国に近づけている。
 オスマン帝国を敗ったあと、イギリスがイラクで帝国主義戦争を試みたように、アメリカはソ連に勝ったあと、イラクで戦争を始めた。アメリカがこれほどまで海外にコミット(入れ込む)する前例はない。しかも現在、現役兵力は総人口の0.5%であり、1945年5月の兵力の9分の1である。われわれアメリカ人は、いま、ウォルター・リップマンのいう「外交破産」に近づきつつある。わが国の戦略、武装、同盟国上の資産は、中南米、バルト海沿岸、バルカン、中東、湾岸、日本、韓国、フィリピン、オーストラリア、台湾に対する戦争コミットメント上の負債をカバーしきれなくなっている。二つ三つの証書の決済が迫られれば、世界にアメリカの外交政策の破産が示されてしまうのだ。
 1939年の英帝国のごとくアメリカは伸びきっているが、この星すべてを民主化する、すべての国民の社会正義、人権の水準を自国の標準にあわせ、「世界の暴虐を終わらせ」ることが、アメリカの政策である、と宣言している。 
 この役目を世界中に示すため、ブッシュ大統領は、オーバル・オフィスに、ウィンストン・チャーチルの胸像を飾っていたのである。
   
                                           (了)
 

 
  
未分類 | Comments(0) | Trackback(0)
2009/07/27

Unnecessary War ー第14章(つづき)

チャーチルの道徳性の進展
  ほとんどの伝記作家は、若きチャーチルをキリスト教戦士の典型として描いている。しかし海軍相となって、自ら望んだ戦争となってからはなかなか名誉の騎士というわけには行かなくなってきた。「成功だけが戦争を正当化する」と言ったフォン・モルトケ以上に、チャーチルは中立国の権利を尊重しなくなった。ドイツが先にベルギーの中立を冒さないのであれば、自分がそうしよう、とアントワープの封鎖を企んだ。オランダとデンマークは中立国であったにもかかわらず、両国の島嶼を占拠しようとした。トルコがまだ中立だったときに、ダーダネルスの封鎖を主張した。
 戦力に対する以外の、女子供に対する食糧封鎖は国際法違反であり、そもそも人道に抵触するものだが、チャーチルの飢餓封鎖(スタベーション・ブロッケード)は近代に前例のないものだった。ドイツが戦場で毒ガスの使用を始めたとき、チャーチルは帝国の敵に対しての毒ガス使用を主張し、1920年のイラク反乱でその使用を奨励した。ガスに致死性がなく、強力な爆弾よりも人道的だ、とチャーチルを擁護するものもあったが、クルド人、イラク人に対して使用したガスは多くのものを殺傷した。チャーチルは首相就任の日に、民間人に対する爆撃を命じた。これは空軍相、ビーヴァーブルック卿に対する書簡の形で残っている。ポール・ジョンソンは、この手紙を、「全体主義に対する道徳的相対主義が意思決定過程に入り込んできた、歴史的に非常に重要なもの」と指摘している。

「人の心を持つ狼」
  1944年5月11日、ドイツ軍のフランス侵入、そしてチャーチルの首相就任後、24時間経たぬうちに、爆撃司令部(ボンバー・コマンド)は、18機のウィットレー爆撃機を、戦線からはるかに遠いウェストファリアの夜間爆撃に発進させた。これまで2世紀にわたって築き上げた近代戦思想の、意図的な違反行為である。リデル・ハートは、非戦闘地域への爆撃を最初に決めたのはチャーチルである、という。1942年、スターリンとの初会見でも、チャーチルは、民間居住地域を軍事目的として爆撃し、士気阻喪する話をした。スターリンは、「悪くないアイディアだ」といい、二人の間の雰囲気は一層親密となった。絨毯爆撃の考案者は「教授」という綽名の、チャーチルの親しいフレデリック・リンデマンという科学者で、リンデマンは根っからのナチ嫌いだった。リンデマンは、爆撃機の生産に集中するよう進言し、爆撃の効率をよくすためには労働者階級居住地域を狙うのがよい、人口5万以上のドイツの都市を空襲し、半分の家屋を焼くのがよい、と報告書を出した。ロジャー・ウィリアムズがマサチューセッツのインディアンになぞらえた「人の心を持つ狼」の仕業となる。イギリスの空爆はドイツの報復を招いた。コヴェントリー、バーミンガム、シェフィールド、サザンプトンがやられた。
 1944年、チャーチルは、化学、生物兵器の対民間人使用も考慮し始めた。500万個の炭疽菌爆弾をドイツの農場に落とし、家畜を汚染する秘密計画を練った。この爆弾はスコットランドのウェスター・ロスで実験された。1990年になってもその実験場の汚染は浄化されていなかった。1944年7月、連合軍がノルマンディで進撃中に、チャーチルは参謀総長の「パグ」・イズメイ将軍に、毒ガスの使用を真剣に考慮するよう求めた。「わたしが、アンクル・ジョー(=スターリン)と大統領(=ルーズベルト)と対等にわたり合うのは当然のことだ」。
 ヤルタ会談から帰国する前、チャーチルは「サンダークラップ(雷鳴)作戦」を命じ、アーサー・「ボンバー」・ハリス空軍中将は、ドレスデンを目標に選んだ。空襲の最初の夜、770のランカスター機が襲った。65万発の焼夷弾と1474トンの爆弾が落とされた。1600エーカー以上が焼け野原になった。(コヴェントリーの焼失は100エーカー)そのあと朝になって500機のB-17が、300の護衛戦闘機をしたがえてやってきた。焼死者は3万5千から25万と推定されている。アメリカ人もこの戦略の後を追った。カーチス・ルメイは、その有名な東京空襲で、1945年3月9-10日にかけ、ヒロシマとナガサキの合計の犠牲者より多くを焼き殺した。西欧人の野蛮への復帰に、チャーチルは指導的役割を果たしたのである。

チャーチルの信念
  民間人に加えたチャーチルの非情は、かれの信念に基づく。チャーチルはローマの異教徒よりもさらにクリスチャン的でなかった。熱烈なキリスト教徒であるボーア人に捕らえられたとき、かれらの歌う讃美歌は、砲弾よりもかれに恐怖を与えた。本当は、ボーア人の方に「大義」があったのである。チャーチルを捕虜にしたのが、アフガン人やシュー族でなかったのは幸運というべきである。
 チャーチルは内相のとき、知的障害者、精神病者の隔離を図る広大な移住地の建設を計画した。それは最終的に民族浄化のジェノサイドに終わった、ヒトラーの精神障碍者の強制不妊の始まりと同種のものだった。チャーチルは親ユダヤで、シオニストを支持していたが、ボルシェビズムの根源については、ヒトラーとあまり変わりのない考えだった。「すべては人種だ」、とディズレーリは言ったが、チャーチルも賛成しただろう。チャーチルにとって、血液と人種は諸国民の歴史と文明について決定的な要素だった。かれにとって、黒人は「二ガー」または「黒ちゃん」、アラブ人は「価値なし」、中国人は「チンクス」ないし「豚の尻尾」、インド人は「バブー(英語を喋るインド紳士)」、南アフリカの黒人は「ホッテントット」だった。戦時中、インド人の独立要請を怒鳴りつけた。「インド人は嫌いだ。動物のような宗教を信じる動物と同じだ」、と言った。

「英国を白色に保つ」
  こうした人種観が、1950年代半ば、首相としてのチャーチルの「英連邦からの有色人種移民問題」に対する制限論の背景にあった。かれの考え方は、ソールズベリー卿のそれとほぼ同じだった。1955年4月、意向に反してチャーチルは下野した。「英国を白色に保つ」スローガンはおろされた。世は、ガンジーの承継者、マルチン・ルーサー・キングがモンゴメリーで行進を始めた時代になっていた。制限論者はいなくなった。英国は他人種社会になった。チャーチルのイングランドはもはやなくなった。

政治家ーまたは戦争屋?
  チャーチルが、英国民の偉大な戦争指導者であったことは否めない。しかし偉大な政治家だっただろうか?1940年5月13日、下院で、「政策は、と問われれば、それは、海、陸、空で、死力を尽くして悪魔の専制に対する戦争を遂行することである、そしてその目的は勝利である、いかに長期にわたろうが、いかに厳しかろうが、あらゆる犠牲を払って勝利することである。勝利なくして生存はない」、と獅子吼した。
  ナチの専制とプロシア軍国主義の打倒、これだけを頭において、チャーチルはスターリンの東ポーランドと東欧の支配を認めた。カサブランカでは、FDRの「無条件降伏」条件とモーゲンソー・プランに賛同した。ナチ宣伝相のゲッベルスは、これを、敗北して生存はない、と死ぬまで戦うというプロパガンダに利用した。アイゼンハワーは、無条件降伏の要求は、戦争を長引かせ、無数の犠牲者を生み出す、またドイツの荒廃は、スターリンがあとで埋めて行くヨーロッパの真空地帯を生み出す、と懸念した。チャーチルは専制と6年戦って、より厳しい専制への道を拓いた。しかし、鉄のカーテン演説をしたチャーチルは、キリスト教文明社会を護るため、自らが「フン族」と呼んだドイツ人の再軍備を求めることになる。クラウゼビッツは、「戦争とは、ほかの手段による政治である」と言った。戦士の目的は勝利である。政治家の目的は、国民に安全を齎す平和である。チャーチルは、戦争指導者として素晴らしい成功を収めたが、政治家としては失敗した。後年、自らもその失敗を認めた。スターリンは、常に戦後のヨーロッパの姿を心に描いて行動した。東洋的専制と野蛮の多年の障壁となっていたドイツが敗れたあと、大陸がどのような状況におかれるか、チャーチルは深く考えていなかったようだ。戦争上手は和平下手、和平上手は戦争下手、と言われるが、ワシントン、ウェリントン、ビスマルク、マッカーサーは両方を上手にやってのけた。

「英国という乳牛からミルクをしぼる」
  チャーチル伝説とは何なのだろうか?かれが入閣した1911年から、ダウニング街を去った1955年までのほぼ半世紀は、イギリス国力減衰の半世紀だった。アジアとアフリカの植民地はすべて失われた。20世紀はイギリスの世紀ではなく、アメリカの世紀となった。チャーチルは、二つの英語国は永遠のパートナーと信じ、イギリスの政治家は、アメリカのローマに対し、ギリシャを演じると思っていた。しかし、FDRは、英国の最悪の時代にあって、モーゲンソーが欲しがった、西半球の英国の資産のリストを見て、「うん、イギリスは破産していないーまだカネはある」、と言った。
  レンド・リースの前、イギリスは合衆国にあった商業資産をすべてアメリカに売却させられた。ルーズベルトは、イギリスの最後の金準備、5千万ドルを、自らの持ち船、クウィンシーでアメリカに運ばせた。FDRは何を自分がやっているのか、充分承知していた。「英国という金融の牝牛から、ミルクをしぼるのだ、以前はいっぱい出たが、近頃は乾いてきた」、と閣僚に打ち明けたことがある。テヘランとヤルタで、同盟国イギリスをもっと支援すべきところ、ルーズベルトはスターリンを面白がらせるためにチャーチルを揶揄した。FDRは英帝国をアナクロニズムと思っていた。イギリスは帝国を護るつもりだったが、その主要同盟国アメリカは、それを潰そうとしていたのだ。
  1956年、イーデンが、国有化されたスエズ運河を取り戻そうとエジプトに出兵したとき、ハロルド・マクミランは、「わたしはアイク(アイゼンハワー米大統領)をよく知っている、かれは動かない筈だ」と言った。イギリス人はアメリカ人をよく読み違える。アイクはイギリスに撤兵を迫った。アメリカにポンドを叩き売ると脅かされ、英国は引き下がった。新しいローマ人は、ギリシャ人を必要としないのである。第2次大戦で、アメリカは連合王国を防禦するつもりだったが、英帝国を護るつもりはなかった。
  チャーチルの、6巻にわたる第二次大戦史の最後の著作「勝利と悲劇」のタイトルは適切である。チャーチルの言葉は不滅である。しかしその行為は国民と世界にとって悲劇となった。フルトン演説の帰途の車中でチャーチルはアメリカ人に述懐した。「もう一度生まれ変われるなら、合衆国に生れたい。お国はこれからの国だ・・グレート・ブリテンは絶頂を過ぎた」。
 1943年、カイロでマクミランと交わした会話がある。「クロムウェルは偉大だが、一つ間違いを犯した。スペインの恐怖に捉われて、フランスの脅威を見逃したことだ、これはわたしにも当てはまるかね?」。
 かれにも当てはまる。チャーチルは偉大だったーしかし、それは自国の偉大さと引き換えになった。
  


  
未分類 | Comments(0) | Trackback(0)
2009/07/24

Unnecessary War -第14章 (つづき)

勝利の犠牲
 スターリンの犯した罪の数々を知りながら、なぜスターリンと同盟したのか、と訊かれたチャーチルは、「スターリンの目的は、唯一、ヒトラーを打倒することだった。ヒトラーが地獄を侵略したというなら、スターリンは悪魔に良い顔をしようとしただけなのさ」と答えた。
  「いかなる犠牲(コスト)を払っても」ヒトラーを斃す、とチャーチルは言った。しかし、本当にイギリス、英帝国、ヨーロッパの犠牲(コスト)がどれほどになるかを考えていたのか?ダンケルク以後5年の戦争で、その財政的、戦略的、人道的犠牲は天文学的数字になった。まず、世紀の最大の虐殺者に対する、チャーチルの宥和策(アピーズメント)についての人道的犠牲のことを考えてみよう。ヒトラーが対スターリンの戦争を始めたとき、チャーチルは、ポーランドの略奪に加担したスターリンを、聖人の仲間に引き入れた。「ロシアの危険はわれわれの危険、・・そしてアメリカの危険である」。
 1942年、スターリンと初めて会ったチャーチルは、ムルマンスクへの援助船団がいかに損害を被っているかを説明した。スターリンは、イギリス海軍が尻尾を巻いて退却したところを初めて見た、ドイツ人は何もスーパーマンではない、イギリス人は戦うのを怖がっているのだ、と侮辱した。英国が単独で戦っていたとき、スターリンはナチを支援し、英仏の開戦を非難していた。1919年、チャーチルがロシア介入の急先鋒だったことをスターリンは持ち出した。「赦してくれますか?」とチャーチルが言うと、元神学生のスターリンは、「みな過ぎたことです。過ぎたことを赦すのはわたしではなく、神様なのです」、と答えた。
 チャーチルは、スターリンがヒトラーとの協定で略奪したバルト三国のソ連併合に同意した。チャーチルは、ロンドンのポーランド亡命政権から、1940年、ソ連の捕虜であった1万5千のポーランド将校が虐殺された事件の調査を求められたが、無関心だった。1943年テヘランで、チャーチルはスターリンに十字軍の剣を贈呈した。チャーチルは、1944年、ポーランド人に国境変更を求めたが、それはミュンヘン問題そのものを単純な国境変更問題にしてしまうようなものだった。
 1944年9月、ルーズベルトとチャーチルのケベック会談で、ソ連のスパイだったハリー・デクスター・ホワイトが起案した、モーゲンソー・プランが討議された。これが実施されれば、ドイツは完全な農業国となり、数百万の死刑宣告ともなり得る。モーゲンソーは、食えない人口は、連合国の船で北アフリカへ移せばよい、と示唆した。チャーチルは、レンド・リース(武器貸与)第2弾を受けたいのであれば、モーゲンソー・プランを承認せよ、とまで脅かされた。
 ワシントンではこの苛酷なプランに対して大論争が巻き起こった。国務長官のスティムソンは、FDRに、モーゲンソー・プランは大西洋憲章に違反する、と意見を伝えた。ルーズベルトは後退した。
 赤軍の示唆によってワルシャワで蜂起したポーランド国内軍(ホーム・アーミー)は国防軍(ヴェアマハト)に壊滅させられた。その間、赤軍は拱手傍観していただけだった。モスクワに飛んだチャーチルは、スターリンと、ルーマニアではロシア90%、イギリス10%、ギリシャではイギリス90%、ロシア10%とする戦後の権益の取引をしていた。チャーチルのポーランドでのスターリンへの妥協は、ミュンヘンより悪かった。ズデーテンのドイツ人はドイツ復帰を望んでいたが、ポーランド人はソ連を恐怖の的としていたのである。1945年2月のヤルタでは、チャーチルはヨーロッパの半分をスターリンに譲った。3年後、1946年3月5日、ミズーリ州フルトンで、チャーチルは、「バルト海のシュッテッティンからトリエステまで、大陸を鉄のカーテンが覆っている」、と演説した。カーテンは、テヘラン、モスクワ、ヤルタで、かれと、オールド・ベア(熊小父さん=スターリン)とが決めたものだった。

民族浄化と奴隷労働
 ミュンヘンで、チェンバレンは戦いを避け、325万のズデーテン・ドイツ人をドイツに戻すことを了承した。テヘランとヤルタで、チャーチルは1億のキリスト教徒をスターリンの恐怖のもとに引き渡した。さらに、1300万から1500万のドイツ人を父祖の地から追い払うことに同意し、うち200万は、出国の過程で死亡した。チャーチルは、ドイツ人をスターリンの奴隷労働にまかせ、ロシア人、ウクライナ人、コサックの、自らが世紀最悪の汚濁に満ちたアジア的野蛮と呼んだ、スターリン体制への強制帰国にも同意した。ノルマンディ戦で捕虜となっていたドイツ兵のなかで、数千のロシア系兵士が英国の手に渡された。かれらはドイツ軍の制服で戦ったので、1929年のジュネーブ条約に基づく戦時捕虜の規定が適用されるべきところ、チャーチルはロシアに戻した。
 1943年、テヘランでチャーチルは、ポーランドの半分のロシアへの併合を承認した。見返りに、ドイツの東部地方をワルシャワに譲ることにした。1944年10月、チャーチルとイーデンはモスクワのイギリス大使館で、ポーランドのリーダー、ミコワイチクにこれを押しつけた。
 20世紀の悲劇は、チャーチルが「個人的にスターリンと結んだ」点にある、と、A.N.ウィルソンはいう。この個人的関係から、チャーチルは、数百万の戦時捕虜とロシア人の抗議をよそに、ソ連市民であろうがなかろうが、かれらを連合軍占領地域から追いたて、NKVD(秘密警察)のもとに追いやった。 1944年5月24日、チャーチルは、大西洋憲章の諸原理は、敗戦ドイツには当てはまらない、と宣言していた。
 東プロシア、ポメラ二ア、東ブランデンブルグ、シレジア、ダンチッヒ、メメル、ズデーテンランドから、数世紀も住み着いていたドイツ人が容赦なく追い立てられた。チャーチルとFDRは、何が行われているか充分承知していたが、ニュルンベルグで、「人道に対する罪」でドイツ人が裁かれているとき、このような非人道的行為を黙認していたのである。
 戦争が終わったとき、ヒトラーとその邪悪の体制は滅びていた。チャーチルはこれに歴史的な貢献をした。しかし、かれの全生涯の三つの目標、英国の門扉を社会主義に開かない、最愛の帝国を防禦する、ヨーロッパ支配の唯一の力の出現を阻止する‐の達成のすべてに失敗した。かれは、かれが勝利に導いた自国民から解任された。そして、そのために戦争をした諸国民を裏切ったのである。

軍事戦略家として
  チャーチルの伝説的な軍事戦略家という名声も、詳しく見て行くと危ういところがある。1945年8月から1915年5月までの海軍大臣時代、かれは二つの失敗をしている。
 一つは、訓練のできていない海軍陸戦隊による、1914年のアントワープ防禦支援作戦である。数週間のうちにアントワープはドイツ軍に占拠され、船隊は壊滅、終戦まで抑留された。もう一つは、1915年、ダーダネルスの悲劇である。トルコを分断して、コンスタンチンノープルを陥とし、中立のバルカン半島を連合軍に味方させ、ロシアへの援助供給ルートを開こう、としたものである。しかし、ネルソンの、軍艦だけで要塞と戦うな、という教訓を無視して戦闘に入ったため、初日にまず戦艦3隻を失い、さらに3隻が触雷した。英仏、アンザック(オーストラリアとニュージーランド)の陸兵到着が遅れているうち、トルコ軍はガリポリ要塞を強化し、数ヶ月の戦闘で連合軍は20万の兵士を犠牲にした。
 1939年9月、チャーチルは海軍相に復帰し、ドイツのスエーデンからの鉄鉱石輸入を阻止するためノルウェーの中立を侵犯する策を上程した。1940年2月、英駆逐艦、コサックが、ドイツのアルテマルク号の針路を阻んだ。アルテ・マルクは、ドイツ戦艦、グラフ・シュペー号で沈められたイギリス船員捕虜の輸送途中だった。コサックは捕虜奪回の作戦に動いたのである。ヒトラーは、これをイギリスのノルウェー占領の思惑と受取り、先手を打つことにした。4月、ドイツ軍は軍艦を商船に偽装して、オスロ、ナルビックなど、ノルウェーの5港を抑えた。ノルウェー占領はチャーチルが呼び込んだ形となった。しかし、この作戦で責任を取らされたのはチェンバレンの方だった。
 2年後、第二戦線開設をスターリンに迫られたチャーチルは、すでに首相だったが、海峡横断のディエップ上陸作戦を強行した。この戦闘はまさに血の海となり、ほとんがカナダ兵で構成されていた6千名の攻撃隊員のうち、3分の2が死傷した。英空軍は独空軍に3対1で撃墜された。これはカナダ軍事史で最大の惨事となった。
 チャーチルは、潜水艦の役割は陳腐化したと言い、航空機の艦船攻撃の限界も指摘していた。しかし、自らが海軍相だった1939年9月、航空母艦、カレッジアスは、ブリストル海峡で魚雷攻撃で沈められ、翌月、スカパ・フロー基地にドイツ潜水艦の侵入を許し、戦艦、ロイヤル・オークを撃沈された。開戦後9ヶ月で、イギリスは80万トンの船舶を失った。首相就任の初年、イギリスのソードフィッシュ複葉機は、タラント港でイタリアの戦艦群を沈めた。ルーズベルトとの大西洋憲章調印のとき、チャーチルの乗船した戦艦、プリンス・オブ・ウェールズは、1941年12月10日、巡洋戦艦、レパルスとともに、日本の戦闘爆撃機と魚雷攻撃機によって沈没させられた。6ヶ月後、ミッドウェーでは、日本の4隻の空母がアメリカの航空機攻撃で海の底へ消えた。
 
 
 
未分類 | Comments(0) | Trackback(0)
2009/07/21

Unnecessary War -第14章 マン・オブ・ザ・センチュリー(世紀の人)

 わたしは、自分の信じる原則について、わたしの言葉が与える印象、それに対する人の反応などはまったく意に介さない。
 -ウィンストン・チャーチル   1898年

 ウィンストンにはまったく原則がない。
 -ジョン・モーレイ 閣僚    1908年

 チャーチルは自分の名前を歴史に残すだろう。しかし、それが血染めで書かれないよう注意しないと。
 -A.G.ガーディナー       1913年   「Pillars of Society (社会の柱石)」

  20世紀が終わりを告げるとき、世紀の最大の偉人はだれだったろうか、と論議が起こった。ウィークリー・スタンダードはチャーチルを挙げた。キッシンジャーは疑問を呈したが、2002年のBBCの投票では、チャーチルは、イギリス人の永遠の最偉人とされた。米西戦争、インドのマラカインド制圧、スーダンのオムドゥルマン反乱、ボーア戦争などに、報道員ないし軍人として参画、数々の著作をものし、国際的名声を得た。36歳で海軍相となり、参戦におおきな発言権を持った。ダーダネルス作戦で降板したが、ロイド・ジョージ内閣では陸空軍大臣を務めた。6巻にのぼる第二次大戦回顧録は、ヘミングウェイをさしおいてノーベル文学賞を得た。あるかれの伝記は、単に「ザ・グレート・マン(偉人)」というタイトルがつけられている。かれの伝説はどこにあったのだろうか?

装甲列車
 チャーチルを有名にしたのはボーア戦争である。生涯にわたる、かれへの毀誉褒貶はここから始まった。モーニング・ポストの記者として従軍したチャーチルは、前線偵察のため装甲列車に兵士とともに乗車し、ボーア支配地区にでかけた。騎馬隊の掩護もなかったので、あっさりと攻撃を受け、捕虜になった。この偵察はきわめて無暴だったが、ここから脱走したことが大々的に報道され、一躍時の人となった。26歳で国会議員となり、2回ほどの短期欠場期間を除いて、64年間議席に座った。1904年、政権掌握前夜の自由党に移籍し、論功行賞で内務相、海軍相のポストを貰った。
  自由党からは成り上がり者、保守党からは逃亡者とみられ、評判は芳しくなかった。他人の話をあまり聞かず、自分は大声で演説した。華やかさは認められていたが、その判断には疑問が持たれた。1924-29年、第2次ボールドウィン内閣で蔵相を務めたが、1935年、ボールドウィンの第3次内閣では外された。チャーチルは移り気だと見なされたのである。金本位復帰という蔵相時代のかれの決断は、海外市場の価格と折り合わず、英国の輸出品を過大評価する結果となった。1926年のゼネストの原因となり、恐慌を深化させ、1929年のボールドウィン内閣の退陣につながった。ケインズは、「平和の経済的帰結」の続編として、「チャーチル氏の経済的帰結」という本を書いた。
 ガンジーが釈放されて、インド副王(総督)とデリーで会見したとき、議会でガンジーを誹謗した。「インドに独立を与えるなど、文明に対する罪である、世界の破局につながる」。シンプソン夫人をめぐるエドワード8世退位問題では、譲位に反対した。

全盛期 
 チャーチルを、なぜ、世紀の人とするのか?
 答: かれは西欧文明を救うのに不可欠の人物だったから。チャーチルがいなければ、1940年、イギリスは、ヒトラーの和平提案に応じていただろう。となると勝ったヒトラーは、矛先をロシアに転じこれを叩き潰す。世界はかれの足元にひれ伏すkとになる。1940年6月から1941年6月まで、イギリスのブルドッグは単独でドイツに立ち向かい、ヒトラーが致命的な失策ーソビエト侵略と対米宣戦、を冒すまで持ちこたえた。
 チャーチルを世紀の人に仕立てるのは、1940年の業績だけである。1940年5月10日、ドイツがフランス侵攻に取りかかった日にチャーチルは首相となり、ダンケルクの奇跡の撤退を演出し、世紀に残るバトル・オブ・ブリテンを戦った。もう一度人生を繰り返すとすればいつが良いか、と後日聞かれると、チャーチルは、「1940年、とにかく、とにかく1940年だ」、と答えた。しかし、ダンケルクの少し前、チャーチルもヒトラーとの和平を考えたこともある。外相のハリファックスは、当時参戦していなかったムソリーニを仲介する案を考えた。マルタ、ジブラルタル、アフリカ領土をいくつか譲れば、英帝国は保持できると考えたのである。しかし、チャーチルは、ヒトラーは英艦隊、海軍基地を要望し、わが国を奴隷国家にしてしまうに違いない、と5月28日、戦争内閣で発言し、和平案を一蹴した。
 しかし、フランス艦隊も手中にしなかったヒトラーが、英海軍を寄越せ、と言っただろうか?奴隷国家にするという証拠があったろうか?1940年6月、フランスが降伏した頂点で、ヒトラーは、英帝国の存続を願っていたのである。戦争を終わらせたかったのだ。チャーチルは和平への誘惑を断ち切って、戦争続行を決断する不可欠の人物となる道を選んだ。

必要不可欠な人物 
 チャーチルは、ヒトラー打倒に真に不可欠な人物だったろうか?
 1939年9月1日、ポーランド侵攻の数日前、ヒトラーは、ダンチッヒ危機を、英国と交渉で解決すべく、24時間以内に到着するよう、ベルリンにポーランド全権を招んだ。これは英国との戦争回避の真摯、かつ絶望的なヒトラーの努力だった。ワルシャワ陥落後、10月6日に、ヒトラーは英仏に和平提案を行った。10月12日、英仏はこれを拒否した。そして、1940年6月、フランス降伏後、ヒトラーは再度、終戦の提案を行ったのである。戦争の迅速な解決がドイツ国民の利益になる、ヒトラーは、エリッヒ・レーダー提督に語った。
 7月22日、イギリス外務省は、正式にヒトラーの和平提案を拒絶した。この回答に接し、ヒトラーは今後の方策をめぐらした。英国侵攻か、アイスランドまたはアイルランド侵入か、アゾレス、ケープ・ヴェルデ、カナリア諸島、ジブラルタル占領か、それともトルク、シリア経由でスエズを押さえるか。ヒトラーの結論はロシアだった。ジョン・ルカッチはいう、1941年のロシア攻撃は、生存圏獲得でも、ユダヤ人ボルシェビズム撲滅でも、ソ連の攻撃に対する先制でもない、これは英国の最後の望みを潰す試みだった。英国の希望はロシアとアメリカであり、ロシアが除去されれば、アメリカも出てこない。7月26日、ヒトラーは、翌年春にソ連を攻撃することをアルフレッド・ヨードル将軍に伝えた。12月18日、バルバロッサ作戦の指令が発された。
 1940年11月、ルーズベルトは再選され、合衆国の対独臨戦態勢が取られ始めた。ヒトラーは周囲の将官に、「ロシア打倒が唯一英国を屈服させる道筋だ」、と説いていた。
 こうしてチャーチルの和平拒絶が、ヒトラーのソ連攻撃を惹き起こしたといえる。戦争はそのあと4年間続いた。数千万の人命が奪われ、ヨーロッパ大陸は荒廃した、そしてヒトラーも自壊した。ヒトラー帝国の破滅と、1940年から1945年までの戦争の継続について、チャーチルはたしかに必要不可欠な人物だった。
 しかしそれは価値あることだったのか?1940年、バトル・オブ・ブリテンのあと、または1941年、ロシア侵攻のあとに戦争が終わっていれば、英国は、もう少しましな立場におかれていたのではなかろうか?4ないし5千万の生命は、ヒトラー、ヒムラー、ゲッベルスのナチ体制を打倒することと果たして引き合ったのだろうか?   

 
未分類 | Comments(0) | Trackback(0)
2009/07/18

Unnecessary War -第13章 ヒトラーの野心

 ヒトラーの一番やりたくなかったこと、それは次の大戦だった。
 -B.H.リデル・ハート

 一つ、ヒトラーが考えていなかったことは、大戦である。しばしば、かれの所為にされているが。
 -A.J.P.テイラー


 1933年にヒトラーが政権を掌握したとき、ミュンヘンのビア・ホール一揆(プッチ)のことや、マイン・カンプの著者であることを知っているものは、その好戦性を警戒した。国会議事堂放火事件後の共産主義者の大量逮捕、ダッハウの強制収容所建設、SSの長いナイフの夜事件などで、新しいドイツの性格もわかってきた。しかし、この章では、ヒトラーが残忍、無慈悲で、スターリン、毛沢東、ポルポトに匹敵する野蛮人として紹介するのが目的ではなく、西側との戦争をヒトラーは果たして模索していたのか、を検証してみたい。1939年に至るまで、数々の危機におけるかれの対応を見るに、答は「ノー」となる。
 1934年、オーストリア・ナチのドルフース暗殺で、ムソリーニと対決しそうになったとき、ヒトラーはヒステリックにその関係を否定した。1936年、ラインランドに軽武装の3大隊を送り込んだとき、フランスの抵抗あれば即時撤退せよ、と命令した。生涯で「最高にナーバスになった瞬間」と述懐した。1938年3月、オーストリアの危機は、ヒトラーが招いたものではなく、シュシュニクの慌てた国民投票がきっかけとなった。ムソリーニが介入しないと伝えたとき、ヒトラーはそれに感激した。1938年、ゴーデスベルグ会談で、ヒトラーがチェコ侵入の脅しをかけたとき、英仏、チェコが動員開始した。そのときヒトラーはチェンバレンに弁明書を出して、平和の模索の継続を要請した。ムソリーニのミュンヘン会談案に飛びついたのはヒトラーだった。1939年8月、リッベントロップ=モロトフ協定のあと、チェンバレンがポーランドとの同盟関係を再確認したとき、ヒトラーは驚いて英国との戦争を避けるため侵入計画を1週間延期した。9月3日、イギリスの最後通牒に接し、「これは何だね?」と言った。世界を征服するつもりなら、唯一の頼りになる同盟国、ムソリーニが鋼鉄条約から抜け出したあと、どうやって戦うつもりだったのか?ヒトラーはまったく英国と戦争するつもりはなかった。ロイヤル・ネイビーの1/3で満足する英独海軍協定どおりの考えである。英帝国の廃絶ではなく、同盟を望んでいたのである。1939年8月、ドイツの将軍たち、国民、みなそれを望み、ヒトラーもうまく交渉できると思っていた。これでかれが世界征服を企んでいたといえるだろうか?実際に、どんな段取りがヒトラーの頭のなかにはあったのだろうか?

ヒトラーの野心
  ヒトラーの企みについては議論が分かれるところである。 あるものは、まずヨーロッパを収め、イギリスを手中にして海空のアルマーダ(大艦隊)を作ってアメリカと決戦し、世界支配を狙った、という。あるものは、ヒトラーの関心は、東方にあっただけ、という。全員が一致するのは、①まず、ドイツ国内での権力確立、②ベルサイユ条約の廃棄による平等な地位の回復、とくに再軍備、③ベルサイユで分断された領土の回復、ドイツ人の帝国への復帰、④新しいドイツ帝国の領土獲得のための「ドランク・ナッハ・オステン」(東方進出)、⑤ユダヤ人、ボルシェビズムの浄化、そして自ら、フレデリック大王、ビスマルクに匹敵する歴史上の人物になること、の諸点である。
 反ユダヤ主義は、マイン・カンプのときから、一貫した主張であった。かれにとって、ユダヤ人と共産主義者は同じものだった。しかし、ヒトラーは政権掌握後、レーニン、スターリンと同じように、イデオロギーを国益の下においた。1939年8月の独ソ条約、1941年の独ソ開戦はいずれもイデオロギーによるものではない。

敗北の教訓
  1918年の敗戦を、ナチのプロパガンダが喚くように、「11月の犯罪人ども」とか「背後の一突き」の所為と考えるほどヒトラーは愚かではなかった。フランスでの敗戦は、ロシア戦線での勝利の果実を持ち去ったのみならず、苛烈なベルサイユの押しつけのもととなった。ドイツは二度と二正面の戦争をしてはならない、これがヒトラーの引き出した教訓の第一だった。 
 第二は、戦争が長引くにつれて、ドイツの国力は潜在的な敵に比較して弱くなるという点である。人口は、オーストリア合邦とズデーテンのドイツ人を編入して8千万、ちょうど英仏合計に相当するが、英帝国を考えると、その人口は4億5800万、ソ連は、1億9700万なのである。それにアメリカ人は1億4千万だった。面積のことを考えればまったく問題にならない。資源と生産性からしても世界戦争を戦えるわけはない。ヒトラーは、カイザーの外洋艦隊も愚行と考えていた。それは1904年の英仏協商を生んだ。大戦ではイギリスの海峡横断軍を阻むこともできず、植民地も護れなかった。
 ここから三番目の教訓が出てくる。ドイツは、アングロ・サクソンの海軍力から植民地を防禦できない。新しく戦争を始めるなら、その前に自給自足(オータルキー)を確保しなければならない。ドイツは輸入に頼ってはいけない。
 ヒトラーの結論。海外領土は防禦不能、したがって新しいドイツは、アフリカ、アジアではなく、中欧、東欧に築かねばならない。マイン・カンプにもこのことは記載されているが、それ以前から、ドイツの救済は唯一、ボルシェビズムの破壊からしかあり得ない、と述べている。(イアン・ケルショウ)

ヒトラーの夢想の同盟 
  ヒトラーは、ローマとの同盟のために南チロルを売った。アルザス=ロレーヌの権益は放棄した。陸軍の信頼を得るため、旧友の抹殺に加担した。かれは、「手段について最高にプラグマティック(実際的)で・・必要とあれば、いつでもイデオロギーを捨てる用意が」あった。海外政策については、歴代の為政者に比べればずっと穏健で、アフリカの失地回復など唱えなかった。
 ヒトラーは、英国民と英帝国を賛美し、その植民地を手に入れる、ロイヤル・ネイビーに対抗する艦隊を持つ、といった考えはなかった。 マイン・カンプでも、ドイツのヨーロッパにおける同盟国は二つ、英国とイタリアだけだ、と言っている。カイザーの大失敗は、イギリスとロシアと同時に戦ったことだ。イギリスは本来の同盟者である。植民力、商業力、海軍力にすぐれ、ヨーロッパ大陸における領土的関心はない。イギリスとの戦いの最中(さなか)でも、ヒトラーは英独同盟の夢を持っていた。ダンケルクでの「停止命令」も、英独関係の決定的悪化を避ける措置だった。
 フランス降伏後の1940年6月25日、ヒトラーは、ゲッベルスに英国との和平条件のとりまとめを命じた。英帝国は保持する、しかし、イギリスは、ソールズベリー卿の「光栄ある孤立」の政策に戻り、ヨーロッパのパワー・ポリティックスから手を引くこと、がその条件だった。バトル・オブ・ブリテン(ロンドン爆撃)続行中の1940年8月14日、ヒトラーは、空軍将官に訓示した。「イギリスを壊滅してはいけない。それで得をするのは、ドイツではなく、東では日本、インドでロシア、地中海でイタリア、そして世界の貿易でアメリカ、である。英国と和平を望む理由である。しかしチャーチルが首相であるかぎりは攻撃する。ルフトワッフェ(ドイツ空軍)がどこまでできるか、イギリスの総選挙を待とう」。ロンドン爆撃は、イギリス上陸の準備ではなかった。チャーチルを追い落とすためだったのである。英帝国を破滅する考えなくして、どうしてヒトラーが世界制覇を目論んだといえるだろう。シンガポール陥落の第一報を聞いたとき、ヒトラーは。「さきざきの世紀を考えると、・・イエロー・ペリル(黄禍)が大問題としてのしかかってくるだろう」、と言った。

海軍
  イギリスと戦うつもりであれば、それに匹敵する海軍を構築する必要があるだろう。ヒトラーはそれをまったくしていない。「海軍?何のために?」、1936年、かれは言った。「海軍力で力のバランスが変わるようなヨーロッパの戦争は考えていない」。1939年9月1日のドイツの海軍は、古い戦艦2、巡洋戦艦2、ポケット戦艦3、巡洋艦8、駆逐艦22・・Uボートは57、うち大西洋で行動できる性能を持つもの26、うち、同時に配備できるもの8-9隻だった。1935年、英独海軍協定で許容される範囲の隻数すら建造していなかった。ミュンヘンのあとも、提督たちには、英国と戦争しないと言い続けていた。英国攻撃をするつもりならば、兵員輸送船、上陸用舟艇、戦車、大砲の積載船、護衛艦などを作らねばならなないが、ヒトラーは何もしなかった。

東方への視線
 ヒトラーが西側への攻撃を意図していなかった別の証拠がある。カイザーはベルギーを経由するシュリーフェン・プランという攻撃計画のみを策定し、国境防禦の考え方をまったく持たなかった。一方、ヒトラーは、3年半の年月、延べ数千万労働時間をかけ、巨額を費やしてジーグフリード・ラインを構築した。フランス侵入を考えていたら、どうしてこんなことにカネをかけたのか?1939年10月6日、ポーランドが降伏すると、ヒトラーは英仏に「和平提案」を行った。それは即時拒絶された。
 イギリス戦艦、ダンケルクがUボートの射程距離に入ったとき、ヒトラーは攻撃命令を避けた。フランスを蹂躙したあと、ピレネーで止った。フランコに、スペインを通ってジブラルタルを攻めたい、と申し出たとき断られ、あっさりと引き下がった。フランスが降伏したとき、世界4位のフランス海軍をドイツに寄越せ、と言わなかった。1918年、ドイツは海軍を召し上げられていたのだ。ダンケルクでイギリスが容易に撤退できるよう、機械化部隊に「停止命令」を出した。1940年、アルザス=ロレーヌを再併合したときも、フランスに課した講和条件は、1919年、ドイツに押しつけられたものより遥かに緩やかだった。
 1939年8月10日、ポーランド攻撃の3週間前、ヒトラーは、スイスの外交官で国際連盟高等弁務官の、カール・ブルックハルト博士と狼の巣で会談した。「わたしは直接ロシアを攻める。もし西側が馬鹿なことをすれば、ロシア人と了解を取って、まず西を叩く。そして全力でソ連と戦う。前回の戦争のように国民を飢えさせるわけには行かない、わたしはウクライナが欲しい」、と言った。そこまでヒトラーが手の内を明かしたはずがない、という説もあるが、キッシンジャーは、これが明白なヒトラーの段取りだった、と言っている。ビスマルクは、ロシアと良好な関係を保っていたが、究極の目的に差異はない。ヒトラーの要求している土地は、1918年の講和(アルミスティス)の日現在ではドイツのものだったのである。1917年、独墺軍がカポレットのイタリア軍戦線を破り、ボルシェビキがペトログラードで権力を握ってドイツに講和を申し出てきたとき、英国政治家のあるものは終戦を希望していた。そして、カイザーが、アフリカと太平洋植民地を手放し、ベルギー、フランスをもとに戻すのであれば、ウクライナを含めた東方を与えよう、と示唆していたのである。端的に言って、1939年にヒトラーのドイツに拒絶した東欧の同じ土地を、1917-18年に、カイザーのドイツには与える用意があった、ということだ。ヒトラーは、暗黙の取引で、ベルサイユで奪われた、マルメディ、オイペン、アルザス、ロレーヌを戻せという姿勢を見せていない。かれは、ウィルソンの自決原則に反してチェコとポーランドに与えられたドイツの領土と国民を戻せ、と言っているだけなのだ。東への介入をしなければ、ヒトラーはライン川の西を民主主義国にまかせるつもりだった。なぜ英国がこれを否定するのか、ヒトラーの理解できぬところだった。
 連合国が、東でのヒトラーのフリーハンドを認めず、ポーランドの行動に対して戦争をしかける、と脅かしたとき、ヒトラーはスターリンと結んだ。スターリンは快く応じ、それからの2年間、戦車、航空機、大砲を製造し、徴兵して、レニングラード、モスクワ、スターリングラードでヒトラーを押し止める体力を養った。イギリスの外交的失敗は、西欧の蹂躙と、東欧におけるスターリンの安全に役立っただけだった。

ヒトラーは世界を手に入れたかったのか? 
 ヒトラーはロシア壊滅のあと、西に向かい、フランスを蹂躙してイギリスを封鎖する。そして合衆国と対峙する。アメリカは徒手空拳で、ナチ・ドイツと日本に対抗しなければならない。多くの英国の政治家はそう考えた。しかし、考えてみれば、チェコで衛星化された地域は、もともとオーストリア=ハンガリー帝国のものだった。それが世界支配の始まりといえるだろうか?20世紀の英国のエリート層には常にドイツ嫌いが蔓延していた。カイザーは、「大陸の暴虐者」で「世界支配」を企む、とされていたが、本人は25年の治世で、まだ戦争をしたことはなかったのだ。
 ヒトラーは、4年間で、GNPを37%伸ばし、600万の失業者を100万に減らした。自動車生産は、年間4万5千台が、25万台になった。都市と地方の財政赤字は消滅した。1936年11月、チャーチルは、「ドイツは強くなりすぎた、潰さなければ・・」、とお客のアメリカ人、ロバート・ウッド将軍に言った。しかし、ドイツが世界支配を企むにしては、1939年の軍需生産は、とてもフル稼働とはいえぬ状況だった。

アメリカは重大な脅威に直面していたか?
アメリカにとって、最大の危機がいつだったか、と問われれば、それは1940年夏、フランスが降伏し、イギリスが侵入されようとしたときだったろう。しかし、RAF(英空軍)は、バトル・オブ・ブリテンでゲーリングのルフトヴァッフェ(独空軍)を敗ったあと、ドイツのアメリカ攻撃は神話となった。1943年に、ヒトラーは、アメリカ海軍に対抗するため、「Z計画」という大艦隊建造計画を策定したが、これはコミック本の世界の話だった。
 ヒトラーは、ビスマルク、ティルピッツの2隻の戦艦を建造したが、前者は処女航海で沈没し、後者はノルウェーのフィヨルドにこもったままだった。世の中は航空母艦の時代を迎えていた。ドイツもグラーフ・ツエッペリン、ペーター・シュトラッサーという航空母艦2隻の建艦を計画したが、「航空機パイロットは艦上離着陸の経験が」なく、またUボート生産計画が優先されて建艦は中断された。いずれにせよ1千隻の軍艦を擁する米海軍に比べれば、ドイツ海軍は児戯に等しかった。 

ニューヨーク・ボンバー(爆撃機) 
 1939-40年、ヒトラーが、大西洋を無着陸で往復し、アメリカ本土を爆撃できるメッサーシュミット・264、通称アメリカ・ボンバーないしニューヨーク・ボンバーと呼ばれる爆撃機の製作を命じたと言われる。5トン爆弾を積んで東部まで、軽爆弾で中西部、偵察飛行で西海岸まで巡航可能という。時速480キロで西海岸を往復すると40時間かかる。現在でもこんな飛行機はできていない。戦争が終わるまで、ドイツ空軍は4エンジンの重爆撃機を持っていなかった。アメリカのB29は1回の空襲で、ルフトヴァッフェがイギリスで殺した合計人数以上の民間人を殺している。戦争全期間を通じて、北米、南米大陸にドイツの爆弾は1発も落ちていない。
 バトル・オブ・ブリテンが始まった頃、イギリスの戦闘機数はドイツより劣っていた。しかしパイロットの熟練の差で、2対1で相手を撃墜した。ゲーリングの工場が775機を製造している間、イギリスは、1900の新しいハリケーンとスピットファイアを生産していた。
 歴史家は、ドイツが合衆国攻撃のために、カナダとラテン・アメリカに出兵する、という証拠を探しているが、それは無駄な努力になっている。人員、戦車、航空機、武器輸送のための計画はみつかっていない。ロング・アイランドとフロリダに、ナチは8名のスパイを潜水艦で送り込んだが、全員検挙され、秘密裁判でうち6名は処刑されている。
 FDRは、ヒトラーが中南米を征服し、ナチ支配の5ヶ国に分割する計画がある、と警告した。これは何としてでもアメリカを参戦させようとしたチャーチルが送った、でっちあげのプロパガンダによるものである。ナチ文書が押収されたあと捜索されたが、西半球に進出するという計画はまったく残っていない。

ナチズムと共産主義 
 ナチのイデオロギーの非人間性と邪悪はスターリ二ズムに匹敵する。チャーチルは、1940年6月、ナチズムは共産主義より悪質である、英国が屈服することでもあれば、アメリカを含む全世界が暗黒の時代を迎える、とスピーチした。しかしこれには議論のあるところである。
 アメリカの文化人、知識人社会には共産主義が浸透していた。ルーズベルト政権は、ソ連のスパイ、共産主義者、同調者に食い込まれていた。1944年に、ヘンリー・ウォーレスが大統領になっていたら、ハリー・デクスター・ホワイトが財務長官に、ローレンス・ダガンが国務長官に就任していただろう。二人ともソ連のエージェントだったのだ。
 イデオロギーとしては、ナチズムは共産主義に比べればずっと狭量だった。それは「白人至上主義」のみならず、「アーリアン至上主義」である。共産主義は、植民地奪回、ヨーロッパ支配打倒 をめざすすべての人種、すべての大陸住民に訴えるものがあった。アメリカ人にとって、ヒトラー、ムソリーニはチャップリン的な滑稽な人間と映ったのに対して、レーニン、スターリン、トロツキーには追随者や賛美者がいた。
 ヒトラーはナチズムの優位を信じていたが、他国に輸出することは考えていなかった。スターリンは、従属国には有無を言わさず、そのイデオロギーを押しつけた。 独ソ戦でどちらが勝つか?ヒトラーが勝てばファシズムの勝利だし、スターリンが勝てば共産主義の勝利となる。しかし、米国にとってより脅威となるのは共産主義の方である。それは民主主義の仮面を被っているだけに大勢にアピールし易い。ソビエトが崩壊したあとになっても、マルキスト的信念とイデオロギーは、形を変えて人々の心のうちに忍び、常に表れてきているのである。
 とはいえ、ナチスがまったく脅威でなかったわけではない。ビスマルクやティルピッツを建造せず、潜水艦や磁気機雷製造に集中していたら、英国港湾とドックを攻撃できる4エンジン爆撃機を開発していたら、英国は和平を申し出ていたかも知れない。しかし、ドイツはロイヤル・ネイビー、英連邦、合衆国を打倒できなかった。基本的に陸軍国であったが、ナポレオンと違い、エジプトを征服せず、モスクワを攻めきれず、スペインも占領していなかった。ヒトラーは、その再軍備を誇張していた。民間消費の削減にも踏み切っておらず、1943年まで、生産力はフル稼動していなかった。ヒトラーは・・・明らかに電撃戦に賭けていたのだ。
 1940年5月16日、ドイツ軍がアルデンヌを越えたとき、FDRは放送で、年間5万機の航空機製造をよびかけた。アメリカの潜在生産力は、イギリス、ドイツとは桁が違っていた。1941年夏、ドイツ軍はレニングラード、モスクワ、コーカサス進撃の途上にあった。ヒトラーは中東に進み、シベリア鉄道またはインドを経由して日本と結ぶことを夢みていた。真珠湾攻撃の4週後、かれは夢からさめ、日本の大使に打ち明けた、「アメリカを負かす手立てはまだみつからない」。1942年1月10日、イギリスは孤立していた。ドイツ軍は深くロシアに侵入していたが、ヒトラーは、「アメリカと対決したら、終わりまで手を出さないのが一番だ」、と言った。アルフレッド・ヨードル大将は、ナチ降伏のあと、「1942年初めの絶頂点から」、ヒトラーは、「もう勝ちめはない」ということを認識していた、と語った。真珠湾の7週あと、ヒトラーは第三帝国の自滅を考え始めた。
   
 
  
未分類 | Comments(0) | Trackback(0)
2009/07/15

Unnecessary War -第12章 身の毛のよだつ収穫

 戦争が始まったら・・・勝者も敗者も一様に、人間の悲惨と辛苦の、身の毛のよだつ収穫の落穂を拾うことになるのだ。
 -ネビル・チェンバレン   1939年7月31日

  1940年6月18日、チャーチルは、かれの演説のうち、有名な一つを行った。「英帝国および英連邦1000年の計のため、頑張り抜かねばならない」。
第一次大戦、第二次大戦の主要国の死者
                 第一次       第二次
ロシア(ソ連)         1.8 百万    10.7 百万
ドイツ              2.0         5.5
フランス            1.375       2.12
ハプスブルグ帝国      1.1          -
英国、自治領         0.921       0.491
イタリア            0.460       0.301
米国              0.116       0.417
第一次大戦の数字には、数百万のインフルエンザによる死者を含まない。
第二次大戦の数字には、ヒトラー、スターリンの攻撃による、東欧、中欧、バルト諸国の死者を含まない。

勝者と敗者
 ダンケルク撤退のあと、フランスの降伏が切迫した1940年6月10日、ムソリーニは勝利の配当を得るべく参戦した。秋、イタリア軍は、エジプトとギリシャに侵入したが、すぐに泥沼にはまった。ヒトラーは救援のため、バルカン半島と北アフリカに進出した。1941年、ヨーロッパの西はピレネーまで、南はクレタ島まで、ヒトラーに占領された。これはしかしヒトラーの基本計画に基づくものではなく、ヒトラーの全く望まなかった英国との戦争、同様に、ヒトラーの反対した、ムソリーニのエジプト侵入の結果だった。
 1941年夏、ヒトラー軍はソ連の奥深く入り込み、1918年11月11日にカイザーの軍が進んだところまで占領した。そのあたりがピークだった。ソ連侵入の6ヶ月後、東方でヒトラーは立ち止まり、アメリカが宣戦布告するにおよんでその運命が定まった。

アメリカ 戦争の最後の参加者、合衆国は、空軍、海軍力でだれも及ばぬ地上最強軍として現われた。人口比でいえば、40万の死者と、もっとも犠牲が少なかった。真珠湾とアリューシャン列島を除いて、領土は侵されていない。アメリカは、イタリア、フランス、ベルギー、オランダ、フィリピンを解放した。ミッドウェー、ノルマンディ、硫黄島、バルジの戦いは伝説となった。アメリカ人にとって、第二次大戦は、「善の戦い」であり、西欧の指導権は英仏からアメリカに移り、20世紀はアメリカの世紀となった。
ソ連 ロシアは数百万の兵士と民間人を失い、大破壊を被ったが、スターリンは、史上最強のツアーリとして現われ出た。赤軍は、ベルリン、ウィーン、プラハを治め、スターリンに忠誠な共産党は、パリとローマで力を得た。スターリンは、1949年、戦争中はアメリカの同盟国であった中国を毛沢東の軍隊に屈服させた。同じ年、米国から盗んだ技術で、ソ連の科学者は原爆を爆発させた。ヨーロッパのほとんどの国と国民にとって、戦争は、勝利というより災厄だった。
英国 1942年のエル・アラメインの戦いまで、イギリスは、ノルウェー、フランス、ギリシャ、クレタ、リビアでの対独戦にすべて敗れた。40万を失い、勝利は引き合わず、二度と大国に戻れなくなった。チャーチルは、帝国の保持、社会主義を追い詰める、ヨーロッパからの敵対勢力の排除、という三つの大義に献身した。1945年7月、この三つすべてを失い、かれが勝利に導いた国民から解任された。
 1946年、英帝国の崩壊が始まった。1947年には、帝国の王冠、インドが離れた。イギリス開戦の原因だったポーランドは、他の九つのキリスト教国とアルバニアとともに、今はスターリンの死守するところとなった。国民はマーシャル援助で食いつないだ。1956年、スエズ危機では、ナセル打倒にエジプトに入った英国に、アイゼンハワーが出て行くよう指示をした。
フランス フランスは4年間占領された。ヴィシー時代は幅広いコラボラシオン(協力)の時代だった。インドシナは日本軍に侵入された。戦争が終わったとき、シリアとレバノンは去っていた。1954年、ディエンビエンフーで敗れ、ベトナムから出て行った。FALNのテロで、アルジェリアからも撤退した。
デンマーク、ノルウェー、ルクセンブルグ、ベルギー、オランダ ナチの4年の支配に耐えた。オランダ領東インドは、1941年、日本に降った。その後、スカルノという名の、日本軍協力者が管財人となった。
ポーランド 戦争保証を信用したため、1939年9月、ナチスとソビエトの虐殺に抵抗し、数十万が死んだ。将校団が、カチンの森で、スターリンのNKVDに惨殺された。5年間ナチに占領され、トレブリンカ、アウシュビッツなどの恐怖の現場となった。1944年のワルシャワ蜂起で、赤軍はポーランド国内軍を支援することなく、結局、国防軍とSSによって全滅させられた。
ドイツ 戦争は占領されることで終わった。連合軍の絨毯爆撃と赤軍の報復で荒廃しつくし、数百万の民間人が殺された。1300から1500万人が父祖の地を追われ、その過程で、200万が虐殺、凌辱された。共産化した、中欧、東欧諸国では、少数派となったドイツ人が「民族浄化」の対象となり、現在では、戦前より民族的にはずっと純潔となっている。
イタリア 英米軍の爆撃、侵入を受けた。ムソリーニは共産主義パルティザンに処刑された。戦争が終わる前に、ムソリーニの新ローマ帝国は滅亡した。
リトアニア、ラトビア、エストニアのバルト諸国  1940年6月のヒトラーとの協定からの戦利品としてスターリンの手中に収められた。三小国の指導的文化人、政治家、宗教家、知識人は、収容所群島の労働と死のキャンプのなかで、永久に姿を消した。
チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ユーゴスラビア、アルバニア、東ドイツ 国民は、チャーチルとルーズベルトによってスターリンに割譲された、新ソビエト帝国の臣民として終戦を迎えた。その後半世紀、秘密警察の支配下で暴虐を被った。

ヒトラーのポグロム
 ヨーロッパのユダヤ人たちに対して犯した、表現し得べくもない犯罪の人道上の全責任はヒトラーとその仲間にある。かれらはその責任を取らされた。しかしホロコーストは不可避だったのだろうか?ユダヤ人排斥は、すでにマイン・カンプに記述があり、1935年、ニュルンベルグ法でユダヤ人の差別化がされることになった。ミュンヘンの6週間後、水晶の夜事件が起こった。それ以前からドイツのユダヤ人はその半数ほどが出国していたが、事件のあと、残ったもののうち半分くらいが逃げ出した。幸いなことに、1939年9月1日以前は、カーテンは閉ざされていなかった。1939年1月、政権掌握6周年の記念演説で、ヒトラーは、国際ユダヤの金融資本が世界戦争の脅威を煽っている、と非難した。
 しかし、ヨーロッパ・ユダヤ人の強制移住と絶滅が始まったのは、1941年6月22日、独ソ戦勃発以降のことである。1942年2月、悪名高いワンゼー会議のあと、3月7日、ゲッベルスの日記に初めて「最終的解決」という言葉が記されている。このような経過をたどると、ユダヤ人の殲滅は、戦争目的というものではなく、戦争のおぞましい一つの結果だった。チャーチルも、自著「世界の危機」(ザ・ワールド・クライシス)のなかで、「恐ろしいイフが堆積していた」と綴っている。イギリスの戦争保証がなければ対独宣戦はない、ヒトラーはフランスを攻めない、とすると、ムソリーニのフランスないしギリシャ侵入はない、対英宣戦もない。西側で戦争がなければ、ヨーロッパのユダヤ人は、ドイツ=ポーランド戦争または独ソ戦があっても、生き残っていただろう。
 大戦が始まったために、ヒトラーは、ヨーロッパとバルカンのユダヤ人を人質に取ることができた。しかし、連合軍もソビエトも、ヒトラーのこの人質たちに潜む運命を問題にすることはなかった。1943年、カサブランカ会談で、チャーチルとルーズベルトは、戦争目的を「無条件降伏」である、と言明し、1944年、ケベックでは、ドイツの全工業力を抹殺するモーゲンソー・プランを承認した。ドイツ人にとって降伏は生存の放棄を意味した。かれらの人質の絶滅は、自らの絶滅の代価をあがなうものとなったのである。

あり得たことども
  振り返ってみれば、ポーランド人には、英仏の保証には実力が伴っていなかった、と真実を告げるべきだったろうか?そしてベックも、35万のドイツ人の住むダンチッヒの固執が戦争に価するか、と考えただろうか?ダンチッヒは戦争に価したか?ポーランドは?答はノー、ダンチッヒ、とかポーランドのために戦ってはならなかった。それは人類史上、例を見ない悪魔、ヒトラーを倒すための戦いであった。このような怪物 が世界を支配することは、数千万の生命を含む、あらゆる犠牲を払って阻止しなければならない。善の戦争は、ナチズム、ファシズムに対する十字軍だったのだ。イギリスは帝国を失ったとしても、それは至高の大義に殉ずることなのだ。
 ニーアル・ファーがソンは書いている。「1940年、チャーチルが首相になったとき、英国の対抗馬は、天皇裕仁の大東亜共栄圏であり、ヒトラーの千年帝国であり、ムソリーニの新ローマ帝国であった。・・・これら帝国との死闘が英帝国の崩壊につながった。これら抑圧的帝国が存続することを考えれば、どんなに犠牲を払ったとしても、それは正しいことをしたのだ」。
 しかし、イギリスは好んで殉教者を演じたのか?それともそれは膨大な規模の、しくじりだったのか?ムソリーニについては、英国は多年、ドゥーチェに言い寄り、エチオピア、リビア、エリトリアの権利を認めていた。一時、ヒトラーのフランス侵略に対抗することで一致していた。宣戦布告をしたのもイタリア側からだった。日本は過去、同盟国だった。1930年代、日本の満洲侵入で、ドイツ、日本の二正面の脅威を避ける意味で、チェンバレンは、日本との和解を模索した。攻撃は日本が最初だった。そしてアメリカが日本を潰した。日本帝国の満洲、中国、北朝鮮、インドシナは、スターリンとその相続人の帝国に組み込まれた。毛沢東、金日成、ホーチミン、ポルポトの支配におかれ、かれらによる犠牲者数は帝国主義日本の犠牲者をはるかに上回っている。
 イギリスは不可欠ではあったが、脇役だった。ヴェアマハト(国防軍)を打倒したのは赤軍であり、フランスのDデイは、ヒトラーのロシア侵入の3年後のことだった。連合軍のなかで、英軍の役割は20-25%と推定されている。
 イギリスが対独宣戦をせず、ドイツがダンチッヒの返還を受けたとしても、1940年にそうしたように、ヒトラーはフランスを攻め、ユーゴスラビア、ギリシャ、北アフリカに侵入したかも知れない。しかし、それには理由があっただろうか?英仏がポーランドに保証を与えず、軍備増強して、ヒトラーの動きを静観していたとしても、何か失うものがあったのだろうか?ヒトラーがスターリンのソ連を滅ぼしたあと、西方へ矛先を向けたとして、ユダヤ人、ジプシーたち、スラブ人、キリスト教徒たちに、もっと悪い結果をもたらしただろうか?
 勝利の3年後、チャーチルは、「数億の民の努力と犠牲による大義の勝利のあとも、平和と安全の道をわれわれは見つけていない。より邪悪な危険にさらされている」、と書いている。({The Gathering Storm」)「より邪悪な危険」とはスターリニズムのことで、スターリンの大量殺戮の犠牲者はヒトラーのそれを超えている。ヒトラーの世界支配は挫いた。その勝利はまことに高いものについた。しかし、ヒトラーを止めるには、戦争をするよりほかの手段はなかったのか。われわれはその問いかけをする必要がある。ヒトラーは「世界を支配するため」、どこの時点で英帝国を破壊しようと決意したのか?ドイツのような中規模の大きさと人口の国が、どうすれば世界を征服できるのか?ヒトラーの本当の野心はどこにあったのだろうか?


 
 
未分類 | Comments(0) | Trackback(0)
2009/07/13

Unnecessary War -第11章 「不必要な戦争」

  戦争では何も得られない、何も救われない、何も終わらせない・・・
  戦争には勝者はいない、すべてが敗者なのだ。
  -ネビル・チェンバレン   1939

  わたしの唯一の懸念は、どこかの悪(わる)が、平和会議を提案してくることだ。
  -アドルフ・ヒトラー   1939
  


  ポーランドを救う道に望みがあるとすれば、それは赤軍の協力である。こうして、1919年、チャーチルが「ペスト菌」と罵ったボルシェビズムに対する、6ヶ月にわたる求愛が始まった。しかしチェンバレンは、次のような問題に直面することとなった。
ダンチッヒと回廊は、ドイツにとって、フランスのアルザス、ロレーヌであり、イギリスは何らここに決定的利害を持っていない。ヒトラーが政権を取った直後、1933年4月、チャーチルも議会で、回廊問題の解決を主張している。チェンバレン自身、ロシアとスターリンに深い不信感を持っている。ロシアとドイツの間に位置する国々は、ドイツ軍より、赤軍を恐れていた。モスクワは連合の条件として、バルト三国の保護国化と、ドイツ軍と戦うためにポーランドとルーマニアに侵入することを求めた。これに同意するヨーロッパの国はない。ヒトラーがポーランドを攻撃したとき、モスクワが参戦するのであれば、同様に、ソビエトがドイツに攻撃を受けた場合、英国が参戦しなければならない。スターリンは、完全な双方向協定を要求した。
 ズデーテンランドでは、少なくとも、住民がドイツ復帰を望んだ。しかし、バルト諸国の数百万は、テロ体制に組み込まれることとなる。条件が同意されたとき、ソ連の参戦は疑わしいにもかかわらず、ヒトラーが狙っている周辺弱小国を侵略することの正当性をスターリンに与えてしまう。 ボルシェビズムは、キリスト教世界、西側文明の破壊者として登場してきた。スターリンのために一人でも英国兵が死ねるだろうか?ここに大きなジレンマがあった。
 ヒトラー=スターリン協定の5ヶ月前、チャーチルは、スターリンのロシアは東欧諸国の頼りになる存在である、ソ連の平和の大義に対する真摯な態度と、ナチの黒海への進撃に抵抗する意思は、ベルリンの狂気に脅威を受けている東方諸国を激励する感情と共有されている、と自国に確証した。

スターリンの求愛 
 スターリンの獲得競争はヒトラーが勝った。一皮向けば、独ソ二国は国家やイデオロギーのためなら平気で国民を裏切る、似たもの同士だった。リッベントロップ=モロトフ協定で、ヒトラーはスターリンに、フィンランド、エストニア、ラトビア、東ポーランド、ベッサラビア、のちにリトアニア、北ブコビナを譲り、スターリンはヒトラーに、食糧と原料を売ることになった。英仏は、モロトフとヴォロシーロフ相手に数ヶ月も交渉していた。リッベントロップとモロトフは、24時間で協定を仕上げた。ラトビアの港について、小さな小競り合いがあった程度だった。
 1939年8月23日のヒトラー=スターリン協定は世界を揺るがせた。ポーランドは包囲された。イギリスはいまさらポーランドを支援する意味がない。ヒトラーはイギリスが降りると思っていた。「ヤツらは虫けらだ、・・ミュンヘンで見たよ」、ヒトラーは言った。驚いたことに、チェンバレンは、対抗して、ベックと相互安全保障条約を結んだ。ヒトラーは8月26日に予定していたポーランド攻撃を、前日、延期した。ヒトラーはスターリンとの協定について、ムソリーニには無断だった。ムソリーニは鋼鉄の条約からの脱退を宣言した。イタリア人は、1914年と同じことをしようとしている、ヒトラーはいきまいた。

平和の最後の週
 歴史上最大の流血をみた戦争へのカウントダウンが始まった。イギリスとの戦争を何とかして回避したいヒトラーのダンチッヒの要請を、満たす方法をチェンバレンとハリファックスは模索していた。8月30日、リッベントロップの、ポーランド全権を1名、24時間以内にベルリンに派遣し、ダンチッヒ返還について協議すること、という最終要請を受諾するよう、イギリスはポーランドに圧力をかけた。返事は「ノー!」だった。
 ポーランドはチェコの二の舞を警戒したのだ。多民族国家のチェコは、ズデーテンランド返還をきっかけに解体された。ポーランドも、ドイツ人、バルト人、ウクライナ人などの多民族国家である。回廊とシレジアのドイツ人、ウクライナ人などが騒ぎだしたら収拾がつかなくなる。これが拒絶の背景だった。ベック大佐は「ベルリン行きのバスに乗り遅れ、自国の4度目の分割を招いた」。フォッシュ元帥が予言したように、次の戦争は、ポーランド回廊をめぐって発生することとなる。この戦争の道義的責任は、ただ一人、ヒトラーに負わされた。

戦争の別の選択肢?
 しかしこの戦争は、ヒトラーだけの戦争ではなかった。チェンバレンの戦争であり、チャーチルの戦争であった。英国は、その時点、その場所、その理由で戦うべきだったのだろうか?キッシンジャーは、「ドイツのチェコ占領以来、英国世論はそれ以上の譲歩を許さなくなった。第二次大戦は時間の問題となった」、と論じている。
 しかしあらゆる戦争は、起こる前には不可避ではない。欧州戦争が時間の問題となったのは、ヒトラーのチェコ占領から、ではなく、イギリスのポーランドに対する戦争保証から、である。この保証なかりせば、孤立したポーランドはダンチッヒ問題で交渉に応じ、600万の国民を救っただろう。保証がなければ、9月3日の英国の対独宣戦もなく、1940年のドイツのフランス侵入もなかっただろう。ヒトラーの西方での戦いは不可避なものではなかった。「ポーランドの脅威のあと、ヒトラーがイギリスを攻撃する、というのは幻想だっただろう。マイン・カンプでも、ヒトラーはロシアに向かうことを明らかにしていた。イギリスは、アンネセサリー・ウォーに引きずり込まれ、40万の犠牲を出し、帝国を破産、崩壊させたのである。(ロイ・デンマン)」
たとえポーランドを裏切り、チェンバレン内閣が倒れても、イギリスは保証の実行をすべきではなかった。平和のため、できるかぎりの努力を傾注したが、8月の最後の日、戦争に身を委ねてしまった。イギリスとの戦争を絶望的に回避しようとしたヒトラーは、ベルリン駐在大使のネビル・ヘンダーソンから英国の最後通告を聞いて沈黙を続けたのち、リッベントロップに、「これは何だね?」と訊ねた。リッベントロップの答は、「フランスもまもなく同じことをするでしょう」、というものだった。街で通告を聞いた市民たちは、みじろぎもせず、突っ立ったままだった。
 9月2日、ドイツ軍がポーランド国境を越えたとき、ポーランドは公式に英国に宣戦布告を求め、西方からの攻撃を要請したが、全く反応がなかった。このときになってもチェンバレンは、ヒトラーも交えた国際会議の可能性を模索していた。しかしかれの不決断を見て、トーリー党議員、閣僚が造反の動きを見せた。9月3日、イギリスはドイツに宣戦した。1939年9月、稼動可能な英国陸軍兵力は4、5個師団にすぎなかった。

ポーランド見棄てらる
 イギリスからは、大砲も銃弾も借款も来なかった。ポーランド人は連合軍の救援を待ちながら、最初の電撃戦を蒙った。フランス軍は、いくつかの街に入ったが、すぐ撤退してマジノ線の内側に引きこもってしまった。ポーランド人は、自分たちが、ヒトラーにブラフ(こけおどし)をかけるポーカーチップにさせられたことに気がついた。ブラフはコール(勝負)された。ポーランドはだまされ、見棄てられた。西方で攻撃が始まったのはその5年後のことだった。それもアメリカ軍の先導によるもので、かれらはエルベで停まり、ポーランド人は5年のナチスの支配、その後45年のソビエトの暴虐支配を受けることになった。
 連合軍がジーグフリード・ラインを突破すれば決定的勝利を収められた、という説があるが、これは全く根拠がない。そもそもそういった計画がなかったのだ。9月17日、ソ連がポーランド攻撃を開始したとき、イギリスはロシアに宣戦布告をしなかった。戦争保証は、ドイツの攻撃のみに対するものだった。チャーチルはソ連攻撃のプラス面しかみなかった。「ヒトラーの東への道は閉ざされた」、と叫んだ。ポーランド人は、イギリス、フランス人と違って、ヒトラー、スターリン双方を拒絶した。チェコ、オーストリア人と違って、戦いを選び、かれらが誤って頼りにした国民よりずっと道義的に振舞った。
 スターリンとポーランドを分け合ったヒトラーは、宣戦布告をした西の国々に向かった。1940年5月10日、低地諸国を通ってアルデンヌに至る電撃戦を開始した。3週間で英軍は追い払われ、6週間でフランスは降った。国防軍はピレネーに達した。

第一の受益者
 1939年3月当時、大粛清と収容所群島の悪評で、ソ連は西欧諸国から孤立し、さらにドイツ、日本と、西、東から脅威を受けていた。スターリンは、ヒトラーの、武力によらない、オーストリア併合、ズデーテンランドの切り離し、ボヘミア、モラビアの保護国化、スロバキアの同盟化、メメルの回収、そしてポーランドへの動きを見ていた。ポーランドの次はこちらだ。ところが3月、英仏はポーランのために戦うという。英国トーリー党は、ボルシェビズムの保証人になってくれたのだ。そしてしばらくして、ルーマニアにも保証を出した。ポーランドまたはルーマニアを通って、ドイツがロシアに攻めて来ようとすると、その前に英仏がドイツに宣戦布告してくれることになる。ナチ・ドイツと英仏は体力を損耗し、三国での共産革命の土壌を育ててくれる。スターリンの安堵感と喜びは容易に想像できる。
 英仏からは同盟を打診する使節がやってきた。しかし、スターリンはすでに利益を享受している。そしてイギリスと組んでも、バルト諸国とポーランドの半分は手に入らない。帝政ロシアはプロシアとポーランドを山分けしたことがあったではないか?ヒトラー=スターリン協定は、世界中のコミュニストを驚かせた。しかしスターリンは馬鹿ではない、この協定は、六つのキリスト教国を共産化し、対独戦争への赤軍の力を2年間たくわえることに役立った。
 英国が戦争保証をしなければ、ソ連の運命は、フランスのそれと同じものになっただろう。高級幹部の追放で赤軍は弱体化していただろう。共産主義は、その後50年生き延びることなく、1940年には消えていたかもしれない。ロシア、中国、朝鮮、ベトナム、キューバの数千万の虐殺はなかっただろう。1940年代の戦争は、ヨーロッパでは独ソ戦争だけだったかもしれない、史上最大の数千万の死を齎した戦争はなかっただろう。


 

   
未分類 | Comments(0) | Trackback(0)
2009/07/12

Unnecessary War ー第10章 エイプリル・フール

  ポーランド回廊のために、英国歩兵の骨を埋めさせる危険を冒すなど、イギリス政府が考えるわけもない。
 -オーステン・チェンバレン   1925

 ポーランドに対するイギリスの戦争保証は、ヒトラーに衝撃を与えた。4月3日、参謀長、カイテル将軍は、ヒトラーの命を受け、ポーランド侵入のための白作戦を発動した。ヒトラーは、ポーランドをソ連に対する自らの衛星国に位置づけるつもりであり、ダンチッヒ問題を軍事力で解決する意思はなかった。英独両国は、たがいに戦うことを望まなかったにもかかわらず、戦争に導かれることになった。偽情報と、誤れるヒトラーの意思についての判断が、英国をパニックに陥しいれて、戦争保証を発行させた。誤れるイギリスの動機と意向に対する判断が、ヒトラーに対ポーランド、そして今や英仏に対する戦争に向かわせることになった。
 ヒトラーのチェコ占領を見て、ムソリーニはアルバニアに兵を進めた。次はギリシャか?ルーマニアか?フランスは、ルーマニアがナチスの次の目標である、という情報を入手した。ダラディエは、フランスは、ルーマニアとギリシャに戦争保証を与える、と通告した。平和愛好の首相(チェンバレン)は、今やナチス・ドイツに脅威を感ずる東方諸国に保証を与えることに躍起になりだした。たとえば:
ー3月23日、オランダ、ベルギーないしスイスにドイツが攻撃すれば、軍事介入する、と宣言。
ー3月31日、ポーランドに戦争保証を発行。
ー4月13日、ルーマニアとギリシャに戦争保証を発行。
-5月12日、トルコと英土相互援助条約を調印。
 1939年4月、英国は徴兵しておらず、フランスに送り込める兵力が2個師団だったことを考えると、以上の戦争保証の経緯には、まことに驚くべきものがある。
 4月24日、ヒトラーは、英独海軍協定とポーランドとの不可侵条約の解約を宣言した。これは、ポーランドに対する、「ダンチッヒをドイツに返還し、ドイツと共同でスターリンに対抗する道を選ばず、わが国に刃向かう英国と結んだ、友情と同盟の申し出を拒んだ代償を払って貰うことになるだろう」、というメッセージにほかならなかった。

思い違い
 4月3日、尊大で、チェーンスモーカー、女たらしのポーランド外相、ジョゼフ・ベックと会談したチェンバレンは、ポーランド同盟の思い違いに気づき、後悔し始めた。チェンバレンとハリファックスがベックに、ルーマニアに対する戦争保証に参加をよびかけたが、ベックは拒否した。それは、ドイツとハンガリーの同盟を生み、ポーランドを脅かす、ポーランド人はトランシルバ二アのために死にたくない。
 4月6日、イギリスとポーランドの代表たちは相互の安全保障に関する条件を確認しあった。その後イギリスに起こったことの責任は、望まぬ戦争に導いたチェンバレンと、すすんで戦争を模索したチャーチルにある。チェンバレンは、ポーランド問題で、保証が意味のないことを知りながら発行した、チェコの場合より悪い。少なくともチェコ人には、イギリスはズデーテンのためには戦わない、と話をした。しかし、ポーランド人は英国を信じて国を失い、半世紀にわたるナチとソビエトの野蛮な支配を許すことになった。ワルシャワは破壊されたが、プラハはほとんどそのまま生き残った。第二次大戦中、ポーランド人の死者は650万、チェコ人は10万程度である。チェンバレンの戦争保証は、ヒトラーを妨害する目的だけのもので、英国は、ポーランドはダンチッヒを返還するのが筋と考えていた。
 4月28日、ヒトラーは、ポーランド問題の解決に関して宣言した。ドイツとポーランドは好むと好まざるにかかわらず隣人同士である。ドイツは常にポーランドの海へのアクセス要望を理解している。しかし東プロシアへの通路としてドイツの回廊への要請は正当である。ヒトラーは解決のための提案から、注意深く、対ソ・ブロックにポーランドを巻き込むような文言を削除していた。5月5日、ベック大佐は、議会演説でヒトラーの提案を拒絶した。それでもドイツの論調はまだ穏健だった。ベルリンの仏大使が、ドイツ人は、英仏がダンチッヒ問題でポーランドを説得することを根気強く待っている、と報告したように、ダンチッヒ問題は、欧州戦争に価しなかったのである。しかし、何も起こらなかった。戦争保証は、戦争を保証してしまったのだ。
 
未分類 | Comments(0) | Trackback(0)
2009/07/09

Unnecessary War -第9章 致命的な失策

 独裁者たちには、かれらの不満の再考を訴える充分な理由があった。わたしが表に出てからあとは、うまく要請したのだったら、すでにいくらかは満足していたはずだった。
 -ネビル・チェンバレン   1939年2月


 現実政治の観点からは、ズデーテンのために戦わない、というのは妥当だったのだろうが、道徳的なイギリス人としては、ミュンヘンに、いささかうしろめたいものが残った。世論はドイツに厳しくなった。パリのドイツ大使館員がユダヤ人の亡命者に射殺された事件がきっかけとなって、ドイツで、11月9-10日の夜、水晶の夜事件として有名な、ユダヤ人商店の略奪、シナゴーグの放火、袋叩き、リンチ、中世以来最大のユダヤ人虐殺事件が起こった。これは宣伝相のゲッベルスが仕かけたものだが、暴徒は罰せられなかった。イギリスのムードは、一戦やむなし、という方向に傾いた。水晶の夜は恥ずべき罪であり、歴史的失策だった。

ポーランドの順番
 ヒトラーは次の手を考えていた。1938年10月、リッベントロップは、ポーランドに対し、ベルサイユ条約で国際連盟管理に委ねられた旧ドイツ領ダンチッヒ(住民の95%はドイツ人)の返還、ポーランド回廊を横断する高速自動車道と鉄道の建設を申し入れた。この合意のもとに、ベルリン=ワルシャワ枢軸を構成し、反コミンテルン協定の締結を目論んだのである。過去、1920年、トロツキー軍を撃退して勇名を馳せたポーランドのピウスツキ元帥は、夙にナチの危険性を察知して予防戦争なども考えていたが、同盟国、フランスの不作為に嫌気がさして、1934年、期限付きの不可侵条約をヒトラーと締結していた。ヒトラーは、反ロシアのポーランドを、新秩序のパートナーにできると思っていた。
 有能で知られるポーランドの外相、ベックはこの申し入れを断った。赤軍を撃退して以来、ポーランドは自らを列強の一員と任じていた。ヒトラーは、1939年1月、ベックをベルヒテスガーデンに招いた。ダンチッヒは返還されても経済的管理はポーランドに委ねる、ポーランドの国境を保証する、回廊は永久にポーランドに任せる、ダンチッヒの補償はスロバキア領土を割愛する、など穏健な要請に終始したが、ベックは頑強に反対した。
 ドイツ、ポーランド、ハンガリーはチェコスロバキアの残りの領土を蚕食した。スロバキアとルテ二アは独立したがっていた。3月、スロバキアは独立を宣言し、ルテ二アが続いた。チェコは解体された。ルテ二アは、ヒトラーに示唆された、もとの所有者、ハンガリーにただちに占領された。プラハの犠牲において、ヒトラーは、ハンガリー、スロバキア、ポーランド、ソ連に恩を売った。ポーランドは、石炭埋蔵量の豊富なテッシェンを得た。ソ連に敵対するウクライナのナショナリズムを抑える意味で、ルテ二アの処理は重要だった。ここに独ソ提携の一つの萌芽が見られる。
 3月15日、ヒトラーはプラハに入城した。歴史家はヒトラーのチェコ侵入を以て、転換点と見る。ここでヒトラーは、非ドイツ人をドイツ統治下におく道をたどり始めた。ドイツ軍は、ポーランドの動きに備えて、戦略拠点、オストラバを占拠した。ミュンヘンは葬られた、ヒトラーはルビコンを渡った。これはヒトラーの熟慮された長期計画の始まりとみる見方もあるが、意見の分かれるところである。いずれにせよこれはヒトラーの失策で、不必要な出来事だった。これで、ベルサイユの是正に同情的だった英国政治家との架け橋を自ら焼き落としてしまった。スコダの兵器工場は手に入れたが、英国という手厳しい敵を作ってしまった。

チェンバレンの回れ右
  チェンバレンはしばらく宥和政策を固持した。チェコの国境保証は、協定の相手国が消滅したので、その義務は解消した、と議会で報告した。しかし、反対論が少しずつ動き始めた。ハリファックスは対独姿勢を変えるべきだ、と主張しだした。
 3月16日、ルーマニアのロンドン駐在公使、ヴァージル・ティリーが外務省を訪ねてきて、ナチがハンガリーを攻め、チェコスロバキアと同様にルーマニアをドイツ化しようとしている、という秘密情報がある、と伝え、防衛のため1千万ポンドの借款を要求した。実際はこのようなドイツの動きはなかったのだが、英国政府はティリーを信用した。
 3月17日、チェンバレンは、これまでの姿勢を変えて、ヒトラーはミュンヘンでの個人的信頼を裏切った、最後の領土要求と言ったのはウソだった、と指弾するスピーチを行った。ダラディエとチェンバレンは、英仏ソとポーランドの4ヶ国で、対独統一戦線を構築する計画を立てた。これに水を差したのは、ポーランドのベックである。ポーランドはドイツよりソ連を恐れていた。ドイツ人には、自由を奪われる懸念があるが、ロシア人には、魂を奪われる。
 リトアニアは1923年、東プロシアから、15万のドイツ人が居住するメメルを手に入れた。リッベントロップは最後通告をリトアニアに出し、メメルをドイツに戻さないと電撃戦をする、と脅した。リトアニアは、3月22日、ドイツに再併合された。ヒトラーは船酔い気味になりながら、ポケット戦艦、ドイッチェランドでバルト海を渡り、群衆の歓呼に迎えられた。3月26日、ドイツとポーランドのダンチッヒをめぐる交渉が決裂した。ヒトラーは秘密指令で、ポーランド問題を武力で解決しない旨、示達していたが、ここでもルーマニアのときと同じように、ナチがポーランド侵攻を企てている、という偽情報が英国に齎された。伝達者は、26歳のニューズ・クロニクルのベルリン駐在員、イアン・コルヴィンで、かれはヒトラー体制の内部に深く侵入している、という触れ込みだった。
 3月31日、チェンバレンは、20世紀最悪の過ちとなる宣言を下院で行った。「ポーランドの独立を明白に脅かす数々の事柄に鑑み、陛下の政府は、ポーランド政府にあらゆる支援を即時に行う、またこのことを保証する」。宣言はハリファックスが起案した。ロイド・ジョージは、これを、とんでもないギャンブルだ、と言った。チェンバレンが、これでヒトラーを妨害するのだ、と言うと、ロイド・ジョージは一笑に付した。リデル・ハートは、これで戦争は不可避だ、としてチェンバレンに抗議し、タイムズの軍事記者を辞任した。チャーチルは一旦、ポーランドの維持と統合の大義を認めたが、保証が白地手形であることを見て、英仏はポーランド人以上にポーランド人になることはない、ポーランドは互いの幸せのために、ダンチッヒと回廊を返還した方が良い、と言った。しかし、西欧の二大民主国の保証を手にしたワルシャワには、今や返還の意思は毛頭なかった。
 1939年3月に至るまで、チャーチルは砂上に線を引き、ドイツがここを越えたら戦争をしかけよう、とチェンバレンをけしかけていた。後年、1948年になって、チャーチルは、あのときどうしたらポーランドを護れたか、保証を実行できたかわからない、戦争保証がたしかに何千万の人々の虐殺につながったことは否めない、と自身に責任ないかのごとく回想している。チャーチルは1939年春、なぜ保証を支持したのか?「血を流さず、容易に勝てる戦いができるときに戦わないとすれば、分の悪い場面で、一か八かの戦いをせざるを得なくなる。奴隷になるより滅びた方がまし、という勝利の見込みのない戦いをしなければならないときがくることもあり得る」、という答をしている。
 しかし、この言い方もおかしい。当時イギリスは、のっぴきならない立場にいたわけではない。ヒトラーは英国人を奴隷化する意思など持っていなかった。ダンチッヒの交渉がまとまらなければ奴隷化されるのはポーランド人だった。実際、10年のナチの占領のあと、半世紀にわたってスターリンの奴隷となった。死に体の首相に戦争保証の発行を急がせたのはチャーチルだった。そしてチェンバレンは、イギリスが東方に決定的な権益がないにもかかわらず、史上初めて、東欧に戦争保証を発行した英国首相となった。ドイツとポーランドが戦争状態になったとき、イギリスは回廊に兵士を送れるのか?第一次大戦で、英仏露伊日米が連合軍を組成しても、ドイツのパリ占領を阻止できなかった。今、露米がなく、日伊が敵方にまわり、英仏だけでどうしてドイツのワルシャワ侵入を防げるのか?ポーランドの戦争保証は、ミュンヘンに次ぐ愚行であり、ここでも英国は、「不必要な戦争(アンネセサリー・ウォー)」に引きずり込まれたのである。

英国はなぜそれをしたのか
 なぜチェンバレンは、イギリスに国益のない東欧に史上最初の保証を与えたのか?ミュンヘン協定は虚仮(こけ)にされたと、トーリー議員から嘲笑されるのを恐れたようである。ロイド・ジョージは、この気まぐれな保証を、馬鹿にされたことに対する即物的な反応と見た。このような保証はロシアの軍事的支援がなければ成り立たない、という意見だった。
 チェンバレンは、戦争保証は、ポーランド、ドイツの取引を阻止し、ヒトラーも、英国に55個師団の側面援助を与える二面作戦を考え直すだろう、そして、チャーチル、ロイド・ジョージ、労働党が押しつけようとしているスターリンとの同盟を避けることができる、と考えていた。保証の仕かけ人はハリファックスだった。ハリファックスは、英国のヨーロッパ、世界における優位を失うことより、戦争を選ぶ、という考えだった。ドイツに対してポーランドが勝てるとは見ていなかったが、Holy Fox(聖なる狐、Harifaxの綽名)は、列強の道義を優先したのである。

チェンバレンは誤解したのか?
 チェンバレンの保証が意味するものは何だったのか?イギリスが、ダンチッヒとか回廊のために戦う、という趣旨のものではなかった。それは、「明白にポーランドの独立を脅かす」攻撃に対する保証だった。宥和政策(アピーズメント)が死んだわけではない!チェンバレンは第二のミュンヘンを狙っていた。イギリスは、ダンチッヒを還させ、道路、鉄道を回廊を横断して建設させることに反対したわけではない。独立国ポーランドを破砕する試みに対して銃を執る、これが保証の意味するところだった。
 しかし、この辺の外交的デリカシーはヒトラーに通じなかった。ニュースを聞いたヒトラーは、「煮え湯を飲ませてやる」と叫んだ。ポーランド人自身も、ダンチッヒを決して返さない、という決意を固めた。

戦争保証に替わる手段
 ほかに英国のできることが何かあっただろうか?首相は馬鹿にされた。ミュンヘン協定は紙くずとなった。ヒトラーは、非ドイツ人にもナチ体制を押しつけ始めた。1939年、英仏は、どこか東欧の国を救済する手段を持っていなかった。 
 半世紀後、W.H.チェンバーリンは、「東欧は防衛不能とし、ヒトラーの東方進出にまかせておけば、必ずやスターリンと紛争になっただろう」、と論じた。ハンソン・ボールドウィンもこの意見を支持し、「共産主義、ナチズム双方が疲弊し、民主主義優位の世の中になっていた筈」、と言う。正解は、英仏とも、チェコ、ポーランドなど実質的に兵力を展開できない東方は、ロシアとドイツの戦争にまかせ、防衛線をフランス、と英仏海峡前面におき、着々と徴兵を進め、海空軍力を蓄えることにあった。全く「不必要」であったこの戦争保証は、チャーチルもチェンバレンをそそのかして出させた。違う路線を採っていれば、チャーチルも首相になることはなかっただろう。




 
未分類 | Comments(0) | Trackback(0)
2009/07/06

Unnecessary War -第8章 ミュンヘン

 ドイツがチェコスロバキアを侵略しようとしたとき、地図を見れば、わが国またはフランスが、どうにもしようがないことがわかる筈だ。
 -ネビル・チェンバレン   1938年3月

 世界平和を保全するために、わが国民が犠牲になる、というなら率先してそうします。しかしみなさん、もしそうでないなら、神頼みしかありませんね。
 -チェコ大使、ジャン・マサリク  チェンバレンとハリファックスに、
                  1938年  


 1938年9月30日、ヒトラーの私邸で会談を終えた首相(チェンバレン)はミュンヘンからヘストン飛行場に戻ってきた。1枚の紙を手にしていた、「取ってきたぞ!これを取ってきたぞ!かれのサインがあるぞ」。ミュンヘン協定は3文節からなる。「われわれ、ドイツ総統にして首相、及び英国首相は・・昨夕の協定と英独海軍協定を、両国民がたがいに再び戦火を交えぬことの象徴として認識することとした」。
 ジョージ六世の指図で、かれは直接バッキンガム宮殿に赴いた。沿道には大群衆が待ち構えており、9マイルの道のりに1時間半を要した。宮殿では、夫妻で国王とともにバルコニーにのぼり、歓呼の声に応えた。平民として史上初のことだった。
 フランス首相、エドゥアール・ダラディエが、ル・ブールジェ飛行場に着いたとき、大勢が取り巻いていた。ヒトラーに降参したこと、同盟国チェコを裏切ったことで石をぶつけられるのか、と警戒したが、人々はヒーローとしてかれを迎えたのだ。太平洋の向う側で、FDRはチェンバレン出立前に激励の電報を打ったが、この栄光の仲間入りをしたかった。国務次官のサムナー・ウェルズは、名誉は、フランクリン・ルーズベルトにも与えられるべきだ、と放送した。カイザーは亡命先のオランダで、破局は回避された、チェンバレンには神が宿った、とその幸福感を現わした。カンタベリー大僧正は、次の日曜日に、全国の国教会、聖堂で感謝のミサを行うことを決めた。
 お祭騒ぎに加わらなかったものたちもいる。デイリー・テレグラフは、「ディズレーリは、英国には二つの宝物、その艦隊と名声がある、と言った。われわれは、艦隊がまだ残っていることを幸いとしなければならぬ」、と書いた。ダフ・クーパーは海軍大臣を辞任した。議会で、チェンバレンのことを「平和のプリンス」と呼ぶのを聞いて、チャーチルは、「ネビルがベツレヘムで生まれたとは、初めて聞いたよ」、と呟いた。「ヨーロッパの均衡は破られた、これはその第一歩だ」、と予言した。チェンバレンは、真に、「今の世の平和」を持ち帰ったとは思ってなかったようだ。バッキンガムへの徒次、ハリファックスに、「これが続くのは3ヶ月だろう」、と洩らしていた。

勝利者 
 ヒトラーはオーストリア人として、ベルサイユ条約から生れたチェコスロバキアを軽蔑し、電撃戦を仕かけて力で奪うつもりだった。ミュンヘンはその機会を失わせた。ズデーテンランドはチェンバレンからの貰いものとなり、チェンバレンがヒーローとなった。平和を望んでいたドイツ人も喜んだ。
 ミュンヘンは、外交の大きな敗北と言われているが、戦略上も大失敗だった。ズデーテンランドの譲渡は、プラハのマジノ線とも称される山岳地帯の一大要塞の喪失となる。チェコの40個師団の装備はヨーロッパ最強といわれていた。ドイツは同数の師団を完全装備でき、かつ巨大なチェコの兵器産業を手に入れた。差引きざっと80個師団の敵味方の「入れ替え」は、フランス陸軍兵力に匹敵する。
 もと参謀総長、ルートビッヒ・ベック、その後任のフランツ・ハルダー、ウィルヘルム・カナリス提督、その他将官たちは、チェコ、フランス、そして恐らくはロシア、イギリスとの戦争になることを警戒して、ヒトラー、ヒムラー、ゲーリング、ゲッベルスを逮捕する計画を練っていた。チェンバレンの訪独で、計画は中止された。ミュンヘンはヒトラーに、機甲部隊の増強、西の防壁強化の時間を与えた。
 今日、チェンバレンを擁護するものはほとんどいない。宥和政策(アピーズメント)は、悲惨な戦争を導いた臆病な降伏の代名詞となっている。しかし、1938年秋、なぜイギリスは宥和したのか?

なぜミュンヘン?
 チェンバレンはなぜミュンヘンに赴いたのか?この答は1919年にさかのぼらねばならない。パリ会議で、ボヘミアとモラビアに住む325万のドイツ人は、トマス・マサリクとエドゥワード・ベネシュの治める新チェコスロバキアに編入された。ウィルソンは、3百万のドイツ人をなぜチェコ統治下においたのかと問われ、「なぜ、マサリクは何も言わなかったよ!」と憮然とした。チェコスロバキアは、まさに民族自決原則違反の権化のような国だった。47%のチェコ人がもっとも多く、ドイツ人、ハンガリー人、スロバキア人、ポーランド人、ルテ二ア人で人口の半分を構成していたが、これら民族には、プラハの政権に自分たちが譲られることについて相談なしだった。その後、ドイツ人、ハンガリー人社会からは国会で主張が容れられないことについて、国際連盟に対して、たびたび苦情が寄せられていた。ベネシュは国際社会に二枚舌を使っていた。スイス連邦のように、民族ごとの地域の自治を許していれば、混乱は避けられていただろう。
 フランスは、ラインランドを併合するか、緩衝国として独立させたかったが、ウィルソンとロイド・ジョージに拒否された。かわりに、米英仏同盟が提案されたが、米上院が否決した。伝統的同盟国ロシアは共産国になってしまった。孤立したフランスは、小国のルーマニア、ユーゴスラビア、チェコスロバキアと提携した。こうしてフランスはチェコ防衛の一翼を担うこととなった。しかし、チェコをめぐって仏独戦争が始まれば、英国が支援に加わる筈だ。
 ズデーテン危機が起こると、チェンバレンは、外交的に、ドイツのしこりをほぐし、仏独戦争を防止しなければならない、という信念を持った。70万のイギリス兵と、仲良しだった従兄弟のノーマンを亡くした1914-18年の戦争を繰り返してはならない。なぜ、イギリスは、フランスに任せて、ズデーテンを諦めるよう、フランスにチェコを説得させなかったのか?こうして、ネビル・チェンバレンは、1938年9月、ドイツを3回訪れた。ベルヒテスガーデン、バート・ゴーデスベルグ、そしてミュンヘン、と。

ベネシュ、ヒトラーを侮辱
 何がヒトラーを怒らせたのか?引き金を引いたのは、アンシュルスの2ヶ月後の、ドイツがチェコスロバキアを襲うという噂だった。これは真実ではなかったが、ベネシュが動員をかけたことは事実で、これが噂の源泉となった。ロンドンはベルリンに、攻撃があれば座視しない、と警告を送り、パリとモスクワは、プラハとの約束を更新した。ヒトラーは、自らに責めなく、にわかに危機に陥った。
 ドイツ将官は、英国の武官をチェコ国境に案内して、戦争準備のないことを示した。攻勢がなかったことで、チェコ人は、ヒトラーを後退させたことを自慢した。ベネシュがヒトラーを侮辱したことはたしかだった。ヒトラーのプライドは傷ついたが、かれはそれを飲み込んだ。ヒトラーはチェコスロバキア、とくにベネシュへの報復を決意した。かれはチェコ侵入の「緑」作戦の発動を命令した。1938年5月の、ベネシュの偽の危機は、シュシュニクの軽率な国民投票に匹敵する愚策だった。

なぜヒトラーに「ノー」と言わなかったのか? 
 なぜチェンバレンはヒトラーの要求を断らなかったのか?なぜ英国は、チェコ人を見捨てず、戦うことを選ばなかったのか?
  まず、かれにとっては、ズデーテンのドイツ人が第三帝国に属しようがしまいがどちらでも良かったのである。3百万の不幸なドイツ人がチェコ人に治められている、という問題が、イギリスの戦争に価するとは思っていなかった。また、イギリス人の多くは、正義はドイツ側にあり、と思っていた。民族自決原則どおりならばそうなる筈である。フランス人は違う考え方をした。かれらには現実政治(リアル・ポリティーク)が大事だった。ドイツ人はできるだけ分断してしまう、フランスの安全保障はそこにあった。ドイツからの自由を望む民族には自決の原則を与える、しかしドイツ人には与えない。
 今、ヒトラーはウィルソンの歌を歌い始めた。パリでチェコ人とポーランド人に与えられたと同じ権利はズデーテンのドイツ人に与えられるべきだ。ミュンヘンは、国民の間の不公平を是正するもので、啓(ひら)かれたイギリス人エリートの勝利となったのである。
 もう一つ、英国の軍事力は不足しており、かつチェコスロバキアを救済する戦略がなかった。チェンバレンはそれを知っていた。チャーチルは主戦論を主張したが、ジョン・ルカッチは、チャーチルの認識は誤っている、とみていた。1938年10月に戦端を開くことは、道徳的に正しくても、実際的には間違いだった。スターリンが、チェコ側に立って戦う、という判断も間違っていた、とルカッチは1948年に書いている。チャーチルは、チェコ軍の装備、士気も過大評価していた。

ミュンヘン問題でのFDR(ルーズベルト)の立ち位置 
  イギリスがヒトラーに対抗したとき、アメリカは頼りになったか?ミュンヘンの当時、ルーズベルトは、「ヨーロッパで戦争が始まったとき、合衆国の確実な援助が期待できると思っていたら大間違いである・・ヒトラーに対する仏英陣営にアメリカが加わるというのは、100%ウソである」、と述べて迷妄を冷ました。
 英国に武力なく、フランスに意思なく、アメリカ、オーストラリア、カナダ、南アフリカの支援がなければ、英仏はドイツに勝てない。また戦争目的は何なのだろう?80%のズデーテンランド・ドイツ人の意向に反して、もとに戻すのが目的なのだろうか?それはベルサイユの愚行の再現にほかならない。
 チェンバレンにはもう一つ、ミュンヘン行きの目的があった。それは、ベルサイユの不正を正して、ドイツを列強の地位に戻して、平和のパートナーにすることだった。「アピーズメント」は、勝利者の雅量、と誤りを修正する意思の現われでもあったのである。

フランスはなぜ戦わなかったのか?
 フランスの東側の同盟国は、戦略的な資産から、致命的な負債に転じてしまった。ポーランド、チェコスロバキア、ユーゴスラビアには、ドイツがアルザスに攻め込んできたときに援助して貰う手はずだった。今やドイツに対して、逆にかれらを防禦するため、戦争に引きずり込まれることになってしまった。もう一つジレンマがある。イギリスの支援は、フランスが防衛戦を戦うときだけ有効である、という取り決めになっていた。フランスが東方諸国支援に開戦すると、イギリスの援助は得られない、マジノ線に引きこもってドイツの攻撃を待てば、東方同盟国は見捨てざるを得ない。フランスの同盟戦略はまさにナンセンスだった。現在は間違っていたとされる、対独宥和は、広く支持されていたのである。しかしいくつかの問題点はあった。
 その1、ドイツの回復は、国民投票によったとしても、ビスマルクとカイザーの作り上げたドイツに戻すことになる。その2、ドイツの旧領回復は、チェコスロバキアとポーランドの領土切断となる。ズデーテンとダンチッヒを還せ、とだれがどう説得するのか?その3、今のドイツの統治者が、エーベルトでも、ストレーゼマンでも、ブリューニングでもなく、ヒトラーであること。ドイツの回復は保証しよう、しかし、それは力を伴うものであってはならない。それゆえ、チェンバレンは、ズデーテンランドの、平和手段による帰属を交渉すべくミュンヘンに赴くことを買ってでたのである。

チャーチルの選択肢  
 ミュンヘン問題のとき、チャーチルは冷や飯を食って閣外にいたが、議会にはいた。そしてその声は、イギリスのみならず、ドイツ、世界にも響いていた。民族自決なんてとんでもない、ズデーテンランドを諦めさせるより、イギリスは戦うべきだ。兵力不足はどうするのだ?この問いに対するチャーチルの答は、スターリンと結べ、だった。
 過去西側の政治家で、チャーチルほどボルシェビズムの悪口を言ったものはいない。スイスからドイツを通ってレーニンを封印列車でロシアに送った、ドイツ参謀部の行為を、チャーチルは、ペスト菌の輸送、と罵った。レーニンの死後、スターリンは、ウクライナの集団餓死、政敵の拷問、公開裁判、処刑、粛清で悪名を馳せた。ヒトラー打倒のために赤軍をヨーロッパに入れる、チェンバレンをぞっとさせる考えだった。かれは、選べと言われれば、共産主義者より、ナチやファシストを選ぶだろう。ヒトラーの犠牲者が数百人であったのに対し、スターリンによって粛清された者は、ウクライナから太平洋までの強制収容所内部で数百万単位にのぼっていた。一旦ヨーロッパに赤軍が入り込むや、絶対出て行かないだろう、そして自由は奪われる。チャーチルが、1944ないし45年になって気がついたことを、チェンバレンは明確に認識していた。チェンバレンの戦略が正しかったとすれば、ズデーテンランド問題でイギリスが戦争の外に立ったミュンヘンが、どうして災厄といえるのか?なぜチェンバレンには味方がいないのか?

ゴーデスベルグ会談
  チェンバレンはその9月、ズデーテンランドの平和的移譲実現のために3回、ドイツを訪れた。最初のベルヒテスガーデンの訪問では、ヒトラーの希望を聞き、本国閣議の了解を取るため、一旦帰国した。首尾よく承認を取りつけ、ヒトラーに伝達すべくゴーデスベルグの会談に臨んだところ、ヒトラーは前回の要請を撤回した。かれはズデーテンランドの即時占領を言いだした。閣議は拒絶した。フランスも、チェコも拒絶した。チェンバレンは、ホレース・ウィルソンを使いに立てて、ヒトラーにはっきりとメッセージを伝えた。
 ドイツがチェコスロバキアを攻撃すれば、フランス政府は防衛義務を発動する。英国はフランスを支援する。ヒトラーは見たこともないほど取り乱して、「それだけの話か!本当にチェコ人をやっつけてやるぞ、ベネシュにはもう我慢できない!」、と怒鳴った。その夜、ヒトラーは、スポーツパラストで大演説を行って、自らの外交実績を誇り、世界を侮蔑した。ダフ・クーパー海軍相は艦隊動員令を発した。フランスとチェコスロバキアは動員を命じた。両国の兵力はドイツの2倍となる。
 一つのエピソードがある。ドイツ機甲化師団がウィルヘルム・シュトラッセを行進しているとき、通行人は一人としてこれに歓呼をしなかった。スポーツパラストのおべっか使いたちの喝采は、ドイツ国民の本当の心情を表すものではなかった。ヒトラーは、「まだ戦争には時期尚早だ」、と呟いた。
 9月28日、チェンバレンが下院で、戦争準備の報告をしていると、メモが入って中断された。目を通してかれは言った、「ヘル・ヒトラーは、ただいま動員を24時間延期し、ムソリーニ、ダラディエ氏とともに、わたしとミュンヘンで会うことに同意されました」。
 チェンバレンは、イギリスの卵を全部、一つのバスケットに入れてヒトラーに進呈してしまった。しかしヒトラーは、チェコ人を叩き潰し、ベネシュに復讐する喜びを自分から奪ったチェンバレンを呪っていた。チェンバレンはヒトラーの引立て役になってしまった。チャーチルは、「戦わずして大敗北を喫した。歴史の大きな一里塚になった。これは終わりでなく、始まりなのだ」、と言った。

アピーズメント(宥和)の失敗
  1933年以前、ドイツがまだ民主主義であったころに、ボールドウィン=チェンバレン流の、ドイツの正当な要求を満たす政策を取っていれば、うまく行っていただろう。連合国の雅量で、手の中の絵札を外しておけばヒトラーもナチスも政権を取れなかったろう。ドイツ人は、いまそれができるのは、ヒトラーとドイツ人が怖れられているからだ、と思っている。ヒトラーは、ミュンヘンで勝てる、と思っていた。
 ドイツ国民は、フランスがスペイン共和政府側についた場合、フランコに味方して戦うか?戦うまい。同じように、フランス人もチェコ人のために戦うはずがない。フランスが戦わなければ、イギリスも戦わない。これがヒトラーの計算だった。チェコスロバキア陸軍がいくら強くても、英仏に見放されたら、戦えとは命令できない。
 オーストリアとズデーテンランドで、ヒトラーは1千万のドイツ人を帝国の手中にした。しかし、ミュンヘンが、第2次世界大戦に直接につながったのかは謎である。6ヶ月後、6年にわたる死闘に、誤れるときに、誤れる場所で、誤れる理由で、英国を引き込んだ一つの決意から、第2次大戦のカースス・ベリ(戦争原因)が生じた。この決意は、英国史上最大の失敗であったことが証明されることになる。

 
 

 
未分類 | Comments(0) | Trackback(0)
2009/07/04

Unnecessary War -第7章 1938:アンシュルス(独墺合邦)

 ドイツ=オーストリアは偉大なドイツ母国に回帰しなければならぬ・・・同じ血は同じ帝国に属す。
 -アドルフ・ヒトラー  1925   マイン・カンプ

 難しいのは、オーストリアでいま何が起こっているのか、眼にはとまらないことだったーこの国と別の 国が力を行使しようとしていたのならば別なのだが。
 -ネビル・チェンバレン   1938


 パリ会議で、ずたずたにされた、海のない、人口650万の国に閉じ込められたオーストリアは、飢えているドイツと自由貿易地域を持ちたい、と連合国の承認を求めた。これは拒絶された。1921年春、南チロルとザルツブルグで行われた住民投票では、圧倒的多数がアンシュルスを支持した。これはヒトラーが総統に就任する12年前の出来事である。ベルサイユとサン・ジェルマン条約では、独墺の関税同盟すら禁止していた。1931年、恐慌の浸透により、再度関税同盟を申請したが、チェコ、仏、伊が拒否した。オーストリアではクレディット・アンシュタルト銀行が潰れ、ドイツではブリューニング内閣が倒れた。後任首相のフランツ・フォン・パーペンは賠償の打ち切りを要請したが、新任蔵相のネビル・チェンバレンはこれを拒否したばかりか、新たな40億マルクを要請した。度量を示すといいながらこれを30億マルクに減額した。帰国したパーペンは、群集から腐った卵、リンゴをぶつけられた。

ヒトラー=ハリファックスのサミット
 ヨーロッパというチェス盤で、ヒトラーが打った数々の手、ドイツ再軍備、ラインランド回復、アンシュルス、ミュンヘン、プラハの一撃、ヒトラー=スターリン協定、ポーランドの電撃戦、ロンメル=グデリアンのアルデンヌ攻勢、バルカン占拠、ロシア侵入のバルバロッサ作戦、これらは悪の天才が考えだした一連の一大戦略である、という神話がある。しかし、ほとんどの場合、これらは、敵側が作りだした状況に対する、かれのその時々の反作用だったといえる。アンシュルスの場合、それがたしかに妥当する。
 ラインランド以降2年間、1938年に至るかれの行動は、大胆ではあるものの無暴ではなかった。戦力について大法螺を吹いていたものの、ヒトラーは英空軍(ロイヤル・エア・フォース)、フランス陸軍にドイツが劣っていることは認識していた。
 1937年、ヘルマン・ゲーリングに狩猟に誘われて、ボールドウィンの後任、ネビル・チェンバレン首相に近い、ハリファックス卿がドイツを訪れた。その機会に、英国大使のリッベントロップは、ベルヒテスガーデンで、ハリファックスとヒトラーの面談を設定した。
 この会談は散々なものとなった。まず到着したとき、車まで出迎えたヒトラーをドアボーイと間違えて、上背のあるハリファックスは帽子とコートを総統に渡しそうになってしまった。昼食の間中、ヒトラーは不機嫌だった。インドの話になった。ヒトラーは映画「ベンガルの槍騎兵」が好きだと言い、SSにたとえて、「優秀民族がどのように振舞わねばならないか」の話をした。ハリファックスはインド副王の経験談で、慰撫政策について弁じた。突如ヒトラーが叫んだ、「ガンジーを殺せ!」「それでも不充分なら議会の指導者たちを殺せ!それでも不充分なら、秩序が回復されるまで、200人だろうが何人だろうが殺せ!」ハリファックスは唖然となった。
 しかし、ハリファックスはチェンバレンの訓令どおりの話をした。「大騒動」が避けられるなら、オーストリア、チェコスロバキア、ダンチッヒなど中欧のベルサイユのしこりの残る地域をすべて、ドイツの好きなようにしても良い、というメッセージである。イギリスは、アンシュルス、ズデーテンランドの移譲、ダンチッヒの回復を妨げるための戦争はしない、ドイツが正当性を持つ領土の回復については、正直な仲買人の役割を果たすつもりがある。チェンバレンは、ドイツ国民と領土の分断が銃口の問題になってしまったことで、連合国は1919年に歴史的な失敗を冒したと信じるようになってきた。これこそ、ヒトラーが聞きたかったことだった。ベルリンの英国大使、ネビル・ヘンダーソンは、ヒトラーは、ハリファックスの誠意と率直さに心打たれた、と記録しているが、歴史家のB.H.リデル・ハートは違うことを言っている。ヒトラーは、1937年11月のハリファックス卿の訪独から、とくべつな勇気を貰った、のである、と。

ヒトラー=シュシュニクのサミット
 平和的手段によるオーストリアのドイツ圏への取り込みに英国の賛意は得たが、さて、オーストリア人にどう納得させられるか?温厚で知的なカソリック、大戦の勇士、クルト・フォン・シュシュニクはドルフース殺害犯の二人のナチを絞首刑に処していた。1936年7月、「紳士協定」を結び、ウィーンは、「オーストリアをドイツ人国家として認める」、ベルリンは、「オーストリア連邦の完全な主権を認める」、相互に内政干渉はしない、という約束をしていた。敬愛される親ナチ政治家が政府に入ることは許されていたが、ナチスは政治扇動、街頭運動を行うことを禁じられた。紳士協定実施の7人委員会が作られていた。 
 しかし、オーストリア・ナチ党は紳士協定を無視し、シュシュニク打倒の計画を練っていた。警察は委員会の事務所を襲って、クーデター計画の証拠を入手した。シュシュニクは怒って、パーペンに証拠を呈示した。パーペンは自身、テロのターゲットになっていたことを知っていたが、この問題はヒトラー自身と協議するよう勧めた。
 当時ヒトラーは自らがその結婚しに立ち会った国防相、ブロンベルグ将軍の新婦が売春婦であった、というスキャンダルに巻き込まれ、意気阻喪しているところだった。ブロンベルグは辞任した。後任のウェルナー・フォン・フリッチュ将軍は、その失脚を策したSSトップのハインリッヒ・ヒムラーによって、同性愛者として告発され辞任に追い込まれた。ドイツ経済を大恐慌から救ったヒャルマル・シャハトも辞め、ヒトラーはニュース沈静のため、内閣からノイラート、パーペンを含む古手の保守主義者を追い払った。
 2月12日、シュシュニクはベルヒテスガーデンでヒトラーと会談した。シュシュニクは、紳士協定を遵守している被害者の役割で、オーストリア・ナチスの非行を糾弾するつもりだった。ヒトラーは怒った、「オーストリアの歴史は裏切りの歴史である」、ドルフース殺害犯を含む、すべてのオーストリア・ナチ拘留者が3日以内に釈放されれば、ドイツは、オーストリア主権の全面支援を更改する、と告げた。加えてヒトラーは、穏健な汎ドイツ主義者のリーダー、アルトゥール・ザイス・インカルトを内務相に任命することを要求した。部屋には将軍たちが出たり入ったりして圧力をかけた。
 シュシュニクはウィーンに戻った。ザイス・インカルトは内務のポストについた。ヒトラーは最悪の条件を取り下げた。オーストリア・ナチの地下リーダー、ジョセフ・レオポルドはヒトラーの前に引き出されて面罵された。「シュシュニクは思っていたよりずっと手強かった」、ヒトラーは述懐した。 
 「両国の友好関係は確認された、オーストリア首相に感謝する」、ヒトラーは議会で述べた。「獲物を飲み込む前に、蛇はまずつばきをつける」、チャーチルは鼻先で言った。

シュシュニクの再点火
 ヒトラーはオーストリアの衛星国化を諦めていなかった。しかしそれには「段階的解決」が必要、としていた。イタリアが枢軸に加わり、孤立してオーストリアは熟した果実のように落ちてくるだろう。オーストリアのナチスは、仲間争いで、段階的解決を妨げている。
 危機は去ったように見えたが、そうではなかった。ドルフースがまた火をつけた。かれは、国民が、「自由で、独立した、社会的な、キリスト教の、統一したオーストリアを望むか否か?(ヤー・オーデル・ナイン?)」、3月13日に国民投票を行う、と発表した。この相談に乗ったムソリーニは、「それは間違いだよ!(チェ・ウン・エローレ!)」と言った。ヒトラーは呆然とした。
 ヒトラーにとって、これはベルヒテスガーデンの了解違反だった。陸軍のスキャンダルと内閣の紛糾のあとで、ヒトラーはシュシュニクの侮りを放置するわけには行かなかった。しかし、オーストリアに対する軍事計画は皆無だった。ウィルヘルム・カイテル将軍が呼ばれた。ハプスブルグ帝国の復活運動を想定してむかし策定された「オット作戦」が引っ張り出されてきた。オーストリア近辺の全軍は、ゲーリングをベルリンに残して、3月12日、オーストリア攻撃態勢に入った。ヒトラーは生まれ故郷へ侵入する軍勢の先頭に立った。

帰郷
  ドルフース事件で、ヒトラーはムソリーニの怖さを知った。ヘッセン公フィリップスに手紙を持たせ、シュシュニクとの対決を知らせ、同時にあからさまな賄賂を贈った。「貴国イタリアとの国境をブレンナー峠に引きました」。7百万のオーストリア人の囲い込みのために、20万の南チロル人を売り渡したのだ。
 3月11日、ヒトラーはオーストリア国境を閉じ、シュシュニク政府のプロ・ナチ派は13日の国民投票の中止を要求した。シュシュニクはムソリーニに電話したが、ムソリーニは受話器を取らなかった。チェンバレンが、ドイツのオーストリア侵入が切迫しているというニュースを聞いたときは、たまたま外相に就任するため帰国する、大使のリッベントロップの送別昼食会の最中だった。リッベントロップは、何かの間違いだろうと思うが、問題解決に悪いことでもなかろう、と返事した。チェンバレンは、シュシュニクに、陛下の政府は、保護しかねる貴国が危険な行動を取ることに責任を負えない、と電報した。
 孤立無援となって、シュシュニクは国民投票を中止した。しかし、ことはこれで充分ではなかった。危機を仕切ったゲーリングは、シュシュニクが辞任して、ザイス・インカルトが代わること、オーストリアの秩序維持のためにドイツ軍の派遣を要請させることを指示した。しかし、軍隊はもう国境を越えていた。ザイス・インカルトが、12日、自分がすでに就任したから、軍は入れないでくれ、と要請したが、ゲーリングは、ときすでに遅し、と返事した。 
 ローマのヘッセン公から電話があった。「いま宮殿からもどりました、ドゥーチェはニュースを歓迎し、総統にくれぐれもよろしく、と言っておられます」。「ムソリーニに、ご好意は決して、決して忘れません、と伝えて欲しい。このことはわたしは一生忘れない、かれのご要望があれば、危険にさらされたら、いつ何時でも、わたしはお役に立ちます・・」、とヒトラーは返事をした。
 13日、国民投票が行われる筈だった日、ヒトラーは生れ故郷の街に立った。眼に涙を浮かべていたが、それは芝居ではなかった。 ヒトラーはあるウィーンの雪の日、インペリアル・ホテルの前で、労働者の仲間たちとみすぼらしい姿で雪かきをしたことを回想した。ハプスブルグの貴族たちが、赤絨毯を踏んでホテルに入りダンス・パーティをしていた。自分たちにはコーヒー一杯とて振舞われなかった。いつか自分はホテルの赤絨毯を踏む、と心に誓った。いまそのときが来たのだ。
 ヒトラーは突如、オーストリアの併合を宣言した。一発の銃火もなく、国防軍(ヴェアマハト)は歓迎された。ザイス・インカルトは辞任を指示された。過去アジア遊牧民に対するヨーロッパの砦、オーストリアはドイツの一州、オストマルクになってしまった。
 ドイツ軍のオーストリア進駐で驚かされたことが二つある。一つは、戦車、装甲車の7割が故障で道路に放置されていたことで、ドイツは大きな戦争の準備ができたいなかったのである。もう一つは、ヒトラーを迎えた大衆の熱狂である。4月10日、アンシュルスの是非は国民投票にかけられたが、99%が賛成という結果だった。ヒトラーはシュシュニクの国民投票を恐れたが、オーストリア人の80%はプロ‐ヒトラーになっていた。
 ドイツはもはやベルサイユの被害者とばかり見るわけには行かなくなった。 しかしイギリスとフランスはなぜ麻痺状態にあったのか?もともとオーストリアは両国の同盟国ではない、国境も接していない。アンシュルスは、はっきりとしたベルサイユ条約違反である。しかし、1935年の英独海軍協定も違反だったことには変わりない。ドイツ再軍備反対に失敗し、ラインランドを許した英仏が、国境も共有していないオーストリアのためになぜドイツと戦わねばならないのか?ポーランド人やチェコ人に認められた、民族自決の権利を、ドイツ人、オーストリア人には認められなかった。この点、チェンバレンとハリファックスは失敗だと思っていた。問題点はこうだ。ドイツに戻りたいドイツ人をみな第三帝国に戻すことでヒトラーに協力することは、1914年のドイツが戻ってくることになる。そして今や当時のカイザーよりはるかに脅威であるヒトラーがそこにいるのである。A.J.P.テイラーは言う、「戦後は、1936年3月7日、ラインランド占領に終わり、戦前は、1938年3月13日、オーストリア併合に始まった」。チャーチルは、「一種のテロが始まった、勝者は消えた、戦場で武器を捨てて、和平に抗議をしたものが今、世界制覇に動きだしている」、と警告した。
 
 
未分類 | Comments(0) | Trackback(0)
2009/07/03

Unnecessary War -第6章 1936:ラインランド

 7千万国民は、苦難の道を歩もうが死ぬことはない。
 -マティアス・エルツベルがーからフォッシュ元帥へ  1918年11月11日

 それは常にわれわれが重きをおく、ヨーロッパ全体の友好のためである、とわたしは議会に保証した。
 -アンソニー・イーデン   1936

 ストレーザの崩壊をみて、ヒトラーは「東方への道」を再開する前に西部国境を固める方針を立てた。ライン側の西側、ラインランドは、イギリスにとっての英仏海峡と同じ意味で、フランスにとっての緩衝地帯であり、永久非武装地帯として、1935年まではフランスにその占領の権利があった。しかし、フランスはイギリスの強い要請と、国家主義者の圧力に対峙していたドイツの民主主義者に良い顔をみせるため、5年早く、1930年に占領軍を撤退させた。これは戦略的破局の一つだった。
 ヒトラーは、西側の官民に、苛酷なベルサイユ条約の条件に対して、多少の罪の意識があることを承知していた。かれは直観的にこれにつけ込むことを感じていた。かれは、平等の待遇を求める悲惨な境遇の国民の自衛のポーズを取った。
 引き金を引いたのは、フランスが共産主義ロシアと締結した反独協定をフランス国会が批准したことである。1936年3月7日、クロール・オペラ・ハウスでヒトラーは絶叫した。仏ソ協定はロカルノ条約を無効にした、と。 ベルサイユ条約が脅迫によって押しつけられたものであるとすると、ロカルノ条約はドイツ自身が提案し、ヒトラーも受容していたものである。
 仮にドイツがスターリンと戦端を開いた場合、フランスがドイツを攻撃する、というのが仏ソ協定である。フランスの侵入はラインランドを通過してくる筈である。仏ソはロカルノ条約に違反した。そしてヒトラーは「平和攻勢」をかけた。ドイツは、フランス、ベルギーと不可侵協定を結ぶ、非武装地帯を双方の国境に設ける、航空協定を結ぶ、ポーランドほか東欧諸国と不可侵協定を結ぶ、国際連盟に復帰する・・
 平和の提案と同時に、軽装の数個大隊がラインの橋を渡った。ドイツ軍にとって17年ぶりのことだった。ヒトラーは、その予定を1937年においていたが、それでは遅すぎる、と考えたのだ。ゲーリング、ゲッベルスは、時期的にまだ早すぎると思っていた。ドイツ陸軍は、フランス軍に対抗できる実力をまだ備えていなかった。国防相、ブロンベルグ将軍は、オペラ・ハウスで青ざめていた。
 振り返ってみて、ここでヒトラーを打倒する結論を西側で出さなかったことは、大いに驚きであった。多少の犠牲は出たかも知れない、しかし後世失われた数千万の生命のことを考えれば・・・。

同盟国の不作為の陰で
 「全世界の民主主義を守るため」にアメリカは息子たちを送ったが、戦争は英帝国の100万平方フィートに及ぶ領土の拡大で終わった。「戦争を終わらせるための戦争」の筈だったが、それは、フランツ・ヨーゼフやカイザーより危険な、レーニン、スターリン、ムソリーニ、ヒトラーを生み出した。ウィルソンの14項目と民族自決の原則は踏みにじられてドイツは分断され、数100万のドイツ人が他国の支配にまかされ、賠償でドイツは破産した。揚句、アメリカは「死の商人」として戦争利得者だとして糾弾されている。「イギリスの火中の栗を拾う」のはもう真っ平だ。これがアメリカの姿勢だった。ドイツ兵がドイツ領を占領する、何が問題なのだろうか?
 イギリスは今や戦争の惨禍の記憶を持つ、行儀の良い人々に治められていた。西部戦線の悲惨は、詩に、回想記に、塹壕戦の生き残り兵士によって語られていた。傷痍軍人がいまだに路上で恵みを求めていた。フランス外相のフランダンが訪英し、ボールドウィンに会ったとき、ラインランドでフランスが反攻したとすれば、イギリスはどう出るか訊ねた。イギリスは、単純に、参戦しない、とボールドウィンは答えた。ボールドウィンは涙を浮かべて、イギリスにはフランス支援の力がもうないのだ、と告白した。ジョージ五世も、「わたしはもう年を取った。前の戦争は生き抜いたが、次の戦争が起こったらどうなるか?とにかくもう戦争はお断りだ。そうなりそうになったら、わたし自身がトラファルガー・スクエアで赤旗を振る」、と言った。
 ドイツの兵力に比べて、フランスははるかに強大であり、ヨーロッパのバランス・オブ・パワーからみて、ヒトラーの再軍備に賛成するものも多かった。また荒廃した国家を再建したヒトラーの手腕を高く評価するものもいた。ロイド・ジョージは、ラインランドにおける英仏の軍事行動に反対しただけでなく、問題をドイツの眼で見た。仏ソ条約以前からドイツは、ベルギー、ポーランド、ルーマニア、チェコスロバキア、ユーゴスラビアに包囲されており、ストレーザのイタリア、フランス、英国、ソ連がその包囲網に加わっている。そして重要な工業地帯、ルールが無防備で危険に曝されている。またフランスは西部戦線に、100フィートの地下に10万の兵士を収容する砦を構築し、砲口をドイツに向けているのである。
 ロイド・ジョージは、ヒトラーに招かれ、ベルヒテスガーデンで懇談した。かれはヒトラーに取り込まれた。かれの考えていることは自衛だ、侵略ではない、かれは国民のために偉大な事業をなしとげている、これがロイド・ジョージのヒトラー評だった。チャーチルも、ヒトラーとナチスの行為は愛国心の発露だ、と理解し、「史上に現われる英雄」の一人として見て良さそうだ、としている。チャーチルは、ラインランド危機の最良の解決策は、ヒトラーが雅量をみせ、個々の国に対して、というのではなく、条約を尊重して撤退するのが良い、と述べた。連合国は、ロカルノ条約にしたがえば取らねばならぬ、軍事行動を取りたくなかったのだ。

フランスはなぜ麻痺していたか?
 フランスの行動は不可解だった。ラインランドはアルザスと接しており、フランスにとってその安全が重要であることはベルサイユでも認識されていた。フォッシュ、ポアンカレは併合を、クレマンソーは緩衝国設置を主張したが、ウィルソンとロイド・ジョージが、ドイツが攻撃してきたときに英米が支援を保証するという保障条約を提案、フランスは、永久非武装化、15年間の占領、という方式を受容した。
 1936年3月16日、抵抗に会ったら即時撤退せよ、という命令を受けて侵入した僅か3個大隊のドイツ軍に、ベルサイユ、ロカルノ両条約で認められた反撃を、フランスはなぜしなかったのか?
 理由の1。1923年、賠償支払いを不履行にしたドイツに、履行を迫るため行ったフランスのルールの占領がアメリカほか世界の大不評を買った。フランスはそれを繰り返したくなかった。その2。フランスは、防衛戦略に切り替え、いわゆるマジノ・ラインをアルザス=ロレーヌの最前線に構築した。これは強力無比な砦だったが、それは全ヨーロッパに、フランスが戦うのは自国が攻撃されたときだけ、というメッセージを伝えるものとなった。
 フランス政府が軍事問題協議のため呼び寄せたモンス・ガムラン将軍は、ドイツはすでに100万の兵を武装させている、ラインランドには30万の兵力がいる、とナチについて誇張した報告をした。政治家の怠慢で、フランス軍はドイツより弱い。総選挙を控えた閣議は動揺した。ガムランはドイツ国境に13個師団を召集したが、国境は渡らなかった。後日ヒトラーは、「ラインランド進駐後、48時間は肝を冷やす思いだった」、と述懐した。フランス軍の反撃に会ったら、尻尾を巻いて逃げ出すところだった。
 チャーチルは回顧録で、フランス軍がラインランドに入ってドイツ軍を追い払ったら、ヒトラーは国内で将軍たちの反乱に会い、放り出されていただろう、と書いた。しかし1934年、オーストリアの危機を乗り越えたヒトラーは、1936年にはもっと力をつけていた。チャーチルの意見には反論もある。
 フランスの麻痺状態をみて、ベルギー国王、レオポルド三世は、1920年の仏白同盟を破棄して中立を宣言した。マジノ・ラインはベルギーで終わっていたので、フランス北部は、1914年、フォン・クルック将軍の侵入を受けたときと同じ野ざらし状態になる。フランスはロンドンで、軍事支援を行なおうとしないイギリスを非難したが、チャーチルは、「これはフランスの言い訳にすぎない、ベルサイユ、ロカルノ条約で、イギリスはフランスが戦うとき支援する、と約束している。そのフランスが動かないのではイギリスも動けない」、と書いている。
 ラインランドを獲得して、ヒトラーは西方の壁、ジーグフリード・ラインを構築した。これでドイツは兵力を節約できる。主力はベルギー、オランダを席捲する、そして東方へ向かうのだ。フランスの東方の同盟国、ロシア、チェコスロバキア、ユーゴスラビア、ルーマニア、ポーランドはヒトラーの動きの重要性を認識した。東方同盟国救援に赴くのに、ジーグフリードは一大障碍となる。中欧諸国は外交政策の転換を迫られることとなった。1936年3月29日、ラインランドの住民投票は、99%がヴェアマハト(国防軍)の進駐に賛成した。ベルサイユは死んだ。ロカルノは死んだ。ストレーザは死んだ。同盟国は戦わずしてヒトラーを抑止する最後のチャンスを逸した。
  
 
未分類 | Comments(0) | Trackback(0)
2009/07/01

Unnecessary War ‐第5章 1935:ストレーザ戦線の崩壊

 オーストリアは、主権国家としてその独立を守るにあたって、わが国が頼りになる、と知っている。
 -ムソリーニ   1934

 来年秋には、ヒトラーに・・・オーストリアをドイツにするようにさせよう。1934年には、かれの軍隊を 打ち破ることができたが・・・今はもうできない。
 -ムソリーニ   1937


 イタリアはパリ会議から、苦い気持ちで帰国した。1915年、ロンドン秘密条約で、南チロル、イストリア、トリエステ、北ダルマシア、ドデカネス諸島、アルバニア保護領、の割譲を見返りに、イタリアは連合国側で参戦した。またイタリアはそのほか、クロアチアのアドリア海の港、フィウメを希望した。これらは、旧オーストリア=ハンガリー帝国とオスマン帝国の領土である。しかし約束が守られたのは、南チロル、トリエステ、イストリアだけだった。権力掌握以前からベルサイユ、サン・ジェルマン条約の見直しを主張していたムソリーニは、1922年、ローマに進軍し、ファシスト政権を樹立した。
 ヒトラーが首相に就く10年前からムソリーニはドゥーチェの座にあった。ムソリーニはヒトラーのことを軽蔑していたが、ナチスがベルサイユ体制を暴力的に否定し、欧州を不安定にする危険が見込まれたことから、かれは、英仏伊独の4ヶ国会議を提唱した。再度の戦争を防ぐため、この4国が同等の立場でベルサイユの不平等を修正して行くという目的で、ムソリーニは、1933年に協定実現のため努力を傾注した。しかし、フランス、イギリス、フランスの尻馬に乗った小国、チェコスロバキア、ユーゴスラビア、ルーマニアが反対した。各国政治家のなかで、このプランに冷水を浴びせたのはチャーチルだった。この4ヶ国協定は、平和的手段で、戦後の諸規定を見直し、ヒトラーをチェックし得るものだった。

南チロルの売り渡し 
 ヒトラーの外交政策で最初に形になって現われたのは、ローマ=ベルリン同盟である。1920年にファシズムの存在を耳にしたときから、ヒトラーはイタリアとの提携を考えていた。ベルサイユ体制打破のためには、1914年、同盟を脱退して敵側で参戦したイタリアに再び同じことをさせてはならなかった。帝国は東に向けて発展させる、ヒトラーは南チロルの領土とドイツ人を見捨てる決意をした。

ドルフース殺害
 ヒトラーの初の海外旅行、1934年6月14日のヴェネチアでのムソリーニとの会見は失敗に終わった。ムソリーニにはヒトラーはひどく貧相に見え、ヒトラーも自信がなさそうだった。話題も、ムソリーニが読む気もしない、「マイン・カンプ」の受け売りに終始した。
 議論の一つはオーストリア問題だった。ヒトラーはオーストリアを手中におさめる意図を持っていたが、まだ機は熟していなかった。アンシュルス(併合)は、ここを緩衝地帯として見るイタリアの猛烈な反対に会うに違いない。ムソリーニから介入しないよう警告を受けたヒトラーは、オーストリアの主権は尊重する、という答えにとどめた。
 SSはひそかにオーストリア・ナチ党を支援し、首相のエンゲルベルト・ドルフースにテロを仕かけようとしていた。ドルフースは熱烈なナショナリストで、サン・ジェルマン条約で分断された国家再建にファシズムに似た一党独裁体制で強権政治を行っていた。社会民主党の騒擾は武力鎮圧し、社会党、ナチ党は非合法化されていた。そしてムソリーニは、ドルフースの盟友だったのである。
 ヒトラーのヴェネチア訪問の2週間後、「長いナイフの夜」事件で、ヒトラー旧友で、自らの権力への道に協力をしたSAの隊長、エルンスト・レームが粛清された。前首相、クルト・フォン・シュライヒャー夫妻ほか150-250名が殺害された。第三帝国の国家的テロ行為の最初のもので、ムソリーニは身震いした。その4週間後、オーストリア・ナチ党員によって、ドルフースは射殺された。
 ヒトラーがこの暗殺の可能性を知っていたのかどうかわからない。このニュースが届いたとき、ヒトラーは、憤激し、オーストリア大使が要請した、犯人たちを国外へ逃すことを拒絶し、大使を解任した。ヒトラーは、これは第二のサラエヴォになる!と叫んだ。ヒトラーが神経質になるのも無理はない、ドルフース一派の後見役はムソリーニだった。ムソリーニはただちに4個師団をブレンナー峠に展開し、ドイツが侵入してくるなら、イタリアは宣戦する、とウィーンへメッセージを送った。ドゥーチェにとって、かれのファシズムは、ナチズムとは違う世界のものだった。1942年にヒトラーは述懐した、ーあのときは危なかった、当時非武装のドイツが、フランス、イタリア、英国の連合軍と戦う羽目に陥って、崩壊してしまうところだった。
 1935年1月、ザールランドで住民投票が行われ、90%がドイツへの復帰を希望した。ヒトラーは自信を深め、次のステップに動き出した。3月9日、ヘルマン・ゲーリングは、ルフトヴァッへ(空軍)が独立して軍制の一翼を担うことを表明した。翌週、ナチスは36師団、30万の兵士を招集することを発表した。公然たるベルサイユ条約違反だった。イギリス首相、ラムゼイ・マクドナルド、フランス首相、ピエール・フランダン、外相、ピエール・ラバルは、4月11-14日の間、マジョーレ湖畔のストレーザでムソリーニと会談した。ストレーザ会議のコミュニケは、ドイツのベルサイユ条約違反を糾弾し、三国のロカルノ条約の原則固持を謳っていた。

ロカルノ条約
 ロカルノ条約とは、1925年、スイスで協議され、ロンドンで締結されたヨーロッパ諸国の安全保障協定である。これはドイツの外相、グスタフ・シュトレーゼマンの産物で、民主友好のドイツが、ベルギー、フランスとの三国協定で、ラインランドを非武装地帯として相互の現存国境(アルザス=ロレーヌはフランス領)を尊重する、イギリス、イタリアがこれを保証する、というものである。そしてドイツは国際連盟に加入する。 
 しかし、ロカルノでは、ドイツの東部国境については何ら取り決められなかった。メメル、ダンチッヒ、ポーランド回廊、ズテーテンランドの、それぞれリトアニア、ポーランド、チェコスロバキアの永久譲渡をドイツは受け入れなかった。ドイツはポーランド国境を受容したが、確認しなかった。イギリス外相、ネビルの異母兄弟、オステン・チェンバレンは、ロカルノ条約成立を以てノーベル平和賞を授与されたが、イギリスはドイツとポーランドの国境問題がどれほど危険なものだったか、認識していなかった。
 東のロカルノ問題を理解していたのは、フランスのルイ・バルトゥーだった。バルトゥーは、イタリアとの協調を促進し、露仏同盟の復活を目論み、ドイツの再軍備に反対し、自らの手段で自国の安全を担保できる、と主張していた。1934年10月9日、かれは、ユーゴスラビアのアレクサンダー国王がマルセイユでモロッコのテロリストに暗殺された現場に居合わせて狙撃され、国王は手当てを受けたものの、自身は放置され、出血多量で死亡した。

ストレーザ会議
 ロカルノ会議後10年経過してのストレーザ会議である。イギリスのマクドナルドと外相のジョン・サイモンは、議会に、ドイツに敵対行動を取る約束はしない、と保証していた。両人とも1914年の開戦に反対しており、ヒトラーの新たなベルサイユ違反に際して、中、東欧での行動、ないし仏伊に味方をするつもりはなかった。ラインランドには英国の国益なく、また英国の海上優位を認めるのであれば、英独海軍協定をも締結するつもりだった。フランダンは、これ以上のヒトラーの条約違反があれば動員する、と述べた。ムソリーニはもっと強硬だった。
 4月17日、英仏伊が提出した対独非難決議は国際連盟の評議会を通過した。ヒトラーは平和攻勢に転じた。5月21日、「平穏と平和のほかに何を望もうか?ドイツには平和が必要である」、とライヒスターグ(議会)で演説し、ムソリーニに、オーストリア併合の意思なし、と再確認した。

ヒトラー=ボールドウィン協定
 「ドイツ政府は、英帝国の海上における圧倒的重要性を認める、そして二国間にただ一度あった紛争を二度と繰り返さないような、イギリス国民との関係の確立、維持に努める」、とヒトラーは宣言した。ロンドンのタイムズは有頂天になった。ヒトラーはストレーザのもっとも弱い部分を噛み千切ったのである。外洋艦隊は、対英60%の海軍を保有したが、ヒトラーは、フランスとイタリアがワシントン会議で了解したと同じ、対ロイヤル・ネイビー35%による英独海軍協定を呼びかけた。
 マクドナルドに代わったスタンレー・ボールドウィンはこのエサにとびついた。1935年、6月18日、海軍協定は締結された。艦隊は35%にとどまるが、潜水艦は英国と平等の保有が許された。交渉にあたったホアキン・フォン・リッベントロップの帰国は歓呼の声で迎えられた。スターリンは、自国攻撃に英国がドイツにバルティック艦隊建造の青信号を発した、と受け取った。ムソリーニは、イギリス政府がヒトラーを恐れるあまり、国際連盟の抑止力の信頼性を失ったのだ、と理解した。イギリスは、ストレーザ合意のパートナーより上位にドイツを置いた。チャーチルもストレーザ戦線の崩壊を見た。英国外交は、ムソリーニをヒトラーの腕のなかに追いやった。

アビシニア
 エチオピア問題のルーツは19世紀末にさかのぼる。1884-85年、アフリカ分割のベルリン会議に、後発のイタリアに残されていたのは、リビア、ソマリア、エリトリア程度だった。イタリアは、残された独立国、エチオピアの獲得を狙ったが、1896年、アドワで獰猛なエチオピア戦士に4千の兵士を虐殺された。ムソリーニは復讐の機会をうかがっていた。大戦でイタリアは46万の兵士を失っていたが、オスマン帝国とドイツ植民地解体の配分から除外されていた。1934年11月、突如エチオピア軍がイタリア領ソマリランドの国境基地ワル・ワルに侵入してきた。国境紛争は、ムソリーニに絶好の機会を提供した。ヨーロッパはイタリアのエチオピア攻撃を予期した。ストレーザでは、英仏の反対はとくに見られなかった。イタリアの新聞の大見出しに、「イタリア軍、スエズ運河を渡る!」と掲載されたが、イギリスの政治家は何も言わなかった。
 東アフリカ、アジアでイギリス国旗の翻るところ、すべてが平和的手段で英国が獲得したわけではない、ここでイタリアのエチオピア併合に反対することは偽善にほかならない。しかし、イタリア、日本のような新興の帝国主義に対しては、イギリスは反対した。日本のジュネーブ代表団長、松岡洋右は、「欧米列強は日本にポーカーの遊び方を教えた、そして多額のチップを稼いだあと、ポーカーは不道徳だから、と言ってコントラクト・ブリッジに変えた」、と言った。1904年の英仏和親で、エジプトはイギリス、モロッコはフランス、と分け合った、ストレーザのパートナーであるイタリアにアビシニアにおけるフリーハンドを与えるべきである、とムソリーニは信じていた。
 エチオピアはそれ自身が帝国だったが、原始的で奴隷制が残っていた。しかしエチオピアは国際連盟のメンバーで、ウィルソンの理想主義はイギリスの上層階級と一般の考え方に支持されていた。皮肉なことに、エチオピアの連盟入りを指導したのはイタリアだった。加盟条件の奴隷制廃止はいまだに実行されていなかった。

イーデン失墜
 ムソリーニがエチオピアに侵入することは確実だった。イギリスは新設の国際連盟担当相、アンソニー・イーデンをムソリーニのもとに派遣して、妥協案を提示させた。イーデンはあまり準備をしておらず、ムソリーニの断固たる拒否に会った。ムソリーニは、エチオピア帝国が前世紀に奪った領土のすべてを要求した。要求が通らぬと、地図からエチオピアを抹殺する、と警告した。ムソリーニは完璧なギャングだ、イーデンは語った。イーデンは外相に移り、ローマは喜んだ。イギリスの新聞は、世界最悪の独裁者と、ムソリーニのことを書き、国際連盟を仕切るイギリスは、イタリア制裁で脅かしはじめた。孤立したムソリーニは、早急に行動を起こすことを決意した。

アビシニア戦争
 1935年10月3日、イタリアは近代兵器で装備された大軍でアフリカの部族民に戦いを挑んだ。400の航空機、なかには毒ガスを積んだ爆撃機もあったがーに対して、ハイレ・セラシェ皇帝は武装のない13機しか保有しておらず、うち8機が飛行可能だけだった。25万のエチオピア兵のうち、近代兵器を持っていたのは5分の1だった。無慈悲なピエトロ・バドリオ元帥に、アビシニア人は対抗するべくもなかった。
 ほとんど全世界がこれに憤激したが、ボールドウィン内閣にはジレンマがあった。エチオピアに眼を瞑って、ドイツに対抗するストレーザのパートナーとしてのイタリアを保持するか、連盟のリーダーの立場からイタリアを侵略者として認定し、制裁を課してイタリアを失うか、だった。バルトゥの後継者、ピエール・ラバルは、イタリアを訪問したとき、ムソリーニに、フランスはイタリアを擁護する、かわりに、チュニジアにおけるイタリア権益を放棄し、フランスの優位を認めよ、と言った。ムソリーニは、明確なエチオピアにおける「フリーハンド」をラバルから手に入れた。しかしイギリスは道徳的国際主義に転じ、国際連盟の原則にしたがうことになった。

ホアル=ラバル計画
  外務相、サム・ホアルとフランスのラバルはイタリア=エチオピアの和平に動きはじめた。イタリアは豊潤なオガデンの平原を得る、シバの女王の後裔と称するハイレ・セラシェ皇帝は山岳地帯の王国を留保する、そしてイギリスが自領を一部補償に提供し、エチオピアのために海への回路も保証する、という案で、ムソリーニも了解しており、これはほぼまとまりかかっていた。安心したホアルは、皇帝に説明するためにジュネーブへ赴く前、休暇を取った。その間、情報がパリの新聞に洩れた。国際連盟規約違反の侵略に対するこの代償は囂々(ごうごう)たる非難を浴びることになった。ホアル、ラバル両人とも辞任せざるを得なくなり、ロンドンとパリは、ホアル=ラバル・プランから足を洗った。サー・ロイ・デンマンは、このプランをイギリスが葬った政治的パニックと、公衆の大騒ぎをイギリス国益に対する致命的なミスと断じている。ムソリーニにこれを受けさせれば、真の敵、ドイツに対し盟友としてイタリアを確保できた。外相となったイーデンは、ローマでムソリーニに与えられた屈辱を引きずっており、イタリアに対する制裁を課すことについて国際連盟をリードした。しかし禁輸措置に石油は含まれておらず、スエズ運河もイタリアの兵員輸送に開かれていた。ムソリーニが侵略を諦めるには弱すぎる制裁だった。制裁の唯一の効果は、イタリアを敵側に追いやったことだ、とポール・ジョンソンは書いている。
 両世界大戦間の恒久的平和の枠組みづくりに失敗した責任はイーデンにある。チャーチルのイーデンに対する評価も低い。1936年1月、ローマのドイツ大使、フォン・ハッセルは、ムソリーニが、ストレーザ協定は死んだ、オーストリアがドイツの衛星国になろうと反対しない、と言ったとヒトラーに報告した。11月1日、ミラノでムソリーニは、ローマ=ベルリン枢軸を発表した。1937年、イタリアは、日独が結んだ反コミンテルン(防共)協定に参加することになる。ヒトラーは誠意の証として南チロルを枢軸のパートナーに譲った。ヒトラーにとって南チロルは高価だが、イギリスにとってエチオピアは安価なものだった。こうしてイギリスはエチオピアを失いーそしてイタリアを失った。

チャーチルとムソリーニ
 当時チャーチルは一議員だった。かれは国際連盟違反について、イタリアを制裁すべきだとしていたが、ドイツから眼をそらさず、エチオピアはきわめて小さな問題である、と議会で主張した。1927年、蔵相のとき、かれはドゥーチェと面談したが、ムソリーニの個性に魅了され、ファシズムのボルシェビズムに対する姿勢に大いに好感を持った。英国政治家は、ヒトラーと対峙し、ムソリーニと和解すべきであったのに、「逆のことをやった、ドイツを甘やかし、イタリアと対立した」、とキッシンジャーは書いている。
 イギリスの武装は貧弱で、中くらいの国になってしまったが、今や一つ、二つならず三面の敵をかかえることになった。そして三番目の最新の敵は地中海、中東方面にあり、まったく不要に作り上げてしまったものである。イーデン自らが、「英伊関係の悪化は連盟規約遵守の義務から生じたもので、英伊間に紛争があったわけではない」と、1936年11月に議会証言しているのである。
未分類 | Comments(0) | Trackback(0)
 | HOME | 

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。