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2009/06/25

Unnecessary War -第3章 「復讐心の毒」

 勝者がひけらかす不正、倣岸は、決して忘れられず、赦されるものではない。
 -ロイド・ジョージ   1919

 三人の無学の力持ち・・・座って大陸を切り分けているが、仕切っているのはホンの子どもだ。
 -アーサー・バルフォア


 1918年、イタリアを破り、ルーマニア、ロシアをくだしたドイツ軍100万は、西部戦線の友軍に加わった。ルーデンドルフはマルヌ川に布陣し、サー・ダグラス・ヘイグ元帥は、興国の興廃ここにあり、と檄をとばしたトラファルガーのネルソンにならって、背水の陣の死守を命令した。
 1918年春に30万だった米軍は、夏には100万になっていた。ドイツ軍の士気は低下し、10月18日、バーデン公マックスは、ウィルソン大統領の14項目による講和を受け入れる意思を表明した。民主政府が作られること、という条件が追加された。あわせて200万の戦死者と600万の戦傷者を出した英仏は、ウィルソンのなまぬるい条件に抗議した。ロイド・ジョージは、ウィルソンの第二項目、海洋の自由について、ロイヤル・ネイビーは帝国の必要に応じて勝手に動くという趣旨で異議をとなえ、あとは了承した。フランスは、ドイツから蒙ったすべての損害を補償せよと主張した。11月11日、コンピエーニュの森の列車のなかで講和条約が締結された。1921年、これに署名したドイツのエルツベルガーは、「11月11日の罪」によって暗殺された。

「カイザーを絞首せよ!」
 イギリスでは、1900年、ボーア戦争直後に行われた「カーキー選挙(非常時の選挙)」が実施されることになった。ロイド・ジョージは、ドイツの報復を招かぬよう、穏健路線を走るつもりだったが、フリート・ストリート(新聞街)は、ドイツに対する復讐を煽り立てた。世論は「カイザーを絞首せよ!」と叫んだ。ロイド・ジョージは方針を転換し、ドイツに最大の補償をさせる、と大衆に大声で告げた。かれは、史上最大の多数を獲得した。
 「フランスの虎」、ジョルジュ・クレマンソー首相は、青年のころ、ドイツ兵がパリを蹂躙するのを眼にしており、徹底したドイツ嫌いだった。かれは、「ル・ボッシュ(ドイツ野郎)」には、二度とフランスを脅かすことのできないような扱いをしてやろう、と決意していた。

「地獄の汚れ仕事」
 「内閣よりもデモクラシー(民衆)の方がよほど復讐心がある」、とチャーチルが言ったのは1901年のことである。「国民同士の戦いの方が、国王同士の戦いよりもずっと恐ろしい」。20世紀はこの予言を実現させた。1815年、新体制を討議するウィーン会議には敗戦国のタレーランも出席した。しかし、今回、ドイツは有罪国家としてパリ会議の出席は認められなかった。
 ウィルソンは、米国が参戦した1917年4月に、「ドイツ国民に対しては何ら悪意はない」と言明したが、1919年には、国民は、「その政府の行動に責任がある」、と結論した。連合国の条件の受領に、パリに出向いたドイツ代表は、強制された国家分断に唖然とした。オイペンとマルメディはベルギーに譲られ、アルザスとロレーヌはフランスに再編入されることになっていた。クレマンソーの欲しがったザールは、フランスの実質的支配による国際連盟の管理下におかれた。シュレスビッヒではデンマークと領土を分けることについて住民投票が行われることになった。東プロシアの港湾、メメルはリトアニアのものとなった。何世紀にもわたってドイツ領だった、上部シレジアは、住民投票で60%の票がドイツ残留を示したが、工業地区の6分の5、鉱山のほとんど全部がポーランドのものとなった。ハンザ同盟の都市、ドイツ領だったダンチッヒは、自由都市となり、ポーランド支配の国際連盟管理となった。世界第3位の海外領土はすべて没収された。中国の山東の租借地と、赤道以北の島嶼は日本へ、赤道以南の島々はニュージーランドとオーストラリアに与えられた。アフリカ植民地は、南アフリカ、英国、フランスで分けられた。ドイツの河川はすべて国際管理となり、市場はすべて各国に開放されたが、ドイツ商品には同じことが許されなかった。ドイツは人口の10分の1、領土の8分の1を失い、装甲車、戦車、重砲、潜水艦、航空機の製造を禁じられた。参謀本部は解体され、陸軍兵力は10万に制限、海軍は小艦艇だけになってしまった。
 イギリス代表団の一員、ジョン・メイナード・ケインズは、著書の「平和の経済的帰結」で、過酷な賠償はまた戦争を惹起する、と警戒を発したが、1920年、賠償総額は32億金マルクと決まった。カイザーは戦争犯罪人と宣告された。ヘンリー・ホワイトは、「地獄の汚れ仕事」と形容した。

飢餓封鎖(兵糧攻め)
 商船と漁船も押さえられ、ドイツは飢えていた。250万トンの食糧援助要請も断られた。11月11日から平和会議の期間中、封鎖は続けられていた。アメリカは、当初、中立国港湾からの生活必要物資のドイツへの移送を阻む、英国の封鎖は国際法上、人道上の違反である、と主張していたが、参戦後は封鎖を支持した。武器を捨てたあと、ドイツでは数千の男女、子どもが封鎖によって命を奪われた。この考案者、実行者はチャーチルである。

「やつらは獣だ」
 1919年5月7日、トリアノン宮殿で、ドイツのウルブリヒト・フォン・ブロックドルフ=ランツアウ外相は、クレマンソー、ウィルソンから協定書を手渡された。「ドイツとその国民だけが有罪、という話には納得できない」、と外相は申し立てた。ロイド・ジョージは、「戦争に勝つのも大変だった、そんな話をそのあと聞こうとは・・」と憤慨した。ウィルソンは、「言語道断だ、ドイツ人は本当に馬鹿者だ」と言い、バルフォアは「やつらは獣だ」と言った。
 スコットランドの北東、スカパ・フローの海軍基地に抑留された外洋艦隊の指揮官、ルードビッヒ・フォン・ロイター提督は、降伏より自沈を選んだ。戦艦10、巡洋艦9、重巡洋艦8、水雷艇50、潜水艦100が海底に沈んだ。救命ボートで逃げる丸腰の水兵を、イギリスの水兵が銃撃した。1920年、ロイター提督が戻ったとき、群集は外洋艦隊の「最後のヒーロー」として歓呼してかれを迎えた。
 悪魔ですら自己弁護をする機会が与えられる。暗黒の中世の規範の方が、新しい民主主義よりましだった。協定調印を断われば、ドイツは連合国に蹂躙され、飢餓封鎖は続くことになる。ドイツは最終的に署名した。飢餓封鎖は1919年7月12日まで続いた。ドイツ人はこれに拘束される、とは考えていなかった。これはただの紙くずだ、暴力によって強制された約束は、力が続いている期間だけしか効力を持たない。希望を捨てるな、復活の日は来る。

ラインランド
 フランスは、5百万の人口を擁し、主要産業を持つラインランドの併合を企んだ。しかし、ロイド・ジョージはドイツ人の復讐心を警戒してこれに反対した。ウィルソンは自らの民族自決原則と抵触するのでフランスの動きには消極的だった。イギリスには海峡とロイヤル・ネイビーが存在する、アメリカには大西洋がある、それがかれらの安全保障である、フランスには陸上の安全保障地帯が絶対に必要である。これがフランスの言い分だった。
 フランスは、15年間の占領という解決を飲まされた。しかし、フランスの要求した代償は高いものだった。英米仏の同盟である。保障条約により、ドイツが再度フランスを攻撃したとき、英米にフランス防衛の義務を課すものだった。
 ワシントン以来の米国外交の基本原則に反し、ウィルソンはこれに合意した。これはまた、国際連盟の新しい集団安全保障の理想が、古いバランス・オブ・パワー政策に取って代われるものではないことを示していた。アメリカ上院はこれを否決した。アメリカの参戦は、アメリカ船がドイツ潜水艦に沈められたからである。アメリカは、自己の国益が脅かされないかぎり戦わない。ロイド・ジョージは、上下両院にはかることなく対仏保証を発行したが、ついにアメリカはこの問題を取り上げなかった。イギリスは梯子を外された。フランスは、保障条約、保障地帯のいずれも与えられず、15年のラインランドの占領だけをすることになった。ライン川の両岸は、永久に非武装地帯になった。しかし、占領期限が満了した1935年、非武装保障を守ったのはフランス陸軍だけだった。

もっとも得をした国
 ドイツ問題が峠を越すと、次はオーストリア=ハンガリー帝国だった。サンジェルマンとトリアノンの条約で、帝国は切り分けられ、連合軍に与した各国に分配された。北部は新生ポーランドに与えられた。1918年、トマス・マサリクのもとに新しい国、チェコスロバキアが創られ、350万のドイツ人、300万のスロバキア人、100万のハンガリー人、50万のルテ二ア人が、いずれも不本意に、700万のチェコ人が支配する国を構成した。チェコ外相のエドゥアード・ベネシュは、スイス連邦をモデルにすると約束したが、1938年、ロイド・ジョージはベネシュに裏切られた、と述懐している。
 チェコ独立が成功した理由。1は、勝者側についていたこと。2は、その新しい領土が、ドイツ、オーストリア、ハンガリーの懲罰の犠牲によって齎されたこと。3は、ベネシュ、マサリクがベルサイユで気に入られたこと。4は、チェコ人の狙いがはっきりしており、その実行力もあったこと。
 チェコは世界で10番目の工業国となった。オーストリアとハンガリーからその70-80%の工業力を奪い取ったのである。20万のオーストリア人が住む南チロルは、1915年、連合国に参加したご褒美としてイタリアに与えられた。キリスト教世界の偉大な帝国の一つ、オーストリアは、700万足らずの海のないちっぽけな国になってしまった。

トリアノン 
 ハンガリーも1920年6月のトリアノン条約で、「究極の犠牲者」として、12万5千平方マイルの国土が3万6千平方マイルとなってしまった小国と化した。トランシルバ二アと200万のハンガリー人はルーマニアへ、スロバキアはチェコ人に渡された。そのほかは、セルビア・クロアチア・スロベニア王国へ行き、一部はオーストリアにさえも譲られた。米議会はトリアノン条約を認めず、別途の講和協定を結んだ。 
 ウィルソンは、1918年2月、領土併合、贈与、懲罰を禁じ、「民族自決」を尊重する・・・領土問題の解決は関連する住民の利益のために行い、競合国家間の調整、妥協に委ねられてはならない、と宣言した。しかし、この宣言は空しかった。
 新しく誕生した国家の多民族性は、ハプスブルグ帝国時代と変わらなかった。そしてそれらの国家には歴史、血統、道徳的権威が欠けていた。

ルーマニア 
 チェコと同じく、ルーマニアもパリでは一大勝者となった。当初中立していたが、1916年8月、ハンガリーからの領土割譲という秘密のエサを貰って連合国に入った。講和で、トランシルバ二アと東バナトをハンガリーから、ベッサラビアをロシアから、北ドブルジャをブルガリアから、ブコビナをハプスブルグ帝国から手に入れ、領土を倍増させた。西バナトは、多言語国家、セルビア・クロアチア・スロベニア王国へ行った。パリの参加者はヨーロッパに新しい地図を描き、次の欧州戦争のタネを植えた。会議の勝者は、チェコ、ルーマニア、セルビアであり、敗者は、オーストリア、ドイツ、ハンガリー、ブルガリア、それにロシアだった。敗者の民族自決は許されず、ウィルソンの14項目は嘲られ、イギリス、イタリア、日本が膨張し、アメリカの11万6千の犠牲は自国に何も齎さなかった。アメリカの参戦理由については、チャーチルも疑問を持っていた。アメリカが参戦しなくて済む理屈はいくつも挙げられた。
 ベルサイユ条約の起案者は、第一次大戦(グレート・ウォー)の終幕を書き、ドイツ復活の第1幕を書いた。雛を温めているボルシェビキ・ロシアと、屈辱を受けたドイツの間に、六つの新しい国家があった。フィンランド、バルトの3国、ポーランドとチェコである。最後の二つには500万のドイツ人が捕らえられている。ロシアとドイツはこの6国に含むところがある。ロシアとドイツが結んだら、だれもこの6国を救えまい。

勝利の果実
 イギリスは大戦の最大の受益者だった。ホーエンツオルレルン、ロマノフ、ハプスブルグ、オスマン帝国は消失した。トラファルガー以来のロイヤル・ネイビーの最大の脅威、外洋艦隊はスカパ・フローで自殺した。イギリスはドイツの大西洋横断ケーブルと、ほとんどの商船を、Uボートに撃沈されたものの補償として回収した。南太平洋の島嶼は、オーストラリア、ニュージーランドのものになった。南西アフリカのドイツ領は南アフリカが手に入れた。トルコからメソポタミアとパレスチナを取った。クウェートからカイロまで、そこから南下してケープタウンまで、英国自治領を徒歩で歩けることになった。ロイド・ジョージが帰国の際、前例にないことだが、ジョージ五世は自らの馬車にかれを伴い、バッキンガム・パレスへ向かった。

勝利の犠牲 
 果実には犠牲が伴った。若い英国士官の戦死率は最大だった。英国の主な政治指導者、自由党のアスキス、労働党のアーサー・ヘンダーソン、アイルランド国民党のジョン・レドモンドは、息子を一人、統一党のボナー・ローは二人を失った。英国の対外債務は、1914年の14倍となった。英軍がガリポリ上陸作戦でトルコ軍に敗れたことは、アドワの戦い(1896年、イタリアがエチオピアに敗れる)、日本海海戦に続く西洋人無敗の神話を砕くものとなった。
 民族自決は、西欧帝国を切り倒す斧ともなり得た。ロイド・ジョージがロンドンへ戻ったとき、アイルランドは暴動を起こしていた。エジプト、イラン、インドでは反乱が勃発した。 もっと恐ろしいライバルが姿を現わしてきた。世界金融のリーダーシップは、連合国に物資を販売してきたアメリカに移った。兵力も世界一となったと思われる。1917年、30万だった陸軍は、400万に膨れ上がり、うち200万はフランスに送られ、決定的な勝利に貢献した。1918年、イギリスは戦艦の建造を中止したが、アメリカは始めたところだった。戦後のイギリスの領土拡張に対してアメリカの若者は犬死だった、アメリカの世論は、何と馬鹿なことをしたものだ、となった。フィンランドを除いて、連合国の対米債務は不履行状態になった。そこに大恐慌がアメリカを襲った。
 チャーチルはロシアのレーニン、トロツキー体制を警戒した。ドイツは極端な左右の対立に明け暮れており、ヨーロッパでロシアを抑える、という伝統的な役割を果たせそうもなかった。チャーチルは、連合国の介入を主張したが、ロイド・ジョージは反対だった。チャーチルは公爵の出身なので、ロマノフ大公の没落が気に食わないのだろう、とチャーチルの懸念に取り合わなかった。しかしチャーチルのこのときの姿勢からすれば、後の、かれのスターリンに対する態度は、どうにも説明できないものである。
 
カルタゴの講和? 
 「ドイツの不道徳行為は厳しく罰しなければならない」、とベルサイユ条約に最初に、「カルタゴの講和」と名づけたのは南アフリカの首相、ジャン・スマッツである。敗北したカルタゴは、焼き尽くされ、略奪され、男は殺され、女は凌辱され、子どもは奴隷に売られ、歴史から消滅した。ドイツ軍の悪行は、北バージニアでのリーの軍隊、ジョージアでのシャーマンの軍隊ほどではない。ブレストリトフスクで、ロシアからフィンランド、エストニア、ラトビア、リトアニア、ポーランド、ウクライナ、白ロシア(ベラルーシ)を剥ぎ取った、と言っても、民族自決の原則をロシア帝国にあてはめただけと言える。1918年11月11日現在、ドイツ軍は負けていなかった。ドイツ国内に連合軍は足を踏み入れておらず、ドイツ軍は、クルスク、ドン川の東、ウクライナ、クリミア・・に駐留していた。
 ウィルソンの14項目は、その後24項目に修正されていたが、南チロルのイタリア割譲、北太平洋島嶼の日本割譲で、連合国は第1項目に違反した。「絶対的航行の自由・・」の第2項目をイギリスの横槍で削除した。第3項目、「すべての経済的障壁の除去」、にドイツ商品に対しては例外とされた。などなど、連合国側は違反に違反を重ねた。
 アドルフ・ヒトラーが政権を掌握した直後のロンドンにおけるあるディナー・パーティで、だれかが質問した。「ヒトラーてどこで生れたの?」。「ベルサイユですよ・・」、即答が返ってきた。ベルサイユの参加者は、復讐の講和を母国に持ち帰った。公正の講和を持ち帰れなかったことで、その子どもたちがその代価を払わされた。ベルサイユ宮殿の鏡の間から現われた戦争の代価は、5千万の生命だった。
 
 
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