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2009/06/22

Unnecessary War ‐第2章 過ぎし夏の日

 国々は、戦争という煮えたぎった大鍋のふちに転げまわっている。
 -デヴィッド・ロイド・ジョージ   戦争の記憶

 この戦争は、かつて白人の行ったことのなかで、たしかに最大の愚行である。
 ーティルピッツ提督   1915


 大公の暗殺後、4週間も経たないうちに、バルカン危機は英国内閣を襲った。初めのうち、蔵相のロイド・ジョージは、これは水平線上の小さな雲である、英独関係はこれまで以上に良い、と説明していたが、7月24日の閣議で、エドワード・グレイは、セルビアに通告したばかりのオーストリアの最後通牒を読み上げた。ことの重大さは39歳の海軍大臣の肩にのしかかってきた。首相のアスキスはその夜、この最後通牒は、少なくとも、ヨーロッパの四大国、オーストリア、ドイツ、ロシア、フランスを巻き込む大戦争の序奏である、と国王に報告した。

「奮い立つ、嬉しい」
 オーストリアは欧州戦争を望んでいたわけではない。セルビアの拒否を見越して、10項目の条件からなる最後通牒を発し、短期の懲罰的な戦争をするだけのつもりだった。セルビアは、大公夫妻の狙撃犯の訊問、起訴にオーストリア人が立ち会うという一条件を除いて全てを受諾した。しかし、オーストリア国民はその回答に憤激した。7月27日、オーストリア=ハンガリー帝国はセルビアに宣戦し、28日、ドナウ川を越えてベオグラード砲撃を開始した。
 ロンドンの閣議で、閣僚の4分の3は、戦争への介入に否定的だった。自由党内閣は、普仏戦争で中立を守った、小イギリス主義者のグラッドストンの流れを汲むものが多かった。フランスに秘密の保障を与えたグレイとチャーチルは、参戦すべきと考えた。「血にまみれた平和」などは意味がない、チャーチルは不戦と結論が出そうになった大使たちの会議で発言した。妻のクレメンタインに、「わたしは奮い立っている。嬉しい。」と手紙を書いた。
 カイザーの戦争回避の努力は水泡に帰した。1912-13年のバルカン戦争で、グレイとともに戦争拡大の防止に働いたドイツ帝国宰相、ベートマン・ホルベークは、「コントロールは失われた、すべて一人歩きをしはじめた」、と匙を投げた。

海軍大臣 
 ウィンストン・チャーチルは1874年11月30日、先祖のマルバラ公爵のブレナムの邸で、トーリー党の新星代議士、ランドルフ・チャーチルとアメリカ人のジェニー・ジェロームとの間に生れた。ウィンストンを有名にしたのは、ボーア戦争である。従軍記者として装甲列車で戦線へ移動中、ボーア側のゲリラに捕らえられたが、脱走したことで一躍英雄となったのである。ウィンストンは父親と同じ保守党に属したが、1904年、1846年の穀物条例以来の自由貿易を捨てて、保護関税を導入せんとするトーリーの政策に叛旗を翻し、自由党に移籍した。1906年、自由党は大勝し、チャーチルはタイミング良く頭角を現わすことになった。1911年、海軍大臣となって、閣僚中、最大の仏独戦争介入論者となった。

シュリーフェン・プラン 
 閣内論議で、グレイ、チャーチルの切り札のエースはベルギーだった。75年前、フランス、プロシア、イギリスはベルギーの中立保障条約を締結した。ドーヴァーの向かい側の敵対勢力の存在は、英国にとって死活問題となる。1870年、モルトケの軍がフランスに侵入したとき、ビスマルクはグラッドストンにベルギー領には入らぬ約束をした。ベルギーが侵犯されないかぎり、イギリスは普仏戦争の帰趨に無関心でいられた。しかし、ベルギーの中立が他国に侵されたとき、イギリスが介入することは義務ではなく、介入「できる」という権利の形になっていた。この規定の仕方が閣議を紛糾させる原因となった。そしてこれを決めた1839年、保障条約の調印の時代からは世の中は激変している。ナポレオンが、「プロシャは大砲から生れた国だ」と言ったが、その「大砲」は今や欧州ではロシアに次ぐ7千万の人口を抱え、世界生産物の15%(英国は14%)を産出する大国となった。1870年、フランスは6週間で敗北した。
 ドイツは孤立し、嫌われ者になっている。とくに、アルザス=ロレーヌを奪われたフランスの復讐心には底深いものがあった。敵対的なフランスと膨張するロシアに挟まれたドイツの戦争計画は、地政学的にも二正面作戦とならざるを得ない。大モルトケの構想は、対フランスには、ラインという天然の要害を以て防禦姿勢を取り、ロシアに対しては全勢力で攻勢をかけるというものだった。1891-1906年にかけて参謀総長をつとめた、アルフレッド・フォン・シュリーフェン伯爵の戦略は、最大の敵、フランスを短期間で最初に打ち破り、のちロシアに向かう、という考え方である。しかし、フランスの西部戦線、ベルフォール=エピナル、トゥール=ヴェルダンの堡塁の突破は時間がかかり、出血を強いられる、したがって、ベルギーを通ってフランス北部に進出し、パリを裏側から包囲することを最良策とするものである。勝利の唯一の道はベルギー通過である。シュリーフェンは、1913年に他界したが、死の床にあっても「右翼を補強せよ」と言い続けた。大モルトケの甥、参謀長の小モルトケも、「常識にこだわるな、勝利のみが戦いを正当化するのだ」と宣言した。
 イギリスはシュリーフェン・プランを知らず、ベルギーの中立を守る75年前の条約で欧州大戦に、巻き込まれるということにも考えが及ばなかった。ベルギーの中立侵犯が、イギリス軍の海峡横断を招くと警告されたとき、「イギリス人は多ければ多いほど良い」、とモルトケはティルピッツに語った。
 ドイツ人は、ビスマルクを忘れていた、「予防戦争は自殺行為だ」と言っていることを。最初の2週間で、英国派遣軍は12万の兵力を、外洋艦隊の妨害なく大陸に送り、ドイツ軍の攻勢を抑え、シュリーフェン・プランを打ち破ることになる。

「張り切っているのはウィンストンだけ」 
 8月1日、ロシアは動員を開始した。アスキス内閣は揺れていた。その夜ドイツは、動員令を解除しないロシアに、中立を宣言しないフランスに、宣戦布告した。8月2日、グレイは、ロイヤル・ネイビーが外洋艦隊を封じ込め、ドイツに、フランス船舶攻撃、沿岸爆撃をさせないことをフランス大使に保証した。アスキスの娘のヴァイオレットは回想する。「大臣たちは昼食休憩のとき、みな沈鬱の表情だった。ひとりウィンストンだけが張り切っていた」。
 2日の閣議で、多数は、ドイツがベルギーに侵入し、ベルギーの要請があれば、英国は1839年の条約にしたがって参戦する、と同意した。閣僚のジョン・バーンズはすでに辞任していたが、ほか5名の閣僚がバーンズに同調する雰囲気だった。仏独戦争において、英国の巨大な出血と出費をどのように正当化するか、ロイド・ジョージにその大義を求めた。閣僚が6名辞任するとアスキス内閣は崩壊する。そうなると歴史はまた違った方向に動いたことだろう。ロイド・ジョージが要(かなめ)を握っていた。世論はベルギー侵入があれば戦争に向かうだろう、とチャーチルは知っていた。
 チャーチルは、植民地のコンゴ支配に暴虐を尽くしたベルギー人にあまり好感は持っておらず、ベルギーとドイツの間の秘密協定の存在も疑っていた。またかれは、ドイツへの物資補給を妨害するため、海軍を以てアントワープを封鎖する、すなわち、自らがすすんでベルギーの中立を冒すことすら考えていた。
 ベルリンはブラッセルに最後通牒を発し、アスキスは動員を命じた。ロイド・ジョージは参戦側に立った。2年後、かれはアスキスに取って代わり、英国を勝利に導くことになる。 ベルギーのアルベール国王からジョージ五世に、1839年の条約による保障の履行が要請された。8月4日、イギリスはドイツに宣戦布告をした。

英国はなぜ戦ったのか
 第一次大戦は必要な戦いだったのか?オーストリアが、皇太子の殺害をセルビア潰しに利用しようと考えなければ、10項目中9項目のセルビアの条件受諾で話はまとまったかも知れない。ニコライ二世に強権があって、自己の動員令を撤回できたら、ドイツの動員はなく、シュリーフェン・プランの自動的発動はなかっただろう。カイザーとベートマンが、1913年、バルカン危機で開催された6ヶ国協議再開のグレイの提案を受け入れていれば、戦争は避け得たかも知れない。
 そして、イギリス側の事情にはより興味深いものがある。兵力を、100年ぶりに「海峡横断させる」という英国の決意が、シュリーフェン・プランの打破、4年間の塹壕戦、アメリカの参戦、1918年のドイツ敗戦、カイザーの退位、ベルサイユにおけるドイツの四肢切断、そして復讐の念に燃える一帰還兵、ヒトラーの台頭を招いたのである。イギリスは、8月1日のヨーロッパ戦争を世界大戦に転じさせた。これにはいくつかの理由が挙げられる。

1.フランスを列強の位置にとどめること。 グレイはドミノ理論を信じていた。フランスが壊滅すれば、ベルギーのみならず、オランダ、デンマーク、次々に崩壊する。ドイツが君臨するヨーロッパは、戦争のリスクを冒しても許容できない。グレイのこの考えは誤っていた。

2.イギリスの名誉。戦争原因にイギリスの利権を脅かす事柄はない。しかし、イギリスの国民性と寄せられている信頼性にかけて、傍観するわけには行かない。危機にあって、英国陸海軍が存在していること、そのものが帝国を維持しているのである。他国は英国の行動を見ている。英国が中立でいられるわけはない。

3.権力の維持。避戦の自由党閣僚がなぜ辞任しなかったのか。ロイド・ジョージがとめたからである。閣議の分裂はアスキス内閣崩壊につながり、総選挙となると、グレイ、チャーチルを支持する連合論者に政権がまわるだろう。自由党員は、戦争に入っても自らが指導することを望んだ。シュリーフェン・プランが自由党内閣を救ったともいえるのである。

4.ドイツ嫌い。ドイツの興隆は、イギリスの経済的な国力を脅かすものである。ウィルソン大統領は、第一次大戦を経済戦争と理解していた。グレイのドイツ嫌いの感情はチャーチルも共有していた。1907年、ハーグの平和会議に出席したアメリカ大使、ヘンリー・ホワイトと、英国のアーサー・バルフォアとの会話が記録に残っている。バルフォアに代表されるイギリス人の意見が、自らの優位を保持するために、ドイツが勃興する前にイギリスは戦争を仕かけてこれを叩く、という話を聞いてホワイトは非常に驚いた、ということである。

5.帝国主義の野心と便乗主義。フランスとロシアは、大陸でドイツ軍と地上戦を戦うのに対し、イギリスは海上で外洋艦隊と戦い、ドイツの通商を破壊し、その市場を奪い、トーゴランドからビスマルク諸島に至る植民地を侵食する。まことに大英帝国の野心を満たすことになる。南アフリカにおける帝国主義の戦争に対する反対の世論に押されて政権を握った自由党内閣は、ドイツ植民地の略奪をはかっているのだ。イギリスにとって第一次大戦は、必要な戦争ではなく、選択した戦争である。ドイツにはイギリスと戦うつもりはなかったし、英帝国を潰す考えもなかった。

リベラルはなぜ賛成したのか
 イデオロギーと感情が、リベラル(自由党)を戦争へ追いやった。ベルギーが攻撃されたことですべては一変した。数時間前反戦だった党員も十字軍に加わった。ドイツに振るわれる剣は、平和への剣である、これはドイツ国民との戦いではなく、その専制との戦いである・・ウィルソンは、米国の参戦にあたって、「戦争を終わらせるための戦争」と表現した。ウィルソンは道義的介入の歴史上の旗手となった。数千キロ離れた英帝国自治領諸国からも、多くの若者が、攻撃もしない、脅威も与えない敵と戦って死ぬことになった

カイザーの罪
 開戦について、カイザーもベートマンも無罪とはいえないにしても、戦争を望んでいたわけではない。オーストリアが対セルビアの戦争準備をしたい、と言ってきたとき、カイザーは承認し、ノルウェーの夏休みに行ってしまった。しかし、ドイツは自身に傷がつかぬ程度の外交解決を希望していた。
 オーストリアは4週間行動せず、その間に起こったさまざまな出来事が戦争へつながった。7月末、カイザーがベルリンに戻ったとき、事態は収拾がつかぬ状況になっていた。カイザーは従兄弟のニコライ二世に動員令の撤回を要請した。ロシアの動員は、ドイツの動員と、フランスが中立宣言をしないかぎり、シュリーフェン・プランの自動的発動につながり、それはベルギー侵犯、そしてイギリスの参戦、英帝国相手の大戦争を惹き起こす。カイザーは、同じく従兄弟のジョージ五世には、独露戦争の際、フランスが中立を守るのであれば、フランスを攻撃しない、という提案をした。オーストリアのフランツ・ヨーゼフを含む4人の君主たちは、いずれも君主制を脅かす懸念のある大戦争を予感して、戦争回避に努力した。しかし世の中はもっと決断力ある、厳しい人間たちが動かしていた。 
 カイザーの外洋艦隊がイギリスを挑発したとか、ドイツの陸軍が好戦的だったとか、戦争の原因を語る議論がある。しかしロイヤル・ネイビーのドレッドノート群は挑戦的ではなかったのか?3千9百万の人口を抱えるフランスが、7千万の人口のドイツと同じ規模の陸軍を持っていて、どちらを軍国主義というべきだろうか?

ドイツの戦争目的
 グレイの懸念は、ドイツが、ベルギー、オランダ、デンマークを従属させて、外洋艦隊に海峡の基地を持たせること、大陸を席捲し、ヨーロッパ、小アジアの覇者となることであった。しかしそれは真にドイツの目的だったのだろうか?カイザーはナポレオンだったのだろうか?カイザーはむしろ亡き伯父、エドワード七世の遺産ともいえる反独感情による、英仏露のドイツ包囲の共同謀議のように受け止めていた。7月31日、かれは、戦争回避の最後の要請を、ニコライ二世、ジョージ五世にあてて悲痛な電文で残している。これはナポレオンのやることだろうか?4半世紀後にチャーチルも、その著書においてカイザーの無罪を認めている。

ヨーロッパの百舌(屠殺者)?
 対独宣戦の正当化に、イギリスは、世界を「プロシアの軍国主義」から救わねばならなかった、といまだに言われている。しかし、数字は、1815-1914年、ワーテルローから第一次大戦まで、ドイツはもっとも好戦的ではなかったことを示している。
        国                  戦争の回数
      イギリス                  10
      ロシア                    7
      フランス                   5 
      オーストリア                 3
      ドイツ                     3
カイザーは25年の在位中、一度も戦争をしていない。普仏戦争から第一次大戦まで、ドイツ、オーストリアは戦争をしなかったが、その間、英国、ロシア、イタリア、トルコ、日本、スペイン、アメリカはみな戦争している。ドイツを、ヨーロッパの「百舌(ブッチャー・バード)」と呼べる筋合いだろうか?チャーチルはウィルヘルム二世(カイザー)を戦争屋と呼んだが、自らの方がはるかに戦争経験を持っている。

「9月の計画」 
 フランス北部の領有を謳った、ベートマン・ホルベークの「9月の計画」なるものは、イギリスの宣戦布告のあと策定されたものである。ベートマンは開戦以前、グレイに 、ドイツはフランス領土の併合はしない、またオランダの中立も冒さない、そのかわりに、イギリスには中立していて欲しい、と密かに打診したことがある。しかしすでに秘密条約でフランスに約束したグレイはこれを断った。「9月計画」に示されたその他の事項は次のとおりである:
A.15-20年間のフランスの再軍備の抑制、ドイツ商品へのフランス市場の開放。
B.フランス、ベルギー、オランダ、デンマーク、オーストリア=ハンガリー、イタリア、スェーデン、ノルウェーとのドイツの主導による関税同盟。(15年前、カイザーはアメリカに対抗する趣旨で、欧州合衆国を提唱したことがある。)
C.アフリカのドイツ植民地をまとめるための、いくつかの領土のドイツへの移譲。
D.ドイツとの経済統合、軍事同盟締結によるオランダの独立。
E.ロシアからポーランド、バルト三国を切り離し独立させる。(バルト三国は、ドイツないしポーランドに併合しても良い)。
 経済面について、これはドイツが指導する一種の関税同盟の創設で、およそ80年後のEUで実現しているものである。まったく英帝国を脅かすものではなかったが、イギリスは宣戦し、51ヶ月間に、70万2千の兵士を犠牲にし、なお、自治領、インド、アフリカの20万の命を失わせた。そして戦傷、不具者はその2倍にのぼったのである。
 イギリスが中立を守っていたらどうなったか?フランスは敗北、講和していただろう。アメリカ参戦はなく、英米の戦死者はゼロ、仏独の犠牲ももっと少なかっただろう。ロシアも負けていただろう。そしてロシア帝国の解体は英国の国益にかなう。大陸はドイツ、海上は英国、西半球はアメリカ、アジアは日本、というような棲み分けになっただろう。ボルシェビキがロシアを握ったとしても、ドイツが破った可能性がある。ヒトラーもスターリンも出て来なかっただろう。
 また、グレイがフランスとの秘密協定を公式に閣議に持ち出していれば、それは拒否され、議会も通らなかっただろう。すべては、1906年、グレイの推し進めた対仏協商と軍事会議の開始に淵源が求められる。

「ウィンストンは本物の危険人物になってきた」
 どんなに好意的な伝記作家でも、1914年のチャーチルの戦争への意欲には驚いてしまう。戦争の最初の兆しが現われると、チャーチルは最高司令官のように動き始めた。イギリスの造船所で、トルコの発注した2隻のドレッドノート級戦艦が完成すると、かれは遮二無二「没収」してしまった。8月1日、ドイツの対露宣戦布告のニュースを聞いて閣議の了承なく、チャーチルは一存でロイヤル・ネイビーの出動と予備役召集を命令した。           チャーチルは平気で戦争法規に違反した。アントワープ封鎖のため、北海に機雷を敷設した。文明社会の戦争におけるこれまでの規範を無視して、飢餓封鎖(スタベーション・ブロッケード)を行った。1914年12月、トルコがまだ中立国だったとき、ダーダネルス海峡の封鎖を主張し、同じく中立のデンマーク領のボーンホルム島占領を奨励した。にもかかわらず、ドイツのベルギー中立侵犯を言い立てて、ロイド・ジョージを説得し、世論を戦争支持に誘導した。
 
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