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2009/06/19

Unnecessary War ‐第1章 「光栄ある孤立」の終焉

 女王は、わが国の孤立に危険を感ぜざるを得ません。
 ー ヴィクトリア女王      1896年1月14日

 孤立は、われわれに無関係な戦争に引きずり込まれる危険にくらべれば、それほど危ういものではなかろう。
 - ソールズベリー卿     1896年


 自身が女王に仕えているかぎり、ソールズベリーは、英国をヨーロッパの力関係の外におくことを模索した。ヨーロッパから孤立するのではなく、ヨーロッパの同盟から孤立する策である。1895年、三度目の組閣の大命を受け、かれは自らの過去の政策、「光栄ある孤立」を追求することとした。しかしかれとディスレーリが1878年のベルリン会議で、ビスマルクと、ヨーロッパの新しいバランス・オブ・パワーを取り決めた世界は消えてしまった。1894-95年の日清戦争で日本は勝利し、中国におけるイギリスの優位は崩れた。1895年、英領ギアナとベネズエラをめぐって、英米間に一触即発の危機が訪れた。アメリカの戦争を辞さぬ構えに、ソールズベリーは、将来のアメリカの脅威を読み取った。
 1896年1月、セシル・ローズの企てた、ジェイムソンのトランスバール侵入を食い止めた、ボーアのリーダー、ポール・クルーガーにカイザーが祝電を打ったことでロンドンは大揺れに揺れた。1897年12月、旅順港に入港したロシア艦隊によって英艦は港を撤退した。1898年、スーダンの南、ファショダで英仏軍が衝突、開戦寸前となった。火力の差でフランスは降りたが、しこりが残り、8歳のシャルル・ド・ゴールの英国嫌いのもとになった。
  1900年、ロシアは義和団事件に乗じて20万の兵を満洲に駐留させ、バルティック艦隊の一部を旅順港に回航した。中国でのイギリスの権益はロシアと日本に脅かされることになった。一層イギリスの孤立を深めさせたのは、1899年のボーア戦争である。

和親協商
 19世紀は終わる。イギリスは古いライバルたちの機嫌を取り始めた。米西戦争ではアメリカ側に立ち、アラスカの国境問題をアメリカに有利に解決し、パナマ運河関連のアメリカの特権を認め、またカリブ海から艦隊を撤退した。米国と融和した英国はアジアに目を向けた。日本は、満洲から朝鮮を威嚇するロシア陸軍、旅順港とウラジオストックから睨みを利かせるツアーリの海軍の存在によって、ロシアとその同盟国、フランスとの均衡をはかる必要に迫られた。「黄禍論」を以て日本に嫌悪を示すカイザーを戴くドイツは選択肢にない。1902年1月、日英同盟は締結された。1904年、旅順港奇襲で始まった日露戦争は日本の勝利に終わり、イギリスの選択は誤っていなかった。1905年、日英同盟は拡張された。19世紀のライバル、帝政ロシアは、中国、インド、アフガニスタン、トルコ海峡、中東でイギリスを圧迫しだしている。フランスは引き続き仇敵であり、アフリカ、エジプトで帝国に立ち向かっている。ナポレオンがアレクサンダー一世と結んでヨーロッパを分割した、ティルジットの和約の再来が懸念された。
 露仏同盟に対抗するにはドイツが砦となり得る。イギリスは、ドイツ、アメリカとの同盟関係を模索したが、カイザーはこれを拒絶した。1904年4月、カイザーは驚いたが、イギリスは、フランスと和親協商を締結した。フランスはエジプトでイギリスに権益を譲り、イギリスはモロッコにおけるフランスの優位を認めた。数世紀にわたった敵対関係は消滅した。この協商はただちに、1905年のカイザーのタンジール上陸事件で効果を発揮した。この解決のためのアルへシラス会議でイギリスはフランスを支持した。ドイツはモロッコで経済的な利得を得たものの、この事件は英仏を強固に結びつけた。対独戦争の場合の、英仏海峡横断作戦の秘密の軍事協議が推進されることになった。英仏協商は戦争への道、とローズベリー卿ひとり反対した。後年チャーチルは、ローズベリーの見識を賞賛しているが、チャーチル自身は、協商に反対ではなかった、と言う。
 1907年、80年間の対立関係を解消し、英国はロシアと和解した。ニコライ二世は、ペルシア南部のイギリスの優位を認め、イギリスはロシアの北部での優位を認めた。両者で、ペルシア中央部、アフガニスタン、チベットから撤退することに合意した。ゲームは終わり、大戦へのライン・アップが完了した。ドイツは、オーストリア=ハンガリーとイタリアで三国同盟を形成していた。露仏同盟には、英国がつき、その英国は日本と同盟していた。枠外の大国は唯一アメリカだけだった。

「新時代に入った」
 英国はアメリカと融和し、日本と同盟し、ロシア、フランスと協商関係に入った。ドイツのみが問題として残った。それは普仏戦争の後遺症である。セダンでのフランスの降伏、ナポレオン三世の退位で、統一されたドイツは、フランスからロシアまで、バルト海からアルプスまで、ヨーロッパ最大の勢力として拡がった。ビスマルクは、デンマーク、オーストリア、フランスとの戦争を画策したが、これ以上戦争から得るものはない、と悟った。一連の条約で、ヨーロッパのバランス・オブ・パワーをドイツに有利に創り上げた。オーストリア=ハンガリー帝国を同盟国に、ロシアを友好国に、英国を中立に、フランスを孤立化させた。ビスマルクは、英国を刺激する艦隊保有には反対した。植民策には自身、積極的ではなかったが、1914年には、ドイツは世界第三位の植民帝国だった。東アフリカのタンガニーカ、南西アフリカのナミビア、カメルーン、トーゴランド、中国沿岸ではカイザーが山東半島を所有し、西太平洋ではホーエンツオレルン家がドイツ領ニューギニア、ドイツ領サモア、ビスマルク諸島、マーシャル、マリアナ、カロリン諸島、北ソロモンで最大のブーゲンビル島を所有していた。
 1890年、若く就任したウィルヘルム二世、カイザーにビスマルクは罷免された。カイザーはいくつかのしくじりを冒した。まず露独条約を失効させ、ロシアをアルザス=ロレーヌの回復を企図するフランスと同盟させた。ビスマルクのフランス孤立化策は終わり、ロシアとの再保障条約の廃止は測り知れない誤りとなった。1894年の露仏条約は、三国同盟中一国の部分的動員は、三国に対する敵対行為の引き金となることが謳われていた。ジョージ・ケナンは、セルビアに対するオーストリアの動員が第一次世界大戦の唯一の発端となったことを指摘している。

カイザーを倒せ
 カイザーは大仰で、好戦的であったとはいえ、英帝国を破滅する考えは毛頭なかった。ヴィクトリア女王の初孫であり、女王はその腕のなかで薨去した。伯父にあたる新しい国王、エドワード七世もその有様に心を打たれた。カイザーには英国の陸軍元帥位が与えられた。しかし、イギリスは海で、ドイツは陸で、二つのチュートン民族による英独同盟がヨーロッパを支配するのだ、というカイザーの構想は、イギリスの国王、政治家たちに軽くあしらわれた。カイザーが一度ソールズベリーに、英帝国の邪魔をしないで、どこか植民地の適地がないか、訊ねたとき、ソールズベリーは、ドイツにはどこにも出て行って欲しくない、と答えた。ドイツはまだ列強扱いされていなかった。エドワード七世の逝去で、ドイツ包囲網が崩れると、カイザーは感じた。外洋艦隊を構築して、イギリスのシーパワーに挑戦することを決意した。ここに、光栄ある孤立の世紀は終わった。

外洋艦隊
 1890年に出版された、A.T.マハンの「海上権力史論」は、カイザーに大きな影響力を与えた。この本は、日本の海軍大学での教範ともなった。外洋艦隊には、英国嫌いの新任海軍提督、アルフレッド・フォン・ティルピッツの強い要請もあった。その目的は、北海、バルト海の沿岸防禦、必要食糧の4分の1を依存するドイツ通商の封鎖打破、海路の援護にある。またロシア、フランスの艦隊に対抗する必要があった。
 1899年12月、ボーア戦争において、郵便船を含む3隻の客船がイギリスの臨検を受けたことは、ドイツの反英感情に火をつけた。海軍建設法案は容易に帝国議会を通過した。英国はドイツの立場で外洋艦隊を見ることをしなかった。ティルピッツの「リスク理論」は、ロイヤル・ネイビーに匹敵する艦隊を保有し、力の均衡によって、万一の独仏戦争にあたって、イギリスに中立策を採らせることを目的としていた。しかし、カイザーとティルピッツの考えは誤っていた。
 20世紀、ドイツの外国貿易と商船隊はイギリスのライバルとしてあらわれ、潜在的脅威としてとらえられるようになった。ドイツがドレッドノート級戦艦を、毎年のように配備させていることで、1912年、若き新任の海軍大臣、ウィンストン・チャーチルは、「英国にとって海軍は必需品であるが、ドイツにとっては、ぜいたく品である。英国海軍がイギリスを大国に持ち上げたのだとすれば、ドイツは1隻の船も持たずにすでに大国である」と述べた。「ぜいたく品」という、チャーチルが熟慮した上で使った言葉は憤激を呼び起こした。
 過ちはドイツだけが冒したのではない。1912年、ホルデーン使節団が訪独したとき、カイザーは、イギリスの中立と引き換えに、外洋艦隊の制限を申し出るつもりだった。

バランス・オブ・パワー政策
 イギリスはこの提案を拒絶した。安全保障の考え方は、英独において決定的な相異があった。イギリスにとっての安全保障は、自国の影響力のもとに、ヨーロッパをゆるい連合において、分裂させることにあった。ドイツは、東方、西方に脅威を抱えているので、安全保障とは、ビスマルクが行ったように、自国がリーダーシップを取って大陸を統一することにあった。
 カイザーは、イギリスは恥知らずの政策を露呈し、列強を操って自国の利益を貪っている、それは道義的な宣戦布告である、と怒りを示した。チャーチルは後年、イギリスは400年来、大陸で一国の覇権を許さぬ政策を採ってきた。それらは、スペインであり、フランス王国であり、フランス帝国であり、ドイツであった。
 この政策で、英国は2度、ドイツと戦った。しかし、1945年には、英国はその役割を果たす力を失っていた。「死んでしまった政策の残骸に固執することは・・よくある政策の失敗のもとだ」と、1877年にソールズベリー卿が語ったとおり、イギリスはその帝国を失ったのである。

サー・エドワード・グレイの秘密
 フランスと秘密の同盟を結んで、光栄ある孤立政策を放棄させたことに最大の責任のある政治家は、エドワード・グレイである。1905年、自由党が政権を掌握してから、かれはずっと外相の任にあった。第一次大戦に介入したイギリスの決断にも大いに影響を及ぼした。しかし、それは自由党が約束したものではなく、国民が望んだものでもなかった。グレイの反独感情と、フランスとの協商の熱意は、最初から自由党内閣の多数とすれ違っていた。首相のハーバート・ヘンリー・アスキスは、英仏軍事協議を了承していたが、内閣も議会も、サー・エドワードが、フランスが侵入されたとき、イギリスが参戦すると約束したことを知らなかった。大蔵大臣、デヴィッド・ロイド・ジョージと、内国大臣からすぐ海軍大臣に転じたチャーチルにはこの秘密が知らされた。ジョージ五世の顧問官、エッシャー卿は、アスキスに、英仏の幕僚部の間で軍事計画が練られているが、「内閣が好むと好まざるにかかわらず、確実に戦争を押しつけるものである」、と告げた。

「永遠の友」
 1914年になると、どこの国にも好戦派が存在した。ホワイトハウスにおけるウィルソン大統領の腹心、エドワード・マンデル・ハウス大佐は、ヨーロッパの主要都市に視察に出かけた。かれは、ヨーロッパのいたるところで敵対心が溢れ、大変動の兆しがある。フランスとロシアは、ドイツ、オーストリアと対抗するために接近している、と報告した。
 英国のタカ派は、欧州戦争を国威発揚と帝国拡張のチャンスと見ていた。フランスとロシアが西と東から攻め、ロイヤル・ネイビーが外洋艦隊を海底に沈め、その植民地を席捲すれば、ナポレオン以来の強力なライバル、ドイツを打倒することができる。
 しかし、1914年の夏が始まるころ、だれしも戦争が起こるとは思っていなかった。英独の建艦競争は、1913年、ドイツが対英60%の比率で、イギリスの優位を認める形で、ティルピッツが譲歩した。
 1914年6月23日、ロイヤル・ネイビー第二艦隊がキールを友好訪問した。大群衆が歓呼してこれを迎えた。英国士官は、皇太子夫妻に招かれた。翌日、ティルピッツ提督が旗艦に上級士官を招き、外洋艦隊の概要を説明した。午後カイザーの乗艦した、皇帝用ヨット、ホーエンツオレルンに向けて、全艦艇が21発の礼砲を放った。カイザーは英国艦隊司令長官の制服を着用し、戦艦、キング・ジョージ五世号を観閲した。
 6月28日、レース用ヨットに搭乗していたカイザーは1通の至急電報を受け取った。サラエヴォにおけるオーストリア皇太子のフェルディナンド大公とゾフィー公妃暗殺の知らせだった。キールでは半旗が掲げられ、すべてのレセプション、晩餐、舞踏会が中止された。艦隊が離れるとき、ドイツの軍艦のマストに「航海の無事を祈る」と信号旗が揚がった。キング・ジョージ五世号からは、「今日の友、未来の友、永遠の友」という無線連絡が入った。
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2009/06/19

Unnecessary War - 序章 西欧の大いなる内戦

 戦争は個人が作る、国家が作るのではない。
 -サー・パトリック・ヘイスティングス 1948    英国弁護士、作家


 近代の帝国諸国家のなかで、英国は問題なしに、ローマ帝国以来最大の帝国であった。アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、アイルランド、地球上の5つの素晴らしい自由主義国家はこの母胎から生れた。中国人が初めて自由を知った、香港とシンガポールが続いた。英国がいなければ、インドは世界最大の民主国家にはならなかっただろう。イギリス人がアフリカにやってきたとき、そこは原始の部族社会だった。かれらが去ったあと、道路、鉄道、電話、通信設備、農場、漁場、工場、鉱山、訓練された警察、公務員が残されていた。
 すべての帝国と同じように、負の側面はある。阿片戦争、アイルランドの馬鈴薯飢饉などである。しかし英国の罪はバランスで考える必要がある。英国はトラファルガーとワーテルローでナポレオンの独裁にとどめを刺し、ヒトラーが打倒されるまで帝国を維持した。しかしすべての帝国がそうであるように、英帝国もいつかは崩壊の運命にあった。ジェファーソンの「人はみな平等に創られた」という思想はウィルソン大統領の「民族自決」に受け継がれた。ウィルソンの国務長官、ロバート・ランシングは、これをダイナマイトと評した。民族自決の原理が西欧の帝国を滅ぼした。
 ウィンストン・チャーチルが1911年、海軍大臣として入閣したときはだれしもが英国の優位を認めていた。1965年、かれが死んだとき、ほとんどが失われていた。英国に何が起こったのだろうか?1914年に始まり、1919年のパリ会議で終わった戦争は、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、ロシア帝国を倒し、レーニン、スターリン、ムソリーニ、ヒトラーの世界に道を拓いた。ユダヤ人と数千万のキリスト教徒の殺害、ヨーロッパの荒廃、大陸の半分のスターリン化、毛沢東主義の狂気の中国、そして半世紀にわたる冷戦を招いたのは、1939年に始まった戦争であった。
 すべてのヨーロッパにおける戦争は内戦である、と言ったのはナポレオンだった。歴史家たちは、1914-1918年及び1939-1945年の二つの戦争は、西欧の大いなる内戦として振り返ることだろう。
 ジョージ・F・ケナンは、すべての問題は第一次大戦に遡る、と言う。そしてこの二つのヨーロッパの戦争を世界戦争としたのは英国である。1914年、イギリスが対独宣戦をしなければ、カナダ、オーストラリア、南アフリカ、ニュージーランド、インドは母国に追随しなかったろう。そしてアメリカも。ドイツは多分数ヶ月のうちに勝利しただろう。とすれば、レーニン、スターリン、ベルサイユ、ヒトラー、ホロコート、すべて存在しなかったことだろう。
 1939年3月、イギリスがポーランドに戦争保証を与え、9月3日に宣戦布告しなければ、ドイツ=ポーランド戦争は、5千万人が死ぬことになった6年間の世界戦争にはならなかっただろう。
 なぜ、二度にわたってイギリスは宣戦布告をしたのか?カイザーもヒトラーも英国を倒す意思はなかったのだ。両者とも英国との同盟を望んでいた。カイザーはヴィクトリア女王の一番年上の孫だった。ここで決定的な問いかけが起こる。この二つのおぞましい戦争は必要だったのか?ないし、選択された戦争だったのか?
 一つは、世界の脅威となったプロシア軍国主義をとどめるため、もう一つは世界を征服し、人類を奴隷化し、少数民族を抹殺し、闇の時代に導く狂信的なナチス独裁者を打倒するため、と説明される。
 第一次大戦で勝利を齎したデビッド・ロイド・ジョージは、「われわれはみな誤って戦争を起こした」と回想している。チャーチルもその回顧録で、
 「ある日、ルーズベルトからこの戦争を何と呼ぼうか、と相談があった。わたしはただちに、アンネセサリー・ウォー、第一次大戦の遺産を破壊する不要な戦争だ、と答えた」、と書いている。ロイド・ジョージ、チャーチルが正しいとすると、へまをしたのはだれだったのか?
 イギリスの戦争の大義についてはあまり論争はない。人々は、パッシェンデール、ソンム、ダンケルク、エル・アラメイン、バトル・オブ・ブリテンを語る。ナチ・ドイツに勝利した栄誉を英国とチャーチルに与える。ケネディ大統領は、チャーチルは英語を動員して戦場に投入した、と語った。チャーチルはラファイエットとならんで合衆国の名誉市民となった。
 この本は英国は英雄的であったかを問題にするものではない。その評価は決まっている。ではなくて、その政治家たちは賢かったかを問うものである。一世代のうちに諸帝国中の支配者の地位から、帝国にあまり愛情を持たないアメリカを唯一頼りにする国になってしまった。1942年までには、英国は国家の存立を合衆国に依存することになってしまった。だれが帝国を失わせたのか?
 この本を著すもう一つの理由がある。アメリカのエリートのなかにチャーチル教ともいうべきカルトがある。このカルトにとって、アメリカに対する挑戦、反抗は、もうひとつの1938年となる。敵対するものは「新しいヒトラー」であり、戦争回避の提案は「もうひとつのミュンヘン」となる。スロボダン・ミロシェビッチは、セルビア揺籃の地、コソボを確保したことで「バルカンのヒトラー」と言われた。1991年のサダム・フセインは「アラブのヒトラー」と呼ばれた。
 この固定観念は、われわれを攻撃したこともない、脅威にもならない、つねに友好的な国、セルビアを78日間にわたって爆撃することにさせた。9月11日のあと、チャーチル教徒は、粗野な大統領に、ヒトラーからヨーロッパを解放したように、サダムからイラクを解放することを吹き込んだ。
  V-Eデイの60周年記念祝賀会のため、モスクワに飛んだブッシュ大統領は、「V-Eデイはファシズムの終わりを告げたが・・・圧制を終わらせなかった」、FDRとチャーチルがスターリンと共謀して東欧、中欧に対して行(おこな)ったことは歴史の最大の誤りの一つである、ヤルタはミュンヘンに匹敵する、自由諸国を売り渡した恥ずべき行為である、と言った。
 ブッシュは、自分のしたことはまだましだと思っているのだろうか、この本はそのことを論じる。
 ヒトラーとその仲間たちは、その罪に価する罰を受けた。しかし、チャーチルの戦争の犠牲者の数を無視するわけには行かない。ヒトラーを倒すために5千万の生命が、本当に必要だったのだろうか?それは「不必要な戦争」だったのか? 
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