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2009/06/14

Alliance - 22 (つづき)

 スターリンは風邪を理由に、トルーマンとの二国間会談にモロトフを代理とした。外相は、アメリカの、賠償額は決めないで、占領地区を持つ各国が、各々その地区内賠償方法を決定して行く、という提案を了承した。こうして、事実上ドイツは四つに分割されるが、それぞれは現場で政策を決定する軍管区司令官の命令に服することになる。これはもともと構想されたドイツの分断とは異なるが、たがいに異なる道を歩むことになる、東西の判然とした分割を潜在的に示すものとなる。
 東から手に入れるものに加えて、ソ連は西側地区資産の10%を受け取ることになった。プラス食糧供給と引き換えに25%を受け取ることができる、とされたが、これは実現しなかった。イギリスがこれに加わったとき、ベヴィンは反対した。モスクワが要求した賠償の50%以上を手にすることになるからだ、と言った。しかし英国の反対は、かつてほどのウェイトは置かれないようになってしまった。
 ポーランドについて、バーンズ=トルーマン構想は、平和条約までの暫定期間は、既成事実として西ナイセ川を国境として認めようという提案だった。ルーマニア、ハンガリー、ブルガリアの共産政府の承認問題について、国務長官(バーンズ)は、英国の反論を言いくるめようと新しい方式を持ち出した。ビッグスリー大国は、「でき得るかぎり」これらの体制との関係確立方策を研究する、ということとなった。
 ベヴィンは嬉しくなかった。かれは、賠償問題はひとまず置いておいて、ポーランドに集中しよう、と提案した。これは、バーンズの考えていたこととまったく違っていた。上院で長いこと議案をパッケージとして処理してきた経験から、かれは諸提案は生かすか、まとめて落とすかのどちらかだ、と主張した。アメリカがポーランドで譲歩するのであれば、賠償問題で協定にこぎつけたかった。テヘランとヤルタでの曖昧な言葉の代わりに、新政府はきちんとした取引をしたかった。論点をもっとはっきりさせる意味で、バーンズはモロトフに、自分とトルーマンはいつでも帰る用意をしている、そして帰るときは、全部の協定をするか、全部何もしないかのどちらかである、と告げた。
  外交駆け引き上の病気から回復したスターリンは、次の7月31日の本会議に出席した。そして、ソ連への特別割当を含む、アメリカ提案のなかから基本的な問題諸点が整理されてきた。東欧新体制諸国の外交承認問題は、フィンランドを含みこれら諸国との平和条約が締結されなければならない、という声明に集約された。ポーランドの西部国境は、平和会議を待つことになった。その間、西ナイセ川に至る旧ドイツ領、ソ連によって占有された海際の部分を除く東プロシアは「ポーランド国の行政権にしたがう」こととなった。
 「この会議は成功したと考えて良い、とわたしは信じる」、と最終的にスターリンが述べた。外相たちに感謝を表明して、トルーマンはサミットの閉会を宣した。別れを告げ、帰国に臨んで、かれは次回会合をワシントンで開催したい、と希望した。「喜んで」、スターリンが答えた。二人はそれぞれの国を1950年代まで率いていたが、再会することはなかった。

 戦争中の同盟のトップたちの個性は、終始重要であり、その相互関係は決定的であった。いま、ルーズベルトは死んだ。チャーチルは官邸をあとにし、労働党政府に継承された。新政府はモスクワに強硬姿勢を取りつつ、国有化政策を採り、インドに独立を許す、というルーズベルトの目的を達成し、福祉社会の基盤を大きく広げていた。8月14日、日本降伏のニュースのショックは、イーデンを立ち直らせた。かれはチャーチルとクラリッジで夕食を摂っていた。食後、BBCでアトリーがニュースを放送するところを聞いた。そして、「沈黙があった。チャーチル氏には、国民に言葉をかける要請がなされなかった。われわれは家に帰った。旅は終わった」。イギリス人は、その「光栄なる大闘争に入り込んだ・・・泥沼のなかは、そして抜け出て、また入り込んだ」、とチャーチルは記した。
 日本敗戦ののち、アメリカは、英国向けレンドリースを中断した。カドガンは、日記をつけることをいつも軽蔑していたが、次のように書きとめている。「行くてには大量の難問が待ち構えている。しかしわたしは、英国の偉大な時間を生きた。そこから見放されるのでなければ、喜んで死ねる」。
 ワシントンでも役者は入れ替わった。モーゲンソーは去った。ポツダムの2ヶ月のち、スティムソンは辞任した。トルーマンとバーンズに冷遇されている、と感じたハリマンは、モスクワ大使館を離れた。肝臓の悪化で、ホプキンスの命は旦夕に迫っていた。ベッドの横に血漿の壜のスタンドを立て、自ら注射をした。しかし、おなかは食事を受け付けず、しばしば下痢を起こして目が覚めた。いつもどおりの諷刺のメモは続けており、チャーチルに、わたしの肝硬変は「残念ながら、アルコールの飲みすぎからきたものではありません」と書き送った。1946年1月22日付けの手紙が最後のものとなった。身体は骨と皮ばかりとなり、眼(まなこ)は虚ろに、同盟の仕事師は立ち去った。「運命には逆らえないよ」、かれは看護人に言っていた。1月29日、妻がベッドを離れて、友人にかれの様子を知らせる電報を打ちに行った。戻ってくると、ハリー・ホプキンスは死んでいた。まだ55歳だった。

 ヨーロッパから戻って、トルーマンは国民に報告した。「ほとんどの国際協定は妥協の産物でした」。ポーランドは成り行きにまかせた。1946年の国民投票は、ミコワイチクの党を強力に支持していたが、翌年の総選挙では、不正行為と嫌がらせで共産党が圧倒的多数を獲得した。反対党のリーダーたちが国外脱出をはかるにつれて、モスクワの締めつけが完璧になってきた。ドイツは、ソ連と、西側の支配地域に分割され、その後半世紀、別々の道を歩んだ。
 熱い戦争の過程で、冷たい戦争が形を現わした。世界が二つに分かれるなかで、ポツダムは原子爆弾の不安の時代を拓いた。ー分断の亀裂は、1949年、チャーチルが下院でスピーチしたように、続いたことこそ奇跡だった。勝利したことで、必要に迫られて抑え込まれていた、思想的、地理的、文化的な相違点が浮かび上がってきた。
 直面する脅威が、いかに緊張を齎そうと、三人の力ある、しかしたがいに異なったリーダーに相互協力の絶対的重要性を認識させたのである。分かれ道がいくつも、優柔不断がいくつも、言葉の綾で真実らしく見せたエピソードがいくつもあった。しかしかれらは、二つのことを知っていた。悪魔のような敵を仆さなければならないこと、そしてそのためには、同盟に留まらなければならない、ということである。
 各自、その役割をきっちりと果たした。最初に登場したチャーチルは、その弁舌と感情表現のすべてを駆使してルーズベルトに取り入った。しかし、スターリンとのパーセンテージの切り分けにも一枚噛んだ。1942年の、多分惨憺たる結果に終わるフランス侵入にはアメリカを思いとどまらせた。ヨーロッパにおけるソ連の覇権の危険を明らかにした。
 自らの計画に先んじて、無理やり戦争を仕かけられたスターリンは、莫大な自国の損耗を目のあたりにすることとなった。しかし、ほかの二人のリーダーに比べると、よりはっきりと自らの望むものを認識していた。かれは自分の軍隊を使ってそれを手に入れ、ヨーロッパ中央に広がる国家安全保障の帝国を建設したのである。「政治においては」、かれはポツダムで所感を述べた。「戦力を勘案して方策を建てなければならない」。
 常時、国内世論に気を配りつつ、ルーズベルトは、自国を孤立主義から国際主義に誘導し、平和を確立するための機構を作り上げた。しかし、そのロード・マップは描かれておらず、最初からスターリンとの対決を回避し、赤軍が占領したヨーロッパの半分についての言葉を行動に移すことはなかった。かれが生きながらえていたとして、その実績の証として、ジョーカー(とりもち役)を生み出したかどうか、は疑ってみる必要がある。
 ルーズベルトは死に、チャーチルは辞めた。独裁者(スターリン)だけがはっきりとした優位を以て、その後8年、権力の座にとどまった。同盟は、世界からナチズムとその僚友、日本を追い払った。しかしそれは、約50年の冷たい対決に移行する、というだけの形で終わったのである。同盟は平和を目的とせず、戦争を目的としていた。それは地球を以前に比べて、より尖鋭に、より広汎に分断して終わった。ヨーロッパはより判然と組織化され、戦争への危険は去った。各国国民は、二大強国の核の傘のもと、画然とした国境に囲まれて暮してきた。
 西欧は、パックス・アメリカーナのもとで繁栄を享受し、大陸の東半分はソビエト帝国に運命を委ねた。同盟の成果は、一般に、とくに西欧で受け止められているようなものではなかった。とくにアジアでは、大きな紛争が発生し続け、数100万が犠牲となり、莫大な災厄が齎された。しかしヨーロッパが勝利したような規模の、新しい戦争を敢えて起こそうとは双方とも思わなかった。睨み合いが終わって、大陸は平和協力の新時代に移った。 
 60年を経て、ルーズベルトは、自分が救ったアメリカ資本主義の勝利を見て笑みを洩らすだろう。チャーチルは、帝国の喪失を怒るかも知れないが、イギリスが相変わらず、自国以上のウェイトを持つ相手にパンチを浴びせるかれのやり方を踏襲しているところを見れば、必ずしも不幸というわけではあるまい。-とくに歴代の米国大統領が、かれを英雄のモデルとしているところは光栄として良い。スターリンは、ソ連の消滅を嘆くことだろう。しかし、クレムリンの新しい権威主義を、皮肉交じりに見守っていることは間違いない。

 ビッグスリーはいまや歴史となった。その同盟が45年間対決を続けていたことと同じように、かつての同盟の多くがそうだったように、この同盟も、敵の存在によって強制されたものであった。仇敵(かたき)が斃されると、三国の連携は解消した。しかし、今日まで、英国の首相たちは、戦争中のチャーチルに呪縛をかけられ、その回顧録に凝結された「とくべつの関係」を評価しているのである。
 しかし、4年間にわたって協力関係が維持されたビッグスリーのこの成功がなければ、世界は測り知れない状況に陥っていただろう、と言えるのである。冷戦もない、朝鮮とベトナムの熱い戦争もない、国連もない、EUもない、国際通貨基金その他機関もない、共産中国もない、ホロコーストの終わりもない、イスラエル国家もない。
 この辺を見通すと、アメリカは、巨大な政治、経済、軍事の力を発揮して、自分勝手なことを行っている可能性がある。そして、その終わりのない関心と価値判断の追究を図りつつ、世界帝国と、原爆を備えた孤立主義への狭間で引き裂かれていたかも知れない。ートルーマンは、ヨーロッパでも原爆を使用しただろうか?単独でヨーロッパの枢軸諸国に立ち向かって、中規模サイズの国としてでも、イギリスは生き残っただろうか?-総統(ヒトラー)の思惑、日本のアジアにおける前進、ドイツの海軍力、インドの勃興するナショナリズム、スエズ運河への脅威など、その経済に加えられる打撃のことを考えると、英国が、戦争を傍観して、帝国を維持し得たとはとても思えないのである。国防軍の侵攻から領土を守ることができたとしても、ソビエト連邦はそれ以上の抵抗は不能として、スターリンが1941年に模索したように、ベルリンと第二の条約を締結した可能性が大いにあったのである。これは第三帝国の永続につながり、ヨーロッパの制覇を許すものとなる。中東の原油は奪われてしまう。それでも日本は、アメリカの原爆で降伏を余儀なくされよう。しかし極東は、ワシントンが、中国のどちらを支持するか際限なく二股の意見を持っていたので、無秩序状態になっているか、アメリカの長期にわたる保護国状態になっているか、のどちらかになっていただろう。
 歴史のイフはこの辺までにしておこう。いずれにせよ、ビッグスリーは、20世紀のあらゆる指導者のなかで、もっとも重要な役割を務めた。挫折してしまったが、必要だったかれらの連携は、緊張と挑戦の連続だった。世界政策の基本方針について、デリケートな判断と外交力が求められ、世界的なパートナーとしての連合を確立し、維持した。この本の初めで紹介したチャーチルの注釈のとおり、三人全員は、自ら設定したーないし敵によって設定させられた、共通の目的を達成するための同盟の優位を認識していた。イギリスにとって、同盟は命綱だった。ソ連にとっては、超大国への道筋だった。アメリカとしては、いかにその力が強大で、納得しにくい部分をはらんでいたとしても、その狭量な国家の利害をはるかに超える大きな狙いを意のままにするには、単独ではなし得ない、ということを示すものだった。こういう考察は、1941年から、1945年に至る年月と同様、今日においても有効なのである。
                    
                                         
                                    (了)

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