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2009/06/13

Alliance - 22 (つづき)

 第一回会談用のメモを見ながら、トルーマンは議題のリストを作り、まず提案された5ヶ国の外相による諮問会議の創設問題から始めた。これはスターリンの反対を招いた。フランスはその地位に相応しい戦争をしていない、とかれは言った。なぜ中国がヨーロッパの問題に口を出せるのか?
 物怖じせず、トルーマンは、同盟国の間でもっともデリケートな問題の一つを取り上げたーヨーロッパでの自由かつ公正な選挙の問題である。とくに言及したのはルーマニアとブルガリアである。そしてかれは、ローマに新政府を作り国際連合に加盟させるよう、イタリアを再生させるべきである、と示唆した。今度はチャーチルが反対した。そしてスターリンも、東ヨーロッパでヒトラーに味方した国には許容していない優遇措置を、イタリアに許すべきではない、と口を出してきた。
 平仄(ひょうそく)の合わぬ感覚があり、トルーマンは、「真にかけがえがなかった男」の居場所を引き継いでいることを認識した。ルーズベルトが享受した友好関係と善意をいくらかでも受け継げればそれで良い、とだけ思った。チャーチルが温かな態度を示し、スターリンもそれに続いた。
 首相(チャーチル)は、議事にポーランドを追加することを提案した。その尻馬に乗って、スターリンも自分のリストードイツ商船隊と海軍、賠償、ソ連の信託権、旧枢軸諸国との関係、スペインのフランコ政権の交代、タンジール、シリア、レバノンの将来について、ポーランドの西部国境、「在ロンドン[ポーランド]政府の清算問題」、を広げだした。
 外相諮問委員会の質疑が始まった。それは平和会議の予備会談となるのか?スターリンが訊ねた。イエス、トルーマンが答えた。事実、その権能については、1919年のヴェルサイユを思い起こさせるような部分に注意しなくてはならなかった。しかし、ここで議論することは、スターリンにも枠をはめておく意味で有益だった。
 会議は良い雰囲気で終わり、一同はシャンパンとキャビアの待つ隣の部屋に移動した。スティムソンは、「リトル・ボーイ」-日本に落とす原爆ーが、実験済みの「兄と同じく丈夫な子」である、という電文を手にしていた。スティムソンは、この兵器を使用する前に、最後の警告を日本に発したいと考えていた。トルーマンとバーンズは賛成しなかった。大統領が、無条件降伏に固執していたので、原爆使用の確率は日に日に高まっていった。

 サミットの晩餐会を、ビッグスリーが順繰りに主催するという伝統は続いていた。トルーマンは自分の番のとき、ピアニストとバイオリニストを一人ずつ招いた。スターリンは、かれの宴会で楽士たちの数を倍増させた。トルーマンは母親あての手紙で、その夜は「ワーオという感じでした。キャビアとウォッカで始まり、西瓜とシャンパンが締めくくりました。燻製の魚、新鮮な魚介、鹿肉、チキン、鴨、そしてあらゆる種類の野菜が、その間に出てきました。5分ごとに乾杯が繰り返されました。・・・わたしは、あまり食べも飲みもしなかったけれど、豪華絢爛、愉快なひとときでした」、と書き送った。トルーマンは、ソビエトの楽士たちは汚れた顔をしており、二人のバイオリニストの女性は「太り気味」と思った。自身そこそこのピアニストだった。音楽嫌いのチャーチルが、もう帰そうと言ってきたが押しとどめた。首相は、むっつりとブランデーを口にし、葉巻をふかしていた。パーティーが終わって、かれは、自分に打撃を負わせた音楽のことで、ほかの二人と「おあいこにしてみせるぞ」、とリーヒにつぶやいた。
 7月23日、自らの晩餐でRAF(帝国空軍)の軍楽隊を持ち込んでこれをやりとげた。あまりの大音響に、スターリンは立ち上がって、少し静かな曲にして欲しい、と注文した。チャーチルは「偉大なスターリン」に対してグラスを挙げた。ソビエト指導者は、対日本の共同戦争を祝って乾杯した。トルーマンは、サミットの議長などをさせて頂いて、気の小さい人間としては荷が重かった、と言った。真夜中を過ぎて、バンドは三国の国歌を演奏した。同盟の最後の宴会は、午前1時30分に終わったー10時30分にはベッドに入るのを好むトルーマンには遅い時間だった。

        *

 チャーチルとの個人的会談で、スターリンは、選挙では保守党が80%の多数で勝利する、と予言した。首相は、兵士たちの投票行動が読めないと言ったが、独裁者は、軍は強い政府を好む、だからトーリー党に投票するだろう、と答えた。かれは、赤軍が解放した諸国が、強く、独立した主権国家になって欲しい、と穏やかに述べた。「ソビエト化」が起こってはならない。ファシストを除いては、すべての政党に公正な自由選挙が行われなければならない。チャーチルが、ユーゴスラビアに対する不満を繰り返すと、スターリンは、ソ連は何の関心もなく、普段チトーが何をやっているのかもわからない、と言った。かれは、アメリカでのルーマニア問題の批判に「傷ついて」いた。-パーセンテージの協定に立ち戻って、自分はギリシャの情勢については何ら干渉をしていない、と指摘した。
 地図を取って、チャーチルは、ヨーロッパでソ連の手に落ちた首都をたどって線を引いた。ソ連はまるで西方へ転がってくるようだ、と付言した。逆です、スターリンは答えた、4ヶ月以内に200万の動員解除をしますよ。
 チャーチルは、7月24日の全体会議でこのテーマを取り上げ、モスクワの支配で、東ヨーロッパが門戸を閉ざしている、と注意を惹いた。「鉄の垣根」が築かれつつある、と言った。「お伽話だ!」、スターリンは怒った。
 この会議が終わると、トルーマンがテーブルをまわってきた。かれが何をするか知らされていたチャーチルは、じっと見つめていた。大統領は独裁者に、何気ない様子で「わたしたちは、いままでにない破壊力を発揮する新兵器を持っています」、と告げた。
 スターリンは格別の興味を示さなかった、とトルーマンは回想している。かれの表情には何も浮かんでいなかった。かれはただ、ニュースを聞いて喜んでいる、アメリカが「日本にそれをうまく使って」欲しい、と言っただけだった。
 チャーチルは、実験のことを「第二の再臨」とたとえた。スターリンは伝えられたことの重要性を何も理解していないのだ、と思った。かれとトルーマンが離れると、首相は大統領に、「どうでした?」と聞いた。「何も質問はなかったです」、とトルーマンは答えた。バーンズは、原爆の情報が、モスクワに対するワシントンの圧力になることを期待した。そして、満洲から赤軍を追い出すのに役立つだろう。
 おとなしかったのは擬態だった。ここ数ヶ月、スターリンはマンハッタン計画のことを知っていた。ソビエト諜報員の情報で、ベリアは、ニュー・メキシコの爆発のことをかれに伝えていた。トルーマンがこのニュースを明かしたときは知らぬ振りをしよう、と決めていたのだ。その夜、スターリンは、原爆計画担当のモロトフに、トルーマンとの会話の内容を話した。外相は、作業の迅速化を指示したが、スターリンは、かれでは満足な結果は得られないと判断し、ただちに、この計画の責任をベリアの手に委ねた。その間、大統領が帰国の海上にあるとき、この究極の爆弾はヒロシマに落とされた。

 7月25日の朝、トルーマンは立って、胸の前で両手を交差させて、ソ連と英国のリーダーの手を握り写真におさまった。かれはスターリンを見て笑っている。スターリンは白いチュニックで石像のようである。チャーチルがもっとも人間らしい。服はしわくちゃで、顔がピンクに染まっている。
 その日の全体会議はドイツ、ポーランドといったお馴染みの議題で堂々めぐりをした。トルーマンが、条約は上院で承認されなければならない、とほかの二人に念を押すように割り込んだ。したがって、自分がここで何を言っても「国内の政治状況からして、われわれの共通の平和への理念を脅かさずに、結論の受容を押しつけるわけには行かなかった、とわたしが戻ってきてみなさんに報告する結果になる場合も」排除できないのです、と言った。これは、ルーズベルトが持ち込んだ憲法上の問題点だった。しかしトルーマンの発言の率直さは、これを以て警告としたのである。
 チャーチルは、かれの率直さを評価してモランに話した。「これがヤルタで出ていたらね。ちょっと遅かったかな」。午後、かれは選挙の結果を待つため、英国に飛び帰った。
 「戻れると良いと思います」、かれは発つときに言った。
 「アトリー氏の顔つきを見ると、あなたの権威を奪い取ろう、という貪欲さが見られませんね」、とスターリンが返事をした。
 しかし前の晩、チャーチルは自分が白いシーツに覆われて、だれもいない部屋に、死んで寝かされている夢を見た。足が突き出ていた。「多分これで終わりだよ」、かれは医者に伝えた。
 投票は3週間前に終わっていたのだが、外地での将兵の票数を集計するため結果の発表は遅れていた。チャーチルは、その夜、「イギリス国民は、わたしの仕事を続けさせる筈だ」と思いながらベッドに行った、と記録している。夜明けの少し前、刺すような身体の痛みで目が覚めた。そのあと、「われわれは敗ける、というそれまで意識の底にあったものが急にほとばしり、胸中を占領した」。
 また眠りに戻り、午前9時30分に起きた。マップ・ルームへ行って、嬉しくない結果を見た。7月26日の昼食時までには労働党が勝ったことが判明していた。有権者は、1940年のブルドッグは、ルーズベルトの予言どおり、平和時のリーダーにはなれない、と判断し、戦前の保守党時代の統治に対し遅れ気味の裁断をくだしたのだ。クレメンタインは、敗北は不幸中の幸い、と言った。「いまは」、と夫が答えた、「まったく完璧な不幸だよ」。

 パイプ好きな社会主義者、クレメント・アトリーは、前任者と対照的という以上の存在だった。几帳面で、個人的には控え目だった。-選挙期間中は、自家用車で妻と国中をまわった。アトリーの振舞いを見ていると、簡単に過小評価してしまう。カドガンは日記に、新首相は、「自身の印象の薄さで権威を失墜してしまうところがある」と記した。かれは、サミットの当初から英国代表団の一員だった。口数は少なかったが、かれは何が起こっていたかを知っていたし、その遠慮がちな姿勢は、大変な鋼鉄を隠していた。
 イギリス・チームでの大立者はアーネスト・ベヴィンだった。新しい外相は、トーリーのブルドッグに代わる、プロレタリアのマスチフ(英国原産の大型犬)だった。無骨で酒好きのもと労働組合のボスは、ソ連に対する疑念を隠さず、再三、スターリンとモロトフに立ち向かった。労働運動で長年過ごし、共産主義者の動き方はよく勉強していた。しかし、かれの無遠慮な態度は、まずアメリカ側との折り合いを悪くした。ポツダム会談も、各自が同じ議論と反論を繰り返すばかりで、着地点をみつけることができなかった。
 ソビエト側は、ドイツの賠償金の確定数字を出すようせまった。かれらはもとの200億ドルという数字は下げてきた。アメリカ側はどんな数字にも賛成できない、と主張し続けた。イギリスは、自らが抑えているルール地方に及ぼす影響を心配していた。
 スターリンとモロトフは、西ナイセ川をポーランド国境とすることに固執していた。ポーランドの代表団が現われた。フランス人も出席したいと思うに違いないことになった。ルブリン委員会は、サンドイッチとウィスキーで、午前1時30分までイギリス人と協議した。ミコワイチクはハリマンに、赤軍とNKVDがポーランドにとどまるかぎり、本来の選挙は不可能だ、と記したメモを手渡した。
 バーンズは、ドイツ賠償問題とポーランド西部国境問題をからめたパッケージ・ディールを提唱した。国境をモスクワのいうように動かすと、ワルシャワに獲得された地域はドイツに必要な原材料を産出するので、賠償支払いが困難になる、と指摘した。加えて、すでにソ連は大規模な量のドイツの工場を動かしてしまっている。ソ連が賠償金を決めたいと考える真意は、ワシントンがモスクワを満足させるよう、ドイツにおカネをつぎ込まなければならない、ということなのだ。合衆国はそんなことはしない。
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