--/--/--

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
スポンサー広告
2009/06/12

Alliance - 22 (つづき)

 プラセンシア湾でルーズベルトが利用した重巡洋艦、オーガスタで大西洋を横断しながら、トルーマンは、詳細な説明を受けたり、ポーカーをして過ごした。ある日は、アルミの盆を持って食堂の食事の列に並んだりした。補佐官たちは、かれを非常にビジネスライクと見た。ルーズベルトのまわりくどさとは違っていた。しかし、かれは妻に、「何と嫌な旅だろうか!しかしやらないといけない」と手紙を書いた。
 アントワープに入港し、ブラッセルまで車で移動し、そこから「聖牛」(大統領専用機)でベルリンまで飛んだ。かれは、グリープニッツ湖に面したスタッコ造りの三階建ての家に入った。そこはすぐさま「リトル・ホワイトハウス」と綽名がついた。-その家の建つ通りは、ブラウン・シャツ(ナチ党員)通りとして知られていたが、そのあとカール・マルクス・シュトラッセ、とまた変えられた。建物は手入れされていたが、トルーマンは陰気な造りだと思っていた。大統領記録には、浴室設備がなっていなかった、と記されている。
 その夜、かれが就寝した頃、ニューメキシコ州のアラモゴルドでは、技術者たちが、塔の頂点にある原爆装置の最終点検をしていた。その3日前、日本の天皇は、和平派にモスクワへ赴くよう指示をしていた。しかし、もし米英が無条件降伏に固執するようであれば、最後の最後まで戦う、という警告も発していた。
 サミットでのトルーマンの主な同行者は、新しい国務長官で、ヤルタのベテラン、ジェームズ・バーンズだった。かれは自分自身、トルーマンの地位を狙っていたのだ。雑誌、タイムは、「政治家中の政治家」とかれを評していた。小柄で筋肉質のサウス・カロライナ人は、1944年の選挙で、ルーズベルトの副大統領候補となることを夢みていた。-党大会でルーズベルトはかれを副大統領に指名するつもりだった。しかしかれには民主党左派から強い反対の声が上がり、黒人票を引きつける力もなさそうだった。
 ホワイトハウス入りをして、トルーマンは、ステティニアスをバーンズに代えて、国務長官との間に橋を架けることとした。副大統領が空席なので、国務長官が継承第一順位となる。バーンズは自信に満ちていた。外国問題の経験はなかったが、かれと大統領の波長は同じだった。
 トルーマンはハリマンとボーレンも伴った。しかしモーゲンソーの影響力からは自由になった。ワシントン出発の寸前、大統領は、閣僚からうまく罷免したのである。歴史家のマイケル・ぺシュロスの記録から引用すると、トルーマンはスティムソンに、「心配しなくて良いよ、モーゲンソーも、バルッチも、ユダヤの連中はだれもポツダムに行かないよ」、と告げた。
 チャーチルはフランスで休暇を過ごしてから、空路、ベルリンへ向かった。フランスでは再び絵筆を取った。今回はアトリーを同行させた。かれは、トルーマンの宿舎から2ブロック離れた、シャンデリアと汚いフランス窓のある石造りの家に入った。7月15日の夜到着したチャーチルは、二つのおおきなあじさいの水槽の間に置かれた庭椅子に座り込んだ。疲労で動きたくない様子だった、とモランが記録している。ウィスキー・ソーダをきこしめして、かれは黙って湖をみつめていた。そこにロシア人が、戦傷のドイツ人捕虜を沈めたと伝えられていた。対岸の森から兵士が一人現われ、あたりを眺め回してからまた消えた。夜遅く、森から一発銃声が響いた。

 7月16日、17日には、一連の二国間協議が行われた。カドガンの記録によれば、チャーチルはトルーマンのことを喜んだ、という。「緻密な、才気煥発な態度」、「すばらしい決断力」、と意思の堅さを発見した。アメリカ人(トルーマン)は年上(チャーチル)に即座に好かれた。とはいえ、チャーチルが、英国も日本に派兵して貢献したい、と言うと、かれは態度を保留した。極東はアメリカのショーの舞台にしておき、また原子爆弾を使用するかどうかの決定を自らの自由にしておきたかったのである。
 翌日、チャーチルに会ったスターリンは、日本の和平派が、かれの言葉では、きわめて恐怖感を示している、という話をした。ドイツ軍の規律正しさについても話が交わされた。-「まるで羊のようだ」、グルジア人(スターリン)は感想を述べた。スターリンは、葉巻を吸うことにした、と注意を惹いた。チャーチルは、グルジア人が葉巻を吸っているところが写真に撮られて世界に広がれば、チャーチルのソビエト指導者に対する影響力について「大変なセンセーションを招く」だろう、と答えた。もう少し真面目な話で、チャーチルは、ソ連が海軍力を充実させればとくに大歓迎する、と締めくくった。クレムリンがドイツ艦隊のおおきな分け前を要求してきたことで、かれはこれを後悔することになった。
7月17日正午、スターリンは宿舎を車で出て、トルーマンに会った。かれはリーダーのなかで最後に到着した。旅には、帝政時代の華麗な汽車が博物館から引っ張り出されて使用された。かれを待つ間、ほかの指導者二人は、荒廃したベルリンを見物に行った。
 スターリンは、第一次大戦の司令官、ルーデンドルフが一時所有していた、15室、ベランダ、特別の電気配線、暖房、電話設備のある邸宅に滞在した。いつものように、かれのまわりの警戒体制は厳重で、NKVDの7連隊、900人の身辺護衛が含まれていた。秘密にされていたが、かれはモスクワ出発前、軽い心臓発作に襲われていた。
 机に向かって仕事をしていたトルーマンは、戸口に現われたスターリンを見上げた。かれは、最近昇進した大元帥の位を示す、白のチュニックの軍服に赤の肩章をつけていた。トルーマンは、かれの率直さと丁寧さに感激した。背の高さは同じと見たが、ツエツイーリエンホーフ・パレスの階段で揃って写真を撮るとき、スターリンは一つ段を上がって高く見せようとしていることに気づいた。
 前日のトルーマン=チャーチル会談のことは知らなかったので、スターリンは、英国は対日戦で役目を果たす準備ができていないが、ソ連は、8月半ばには参戦体制に入れる、という話で、英米の分裂を策したが、これは時間の無駄になった。その返事で、トルーマンは、ヤルタで決めた中国に譲歩させることは不変である、と言った。
 お昼は決まっていますか?トルーマンが訊ねた。
 いや、決まってません、独裁者が答えた。
 「よろしければご一緒しませんか」、大統領が言った。
 かれはそうすることにした。食事中の話は取るに足らないものだった。スターリンはトルーマンに、カリフォルニア・ワインのお世辞を言った。そのあとリーダー二人と外相たちは、バルコニーに出て写真を撮った。その日はそれで終わりだった。「スターリンはうまく扱える」、トルーマンは決めた。「かれは率直だ、しかし抜群に抜け目がない」。自らの親分、カンザス・シティのトム・ペンダーガストになぞらえた。かれらが会談しているさなか、ニューメキシコからメッセージが届いた。「ベビー無事出産」。アメリカは核大国となったのだ。

 ツエツイリエンホーフでトルーマンは、ルーズベルトの例を踏襲して議長席についた。それは頂点にあって、かれがかれ自身であることを示すチャンスだった。これまでの首脳外交の期間、かれとバーンズは国際派ではなかったが、ハリマンとボーレンを出席させていることで新しい道造りをして行こう、という意欲を見せていた。
 かれは母親に手紙を書いて、「チャーチルはいつも喋っている。スターリンはわかり切ったことに文句ばかり言って」骨の折れる仕事である、と伝えた。同盟国サミットの最長の期間となってきて、かれはだんだんとチャーチルの饒舌、スターリンの融通のなさに苛立ってきた。妥協点に至らないのであれば解散しよう、と提案するつもりにもなった。
 チャーチルは、気力なく、疲れ、消化不良に悩まされていたが、自国の狡猾な経済的地位を擁護して、トルーマンに、英国は戦後、世界最大の債務国になる、と告げた。ケインズの報告書は、戦時中の外国援助によって、イギリスは年間約20億ポンドの、歳入を超過する過剰支出が可能になっていた、と指摘した。援助が停止されれば破産してしまうのだ。首相には、かれのたとえる「不確実性というハゲ鷹」、選挙が襲かかってくるのである。かれの選挙運動は、偉大なる戦争指導者に焦点を合わせ、自らそのつもりで人々の歓呼に応えていた。しかし、イーデンがいうように、「本当のことを言うと、それはただ[有難う。あなたはうまいこと戦争指導をしてくれた。いつも感謝していますよ。]」というだけのことだった。ルーズベルトが予言していたが、戦争が終われば、チャーチルは過去の人になってしまうのだ。
 ほかの二人のリーダーにはさまれて籐椅子に座ったチャーチルは、最初の集合写真では不機嫌な様子で写っている。イーデンは、作戦中の息子の戦死のニュースで大打撃を受けていたが、「あの男が好きだ」と繰り返すチャーチルは、スターリンに金縛りにあっているように思われた。7月17日の夕食のあと、外相はチャーチルに、「見返りなしに数少ない手持ちのカードを諦めてはいけません」と忠告し、ソビエトの政策は「勢力拡大策」である、というメモを書いた。モスクワの思惑は「日に日に厚かましくなって行くことがはっきりとしてきた」、と結論づけた。
 しかしチャーチルは納得しなかった。かれは鉄のカーテンがおろされつつあること、西欧の主張が強化されなければならないことを認識してはいたが、依然、お互いの相異を埋めるため、独裁者との個人的接触の確立を指向していた。モランは、彼の発言を記録している。「スターリンは、赤軍が解放した諸国では自由選挙をする、とわたしに約束してくれた。きみは疑っているのかね、チャールズ?なぜかね。ロシア人の言うことはよく聞かないと。かれは1200万の兵士を動員して、その半分が戦死か行方不明になっているのだ」。翌日になると、ソビエト人たちは「われわれと同じことを言っている、自由、公正、などなどだ。しかし、優秀な人々は移動させられ、その後姿が見えなくなっている」と言った。のちにモランに告げた。「今度スターリンに聞いてみよう。あなたは世界中を手にいれたいのかね?と」。
 カドガンは日記に、チャーチルは自分の報告書を全然読んでくれない、「何でも邪魔をして、無関係なくだらぬことばかり喋っている」と書いた。嵐がきてイギリスの宿舎の給水設備が壊れ、入浴できなくなったとき、ご機嫌はよくなかった。-またサミット期間中、水の問題で下痢になった。対照的に、この外務官僚(カドガン)は、トルーマンを「敏速でビジネスライク」と見た。-「わたしは議論をしたくはない、決断したいのだ」、とあるとき、大統領は言った。これはスターリンのヤルタでの言葉とそっくりだった。一方、ソビエト指導者は、議論の成り行きを見守り、決して譲歩をしなかったが、寛いだ様子で、ときどき目の前の下敷きに、いたずら書きをして面白がっていた。
 
スポンサーサイト
未分類 | Comments(0) | Trackback(0)
 | HOME | 

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。