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2009/06/29

Unnecessary War -第4章 「役立たぬ巡洋艦の群れ」

 遥かなる、わが海軍溶解の声・・・
 -キプリング   1897


 1921年、その戦略的状況は衰えたとはいえ、英国はまだトップの力を持っていた。ドイツは敗れ、ロシアも消えた。アメリカは、食糧、武器弾薬、融資で連合軍を支えたが、ベルサイユを拒否、国際連盟参加を拒絶し中立に戻ってしまった。しかしアジアには、もっとも強力な同盟国、日本があった。1902年以来の日英同盟は、戦時中にその価値を発揮した。日本は中国と太平洋でドイツを追い詰め、その海軍はアンザック(豪州、ニュージーランド)の軍隊を戦場まで護衛した。日本が敵側についていたら、勝利は得られなかったかも知れない。

友を選ぶ
 1921年、ロイド・ジョージの難問は、日英同盟を継続すべきや否やだった。国際連盟の規約は古い形の国際同盟を違反とみなしており、更新は、アメリカとの関係を複雑にする。アメリカは日英同盟の解消を迫っていた。この問題は英国史上、国家戦略決定の最重要事項の一つとなった。
 賛否両論があった。チャーチルは自身英米混血でもあり、英語国の国民の運命に感傷的だった。カナダはアメリカを支持し、ロイド・ジョージ、カーゾン卿、外務省、参謀本部、オーストラリア、ニュージーランドは更新に賛成だった。日本が同盟国でなくなると、イギリスの戦力はアジアでは第3位になる。日本が英帝国植民地に敵対行為を取ってもアメリカはそれらの救援はしないだろう。オランダとフランスも日本から保護しきれない植民地をアジアに抱えていたので、同盟の更新を希望していた。東京のイギリス大使は、更新を拒否すれば、日本は恨みを持ち、報復政策を取るだろう、と警告した。
 ロイド・ジョージは、日本を西欧のキャンプから追い出すと、ドイツないしロシアと結ぶのではないか、と怖れた。チャーチルが、「日本と結んでアメリカと対峙するほど致命的な政策はあるまい」、というと、ロイド・ジョージは、「アメリカの思うままにされるのも致命的な政策ではないのか」、と反論した。
  オーストラリアの辛口の首相、W.H.「ビリー」・ヒューズは、決定的な質問を口にした。「われわれの帝国は、われわれ自身の国益のために、われわれ自身で政策を決めてきた。そいつをこれからはどこか、ヨソさんの力に頼ろうというのですか?」。
 英米同盟締結の提案があればそれに乗ろう、という結論になった。しかし、アメリカは独立戦争以来外国と同盟しない国だからそれはあるまい。アメリカの海兵隊が、香港のために戦うことなどあり得ない。英米条約に調印するのであれば、日英同盟は破棄しよう、とこちらからアメリカに申し入れることになった。悲惨なことではあったが、イギリスは合衆国の歓心を買うことを選んだのである。

はらはらさせる愚策
 日英同盟の解消、ワシントン軍縮会議への出席を議題とする英連邦会議の席で、ビリー・ヒューズは、「日英同盟をワシントン会議で肩代わりさせようというのですか?」と質問した。1921年11月から1922年まで軍縮会議は行われた。イギリス代表のバルフォアは、親米論者なので、結論は決まっていた。25年続いた日英同盟は終わり、英米仏日の4ヶ国条約がこれに代わった。この条約には何の義務遵守強制条項がなかった。「ウィスキーを捨てて水を頼んだ」、と日本代表が言った。英国も同じことをしたのである。
 アメリカの外交勝利は英帝国の災厄につながった。オーストラリア、ニュージーランドは戦略拠点ではなく、お荷物になった。アジアで英国は、敵対的なソビエト、外国人嫌いの中国、苦々しげな日本と相い対することとなった。そしてアメリカは極東の英帝国防衛に何の保障もしないのである。日英同盟は、日本を列強とつなぐタイだった。その解消は極東の安定に致命的な打撃を与える。ワシントンの海軍協定がその埋め合わせをする、という考えはお笑い種であった。日本は一人前扱いされなくなり、自ら行儀よくする必要がなくなった。1930年には、「疎外感と脆弱感にとらわれて、日本は、帝国主義的将軍と提督たちの一派に率いられる」ことになった。

ロールス・ロイス - ロールス・ロイス - フォード
 ワシントン会議の初日、国務長官のチャールズ・エヴァンス・ヒューズは、世界の大海軍を潰して行く考えを展開した。もっとも影響を被るのはイギリスである。1918年11月、イギリスの戦艦は61隻で、アメリカとフランスの合計より大きく、日本とイタリアの合計の2倍であった。巡洋艦は120、駆逐艦は466で、それでも帝国の防衛には不足と考えていた。1921年まで、5年間、戦艦の製造は中止していた。フランクリン・D・ルーズベルトは海軍次官として、米海軍を世界一とするべく頑張って、講和以降、91隻の駆逐艦と10隻の巡洋艦を進水させた。
 ヒューズは10年間の艦船ホリデー(製造中止)を主張した。主要艦船を5-5-3の比率となるべく、上限は、米英で50万トン、日本は30万トンに制限された。イギリスは657隻、150万トンの軍艦を廃棄することになった。日本は、ロールス・ロイスーロールス・ロイスに対するフォードだ、と国家的屈辱に見舞われた。日本をなだめるため、イギリスはシンガポール以北の領有地の武装はしない、アメリカは、フィリピン、グアム、ウェイクないしアリューシャンのこれ以上の武装はしないことに同意した。
 中国周辺海域は、日本の池となった。日本は対英60%の海軍力だが、日本の行動範囲は西太平洋だけである、対して英国は世界中を守らなければならないのである。
 イギリスは、なぜアメリカに屈服したのだろうか?以下理由をあげてみる。
1)自らアメリカの母国である、という神話による「とくべつな関係」への考慮。しかし、歴史的に米英が反目しあった事実はかなりあったし、アメリカには数千万のイギリス系ならざる、アイルランド、ドイツ、イタリア、東欧系の民族がいることも見過ごしている。
2)対外債務の問題。債務は戦前の14倍になった。アメリカの意に反して海軍増強に走れば、借款の即時返済を迫られる。アメリカは帝国を担保に取っていたのである。
3)ウィルソン主義。大戦の惨禍は世界主義、平和主義の風潮を生み出した。古い軍国主義、海軍主義はさよならだ、今は国際連盟の時代になったのだ、と。
 チャーチルは、大蔵大臣となって、1920年代中の「10年ルール」に固執し続けた。日本との戦争など考えられない、太平洋はワシントン条約で守られている、というのがかれの持論だった。「くだらぬ巡洋艦も不要だ、どのみち役立たずだ」、かれは5-5-3の軍縮を巡洋艦にも適用しようとした。かれは軍事支出の緊縮に務め、1932年までの10年間で、防衛予算は3分の1以上削減された。イギリスの海軍力は、チャールズ二世の暗黒時代以来、相対的にもっとも弱くなった、とニアル・ファーガソンは述べている。

スティムソン・ドクトリン
 日本の満洲侵入は部分的に自衛が目的だった。日本は中国のナショナリズムと、ソ連が背後にいる毛沢東の共産主義の脅威にさらされていた。しかし、満洲への侵入は国際連盟規約と1928年のケロッグ=ブリアン条約の違反となるものだった。しかしそれはイギリスの権利を侵害するものではなかった。日英同盟が存続していれば、1904年の、モロッコとスエズの利権を相互に認め合った英仏和親にならって、イギリスが北部中国の日本の権益を、日本が南部中国のイギリスの優位を認め合うこともできただろう。しかし古いリアルポリティックの方法は放棄されていた。国際連盟規約上、違反国に対しては行動が必要だったが、メンバーの二大国、英仏はいずれも強制力を欠いていた。
 イギリスは同盟関係断絶という愚行の結果に直面することとなった。ワシントン会議の造艦制限、チャーチルの10年ルールによってロイヤル・ネイビーは萎縮していた。アメリカはそのときどうしていたか?大統領のフーバーは、日本の満洲への動きは自衛であり、アメリカに脅威となるものではないと考えていたが、国務長官のヘンリー・スティムソンは好戦的だった。スティムソンが、軍事力使用すれすれの手段で日本を威嚇すべきだ、と意見を述べたとき、大統領は、それは戦争になる、とたしなめた。
 日本の満洲権益を認めた、ルート=高平協定を調印したもと国務長官のエリフ・ルートは、短剣を心臓に突きつけられた日本に対して、われわれに反対する権利はない、とスティムソンに告げた。ルートは、「戦争の嫌いなリアリスト」、スティムソンは、「平和のためには戦争を辞さない平和主義者」、と歴史家のチャールズ・キャラン・タンシルは評している。スティムソンは、海外紛争への非介入は時代遅れだ、との「スティムソン・ドクトリン」の提唱者だった。パリ条約で認められない手段での政治的変更は認められない、中国の領土的統一‐決して実現したことのない理想だったが‐擁護にイギリスの義務はない、と当初主張した英国外務省を説き伏せて、スティムソンは自分の見方を押しつけた。スティムソンはこうして英米を対日戦争への道に引きずり込んだのである。
 1933年、連盟の日本非難の決議にイギリスは賛成し、日本は脱退した。ドイツはヒトラーが掌握し、イギリスはドイツ、日本の二正面戦争の危険に直面した。アメリカは孤立主義で、イギリスの利権には無関心だった。日本との和解にもっとも熱心だったのは、新しい大蔵大臣、ネビル・チェンバレンだった。ヨーロッパで紛争が起こったとき、日本が友好的なのか、敵対的なのかによって、帰趨が決まる。かれの予言は後日当たることになった。1931年には、英海軍、空軍はいちじるしい衰退を示し、アジアの植民地は奪われ放題になりそうだった。日本を止められるのは、その歓心を買うために日本との同盟を犠牲にした相手、アメリカだけだったが、アメリカはその点に興味を持たなかった。
 チャーチルは自らの愚行を悔やんだ。1948年、かれは軍縮を提案したアメリカを恨んでいるが、自分自身、アメリカといっしょになって、余剰の軍艦を沈没させた。これが英国史上最大の軍事的敗北、シンガポールの降伏につながった。イギリス、オーストラリア、インド軍、8万の軍隊は、事実上戦わずして、その半分の軍勢の日本軍に降ったのである。
 
 
 
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2009/06/25

Unnecessary War -第3章 「復讐心の毒」

 勝者がひけらかす不正、倣岸は、決して忘れられず、赦されるものではない。
 -ロイド・ジョージ   1919

 三人の無学の力持ち・・・座って大陸を切り分けているが、仕切っているのはホンの子どもだ。
 -アーサー・バルフォア


 1918年、イタリアを破り、ルーマニア、ロシアをくだしたドイツ軍100万は、西部戦線の友軍に加わった。ルーデンドルフはマルヌ川に布陣し、サー・ダグラス・ヘイグ元帥は、興国の興廃ここにあり、と檄をとばしたトラファルガーのネルソンにならって、背水の陣の死守を命令した。
 1918年春に30万だった米軍は、夏には100万になっていた。ドイツ軍の士気は低下し、10月18日、バーデン公マックスは、ウィルソン大統領の14項目による講和を受け入れる意思を表明した。民主政府が作られること、という条件が追加された。あわせて200万の戦死者と600万の戦傷者を出した英仏は、ウィルソンのなまぬるい条件に抗議した。ロイド・ジョージは、ウィルソンの第二項目、海洋の自由について、ロイヤル・ネイビーは帝国の必要に応じて勝手に動くという趣旨で異議をとなえ、あとは了承した。フランスは、ドイツから蒙ったすべての損害を補償せよと主張した。11月11日、コンピエーニュの森の列車のなかで講和条約が締結された。1921年、これに署名したドイツのエルツベルガーは、「11月11日の罪」によって暗殺された。

「カイザーを絞首せよ!」
 イギリスでは、1900年、ボーア戦争直後に行われた「カーキー選挙(非常時の選挙)」が実施されることになった。ロイド・ジョージは、ドイツの報復を招かぬよう、穏健路線を走るつもりだったが、フリート・ストリート(新聞街)は、ドイツに対する復讐を煽り立てた。世論は「カイザーを絞首せよ!」と叫んだ。ロイド・ジョージは方針を転換し、ドイツに最大の補償をさせる、と大衆に大声で告げた。かれは、史上最大の多数を獲得した。
 「フランスの虎」、ジョルジュ・クレマンソー首相は、青年のころ、ドイツ兵がパリを蹂躙するのを眼にしており、徹底したドイツ嫌いだった。かれは、「ル・ボッシュ(ドイツ野郎)」には、二度とフランスを脅かすことのできないような扱いをしてやろう、と決意していた。

「地獄の汚れ仕事」
 「内閣よりもデモクラシー(民衆)の方がよほど復讐心がある」、とチャーチルが言ったのは1901年のことである。「国民同士の戦いの方が、国王同士の戦いよりもずっと恐ろしい」。20世紀はこの予言を実現させた。1815年、新体制を討議するウィーン会議には敗戦国のタレーランも出席した。しかし、今回、ドイツは有罪国家としてパリ会議の出席は認められなかった。
 ウィルソンは、米国が参戦した1917年4月に、「ドイツ国民に対しては何ら悪意はない」と言明したが、1919年には、国民は、「その政府の行動に責任がある」、と結論した。連合国の条件の受領に、パリに出向いたドイツ代表は、強制された国家分断に唖然とした。オイペンとマルメディはベルギーに譲られ、アルザスとロレーヌはフランスに再編入されることになっていた。クレマンソーの欲しがったザールは、フランスの実質的支配による国際連盟の管理下におかれた。シュレスビッヒではデンマークと領土を分けることについて住民投票が行われることになった。東プロシアの港湾、メメルはリトアニアのものとなった。何世紀にもわたってドイツ領だった、上部シレジアは、住民投票で60%の票がドイツ残留を示したが、工業地区の6分の5、鉱山のほとんど全部がポーランドのものとなった。ハンザ同盟の都市、ドイツ領だったダンチッヒは、自由都市となり、ポーランド支配の国際連盟管理となった。世界第3位の海外領土はすべて没収された。中国の山東の租借地と、赤道以北の島嶼は日本へ、赤道以南の島々はニュージーランドとオーストラリアに与えられた。アフリカ植民地は、南アフリカ、英国、フランスで分けられた。ドイツの河川はすべて国際管理となり、市場はすべて各国に開放されたが、ドイツ商品には同じことが許されなかった。ドイツは人口の10分の1、領土の8分の1を失い、装甲車、戦車、重砲、潜水艦、航空機の製造を禁じられた。参謀本部は解体され、陸軍兵力は10万に制限、海軍は小艦艇だけになってしまった。
 イギリス代表団の一員、ジョン・メイナード・ケインズは、著書の「平和の経済的帰結」で、過酷な賠償はまた戦争を惹起する、と警戒を発したが、1920年、賠償総額は32億金マルクと決まった。カイザーは戦争犯罪人と宣告された。ヘンリー・ホワイトは、「地獄の汚れ仕事」と形容した。

飢餓封鎖(兵糧攻め)
 商船と漁船も押さえられ、ドイツは飢えていた。250万トンの食糧援助要請も断られた。11月11日から平和会議の期間中、封鎖は続けられていた。アメリカは、当初、中立国港湾からの生活必要物資のドイツへの移送を阻む、英国の封鎖は国際法上、人道上の違反である、と主張していたが、参戦後は封鎖を支持した。武器を捨てたあと、ドイツでは数千の男女、子どもが封鎖によって命を奪われた。この考案者、実行者はチャーチルである。

「やつらは獣だ」
 1919年5月7日、トリアノン宮殿で、ドイツのウルブリヒト・フォン・ブロックドルフ=ランツアウ外相は、クレマンソー、ウィルソンから協定書を手渡された。「ドイツとその国民だけが有罪、という話には納得できない」、と外相は申し立てた。ロイド・ジョージは、「戦争に勝つのも大変だった、そんな話をそのあと聞こうとは・・」と憤慨した。ウィルソンは、「言語道断だ、ドイツ人は本当に馬鹿者だ」と言い、バルフォアは「やつらは獣だ」と言った。
 スコットランドの北東、スカパ・フローの海軍基地に抑留された外洋艦隊の指揮官、ルードビッヒ・フォン・ロイター提督は、降伏より自沈を選んだ。戦艦10、巡洋艦9、重巡洋艦8、水雷艇50、潜水艦100が海底に沈んだ。救命ボートで逃げる丸腰の水兵を、イギリスの水兵が銃撃した。1920年、ロイター提督が戻ったとき、群集は外洋艦隊の「最後のヒーロー」として歓呼してかれを迎えた。
 悪魔ですら自己弁護をする機会が与えられる。暗黒の中世の規範の方が、新しい民主主義よりましだった。協定調印を断われば、ドイツは連合国に蹂躙され、飢餓封鎖は続くことになる。ドイツは最終的に署名した。飢餓封鎖は1919年7月12日まで続いた。ドイツ人はこれに拘束される、とは考えていなかった。これはただの紙くずだ、暴力によって強制された約束は、力が続いている期間だけしか効力を持たない。希望を捨てるな、復活の日は来る。

ラインランド
 フランスは、5百万の人口を擁し、主要産業を持つラインランドの併合を企んだ。しかし、ロイド・ジョージはドイツ人の復讐心を警戒してこれに反対した。ウィルソンは自らの民族自決原則と抵触するのでフランスの動きには消極的だった。イギリスには海峡とロイヤル・ネイビーが存在する、アメリカには大西洋がある、それがかれらの安全保障である、フランスには陸上の安全保障地帯が絶対に必要である。これがフランスの言い分だった。
 フランスは、15年間の占領という解決を飲まされた。しかし、フランスの要求した代償は高いものだった。英米仏の同盟である。保障条約により、ドイツが再度フランスを攻撃したとき、英米にフランス防衛の義務を課すものだった。
 ワシントン以来の米国外交の基本原則に反し、ウィルソンはこれに合意した。これはまた、国際連盟の新しい集団安全保障の理想が、古いバランス・オブ・パワー政策に取って代われるものではないことを示していた。アメリカ上院はこれを否決した。アメリカの参戦は、アメリカ船がドイツ潜水艦に沈められたからである。アメリカは、自己の国益が脅かされないかぎり戦わない。ロイド・ジョージは、上下両院にはかることなく対仏保証を発行したが、ついにアメリカはこの問題を取り上げなかった。イギリスは梯子を外された。フランスは、保障条約、保障地帯のいずれも与えられず、15年のラインランドの占領だけをすることになった。ライン川の両岸は、永久に非武装地帯になった。しかし、占領期限が満了した1935年、非武装保障を守ったのはフランス陸軍だけだった。

もっとも得をした国
 ドイツ問題が峠を越すと、次はオーストリア=ハンガリー帝国だった。サンジェルマンとトリアノンの条約で、帝国は切り分けられ、連合軍に与した各国に分配された。北部は新生ポーランドに与えられた。1918年、トマス・マサリクのもとに新しい国、チェコスロバキアが創られ、350万のドイツ人、300万のスロバキア人、100万のハンガリー人、50万のルテ二ア人が、いずれも不本意に、700万のチェコ人が支配する国を構成した。チェコ外相のエドゥアード・ベネシュは、スイス連邦をモデルにすると約束したが、1938年、ロイド・ジョージはベネシュに裏切られた、と述懐している。
 チェコ独立が成功した理由。1は、勝者側についていたこと。2は、その新しい領土が、ドイツ、オーストリア、ハンガリーの懲罰の犠牲によって齎されたこと。3は、ベネシュ、マサリクがベルサイユで気に入られたこと。4は、チェコ人の狙いがはっきりしており、その実行力もあったこと。
 チェコは世界で10番目の工業国となった。オーストリアとハンガリーからその70-80%の工業力を奪い取ったのである。20万のオーストリア人が住む南チロルは、1915年、連合国に参加したご褒美としてイタリアに与えられた。キリスト教世界の偉大な帝国の一つ、オーストリアは、700万足らずの海のないちっぽけな国になってしまった。

トリアノン 
 ハンガリーも1920年6月のトリアノン条約で、「究極の犠牲者」として、12万5千平方マイルの国土が3万6千平方マイルとなってしまった小国と化した。トランシルバ二アと200万のハンガリー人はルーマニアへ、スロバキアはチェコ人に渡された。そのほかは、セルビア・クロアチア・スロベニア王国へ行き、一部はオーストリアにさえも譲られた。米議会はトリアノン条約を認めず、別途の講和協定を結んだ。 
 ウィルソンは、1918年2月、領土併合、贈与、懲罰を禁じ、「民族自決」を尊重する・・・領土問題の解決は関連する住民の利益のために行い、競合国家間の調整、妥協に委ねられてはならない、と宣言した。しかし、この宣言は空しかった。
 新しく誕生した国家の多民族性は、ハプスブルグ帝国時代と変わらなかった。そしてそれらの国家には歴史、血統、道徳的権威が欠けていた。

ルーマニア 
 チェコと同じく、ルーマニアもパリでは一大勝者となった。当初中立していたが、1916年8月、ハンガリーからの領土割譲という秘密のエサを貰って連合国に入った。講和で、トランシルバ二アと東バナトをハンガリーから、ベッサラビアをロシアから、北ドブルジャをブルガリアから、ブコビナをハプスブルグ帝国から手に入れ、領土を倍増させた。西バナトは、多言語国家、セルビア・クロアチア・スロベニア王国へ行った。パリの参加者はヨーロッパに新しい地図を描き、次の欧州戦争のタネを植えた。会議の勝者は、チェコ、ルーマニア、セルビアであり、敗者は、オーストリア、ドイツ、ハンガリー、ブルガリア、それにロシアだった。敗者の民族自決は許されず、ウィルソンの14項目は嘲られ、イギリス、イタリア、日本が膨張し、アメリカの11万6千の犠牲は自国に何も齎さなかった。アメリカの参戦理由については、チャーチルも疑問を持っていた。アメリカが参戦しなくて済む理屈はいくつも挙げられた。
 ベルサイユ条約の起案者は、第一次大戦(グレート・ウォー)の終幕を書き、ドイツ復活の第1幕を書いた。雛を温めているボルシェビキ・ロシアと、屈辱を受けたドイツの間に、六つの新しい国家があった。フィンランド、バルトの3国、ポーランドとチェコである。最後の二つには500万のドイツ人が捕らえられている。ロシアとドイツはこの6国に含むところがある。ロシアとドイツが結んだら、だれもこの6国を救えまい。

勝利の果実
 イギリスは大戦の最大の受益者だった。ホーエンツオルレルン、ロマノフ、ハプスブルグ、オスマン帝国は消失した。トラファルガー以来のロイヤル・ネイビーの最大の脅威、外洋艦隊はスカパ・フローで自殺した。イギリスはドイツの大西洋横断ケーブルと、ほとんどの商船を、Uボートに撃沈されたものの補償として回収した。南太平洋の島嶼は、オーストラリア、ニュージーランドのものになった。南西アフリカのドイツ領は南アフリカが手に入れた。トルコからメソポタミアとパレスチナを取った。クウェートからカイロまで、そこから南下してケープタウンまで、英国自治領を徒歩で歩けることになった。ロイド・ジョージが帰国の際、前例にないことだが、ジョージ五世は自らの馬車にかれを伴い、バッキンガム・パレスへ向かった。

勝利の犠牲 
 果実には犠牲が伴った。若い英国士官の戦死率は最大だった。英国の主な政治指導者、自由党のアスキス、労働党のアーサー・ヘンダーソン、アイルランド国民党のジョン・レドモンドは、息子を一人、統一党のボナー・ローは二人を失った。英国の対外債務は、1914年の14倍となった。英軍がガリポリ上陸作戦でトルコ軍に敗れたことは、アドワの戦い(1896年、イタリアがエチオピアに敗れる)、日本海海戦に続く西洋人無敗の神話を砕くものとなった。
 民族自決は、西欧帝国を切り倒す斧ともなり得た。ロイド・ジョージがロンドンへ戻ったとき、アイルランドは暴動を起こしていた。エジプト、イラン、インドでは反乱が勃発した。 もっと恐ろしいライバルが姿を現わしてきた。世界金融のリーダーシップは、連合国に物資を販売してきたアメリカに移った。兵力も世界一となったと思われる。1917年、30万だった陸軍は、400万に膨れ上がり、うち200万はフランスに送られ、決定的な勝利に貢献した。1918年、イギリスは戦艦の建造を中止したが、アメリカは始めたところだった。戦後のイギリスの領土拡張に対してアメリカの若者は犬死だった、アメリカの世論は、何と馬鹿なことをしたものだ、となった。フィンランドを除いて、連合国の対米債務は不履行状態になった。そこに大恐慌がアメリカを襲った。
 チャーチルはロシアのレーニン、トロツキー体制を警戒した。ドイツは極端な左右の対立に明け暮れており、ヨーロッパでロシアを抑える、という伝統的な役割を果たせそうもなかった。チャーチルは、連合国の介入を主張したが、ロイド・ジョージは反対だった。チャーチルは公爵の出身なので、ロマノフ大公の没落が気に食わないのだろう、とチャーチルの懸念に取り合わなかった。しかしチャーチルのこのときの姿勢からすれば、後の、かれのスターリンに対する態度は、どうにも説明できないものである。
 
カルタゴの講和? 
 「ドイツの不道徳行為は厳しく罰しなければならない」、とベルサイユ条約に最初に、「カルタゴの講和」と名づけたのは南アフリカの首相、ジャン・スマッツである。敗北したカルタゴは、焼き尽くされ、略奪され、男は殺され、女は凌辱され、子どもは奴隷に売られ、歴史から消滅した。ドイツ軍の悪行は、北バージニアでのリーの軍隊、ジョージアでのシャーマンの軍隊ほどではない。ブレストリトフスクで、ロシアからフィンランド、エストニア、ラトビア、リトアニア、ポーランド、ウクライナ、白ロシア(ベラルーシ)を剥ぎ取った、と言っても、民族自決の原則をロシア帝国にあてはめただけと言える。1918年11月11日現在、ドイツ軍は負けていなかった。ドイツ国内に連合軍は足を踏み入れておらず、ドイツ軍は、クルスク、ドン川の東、ウクライナ、クリミア・・に駐留していた。
 ウィルソンの14項目は、その後24項目に修正されていたが、南チロルのイタリア割譲、北太平洋島嶼の日本割譲で、連合国は第1項目に違反した。「絶対的航行の自由・・」の第2項目をイギリスの横槍で削除した。第3項目、「すべての経済的障壁の除去」、にドイツ商品に対しては例外とされた。などなど、連合国側は違反に違反を重ねた。
 アドルフ・ヒトラーが政権を掌握した直後のロンドンにおけるあるディナー・パーティで、だれかが質問した。「ヒトラーてどこで生れたの?」。「ベルサイユですよ・・」、即答が返ってきた。ベルサイユの参加者は、復讐の講和を母国に持ち帰った。公正の講和を持ち帰れなかったことで、その子どもたちがその代価を払わされた。ベルサイユ宮殿の鏡の間から現われた戦争の代価は、5千万の生命だった。
 
 
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2009/06/22

Unnecessary War ‐第2章 過ぎし夏の日

 国々は、戦争という煮えたぎった大鍋のふちに転げまわっている。
 -デヴィッド・ロイド・ジョージ   戦争の記憶

 この戦争は、かつて白人の行ったことのなかで、たしかに最大の愚行である。
 ーティルピッツ提督   1915


 大公の暗殺後、4週間も経たないうちに、バルカン危機は英国内閣を襲った。初めのうち、蔵相のロイド・ジョージは、これは水平線上の小さな雲である、英独関係はこれまで以上に良い、と説明していたが、7月24日の閣議で、エドワード・グレイは、セルビアに通告したばかりのオーストリアの最後通牒を読み上げた。ことの重大さは39歳の海軍大臣の肩にのしかかってきた。首相のアスキスはその夜、この最後通牒は、少なくとも、ヨーロッパの四大国、オーストリア、ドイツ、ロシア、フランスを巻き込む大戦争の序奏である、と国王に報告した。

「奮い立つ、嬉しい」
 オーストリアは欧州戦争を望んでいたわけではない。セルビアの拒否を見越して、10項目の条件からなる最後通牒を発し、短期の懲罰的な戦争をするだけのつもりだった。セルビアは、大公夫妻の狙撃犯の訊問、起訴にオーストリア人が立ち会うという一条件を除いて全てを受諾した。しかし、オーストリア国民はその回答に憤激した。7月27日、オーストリア=ハンガリー帝国はセルビアに宣戦し、28日、ドナウ川を越えてベオグラード砲撃を開始した。
 ロンドンの閣議で、閣僚の4分の3は、戦争への介入に否定的だった。自由党内閣は、普仏戦争で中立を守った、小イギリス主義者のグラッドストンの流れを汲むものが多かった。フランスに秘密の保障を与えたグレイとチャーチルは、参戦すべきと考えた。「血にまみれた平和」などは意味がない、チャーチルは不戦と結論が出そうになった大使たちの会議で発言した。妻のクレメンタインに、「わたしは奮い立っている。嬉しい。」と手紙を書いた。
 カイザーの戦争回避の努力は水泡に帰した。1912-13年のバルカン戦争で、グレイとともに戦争拡大の防止に働いたドイツ帝国宰相、ベートマン・ホルベークは、「コントロールは失われた、すべて一人歩きをしはじめた」、と匙を投げた。

海軍大臣 
 ウィンストン・チャーチルは1874年11月30日、先祖のマルバラ公爵のブレナムの邸で、トーリー党の新星代議士、ランドルフ・チャーチルとアメリカ人のジェニー・ジェロームとの間に生れた。ウィンストンを有名にしたのは、ボーア戦争である。従軍記者として装甲列車で戦線へ移動中、ボーア側のゲリラに捕らえられたが、脱走したことで一躍英雄となったのである。ウィンストンは父親と同じ保守党に属したが、1904年、1846年の穀物条例以来の自由貿易を捨てて、保護関税を導入せんとするトーリーの政策に叛旗を翻し、自由党に移籍した。1906年、自由党は大勝し、チャーチルはタイミング良く頭角を現わすことになった。1911年、海軍大臣となって、閣僚中、最大の仏独戦争介入論者となった。

シュリーフェン・プラン 
 閣内論議で、グレイ、チャーチルの切り札のエースはベルギーだった。75年前、フランス、プロシア、イギリスはベルギーの中立保障条約を締結した。ドーヴァーの向かい側の敵対勢力の存在は、英国にとって死活問題となる。1870年、モルトケの軍がフランスに侵入したとき、ビスマルクはグラッドストンにベルギー領には入らぬ約束をした。ベルギーが侵犯されないかぎり、イギリスは普仏戦争の帰趨に無関心でいられた。しかし、ベルギーの中立が他国に侵されたとき、イギリスが介入することは義務ではなく、介入「できる」という権利の形になっていた。この規定の仕方が閣議を紛糾させる原因となった。そしてこれを決めた1839年、保障条約の調印の時代からは世の中は激変している。ナポレオンが、「プロシャは大砲から生れた国だ」と言ったが、その「大砲」は今や欧州ではロシアに次ぐ7千万の人口を抱え、世界生産物の15%(英国は14%)を産出する大国となった。1870年、フランスは6週間で敗北した。
 ドイツは孤立し、嫌われ者になっている。とくに、アルザス=ロレーヌを奪われたフランスの復讐心には底深いものがあった。敵対的なフランスと膨張するロシアに挟まれたドイツの戦争計画は、地政学的にも二正面作戦とならざるを得ない。大モルトケの構想は、対フランスには、ラインという天然の要害を以て防禦姿勢を取り、ロシアに対しては全勢力で攻勢をかけるというものだった。1891-1906年にかけて参謀総長をつとめた、アルフレッド・フォン・シュリーフェン伯爵の戦略は、最大の敵、フランスを短期間で最初に打ち破り、のちロシアに向かう、という考え方である。しかし、フランスの西部戦線、ベルフォール=エピナル、トゥール=ヴェルダンの堡塁の突破は時間がかかり、出血を強いられる、したがって、ベルギーを通ってフランス北部に進出し、パリを裏側から包囲することを最良策とするものである。勝利の唯一の道はベルギー通過である。シュリーフェンは、1913年に他界したが、死の床にあっても「右翼を補強せよ」と言い続けた。大モルトケの甥、参謀長の小モルトケも、「常識にこだわるな、勝利のみが戦いを正当化するのだ」と宣言した。
 イギリスはシュリーフェン・プランを知らず、ベルギーの中立を守る75年前の条約で欧州大戦に、巻き込まれるということにも考えが及ばなかった。ベルギーの中立侵犯が、イギリス軍の海峡横断を招くと警告されたとき、「イギリス人は多ければ多いほど良い」、とモルトケはティルピッツに語った。
 ドイツ人は、ビスマルクを忘れていた、「予防戦争は自殺行為だ」と言っていることを。最初の2週間で、英国派遣軍は12万の兵力を、外洋艦隊の妨害なく大陸に送り、ドイツ軍の攻勢を抑え、シュリーフェン・プランを打ち破ることになる。

「張り切っているのはウィンストンだけ」 
 8月1日、ロシアは動員を開始した。アスキス内閣は揺れていた。その夜ドイツは、動員令を解除しないロシアに、中立を宣言しないフランスに、宣戦布告した。8月2日、グレイは、ロイヤル・ネイビーが外洋艦隊を封じ込め、ドイツに、フランス船舶攻撃、沿岸爆撃をさせないことをフランス大使に保証した。アスキスの娘のヴァイオレットは回想する。「大臣たちは昼食休憩のとき、みな沈鬱の表情だった。ひとりウィンストンだけが張り切っていた」。
 2日の閣議で、多数は、ドイツがベルギーに侵入し、ベルギーの要請があれば、英国は1839年の条約にしたがって参戦する、と同意した。閣僚のジョン・バーンズはすでに辞任していたが、ほか5名の閣僚がバーンズに同調する雰囲気だった。仏独戦争において、英国の巨大な出血と出費をどのように正当化するか、ロイド・ジョージにその大義を求めた。閣僚が6名辞任するとアスキス内閣は崩壊する。そうなると歴史はまた違った方向に動いたことだろう。ロイド・ジョージが要(かなめ)を握っていた。世論はベルギー侵入があれば戦争に向かうだろう、とチャーチルは知っていた。
 チャーチルは、植民地のコンゴ支配に暴虐を尽くしたベルギー人にあまり好感は持っておらず、ベルギーとドイツの間の秘密協定の存在も疑っていた。またかれは、ドイツへの物資補給を妨害するため、海軍を以てアントワープを封鎖する、すなわち、自らがすすんでベルギーの中立を冒すことすら考えていた。
 ベルリンはブラッセルに最後通牒を発し、アスキスは動員を命じた。ロイド・ジョージは参戦側に立った。2年後、かれはアスキスに取って代わり、英国を勝利に導くことになる。 ベルギーのアルベール国王からジョージ五世に、1839年の条約による保障の履行が要請された。8月4日、イギリスはドイツに宣戦布告をした。

英国はなぜ戦ったのか
 第一次大戦は必要な戦いだったのか?オーストリアが、皇太子の殺害をセルビア潰しに利用しようと考えなければ、10項目中9項目のセルビアの条件受諾で話はまとまったかも知れない。ニコライ二世に強権があって、自己の動員令を撤回できたら、ドイツの動員はなく、シュリーフェン・プランの自動的発動はなかっただろう。カイザーとベートマンが、1913年、バルカン危機で開催された6ヶ国協議再開のグレイの提案を受け入れていれば、戦争は避け得たかも知れない。
 そして、イギリス側の事情にはより興味深いものがある。兵力を、100年ぶりに「海峡横断させる」という英国の決意が、シュリーフェン・プランの打破、4年間の塹壕戦、アメリカの参戦、1918年のドイツ敗戦、カイザーの退位、ベルサイユにおけるドイツの四肢切断、そして復讐の念に燃える一帰還兵、ヒトラーの台頭を招いたのである。イギリスは、8月1日のヨーロッパ戦争を世界大戦に転じさせた。これにはいくつかの理由が挙げられる。

1.フランスを列強の位置にとどめること。 グレイはドミノ理論を信じていた。フランスが壊滅すれば、ベルギーのみならず、オランダ、デンマーク、次々に崩壊する。ドイツが君臨するヨーロッパは、戦争のリスクを冒しても許容できない。グレイのこの考えは誤っていた。

2.イギリスの名誉。戦争原因にイギリスの利権を脅かす事柄はない。しかし、イギリスの国民性と寄せられている信頼性にかけて、傍観するわけには行かない。危機にあって、英国陸海軍が存在していること、そのものが帝国を維持しているのである。他国は英国の行動を見ている。英国が中立でいられるわけはない。

3.権力の維持。避戦の自由党閣僚がなぜ辞任しなかったのか。ロイド・ジョージがとめたからである。閣議の分裂はアスキス内閣崩壊につながり、総選挙となると、グレイ、チャーチルを支持する連合論者に政権がまわるだろう。自由党員は、戦争に入っても自らが指導することを望んだ。シュリーフェン・プランが自由党内閣を救ったともいえるのである。

4.ドイツ嫌い。ドイツの興隆は、イギリスの経済的な国力を脅かすものである。ウィルソン大統領は、第一次大戦を経済戦争と理解していた。グレイのドイツ嫌いの感情はチャーチルも共有していた。1907年、ハーグの平和会議に出席したアメリカ大使、ヘンリー・ホワイトと、英国のアーサー・バルフォアとの会話が記録に残っている。バルフォアに代表されるイギリス人の意見が、自らの優位を保持するために、ドイツが勃興する前にイギリスは戦争を仕かけてこれを叩く、という話を聞いてホワイトは非常に驚いた、ということである。

5.帝国主義の野心と便乗主義。フランスとロシアは、大陸でドイツ軍と地上戦を戦うのに対し、イギリスは海上で外洋艦隊と戦い、ドイツの通商を破壊し、その市場を奪い、トーゴランドからビスマルク諸島に至る植民地を侵食する。まことに大英帝国の野心を満たすことになる。南アフリカにおける帝国主義の戦争に対する反対の世論に押されて政権を握った自由党内閣は、ドイツ植民地の略奪をはかっているのだ。イギリスにとって第一次大戦は、必要な戦争ではなく、選択した戦争である。ドイツにはイギリスと戦うつもりはなかったし、英帝国を潰す考えもなかった。

リベラルはなぜ賛成したのか
 イデオロギーと感情が、リベラル(自由党)を戦争へ追いやった。ベルギーが攻撃されたことですべては一変した。数時間前反戦だった党員も十字軍に加わった。ドイツに振るわれる剣は、平和への剣である、これはドイツ国民との戦いではなく、その専制との戦いである・・ウィルソンは、米国の参戦にあたって、「戦争を終わらせるための戦争」と表現した。ウィルソンは道義的介入の歴史上の旗手となった。数千キロ離れた英帝国自治領諸国からも、多くの若者が、攻撃もしない、脅威も与えない敵と戦って死ぬことになった

カイザーの罪
 開戦について、カイザーもベートマンも無罪とはいえないにしても、戦争を望んでいたわけではない。オーストリアが対セルビアの戦争準備をしたい、と言ってきたとき、カイザーは承認し、ノルウェーの夏休みに行ってしまった。しかし、ドイツは自身に傷がつかぬ程度の外交解決を希望していた。
 オーストリアは4週間行動せず、その間に起こったさまざまな出来事が戦争へつながった。7月末、カイザーがベルリンに戻ったとき、事態は収拾がつかぬ状況になっていた。カイザーは従兄弟のニコライ二世に動員令の撤回を要請した。ロシアの動員は、ドイツの動員と、フランスが中立宣言をしないかぎり、シュリーフェン・プランの自動的発動につながり、それはベルギー侵犯、そしてイギリスの参戦、英帝国相手の大戦争を惹き起こす。カイザーは、同じく従兄弟のジョージ五世には、独露戦争の際、フランスが中立を守るのであれば、フランスを攻撃しない、という提案をした。オーストリアのフランツ・ヨーゼフを含む4人の君主たちは、いずれも君主制を脅かす懸念のある大戦争を予感して、戦争回避に努力した。しかし世の中はもっと決断力ある、厳しい人間たちが動かしていた。 
 カイザーの外洋艦隊がイギリスを挑発したとか、ドイツの陸軍が好戦的だったとか、戦争の原因を語る議論がある。しかしロイヤル・ネイビーのドレッドノート群は挑戦的ではなかったのか?3千9百万の人口を抱えるフランスが、7千万の人口のドイツと同じ規模の陸軍を持っていて、どちらを軍国主義というべきだろうか?

ドイツの戦争目的
 グレイの懸念は、ドイツが、ベルギー、オランダ、デンマークを従属させて、外洋艦隊に海峡の基地を持たせること、大陸を席捲し、ヨーロッパ、小アジアの覇者となることであった。しかしそれは真にドイツの目的だったのだろうか?カイザーはナポレオンだったのだろうか?カイザーはむしろ亡き伯父、エドワード七世の遺産ともいえる反独感情による、英仏露のドイツ包囲の共同謀議のように受け止めていた。7月31日、かれは、戦争回避の最後の要請を、ニコライ二世、ジョージ五世にあてて悲痛な電文で残している。これはナポレオンのやることだろうか?4半世紀後にチャーチルも、その著書においてカイザーの無罪を認めている。

ヨーロッパの百舌(屠殺者)?
 対独宣戦の正当化に、イギリスは、世界を「プロシアの軍国主義」から救わねばならなかった、といまだに言われている。しかし、数字は、1815-1914年、ワーテルローから第一次大戦まで、ドイツはもっとも好戦的ではなかったことを示している。
        国                  戦争の回数
      イギリス                  10
      ロシア                    7
      フランス                   5 
      オーストリア                 3
      ドイツ                     3
カイザーは25年の在位中、一度も戦争をしていない。普仏戦争から第一次大戦まで、ドイツ、オーストリアは戦争をしなかったが、その間、英国、ロシア、イタリア、トルコ、日本、スペイン、アメリカはみな戦争している。ドイツを、ヨーロッパの「百舌(ブッチャー・バード)」と呼べる筋合いだろうか?チャーチルはウィルヘルム二世(カイザー)を戦争屋と呼んだが、自らの方がはるかに戦争経験を持っている。

「9月の計画」 
 フランス北部の領有を謳った、ベートマン・ホルベークの「9月の計画」なるものは、イギリスの宣戦布告のあと策定されたものである。ベートマンは開戦以前、グレイに 、ドイツはフランス領土の併合はしない、またオランダの中立も冒さない、そのかわりに、イギリスには中立していて欲しい、と密かに打診したことがある。しかしすでに秘密条約でフランスに約束したグレイはこれを断った。「9月計画」に示されたその他の事項は次のとおりである:
A.15-20年間のフランスの再軍備の抑制、ドイツ商品へのフランス市場の開放。
B.フランス、ベルギー、オランダ、デンマーク、オーストリア=ハンガリー、イタリア、スェーデン、ノルウェーとのドイツの主導による関税同盟。(15年前、カイザーはアメリカに対抗する趣旨で、欧州合衆国を提唱したことがある。)
C.アフリカのドイツ植民地をまとめるための、いくつかの領土のドイツへの移譲。
D.ドイツとの経済統合、軍事同盟締結によるオランダの独立。
E.ロシアからポーランド、バルト三国を切り離し独立させる。(バルト三国は、ドイツないしポーランドに併合しても良い)。
 経済面について、これはドイツが指導する一種の関税同盟の創設で、およそ80年後のEUで実現しているものである。まったく英帝国を脅かすものではなかったが、イギリスは宣戦し、51ヶ月間に、70万2千の兵士を犠牲にし、なお、自治領、インド、アフリカの20万の命を失わせた。そして戦傷、不具者はその2倍にのぼったのである。
 イギリスが中立を守っていたらどうなったか?フランスは敗北、講和していただろう。アメリカ参戦はなく、英米の戦死者はゼロ、仏独の犠牲ももっと少なかっただろう。ロシアも負けていただろう。そしてロシア帝国の解体は英国の国益にかなう。大陸はドイツ、海上は英国、西半球はアメリカ、アジアは日本、というような棲み分けになっただろう。ボルシェビキがロシアを握ったとしても、ドイツが破った可能性がある。ヒトラーもスターリンも出て来なかっただろう。
 また、グレイがフランスとの秘密協定を公式に閣議に持ち出していれば、それは拒否され、議会も通らなかっただろう。すべては、1906年、グレイの推し進めた対仏協商と軍事会議の開始に淵源が求められる。

「ウィンストンは本物の危険人物になってきた」
 どんなに好意的な伝記作家でも、1914年のチャーチルの戦争への意欲には驚いてしまう。戦争の最初の兆しが現われると、チャーチルは最高司令官のように動き始めた。イギリスの造船所で、トルコの発注した2隻のドレッドノート級戦艦が完成すると、かれは遮二無二「没収」してしまった。8月1日、ドイツの対露宣戦布告のニュースを聞いて閣議の了承なく、チャーチルは一存でロイヤル・ネイビーの出動と予備役召集を命令した。           チャーチルは平気で戦争法規に違反した。アントワープ封鎖のため、北海に機雷を敷設した。文明社会の戦争におけるこれまでの規範を無視して、飢餓封鎖(スタベーション・ブロッケード)を行った。1914年12月、トルコがまだ中立国だったとき、ダーダネルス海峡の封鎖を主張し、同じく中立のデンマーク領のボーンホルム島占領を奨励した。にもかかわらず、ドイツのベルギー中立侵犯を言い立てて、ロイド・ジョージを説得し、世論を戦争支持に誘導した。
 
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2009/06/19

Unnecessary War ‐第1章 「光栄ある孤立」の終焉

 女王は、わが国の孤立に危険を感ぜざるを得ません。
 ー ヴィクトリア女王      1896年1月14日

 孤立は、われわれに無関係な戦争に引きずり込まれる危険にくらべれば、それほど危ういものではなかろう。
 - ソールズベリー卿     1896年


 自身が女王に仕えているかぎり、ソールズベリーは、英国をヨーロッパの力関係の外におくことを模索した。ヨーロッパから孤立するのではなく、ヨーロッパの同盟から孤立する策である。1895年、三度目の組閣の大命を受け、かれは自らの過去の政策、「光栄ある孤立」を追求することとした。しかしかれとディスレーリが1878年のベルリン会議で、ビスマルクと、ヨーロッパの新しいバランス・オブ・パワーを取り決めた世界は消えてしまった。1894-95年の日清戦争で日本は勝利し、中国におけるイギリスの優位は崩れた。1895年、英領ギアナとベネズエラをめぐって、英米間に一触即発の危機が訪れた。アメリカの戦争を辞さぬ構えに、ソールズベリーは、将来のアメリカの脅威を読み取った。
 1896年1月、セシル・ローズの企てた、ジェイムソンのトランスバール侵入を食い止めた、ボーアのリーダー、ポール・クルーガーにカイザーが祝電を打ったことでロンドンは大揺れに揺れた。1897年12月、旅順港に入港したロシア艦隊によって英艦は港を撤退した。1898年、スーダンの南、ファショダで英仏軍が衝突、開戦寸前となった。火力の差でフランスは降りたが、しこりが残り、8歳のシャルル・ド・ゴールの英国嫌いのもとになった。
  1900年、ロシアは義和団事件に乗じて20万の兵を満洲に駐留させ、バルティック艦隊の一部を旅順港に回航した。中国でのイギリスの権益はロシアと日本に脅かされることになった。一層イギリスの孤立を深めさせたのは、1899年のボーア戦争である。

和親協商
 19世紀は終わる。イギリスは古いライバルたちの機嫌を取り始めた。米西戦争ではアメリカ側に立ち、アラスカの国境問題をアメリカに有利に解決し、パナマ運河関連のアメリカの特権を認め、またカリブ海から艦隊を撤退した。米国と融和した英国はアジアに目を向けた。日本は、満洲から朝鮮を威嚇するロシア陸軍、旅順港とウラジオストックから睨みを利かせるツアーリの海軍の存在によって、ロシアとその同盟国、フランスとの均衡をはかる必要に迫られた。「黄禍論」を以て日本に嫌悪を示すカイザーを戴くドイツは選択肢にない。1902年1月、日英同盟は締結された。1904年、旅順港奇襲で始まった日露戦争は日本の勝利に終わり、イギリスの選択は誤っていなかった。1905年、日英同盟は拡張された。19世紀のライバル、帝政ロシアは、中国、インド、アフガニスタン、トルコ海峡、中東でイギリスを圧迫しだしている。フランスは引き続き仇敵であり、アフリカ、エジプトで帝国に立ち向かっている。ナポレオンがアレクサンダー一世と結んでヨーロッパを分割した、ティルジットの和約の再来が懸念された。
 露仏同盟に対抗するにはドイツが砦となり得る。イギリスは、ドイツ、アメリカとの同盟関係を模索したが、カイザーはこれを拒絶した。1904年4月、カイザーは驚いたが、イギリスは、フランスと和親協商を締結した。フランスはエジプトでイギリスに権益を譲り、イギリスはモロッコにおけるフランスの優位を認めた。数世紀にわたった敵対関係は消滅した。この協商はただちに、1905年のカイザーのタンジール上陸事件で効果を発揮した。この解決のためのアルへシラス会議でイギリスはフランスを支持した。ドイツはモロッコで経済的な利得を得たものの、この事件は英仏を強固に結びつけた。対独戦争の場合の、英仏海峡横断作戦の秘密の軍事協議が推進されることになった。英仏協商は戦争への道、とローズベリー卿ひとり反対した。後年チャーチルは、ローズベリーの見識を賞賛しているが、チャーチル自身は、協商に反対ではなかった、と言う。
 1907年、80年間の対立関係を解消し、英国はロシアと和解した。ニコライ二世は、ペルシア南部のイギリスの優位を認め、イギリスはロシアの北部での優位を認めた。両者で、ペルシア中央部、アフガニスタン、チベットから撤退することに合意した。ゲームは終わり、大戦へのライン・アップが完了した。ドイツは、オーストリア=ハンガリーとイタリアで三国同盟を形成していた。露仏同盟には、英国がつき、その英国は日本と同盟していた。枠外の大国は唯一アメリカだけだった。

「新時代に入った」
 英国はアメリカと融和し、日本と同盟し、ロシア、フランスと協商関係に入った。ドイツのみが問題として残った。それは普仏戦争の後遺症である。セダンでのフランスの降伏、ナポレオン三世の退位で、統一されたドイツは、フランスからロシアまで、バルト海からアルプスまで、ヨーロッパ最大の勢力として拡がった。ビスマルクは、デンマーク、オーストリア、フランスとの戦争を画策したが、これ以上戦争から得るものはない、と悟った。一連の条約で、ヨーロッパのバランス・オブ・パワーをドイツに有利に創り上げた。オーストリア=ハンガリー帝国を同盟国に、ロシアを友好国に、英国を中立に、フランスを孤立化させた。ビスマルクは、英国を刺激する艦隊保有には反対した。植民策には自身、積極的ではなかったが、1914年には、ドイツは世界第三位の植民帝国だった。東アフリカのタンガニーカ、南西アフリカのナミビア、カメルーン、トーゴランド、中国沿岸ではカイザーが山東半島を所有し、西太平洋ではホーエンツオレルン家がドイツ領ニューギニア、ドイツ領サモア、ビスマルク諸島、マーシャル、マリアナ、カロリン諸島、北ソロモンで最大のブーゲンビル島を所有していた。
 1890年、若く就任したウィルヘルム二世、カイザーにビスマルクは罷免された。カイザーはいくつかのしくじりを冒した。まず露独条約を失効させ、ロシアをアルザス=ロレーヌの回復を企図するフランスと同盟させた。ビスマルクのフランス孤立化策は終わり、ロシアとの再保障条約の廃止は測り知れない誤りとなった。1894年の露仏条約は、三国同盟中一国の部分的動員は、三国に対する敵対行為の引き金となることが謳われていた。ジョージ・ケナンは、セルビアに対するオーストリアの動員が第一次世界大戦の唯一の発端となったことを指摘している。

カイザーを倒せ
 カイザーは大仰で、好戦的であったとはいえ、英帝国を破滅する考えは毛頭なかった。ヴィクトリア女王の初孫であり、女王はその腕のなかで薨去した。伯父にあたる新しい国王、エドワード七世もその有様に心を打たれた。カイザーには英国の陸軍元帥位が与えられた。しかし、イギリスは海で、ドイツは陸で、二つのチュートン民族による英独同盟がヨーロッパを支配するのだ、というカイザーの構想は、イギリスの国王、政治家たちに軽くあしらわれた。カイザーが一度ソールズベリーに、英帝国の邪魔をしないで、どこか植民地の適地がないか、訊ねたとき、ソールズベリーは、ドイツにはどこにも出て行って欲しくない、と答えた。ドイツはまだ列強扱いされていなかった。エドワード七世の逝去で、ドイツ包囲網が崩れると、カイザーは感じた。外洋艦隊を構築して、イギリスのシーパワーに挑戦することを決意した。ここに、光栄ある孤立の世紀は終わった。

外洋艦隊
 1890年に出版された、A.T.マハンの「海上権力史論」は、カイザーに大きな影響力を与えた。この本は、日本の海軍大学での教範ともなった。外洋艦隊には、英国嫌いの新任海軍提督、アルフレッド・フォン・ティルピッツの強い要請もあった。その目的は、北海、バルト海の沿岸防禦、必要食糧の4分の1を依存するドイツ通商の封鎖打破、海路の援護にある。またロシア、フランスの艦隊に対抗する必要があった。
 1899年12月、ボーア戦争において、郵便船を含む3隻の客船がイギリスの臨検を受けたことは、ドイツの反英感情に火をつけた。海軍建設法案は容易に帝国議会を通過した。英国はドイツの立場で外洋艦隊を見ることをしなかった。ティルピッツの「リスク理論」は、ロイヤル・ネイビーに匹敵する艦隊を保有し、力の均衡によって、万一の独仏戦争にあたって、イギリスに中立策を採らせることを目的としていた。しかし、カイザーとティルピッツの考えは誤っていた。
 20世紀、ドイツの外国貿易と商船隊はイギリスのライバルとしてあらわれ、潜在的脅威としてとらえられるようになった。ドイツがドレッドノート級戦艦を、毎年のように配備させていることで、1912年、若き新任の海軍大臣、ウィンストン・チャーチルは、「英国にとって海軍は必需品であるが、ドイツにとっては、ぜいたく品である。英国海軍がイギリスを大国に持ち上げたのだとすれば、ドイツは1隻の船も持たずにすでに大国である」と述べた。「ぜいたく品」という、チャーチルが熟慮した上で使った言葉は憤激を呼び起こした。
 過ちはドイツだけが冒したのではない。1912年、ホルデーン使節団が訪独したとき、カイザーは、イギリスの中立と引き換えに、外洋艦隊の制限を申し出るつもりだった。

バランス・オブ・パワー政策
 イギリスはこの提案を拒絶した。安全保障の考え方は、英独において決定的な相異があった。イギリスにとっての安全保障は、自国の影響力のもとに、ヨーロッパをゆるい連合において、分裂させることにあった。ドイツは、東方、西方に脅威を抱えているので、安全保障とは、ビスマルクが行ったように、自国がリーダーシップを取って大陸を統一することにあった。
 カイザーは、イギリスは恥知らずの政策を露呈し、列強を操って自国の利益を貪っている、それは道義的な宣戦布告である、と怒りを示した。チャーチルは後年、イギリスは400年来、大陸で一国の覇権を許さぬ政策を採ってきた。それらは、スペインであり、フランス王国であり、フランス帝国であり、ドイツであった。
 この政策で、英国は2度、ドイツと戦った。しかし、1945年には、英国はその役割を果たす力を失っていた。「死んでしまった政策の残骸に固執することは・・よくある政策の失敗のもとだ」と、1877年にソールズベリー卿が語ったとおり、イギリスはその帝国を失ったのである。

サー・エドワード・グレイの秘密
 フランスと秘密の同盟を結んで、光栄ある孤立政策を放棄させたことに最大の責任のある政治家は、エドワード・グレイである。1905年、自由党が政権を掌握してから、かれはずっと外相の任にあった。第一次大戦に介入したイギリスの決断にも大いに影響を及ぼした。しかし、それは自由党が約束したものではなく、国民が望んだものでもなかった。グレイの反独感情と、フランスとの協商の熱意は、最初から自由党内閣の多数とすれ違っていた。首相のハーバート・ヘンリー・アスキスは、英仏軍事協議を了承していたが、内閣も議会も、サー・エドワードが、フランスが侵入されたとき、イギリスが参戦すると約束したことを知らなかった。大蔵大臣、デヴィッド・ロイド・ジョージと、内国大臣からすぐ海軍大臣に転じたチャーチルにはこの秘密が知らされた。ジョージ五世の顧問官、エッシャー卿は、アスキスに、英仏の幕僚部の間で軍事計画が練られているが、「内閣が好むと好まざるにかかわらず、確実に戦争を押しつけるものである」、と告げた。

「永遠の友」
 1914年になると、どこの国にも好戦派が存在した。ホワイトハウスにおけるウィルソン大統領の腹心、エドワード・マンデル・ハウス大佐は、ヨーロッパの主要都市に視察に出かけた。かれは、ヨーロッパのいたるところで敵対心が溢れ、大変動の兆しがある。フランスとロシアは、ドイツ、オーストリアと対抗するために接近している、と報告した。
 英国のタカ派は、欧州戦争を国威発揚と帝国拡張のチャンスと見ていた。フランスとロシアが西と東から攻め、ロイヤル・ネイビーが外洋艦隊を海底に沈め、その植民地を席捲すれば、ナポレオン以来の強力なライバル、ドイツを打倒することができる。
 しかし、1914年の夏が始まるころ、だれしも戦争が起こるとは思っていなかった。英独の建艦競争は、1913年、ドイツが対英60%の比率で、イギリスの優位を認める形で、ティルピッツが譲歩した。
 1914年6月23日、ロイヤル・ネイビー第二艦隊がキールを友好訪問した。大群衆が歓呼してこれを迎えた。英国士官は、皇太子夫妻に招かれた。翌日、ティルピッツ提督が旗艦に上級士官を招き、外洋艦隊の概要を説明した。午後カイザーの乗艦した、皇帝用ヨット、ホーエンツオレルンに向けて、全艦艇が21発の礼砲を放った。カイザーは英国艦隊司令長官の制服を着用し、戦艦、キング・ジョージ五世号を観閲した。
 6月28日、レース用ヨットに搭乗していたカイザーは1通の至急電報を受け取った。サラエヴォにおけるオーストリア皇太子のフェルディナンド大公とゾフィー公妃暗殺の知らせだった。キールでは半旗が掲げられ、すべてのレセプション、晩餐、舞踏会が中止された。艦隊が離れるとき、ドイツの軍艦のマストに「航海の無事を祈る」と信号旗が揚がった。キング・ジョージ五世号からは、「今日の友、未来の友、永遠の友」という無線連絡が入った。
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2009/06/19

Unnecessary War - 序章 西欧の大いなる内戦

 戦争は個人が作る、国家が作るのではない。
 -サー・パトリック・ヘイスティングス 1948    英国弁護士、作家


 近代の帝国諸国家のなかで、英国は問題なしに、ローマ帝国以来最大の帝国であった。アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、アイルランド、地球上の5つの素晴らしい自由主義国家はこの母胎から生れた。中国人が初めて自由を知った、香港とシンガポールが続いた。英国がいなければ、インドは世界最大の民主国家にはならなかっただろう。イギリス人がアフリカにやってきたとき、そこは原始の部族社会だった。かれらが去ったあと、道路、鉄道、電話、通信設備、農場、漁場、工場、鉱山、訓練された警察、公務員が残されていた。
 すべての帝国と同じように、負の側面はある。阿片戦争、アイルランドの馬鈴薯飢饉などである。しかし英国の罪はバランスで考える必要がある。英国はトラファルガーとワーテルローでナポレオンの独裁にとどめを刺し、ヒトラーが打倒されるまで帝国を維持した。しかしすべての帝国がそうであるように、英帝国もいつかは崩壊の運命にあった。ジェファーソンの「人はみな平等に創られた」という思想はウィルソン大統領の「民族自決」に受け継がれた。ウィルソンの国務長官、ロバート・ランシングは、これをダイナマイトと評した。民族自決の原理が西欧の帝国を滅ぼした。
 ウィンストン・チャーチルが1911年、海軍大臣として入閣したときはだれしもが英国の優位を認めていた。1965年、かれが死んだとき、ほとんどが失われていた。英国に何が起こったのだろうか?1914年に始まり、1919年のパリ会議で終わった戦争は、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、ロシア帝国を倒し、レーニン、スターリン、ムソリーニ、ヒトラーの世界に道を拓いた。ユダヤ人と数千万のキリスト教徒の殺害、ヨーロッパの荒廃、大陸の半分のスターリン化、毛沢東主義の狂気の中国、そして半世紀にわたる冷戦を招いたのは、1939年に始まった戦争であった。
 すべてのヨーロッパにおける戦争は内戦である、と言ったのはナポレオンだった。歴史家たちは、1914-1918年及び1939-1945年の二つの戦争は、西欧の大いなる内戦として振り返ることだろう。
 ジョージ・F・ケナンは、すべての問題は第一次大戦に遡る、と言う。そしてこの二つのヨーロッパの戦争を世界戦争としたのは英国である。1914年、イギリスが対独宣戦をしなければ、カナダ、オーストラリア、南アフリカ、ニュージーランド、インドは母国に追随しなかったろう。そしてアメリカも。ドイツは多分数ヶ月のうちに勝利しただろう。とすれば、レーニン、スターリン、ベルサイユ、ヒトラー、ホロコート、すべて存在しなかったことだろう。
 1939年3月、イギリスがポーランドに戦争保証を与え、9月3日に宣戦布告しなければ、ドイツ=ポーランド戦争は、5千万人が死ぬことになった6年間の世界戦争にはならなかっただろう。
 なぜ、二度にわたってイギリスは宣戦布告をしたのか?カイザーもヒトラーも英国を倒す意思はなかったのだ。両者とも英国との同盟を望んでいた。カイザーはヴィクトリア女王の一番年上の孫だった。ここで決定的な問いかけが起こる。この二つのおぞましい戦争は必要だったのか?ないし、選択された戦争だったのか?
 一つは、世界の脅威となったプロシア軍国主義をとどめるため、もう一つは世界を征服し、人類を奴隷化し、少数民族を抹殺し、闇の時代に導く狂信的なナチス独裁者を打倒するため、と説明される。
 第一次大戦で勝利を齎したデビッド・ロイド・ジョージは、「われわれはみな誤って戦争を起こした」と回想している。チャーチルもその回顧録で、
 「ある日、ルーズベルトからこの戦争を何と呼ぼうか、と相談があった。わたしはただちに、アンネセサリー・ウォー、第一次大戦の遺産を破壊する不要な戦争だ、と答えた」、と書いている。ロイド・ジョージ、チャーチルが正しいとすると、へまをしたのはだれだったのか?
 イギリスの戦争の大義についてはあまり論争はない。人々は、パッシェンデール、ソンム、ダンケルク、エル・アラメイン、バトル・オブ・ブリテンを語る。ナチ・ドイツに勝利した栄誉を英国とチャーチルに与える。ケネディ大統領は、チャーチルは英語を動員して戦場に投入した、と語った。チャーチルはラファイエットとならんで合衆国の名誉市民となった。
 この本は英国は英雄的であったかを問題にするものではない。その評価は決まっている。ではなくて、その政治家たちは賢かったかを問うものである。一世代のうちに諸帝国中の支配者の地位から、帝国にあまり愛情を持たないアメリカを唯一頼りにする国になってしまった。1942年までには、英国は国家の存立を合衆国に依存することになってしまった。だれが帝国を失わせたのか?
 この本を著すもう一つの理由がある。アメリカのエリートのなかにチャーチル教ともいうべきカルトがある。このカルトにとって、アメリカに対する挑戦、反抗は、もうひとつの1938年となる。敵対するものは「新しいヒトラー」であり、戦争回避の提案は「もうひとつのミュンヘン」となる。スロボダン・ミロシェビッチは、セルビア揺籃の地、コソボを確保したことで「バルカンのヒトラー」と言われた。1991年のサダム・フセインは「アラブのヒトラー」と呼ばれた。
 この固定観念は、われわれを攻撃したこともない、脅威にもならない、つねに友好的な国、セルビアを78日間にわたって爆撃することにさせた。9月11日のあと、チャーチル教徒は、粗野な大統領に、ヒトラーからヨーロッパを解放したように、サダムからイラクを解放することを吹き込んだ。
  V-Eデイの60周年記念祝賀会のため、モスクワに飛んだブッシュ大統領は、「V-Eデイはファシズムの終わりを告げたが・・・圧制を終わらせなかった」、FDRとチャーチルがスターリンと共謀して東欧、中欧に対して行(おこな)ったことは歴史の最大の誤りの一つである、ヤルタはミュンヘンに匹敵する、自由諸国を売り渡した恥ずべき行為である、と言った。
 ブッシュは、自分のしたことはまだましだと思っているのだろうか、この本はそのことを論じる。
 ヒトラーとその仲間たちは、その罪に価する罰を受けた。しかし、チャーチルの戦争の犠牲者の数を無視するわけには行かない。ヒトラーを倒すために5千万の生命が、本当に必要だったのだろうか?それは「不必要な戦争」だったのか? 
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2009/06/18

Unnecessary War 扉の言葉/序文

扉の言葉(「全訳」)
 できることはすべて行う、全員で戦う、あらゆる紛争に立ち向かう、これらはわれわれの義務であると信じ込んでいる・・・この国の世論には危ういものがある、とわたしは深く思わざるを得ない。これはわが国に対して他国民を刺激するという、危険な原理となるばかりでなく・・・われわれの国力発揮を無理強いするという、より深刻な危険をはらむものである。個人であろうが国家であろうが、力はいかに強くあっても、その力が越えてはならない限度というものがある。それを越えようとするのは気狂い沙汰であり、破滅のもととなるのだ。  
                      ー 1897年 ソールズベリー卿     女王のスピーチ

 ヨーロッパの戦争は、征服されたものの破滅と、征服したものの致命傷に近い商業的転落、疲弊に終わるだけのものである。民主主義とは閣議室よりはるかに復讐心がある。国民同士の戦争には、国王たち同士の戦争よりはるかに恐ろしいものがある。
                      - 1901年 ウィンストン・チャーチル  議会演説


序文(「全訳」)
何がわれわれに起こったのか?

 そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。-創世記 4.8

 とにかく、われわれにはっきり見えていることは、今や西欧は逝ってしまったということである。
 たった1世紀のうちに、欧州大陸のすべての偉大な名門は崩壊した。世界を支配したすべての帝国は消失した。イスラム系のアルバニアを除いて、世紀を通じて生き延びるに足りる出生率を持つ国は、ヨーロッパに一つとしてない。世界の人口比でみて、ヨーロッパ人の家系は、3世代にわたって縮小している。食い止められない第三世界の侵食によって、西欧各国の特徴は、救いようもなく変質している。われわれは、地上から緩やかに消えようとしているのである。
 支配の意思を失って、西欧人は、甘い生活(ラ・ドルチェ・ヴィータ)にどっぷり漬かっているうちに、かけがえのない文明に生き抜く意思を失いつつあるように見える。そして、いっとき支配したこの地上をだれが継承して行くのかについて、呆れるほど無関心である。
 何がわれわれに起こったのか?わが世界に何が起こったのか?
 20世紀が始まったとき、西欧はいたるところで最高の存在だった。400年にわたって、探検家、宣教師、征服者、そして植民者がヨーロッパを離れて世界の四隅に赴き、すべての人類に西欧文明の恩恵を齎す帝国を築いていった。ラドヤード・キプリングの詩には、アングロ・サクソン人のとくべつな義務は、「平和のため獰猛に戦う/飢餓のお腹をいっぱいにする/病気を退治する」ことにある、と謳われている。これらの帝国は、自尊の民族の母体となった。
 これらの人々はどこへ行ったのか?
 前世紀のどこかで、西欧人は、自分自身、自らの文明、母体への信義ーのすべてに対する破滅的な信頼の喪失を蒙った。
 西欧においてキリスト教精神が死につつあり、急進的な世俗主義に取って代わられつつあることは、その理由について論議はあるものの、否定できないようだ。しかし、引き続き致命的と目される身体的な傷については議論の余地がない。それは、第一次、第二次世界大戦である。これは30年戦争の二つの局面であって、未来の歴史家は、西欧の大いなる内戦、と名づけることだろう。この二つの大戦争は、西欧の何百万もの最高に勇気あるエリートたちの命を奪っただけでなく、レーニン主義、スターリン主義、ナチズム、ファシズムという狂信的イデオロギーを生み出した。これらイデオロギーの悪政の統治下にあって虐殺された人々の犠牲者数は、10年間の戦場の戦死者をうわまわるものとなった。
 25年前、チャールズ・L・ミー・ジュニアは、自著の秩序の終わり:ベルサイユ1919の冒頭に、大戦と初めて呼ばれる衝撃を:「第一次大戦は想像を絶する規模の悲劇であった。6500万の兵士が動員された。ーそれ以前の戦争に狩り出された人数を数百万上回っている。ーそれは、正義、名誉、国家の誇り、偉大なる理想のための戦いであり、すべての戦争を終わらせるための戦争である、と説明された。そして世界平和と平等の新秩序を作り出すのである。」と書き記した。
 ミーは、屠殺者の勘定書きを詳細に記録する。

  1918年11月11日、戦争終結の休戦協定が調印されたときには、8百万の兵士が戦死しており、2千万以上が戦傷、戦病、四肢切断、ないしガス攻撃による失血症を蒙っていた。2200万の民間人が殺害ないし傷害を受けており、生存者は粉砕され、荒廃した農村、泥まみれになった農場に住んでおり、家畜は失われていた。
 ベルグラード、ベルリン、ペトログラードでは、生き残りのものたちが、かれら同士で戦っていた。-大小、内戦または革命戦争の形で、14の戦争が世界に明滅ないし猛威を振るっていた。

 第一次大戦では、19世紀、欧米で最大の流血であったアメリカの南北戦争の10倍の戦傷死率を記録した。大戦末期に帰還兵を襲ったインフルエンザが、1400万以上の欧米人の生命を奪った。1914年のある1ヶ月、-「世界史のなかでもっとも恐ろしい8月」とアーサー・コナン・ドイルが呼んだー「フランス人の犠牲者は・・・7万2千の戦死者(8月22日の1日だけで2万7千人)を含む26万にのぼった」。フランスは戦い続け、51ヶ月で、130万の息子たちが死んだ。戦傷者、不具者、廃人はその2倍であった。パリ北東の四分円の地域は月の表面のようになってしまった。
 今日のアメリカにあてはめると、戦死8百万、戦傷1600万、オハイオ以東、ポトマック北方の地域が不毛地帯となる。とはいえ、第一大戦の死と破壊は、レーニン、スターリン、ヒトラーのジェノサイド、1939-1945年に、戦争が、イタリア、ドイツ、ポーランド、ウクライナ、バルト及びバルカン諸国、ロシア、そしてピレネーからウラルに至るすべてのヨーロッパに与えたものに比べると、ちっぽけなものになってしまうのである。
 この本が叙述する問題は巨大だが、簡単なものである:この二つの世界戦争、われわれ自らに負わせた致命傷、は、必要な戦争だったのだろうか?またはそれらは選択できる戦争だったのだろうか?そしてもし選択できるものだったとしたら、だれが、われわれの文明の死を促進した、この忌まわしくも自殺的な戦争にわれわれを巻き込んだのだろうか?西欧の死に責任のある政治家はだれたちだったのだろうか?
 
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2009/06/18

Unnecessary War 目次

目次をご紹介します。

 扉の言葉  (ソールズベリー卿、ウィンストン・チャーチル)
序文      何がわれわれに起こったのか?
序章      西欧の大きな内戦
第1章     「光栄ある孤立」の終焉
          和親協商
          新時代に入った
          カイザーを倒せ
          外洋艦隊 
          バランス・オブ・パワー政策
          サー・エドワード・グレイの秘密
          「永遠の友」
第2章     過ぎし夏の日
          「奮い立つ、嬉しい」
          海軍大臣
          シュリーフェン・プラン
          「張り切っているのはウィンストンだけ」
          英国はなぜ戦ったのか
          リベラルはなぜ賛成したのか
          カイザーの罪
          ドイツの戦争目的
          ヨーロッパの百舌(屠殺者)?
          「9月の計画」
          「ウィンストンは本物の危険人物になってきた」
第3章     「復讐心の毒」
          「カイザーを絞首せよ!」
          「地獄の汚れ仕事」
          飢餓封鎖(兵糧攻め)
          「やつらは獣だ」
          ラインランド
          もっとも得をした国
          トリアノン
          ルーマニア
          勝利の果実
          勝利の犠牲
          カルタゴの講和?
第4章     「役立たぬ巡洋艦の群れ」
          友を選ぶ
          はらはらさせる愚策
          ロールス・ロイス ー ロールス・ロイス ー フォード
          スティムソン・ドクトリン
第5章     1935:ストレーザ戦線の崩壊
          南チロルの売り渡し
          ドルフース殺害
          ロカルノ条約
          ストレーザ会議
          ヒトラー=ボールドウィン協定
          アビシニア
          イーデン失墜
          アビシニア戦争
          ホアル=ラバル計画
          チャーチルとムソリーニ
第6章     1936:ラインランド
          同盟国の不作為の陰で
          フランスはなぜ麻痺していたか?
第7章     1938:アンシュルス(独墺合邦)
          ヒトラー=ハリファックスのサミット
          ヒトラー=シュシュニクのサミット
          シュシュニクの再点火
          帰郷
第8章     ミュンヘン
          勝利者
          なぜミュンヘン?
          ベネシュ、ヒトラーを侮辱
          なぜヒトラーに「ノー」と言わなかったのか?
          ミュンヘン問題でのFDR(ルーズベルト)の立ち位置
          フランスはなぜ戦わなかったのか?
          チャーチルの選択肢
          ゴーデスベルグ会談
          宥和(アピーズメント)の失敗
第9章     致命的な失策
          ポーランドの順番
          チェンバレンの回れ右
          英国はなぜそれをしたのか?
          チェンバレンは誤解したのか?
          戦争保証に替わる手段
第10章    エイプリル・フール
          思い違い
第11章    「不必要な戦争」
          スターリンの求愛
          平和の最後の週
          戦争の別の選択肢?
          ポーランド見棄てらる
          第一の受益者
第12章    身の毛のよだつ収穫
          勝者と敗者
          ヒトラーのポグロム
          あり得たことども
第13章    ヒトラーの野心
          ヒトラーの野心
          敗北の教訓
          ヒトラーの夢想の同盟
          海軍 
          東方への視線
          ヒトラーは世界を手に入れたかったのか?
          アメリカは重大な脅威に直面していたか?
          ニューヨーク・ボンバー(爆撃機)
          ナチズムと共産主義
第14章    マン・オブ・ザ・センチュリー(世紀の人)
          装甲列車
          全盛期
          必要不可欠な人物
          勝利の犠牲
          民族浄化と奴隷労働
          軍事戦略家として
          チャーチルの道徳性の進展
          「人の心を持つ狼」
          チャーチルの信念
          「英国を白色に保つ」
          政治家 ー または戦争屋?
          「英国という乳牛からミルクをしぼる」
第15章     英帝国を継承するアメリカ
          必要不可欠な人物
          アメリカはいかに勝利したか
          未経験な道すじ
          チャーチルのわだちを踏む
       
 脚注
 参考書
 索引

    
          
  

    

         
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2009/06/16

Unnecessary War - by Patrick J. Buchanan

今回から、アメリカの政治評論家、政治家、コメンテーターの、パトリック (パット)J・ブキャナンの
「Churchill,Hitler,and the Unnecessary War -How Britain Lost Its Empire and the West Lost the World」 という本を読みます。(「チャーチル、ヒトラー、そして不必要な戦争 - 英国はいかにしてその帝国を失い、西欧は世界を失ったか」)
(出版社: Crown Publishers, New York/ 2008年5月)

人類の歴史上、かつて類をみない流血、虐殺を齎した、第一次、そして第二次の二つの世界大戦、この二つの大戦争は本当に必要なものだったのでしょうか?われわれのコントロールの及ばぬ出来事だったのでしょうか?著者は歴史の過程での数々の判断ミス、とくに、英国、なかでもウィンストン・チャーチルの行動を問い直します。具体例は次のとおり:
‐1906年、秘密の閣議で決めた、ドイツがフランスに侵入した際の対独直接軍事行動
‐ヒトラーの台頭を許した過酷なベルサイユ条約
‐日本を孤立させ軍国主義に赴かせた、アメリカの圧力に負けた日英同盟の解消
‐イタリアをヒトラーとの枢軸に追いやった、1935年の制裁策
‐1939年のポーランドに対する戦争保証(第二次大戦の保証となった)
‐チャーチルのスターリンの本心(野心)に対する驚くべき無知

歴史に「if」は禁物、とよく言われますが、このような本をひもとくと、まことに歴史とは、起こってしまった「if」の連続であることがわかります。未来のことは一切分からぬわれわれが、過去を振り返る(歴史をかえりみる)ときだけ、すべてが必然であったように後講釈で説明しようとするのは、いささか傲慢ではないでしょうか。20世紀のさまざまな結節点で、だれが、どのような状況で、どのような判断をくだして行ったのか、そしてその結果は?この本は、登場人物とそれらの時点を共有しながら読んで行くと、歴史の機微に触れるたび、そのif、ないしif not に思いを馳せざるを得ません。

パット・ブキャナンは、1938年11月、ワシントンDC生まれ、ジョージタウン大学、コロンビア大学大学院卒。ニクソン、フォード、レーガンそれぞれ大統領の首席顧問をつとめました。1992、1996年の大統領選挙には共和党候補として予備選挙に立候補、2000年には改革党から自身、大統領本選に出馬しました。評論、著述活動とともにTVのコメンテーターとしても著名な人物です。
著書は次のとおり:
Day of Reckoning:How Hubris,Ideology,and Greed Are Tearing America (2007)
Stare of Emergency:The Third World Invasion and Conquest of America(2006)
Where the Right Went Wrong:How Neoconservatives Subverted the 
Reagan Revolution and Hijacked the Bush Presidency (2004)
The Death of the West:How Dying Populations and Immigrant Imperil Our
 Country and Civilization (2002)
 (宮崎哲弥訳「病むアメリカ、滅びゆく西洋」成甲書房、2002)
A Republic,Not an Empire:Reclaiming America’s Destiny (1999)
The Great Betrayal:How American Sovereignty and Social Justice Are
 Being Sacrificed to the Gods of the Global Economy (1998)
Conservative Votes,Liberal Victories:Why the Right Has Failed (1975)
The New Majority:President Nixon at Mid-Passage (1973)

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尚、本書の雰囲気、特徴がよく出ているところは、部分的に全訳も試みたいと思います。(「全訳」とマークいたします。)
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2009/06/14

Alliance - 22 (つづき)

 スターリンは風邪を理由に、トルーマンとの二国間会談にモロトフを代理とした。外相は、アメリカの、賠償額は決めないで、占領地区を持つ各国が、各々その地区内賠償方法を決定して行く、という提案を了承した。こうして、事実上ドイツは四つに分割されるが、それぞれは現場で政策を決定する軍管区司令官の命令に服することになる。これはもともと構想されたドイツの分断とは異なるが、たがいに異なる道を歩むことになる、東西の判然とした分割を潜在的に示すものとなる。
 東から手に入れるものに加えて、ソ連は西側地区資産の10%を受け取ることになった。プラス食糧供給と引き換えに25%を受け取ることができる、とされたが、これは実現しなかった。イギリスがこれに加わったとき、ベヴィンは反対した。モスクワが要求した賠償の50%以上を手にすることになるからだ、と言った。しかし英国の反対は、かつてほどのウェイトは置かれないようになってしまった。
 ポーランドについて、バーンズ=トルーマン構想は、平和条約までの暫定期間は、既成事実として西ナイセ川を国境として認めようという提案だった。ルーマニア、ハンガリー、ブルガリアの共産政府の承認問題について、国務長官(バーンズ)は、英国の反論を言いくるめようと新しい方式を持ち出した。ビッグスリー大国は、「でき得るかぎり」これらの体制との関係確立方策を研究する、ということとなった。
 ベヴィンは嬉しくなかった。かれは、賠償問題はひとまず置いておいて、ポーランドに集中しよう、と提案した。これは、バーンズの考えていたこととまったく違っていた。上院で長いこと議案をパッケージとして処理してきた経験から、かれは諸提案は生かすか、まとめて落とすかのどちらかだ、と主張した。アメリカがポーランドで譲歩するのであれば、賠償問題で協定にこぎつけたかった。テヘランとヤルタでの曖昧な言葉の代わりに、新政府はきちんとした取引をしたかった。論点をもっとはっきりさせる意味で、バーンズはモロトフに、自分とトルーマンはいつでも帰る用意をしている、そして帰るときは、全部の協定をするか、全部何もしないかのどちらかである、と告げた。
  外交駆け引き上の病気から回復したスターリンは、次の7月31日の本会議に出席した。そして、ソ連への特別割当を含む、アメリカ提案のなかから基本的な問題諸点が整理されてきた。東欧新体制諸国の外交承認問題は、フィンランドを含みこれら諸国との平和条約が締結されなければならない、という声明に集約された。ポーランドの西部国境は、平和会議を待つことになった。その間、西ナイセ川に至る旧ドイツ領、ソ連によって占有された海際の部分を除く東プロシアは「ポーランド国の行政権にしたがう」こととなった。
 「この会議は成功したと考えて良い、とわたしは信じる」、と最終的にスターリンが述べた。外相たちに感謝を表明して、トルーマンはサミットの閉会を宣した。別れを告げ、帰国に臨んで、かれは次回会合をワシントンで開催したい、と希望した。「喜んで」、スターリンが答えた。二人はそれぞれの国を1950年代まで率いていたが、再会することはなかった。

 戦争中の同盟のトップたちの個性は、終始重要であり、その相互関係は決定的であった。いま、ルーズベルトは死んだ。チャーチルは官邸をあとにし、労働党政府に継承された。新政府はモスクワに強硬姿勢を取りつつ、国有化政策を採り、インドに独立を許す、というルーズベルトの目的を達成し、福祉社会の基盤を大きく広げていた。8月14日、日本降伏のニュースのショックは、イーデンを立ち直らせた。かれはチャーチルとクラリッジで夕食を摂っていた。食後、BBCでアトリーがニュースを放送するところを聞いた。そして、「沈黙があった。チャーチル氏には、国民に言葉をかける要請がなされなかった。われわれは家に帰った。旅は終わった」。イギリス人は、その「光栄なる大闘争に入り込んだ・・・泥沼のなかは、そして抜け出て、また入り込んだ」、とチャーチルは記した。
 日本敗戦ののち、アメリカは、英国向けレンドリースを中断した。カドガンは、日記をつけることをいつも軽蔑していたが、次のように書きとめている。「行くてには大量の難問が待ち構えている。しかしわたしは、英国の偉大な時間を生きた。そこから見放されるのでなければ、喜んで死ねる」。
 ワシントンでも役者は入れ替わった。モーゲンソーは去った。ポツダムの2ヶ月のち、スティムソンは辞任した。トルーマンとバーンズに冷遇されている、と感じたハリマンは、モスクワ大使館を離れた。肝臓の悪化で、ホプキンスの命は旦夕に迫っていた。ベッドの横に血漿の壜のスタンドを立て、自ら注射をした。しかし、おなかは食事を受け付けず、しばしば下痢を起こして目が覚めた。いつもどおりの諷刺のメモは続けており、チャーチルに、わたしの肝硬変は「残念ながら、アルコールの飲みすぎからきたものではありません」と書き送った。1946年1月22日付けの手紙が最後のものとなった。身体は骨と皮ばかりとなり、眼(まなこ)は虚ろに、同盟の仕事師は立ち去った。「運命には逆らえないよ」、かれは看護人に言っていた。1月29日、妻がベッドを離れて、友人にかれの様子を知らせる電報を打ちに行った。戻ってくると、ハリー・ホプキンスは死んでいた。まだ55歳だった。

 ヨーロッパから戻って、トルーマンは国民に報告した。「ほとんどの国際協定は妥協の産物でした」。ポーランドは成り行きにまかせた。1946年の国民投票は、ミコワイチクの党を強力に支持していたが、翌年の総選挙では、不正行為と嫌がらせで共産党が圧倒的多数を獲得した。反対党のリーダーたちが国外脱出をはかるにつれて、モスクワの締めつけが完璧になってきた。ドイツは、ソ連と、西側の支配地域に分割され、その後半世紀、別々の道を歩んだ。
 熱い戦争の過程で、冷たい戦争が形を現わした。世界が二つに分かれるなかで、ポツダムは原子爆弾の不安の時代を拓いた。ー分断の亀裂は、1949年、チャーチルが下院でスピーチしたように、続いたことこそ奇跡だった。勝利したことで、必要に迫られて抑え込まれていた、思想的、地理的、文化的な相違点が浮かび上がってきた。
 直面する脅威が、いかに緊張を齎そうと、三人の力ある、しかしたがいに異なったリーダーに相互協力の絶対的重要性を認識させたのである。分かれ道がいくつも、優柔不断がいくつも、言葉の綾で真実らしく見せたエピソードがいくつもあった。しかしかれらは、二つのことを知っていた。悪魔のような敵を仆さなければならないこと、そしてそのためには、同盟に留まらなければならない、ということである。
 各自、その役割をきっちりと果たした。最初に登場したチャーチルは、その弁舌と感情表現のすべてを駆使してルーズベルトに取り入った。しかし、スターリンとのパーセンテージの切り分けにも一枚噛んだ。1942年の、多分惨憺たる結果に終わるフランス侵入にはアメリカを思いとどまらせた。ヨーロッパにおけるソ連の覇権の危険を明らかにした。
 自らの計画に先んじて、無理やり戦争を仕かけられたスターリンは、莫大な自国の損耗を目のあたりにすることとなった。しかし、ほかの二人のリーダーに比べると、よりはっきりと自らの望むものを認識していた。かれは自分の軍隊を使ってそれを手に入れ、ヨーロッパ中央に広がる国家安全保障の帝国を建設したのである。「政治においては」、かれはポツダムで所感を述べた。「戦力を勘案して方策を建てなければならない」。
 常時、国内世論に気を配りつつ、ルーズベルトは、自国を孤立主義から国際主義に誘導し、平和を確立するための機構を作り上げた。しかし、そのロード・マップは描かれておらず、最初からスターリンとの対決を回避し、赤軍が占領したヨーロッパの半分についての言葉を行動に移すことはなかった。かれが生きながらえていたとして、その実績の証として、ジョーカー(とりもち役)を生み出したかどうか、は疑ってみる必要がある。
 ルーズベルトは死に、チャーチルは辞めた。独裁者(スターリン)だけがはっきりとした優位を以て、その後8年、権力の座にとどまった。同盟は、世界からナチズムとその僚友、日本を追い払った。しかしそれは、約50年の冷たい対決に移行する、というだけの形で終わったのである。同盟は平和を目的とせず、戦争を目的としていた。それは地球を以前に比べて、より尖鋭に、より広汎に分断して終わった。ヨーロッパはより判然と組織化され、戦争への危険は去った。各国国民は、二大強国の核の傘のもと、画然とした国境に囲まれて暮してきた。
 西欧は、パックス・アメリカーナのもとで繁栄を享受し、大陸の東半分はソビエト帝国に運命を委ねた。同盟の成果は、一般に、とくに西欧で受け止められているようなものではなかった。とくにアジアでは、大きな紛争が発生し続け、数100万が犠牲となり、莫大な災厄が齎された。しかしヨーロッパが勝利したような規模の、新しい戦争を敢えて起こそうとは双方とも思わなかった。睨み合いが終わって、大陸は平和協力の新時代に移った。 
 60年を経て、ルーズベルトは、自分が救ったアメリカ資本主義の勝利を見て笑みを洩らすだろう。チャーチルは、帝国の喪失を怒るかも知れないが、イギリスが相変わらず、自国以上のウェイトを持つ相手にパンチを浴びせるかれのやり方を踏襲しているところを見れば、必ずしも不幸というわけではあるまい。-とくに歴代の米国大統領が、かれを英雄のモデルとしているところは光栄として良い。スターリンは、ソ連の消滅を嘆くことだろう。しかし、クレムリンの新しい権威主義を、皮肉交じりに見守っていることは間違いない。

 ビッグスリーはいまや歴史となった。その同盟が45年間対決を続けていたことと同じように、かつての同盟の多くがそうだったように、この同盟も、敵の存在によって強制されたものであった。仇敵(かたき)が斃されると、三国の連携は解消した。しかし、今日まで、英国の首相たちは、戦争中のチャーチルに呪縛をかけられ、その回顧録に凝結された「とくべつの関係」を評価しているのである。
 しかし、4年間にわたって協力関係が維持されたビッグスリーのこの成功がなければ、世界は測り知れない状況に陥っていただろう、と言えるのである。冷戦もない、朝鮮とベトナムの熱い戦争もない、国連もない、EUもない、国際通貨基金その他機関もない、共産中国もない、ホロコーストの終わりもない、イスラエル国家もない。
 この辺を見通すと、アメリカは、巨大な政治、経済、軍事の力を発揮して、自分勝手なことを行っている可能性がある。そして、その終わりのない関心と価値判断の追究を図りつつ、世界帝国と、原爆を備えた孤立主義への狭間で引き裂かれていたかも知れない。ートルーマンは、ヨーロッパでも原爆を使用しただろうか?単独でヨーロッパの枢軸諸国に立ち向かって、中規模サイズの国としてでも、イギリスは生き残っただろうか?-総統(ヒトラー)の思惑、日本のアジアにおける前進、ドイツの海軍力、インドの勃興するナショナリズム、スエズ運河への脅威など、その経済に加えられる打撃のことを考えると、英国が、戦争を傍観して、帝国を維持し得たとはとても思えないのである。国防軍の侵攻から領土を守ることができたとしても、ソビエト連邦はそれ以上の抵抗は不能として、スターリンが1941年に模索したように、ベルリンと第二の条約を締結した可能性が大いにあったのである。これは第三帝国の永続につながり、ヨーロッパの制覇を許すものとなる。中東の原油は奪われてしまう。それでも日本は、アメリカの原爆で降伏を余儀なくされよう。しかし極東は、ワシントンが、中国のどちらを支持するか際限なく二股の意見を持っていたので、無秩序状態になっているか、アメリカの長期にわたる保護国状態になっているか、のどちらかになっていただろう。
 歴史のイフはこの辺までにしておこう。いずれにせよ、ビッグスリーは、20世紀のあらゆる指導者のなかで、もっとも重要な役割を務めた。挫折してしまったが、必要だったかれらの連携は、緊張と挑戦の連続だった。世界政策の基本方針について、デリケートな判断と外交力が求められ、世界的なパートナーとしての連合を確立し、維持した。この本の初めで紹介したチャーチルの注釈のとおり、三人全員は、自ら設定したーないし敵によって設定させられた、共通の目的を達成するための同盟の優位を認識していた。イギリスにとって、同盟は命綱だった。ソ連にとっては、超大国への道筋だった。アメリカとしては、いかにその力が強大で、納得しにくい部分をはらんでいたとしても、その狭量な国家の利害をはるかに超える大きな狙いを意のままにするには、単独ではなし得ない、ということを示すものだった。こういう考察は、1941年から、1945年に至る年月と同様、今日においても有効なのである。
                    
                                         
                                    (了)

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2009/06/13

Alliance - 22 (つづき)

 第一回会談用のメモを見ながら、トルーマンは議題のリストを作り、まず提案された5ヶ国の外相による諮問会議の創設問題から始めた。これはスターリンの反対を招いた。フランスはその地位に相応しい戦争をしていない、とかれは言った。なぜ中国がヨーロッパの問題に口を出せるのか?
 物怖じせず、トルーマンは、同盟国の間でもっともデリケートな問題の一つを取り上げたーヨーロッパでの自由かつ公正な選挙の問題である。とくに言及したのはルーマニアとブルガリアである。そしてかれは、ローマに新政府を作り国際連合に加盟させるよう、イタリアを再生させるべきである、と示唆した。今度はチャーチルが反対した。そしてスターリンも、東ヨーロッパでヒトラーに味方した国には許容していない優遇措置を、イタリアに許すべきではない、と口を出してきた。
 平仄(ひょうそく)の合わぬ感覚があり、トルーマンは、「真にかけがえがなかった男」の居場所を引き継いでいることを認識した。ルーズベルトが享受した友好関係と善意をいくらかでも受け継げればそれで良い、とだけ思った。チャーチルが温かな態度を示し、スターリンもそれに続いた。
 首相(チャーチル)は、議事にポーランドを追加することを提案した。その尻馬に乗って、スターリンも自分のリストードイツ商船隊と海軍、賠償、ソ連の信託権、旧枢軸諸国との関係、スペインのフランコ政権の交代、タンジール、シリア、レバノンの将来について、ポーランドの西部国境、「在ロンドン[ポーランド]政府の清算問題」、を広げだした。
 外相諮問委員会の質疑が始まった。それは平和会議の予備会談となるのか?スターリンが訊ねた。イエス、トルーマンが答えた。事実、その権能については、1919年のヴェルサイユを思い起こさせるような部分に注意しなくてはならなかった。しかし、ここで議論することは、スターリンにも枠をはめておく意味で有益だった。
 会議は良い雰囲気で終わり、一同はシャンパンとキャビアの待つ隣の部屋に移動した。スティムソンは、「リトル・ボーイ」-日本に落とす原爆ーが、実験済みの「兄と同じく丈夫な子」である、という電文を手にしていた。スティムソンは、この兵器を使用する前に、最後の警告を日本に発したいと考えていた。トルーマンとバーンズは賛成しなかった。大統領が、無条件降伏に固執していたので、原爆使用の確率は日に日に高まっていった。

 サミットの晩餐会を、ビッグスリーが順繰りに主催するという伝統は続いていた。トルーマンは自分の番のとき、ピアニストとバイオリニストを一人ずつ招いた。スターリンは、かれの宴会で楽士たちの数を倍増させた。トルーマンは母親あての手紙で、その夜は「ワーオという感じでした。キャビアとウォッカで始まり、西瓜とシャンパンが締めくくりました。燻製の魚、新鮮な魚介、鹿肉、チキン、鴨、そしてあらゆる種類の野菜が、その間に出てきました。5分ごとに乾杯が繰り返されました。・・・わたしは、あまり食べも飲みもしなかったけれど、豪華絢爛、愉快なひとときでした」、と書き送った。トルーマンは、ソビエトの楽士たちは汚れた顔をしており、二人のバイオリニストの女性は「太り気味」と思った。自身そこそこのピアニストだった。音楽嫌いのチャーチルが、もう帰そうと言ってきたが押しとどめた。首相は、むっつりとブランデーを口にし、葉巻をふかしていた。パーティーが終わって、かれは、自分に打撃を負わせた音楽のことで、ほかの二人と「おあいこにしてみせるぞ」、とリーヒにつぶやいた。
 7月23日、自らの晩餐でRAF(帝国空軍)の軍楽隊を持ち込んでこれをやりとげた。あまりの大音響に、スターリンは立ち上がって、少し静かな曲にして欲しい、と注文した。チャーチルは「偉大なスターリン」に対してグラスを挙げた。ソビエト指導者は、対日本の共同戦争を祝って乾杯した。トルーマンは、サミットの議長などをさせて頂いて、気の小さい人間としては荷が重かった、と言った。真夜中を過ぎて、バンドは三国の国歌を演奏した。同盟の最後の宴会は、午前1時30分に終わったー10時30分にはベッドに入るのを好むトルーマンには遅い時間だった。

        *

 チャーチルとの個人的会談で、スターリンは、選挙では保守党が80%の多数で勝利する、と予言した。首相は、兵士たちの投票行動が読めないと言ったが、独裁者は、軍は強い政府を好む、だからトーリー党に投票するだろう、と答えた。かれは、赤軍が解放した諸国が、強く、独立した主権国家になって欲しい、と穏やかに述べた。「ソビエト化」が起こってはならない。ファシストを除いては、すべての政党に公正な自由選挙が行われなければならない。チャーチルが、ユーゴスラビアに対する不満を繰り返すと、スターリンは、ソ連は何の関心もなく、普段チトーが何をやっているのかもわからない、と言った。かれは、アメリカでのルーマニア問題の批判に「傷ついて」いた。-パーセンテージの協定に立ち戻って、自分はギリシャの情勢については何ら干渉をしていない、と指摘した。
 地図を取って、チャーチルは、ヨーロッパでソ連の手に落ちた首都をたどって線を引いた。ソ連はまるで西方へ転がってくるようだ、と付言した。逆です、スターリンは答えた、4ヶ月以内に200万の動員解除をしますよ。
 チャーチルは、7月24日の全体会議でこのテーマを取り上げ、モスクワの支配で、東ヨーロッパが門戸を閉ざしている、と注意を惹いた。「鉄の垣根」が築かれつつある、と言った。「お伽話だ!」、スターリンは怒った。
 この会議が終わると、トルーマンがテーブルをまわってきた。かれが何をするか知らされていたチャーチルは、じっと見つめていた。大統領は独裁者に、何気ない様子で「わたしたちは、いままでにない破壊力を発揮する新兵器を持っています」、と告げた。
 スターリンは格別の興味を示さなかった、とトルーマンは回想している。かれの表情には何も浮かんでいなかった。かれはただ、ニュースを聞いて喜んでいる、アメリカが「日本にそれをうまく使って」欲しい、と言っただけだった。
 チャーチルは、実験のことを「第二の再臨」とたとえた。スターリンは伝えられたことの重要性を何も理解していないのだ、と思った。かれとトルーマンが離れると、首相は大統領に、「どうでした?」と聞いた。「何も質問はなかったです」、とトルーマンは答えた。バーンズは、原爆の情報が、モスクワに対するワシントンの圧力になることを期待した。そして、満洲から赤軍を追い出すのに役立つだろう。
 おとなしかったのは擬態だった。ここ数ヶ月、スターリンはマンハッタン計画のことを知っていた。ソビエト諜報員の情報で、ベリアは、ニュー・メキシコの爆発のことをかれに伝えていた。トルーマンがこのニュースを明かしたときは知らぬ振りをしよう、と決めていたのだ。その夜、スターリンは、原爆計画担当のモロトフに、トルーマンとの会話の内容を話した。外相は、作業の迅速化を指示したが、スターリンは、かれでは満足な結果は得られないと判断し、ただちに、この計画の責任をベリアの手に委ねた。その間、大統領が帰国の海上にあるとき、この究極の爆弾はヒロシマに落とされた。

 7月25日の朝、トルーマンは立って、胸の前で両手を交差させて、ソ連と英国のリーダーの手を握り写真におさまった。かれはスターリンを見て笑っている。スターリンは白いチュニックで石像のようである。チャーチルがもっとも人間らしい。服はしわくちゃで、顔がピンクに染まっている。
 その日の全体会議はドイツ、ポーランドといったお馴染みの議題で堂々めぐりをした。トルーマンが、条約は上院で承認されなければならない、とほかの二人に念を押すように割り込んだ。したがって、自分がここで何を言っても「国内の政治状況からして、われわれの共通の平和への理念を脅かさずに、結論の受容を押しつけるわけには行かなかった、とわたしが戻ってきてみなさんに報告する結果になる場合も」排除できないのです、と言った。これは、ルーズベルトが持ち込んだ憲法上の問題点だった。しかしトルーマンの発言の率直さは、これを以て警告としたのである。
 チャーチルは、かれの率直さを評価してモランに話した。「これがヤルタで出ていたらね。ちょっと遅かったかな」。午後、かれは選挙の結果を待つため、英国に飛び帰った。
 「戻れると良いと思います」、かれは発つときに言った。
 「アトリー氏の顔つきを見ると、あなたの権威を奪い取ろう、という貪欲さが見られませんね」、とスターリンが返事をした。
 しかし前の晩、チャーチルは自分が白いシーツに覆われて、だれもいない部屋に、死んで寝かされている夢を見た。足が突き出ていた。「多分これで終わりだよ」、かれは医者に伝えた。
 投票は3週間前に終わっていたのだが、外地での将兵の票数を集計するため結果の発表は遅れていた。チャーチルは、その夜、「イギリス国民は、わたしの仕事を続けさせる筈だ」と思いながらベッドに行った、と記録している。夜明けの少し前、刺すような身体の痛みで目が覚めた。そのあと、「われわれは敗ける、というそれまで意識の底にあったものが急にほとばしり、胸中を占領した」。
 また眠りに戻り、午前9時30分に起きた。マップ・ルームへ行って、嬉しくない結果を見た。7月26日の昼食時までには労働党が勝ったことが判明していた。有権者は、1940年のブルドッグは、ルーズベルトの予言どおり、平和時のリーダーにはなれない、と判断し、戦前の保守党時代の統治に対し遅れ気味の裁断をくだしたのだ。クレメンタインは、敗北は不幸中の幸い、と言った。「いまは」、と夫が答えた、「まったく完璧な不幸だよ」。

 パイプ好きな社会主義者、クレメント・アトリーは、前任者と対照的という以上の存在だった。几帳面で、個人的には控え目だった。-選挙期間中は、自家用車で妻と国中をまわった。アトリーの振舞いを見ていると、簡単に過小評価してしまう。カドガンは日記に、新首相は、「自身の印象の薄さで権威を失墜してしまうところがある」と記した。かれは、サミットの当初から英国代表団の一員だった。口数は少なかったが、かれは何が起こっていたかを知っていたし、その遠慮がちな姿勢は、大変な鋼鉄を隠していた。
 イギリス・チームでの大立者はアーネスト・ベヴィンだった。新しい外相は、トーリーのブルドッグに代わる、プロレタリアのマスチフ(英国原産の大型犬)だった。無骨で酒好きのもと労働組合のボスは、ソ連に対する疑念を隠さず、再三、スターリンとモロトフに立ち向かった。労働運動で長年過ごし、共産主義者の動き方はよく勉強していた。しかし、かれの無遠慮な態度は、まずアメリカ側との折り合いを悪くした。ポツダム会談も、各自が同じ議論と反論を繰り返すばかりで、着地点をみつけることができなかった。
 ソビエト側は、ドイツの賠償金の確定数字を出すようせまった。かれらはもとの200億ドルという数字は下げてきた。アメリカ側はどんな数字にも賛成できない、と主張し続けた。イギリスは、自らが抑えているルール地方に及ぼす影響を心配していた。
 スターリンとモロトフは、西ナイセ川をポーランド国境とすることに固執していた。ポーランドの代表団が現われた。フランス人も出席したいと思うに違いないことになった。ルブリン委員会は、サンドイッチとウィスキーで、午前1時30分までイギリス人と協議した。ミコワイチクはハリマンに、赤軍とNKVDがポーランドにとどまるかぎり、本来の選挙は不可能だ、と記したメモを手渡した。
 バーンズは、ドイツ賠償問題とポーランド西部国境問題をからめたパッケージ・ディールを提唱した。国境をモスクワのいうように動かすと、ワルシャワに獲得された地域はドイツに必要な原材料を産出するので、賠償支払いが困難になる、と指摘した。加えて、すでにソ連は大規模な量のドイツの工場を動かしてしまっている。ソ連が賠償金を決めたいと考える真意は、ワシントンがモスクワを満足させるよう、ドイツにおカネをつぎ込まなければならない、ということなのだ。合衆国はそんなことはしない。
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2009/06/12

Alliance - 22 (つづき)

 プラセンシア湾でルーズベルトが利用した重巡洋艦、オーガスタで大西洋を横断しながら、トルーマンは、詳細な説明を受けたり、ポーカーをして過ごした。ある日は、アルミの盆を持って食堂の食事の列に並んだりした。補佐官たちは、かれを非常にビジネスライクと見た。ルーズベルトのまわりくどさとは違っていた。しかし、かれは妻に、「何と嫌な旅だろうか!しかしやらないといけない」と手紙を書いた。
 アントワープに入港し、ブラッセルまで車で移動し、そこから「聖牛」(大統領専用機)でベルリンまで飛んだ。かれは、グリープニッツ湖に面したスタッコ造りの三階建ての家に入った。そこはすぐさま「リトル・ホワイトハウス」と綽名がついた。-その家の建つ通りは、ブラウン・シャツ(ナチ党員)通りとして知られていたが、そのあとカール・マルクス・シュトラッセ、とまた変えられた。建物は手入れされていたが、トルーマンは陰気な造りだと思っていた。大統領記録には、浴室設備がなっていなかった、と記されている。
 その夜、かれが就寝した頃、ニューメキシコ州のアラモゴルドでは、技術者たちが、塔の頂点にある原爆装置の最終点検をしていた。その3日前、日本の天皇は、和平派にモスクワへ赴くよう指示をしていた。しかし、もし米英が無条件降伏に固執するようであれば、最後の最後まで戦う、という警告も発していた。
 サミットでのトルーマンの主な同行者は、新しい国務長官で、ヤルタのベテラン、ジェームズ・バーンズだった。かれは自分自身、トルーマンの地位を狙っていたのだ。雑誌、タイムは、「政治家中の政治家」とかれを評していた。小柄で筋肉質のサウス・カロライナ人は、1944年の選挙で、ルーズベルトの副大統領候補となることを夢みていた。-党大会でルーズベルトはかれを副大統領に指名するつもりだった。しかしかれには民主党左派から強い反対の声が上がり、黒人票を引きつける力もなさそうだった。
 ホワイトハウス入りをして、トルーマンは、ステティニアスをバーンズに代えて、国務長官との間に橋を架けることとした。副大統領が空席なので、国務長官が継承第一順位となる。バーンズは自信に満ちていた。外国問題の経験はなかったが、かれと大統領の波長は同じだった。
 トルーマンはハリマンとボーレンも伴った。しかしモーゲンソーの影響力からは自由になった。ワシントン出発の寸前、大統領は、閣僚からうまく罷免したのである。歴史家のマイケル・ぺシュロスの記録から引用すると、トルーマンはスティムソンに、「心配しなくて良いよ、モーゲンソーも、バルッチも、ユダヤの連中はだれもポツダムに行かないよ」、と告げた。
 チャーチルはフランスで休暇を過ごしてから、空路、ベルリンへ向かった。フランスでは再び絵筆を取った。今回はアトリーを同行させた。かれは、トルーマンの宿舎から2ブロック離れた、シャンデリアと汚いフランス窓のある石造りの家に入った。7月15日の夜到着したチャーチルは、二つのおおきなあじさいの水槽の間に置かれた庭椅子に座り込んだ。疲労で動きたくない様子だった、とモランが記録している。ウィスキー・ソーダをきこしめして、かれは黙って湖をみつめていた。そこにロシア人が、戦傷のドイツ人捕虜を沈めたと伝えられていた。対岸の森から兵士が一人現われ、あたりを眺め回してからまた消えた。夜遅く、森から一発銃声が響いた。

 7月16日、17日には、一連の二国間協議が行われた。カドガンの記録によれば、チャーチルはトルーマンのことを喜んだ、という。「緻密な、才気煥発な態度」、「すばらしい決断力」、と意思の堅さを発見した。アメリカ人(トルーマン)は年上(チャーチル)に即座に好かれた。とはいえ、チャーチルが、英国も日本に派兵して貢献したい、と言うと、かれは態度を保留した。極東はアメリカのショーの舞台にしておき、また原子爆弾を使用するかどうかの決定を自らの自由にしておきたかったのである。
 翌日、チャーチルに会ったスターリンは、日本の和平派が、かれの言葉では、きわめて恐怖感を示している、という話をした。ドイツ軍の規律正しさについても話が交わされた。-「まるで羊のようだ」、グルジア人(スターリン)は感想を述べた。スターリンは、葉巻を吸うことにした、と注意を惹いた。チャーチルは、グルジア人が葉巻を吸っているところが写真に撮られて世界に広がれば、チャーチルのソビエト指導者に対する影響力について「大変なセンセーションを招く」だろう、と答えた。もう少し真面目な話で、チャーチルは、ソ連が海軍力を充実させればとくに大歓迎する、と締めくくった。クレムリンがドイツ艦隊のおおきな分け前を要求してきたことで、かれはこれを後悔することになった。
7月17日正午、スターリンは宿舎を車で出て、トルーマンに会った。かれはリーダーのなかで最後に到着した。旅には、帝政時代の華麗な汽車が博物館から引っ張り出されて使用された。かれを待つ間、ほかの指導者二人は、荒廃したベルリンを見物に行った。
 スターリンは、第一次大戦の司令官、ルーデンドルフが一時所有していた、15室、ベランダ、特別の電気配線、暖房、電話設備のある邸宅に滞在した。いつものように、かれのまわりの警戒体制は厳重で、NKVDの7連隊、900人の身辺護衛が含まれていた。秘密にされていたが、かれはモスクワ出発前、軽い心臓発作に襲われていた。
 机に向かって仕事をしていたトルーマンは、戸口に現われたスターリンを見上げた。かれは、最近昇進した大元帥の位を示す、白のチュニックの軍服に赤の肩章をつけていた。トルーマンは、かれの率直さと丁寧さに感激した。背の高さは同じと見たが、ツエツイーリエンホーフ・パレスの階段で揃って写真を撮るとき、スターリンは一つ段を上がって高く見せようとしていることに気づいた。
 前日のトルーマン=チャーチル会談のことは知らなかったので、スターリンは、英国は対日戦で役目を果たす準備ができていないが、ソ連は、8月半ばには参戦体制に入れる、という話で、英米の分裂を策したが、これは時間の無駄になった。その返事で、トルーマンは、ヤルタで決めた中国に譲歩させることは不変である、と言った。
 お昼は決まっていますか?トルーマンが訊ねた。
 いや、決まってません、独裁者が答えた。
 「よろしければご一緒しませんか」、大統領が言った。
 かれはそうすることにした。食事中の話は取るに足らないものだった。スターリンはトルーマンに、カリフォルニア・ワインのお世辞を言った。そのあとリーダー二人と外相たちは、バルコニーに出て写真を撮った。その日はそれで終わりだった。「スターリンはうまく扱える」、トルーマンは決めた。「かれは率直だ、しかし抜群に抜け目がない」。自らの親分、カンザス・シティのトム・ペンダーガストになぞらえた。かれらが会談しているさなか、ニューメキシコからメッセージが届いた。「ベビー無事出産」。アメリカは核大国となったのだ。

 ツエツイリエンホーフでトルーマンは、ルーズベルトの例を踏襲して議長席についた。それは頂点にあって、かれがかれ自身であることを示すチャンスだった。これまでの首脳外交の期間、かれとバーンズは国際派ではなかったが、ハリマンとボーレンを出席させていることで新しい道造りをして行こう、という意欲を見せていた。
 かれは母親に手紙を書いて、「チャーチルはいつも喋っている。スターリンはわかり切ったことに文句ばかり言って」骨の折れる仕事である、と伝えた。同盟国サミットの最長の期間となってきて、かれはだんだんとチャーチルの饒舌、スターリンの融通のなさに苛立ってきた。妥協点に至らないのであれば解散しよう、と提案するつもりにもなった。
 チャーチルは、気力なく、疲れ、消化不良に悩まされていたが、自国の狡猾な経済的地位を擁護して、トルーマンに、英国は戦後、世界最大の債務国になる、と告げた。ケインズの報告書は、戦時中の外国援助によって、イギリスは年間約20億ポンドの、歳入を超過する過剰支出が可能になっていた、と指摘した。援助が停止されれば破産してしまうのだ。首相には、かれのたとえる「不確実性というハゲ鷹」、選挙が襲かかってくるのである。かれの選挙運動は、偉大なる戦争指導者に焦点を合わせ、自らそのつもりで人々の歓呼に応えていた。しかし、イーデンがいうように、「本当のことを言うと、それはただ[有難う。あなたはうまいこと戦争指導をしてくれた。いつも感謝していますよ。]」というだけのことだった。ルーズベルトが予言していたが、戦争が終われば、チャーチルは過去の人になってしまうのだ。
 ほかの二人のリーダーにはさまれて籐椅子に座ったチャーチルは、最初の集合写真では不機嫌な様子で写っている。イーデンは、作戦中の息子の戦死のニュースで大打撃を受けていたが、「あの男が好きだ」と繰り返すチャーチルは、スターリンに金縛りにあっているように思われた。7月17日の夕食のあと、外相はチャーチルに、「見返りなしに数少ない手持ちのカードを諦めてはいけません」と忠告し、ソビエトの政策は「勢力拡大策」である、というメモを書いた。モスクワの思惑は「日に日に厚かましくなって行くことがはっきりとしてきた」、と結論づけた。
 しかしチャーチルは納得しなかった。かれは鉄のカーテンがおろされつつあること、西欧の主張が強化されなければならないことを認識してはいたが、依然、お互いの相異を埋めるため、独裁者との個人的接触の確立を指向していた。モランは、彼の発言を記録している。「スターリンは、赤軍が解放した諸国では自由選挙をする、とわたしに約束してくれた。きみは疑っているのかね、チャールズ?なぜかね。ロシア人の言うことはよく聞かないと。かれは1200万の兵士を動員して、その半分が戦死か行方不明になっているのだ」。翌日になると、ソビエト人たちは「われわれと同じことを言っている、自由、公正、などなどだ。しかし、優秀な人々は移動させられ、その後姿が見えなくなっている」と言った。のちにモランに告げた。「今度スターリンに聞いてみよう。あなたは世界中を手にいれたいのかね?と」。
 カドガンは日記に、チャーチルは自分の報告書を全然読んでくれない、「何でも邪魔をして、無関係なくだらぬことばかり喋っている」と書いた。嵐がきてイギリスの宿舎の給水設備が壊れ、入浴できなくなったとき、ご機嫌はよくなかった。-またサミット期間中、水の問題で下痢になった。対照的に、この外務官僚(カドガン)は、トルーマンを「敏速でビジネスライク」と見た。-「わたしは議論をしたくはない、決断したいのだ」、とあるとき、大統領は言った。これはスターリンのヤルタでの言葉とそっくりだった。一方、ソビエト指導者は、議論の成り行きを見守り、決して譲歩をしなかったが、寛いだ様子で、ときどき目の前の下敷きに、いたずら書きをして面白がっていた。
 
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2009/06/11

Alliance - 22 旅の終わり

この長い物語もいよいよ最終章となりました。「しめくくり」でもあり、原著の雰囲気がよくわかりますので、分量になりますが、この第22章は「要約」ではなく、「全訳」しました。

 ポツダム
 1945年7月12日ー8月2日
ーソビエト連邦は常に約束を守る、極端な必要に迫られないかぎり。    スターリン

 1945年7月17日、同盟国の最後となったサミットが、ベルリン郊外、バーベルスベルクにほど近いソ連占領地区内の、チューダー様式を模したツエツイーリエンホーフ・パレスの会議室で開かれた。午後5時、宮殿の会議室の別々のドアから、チャーチル、スターリン、トルーマンが現われた。かれらはワイン・レッドのテーブル・クロスのかかった円卓のまわりに、赤いフフラシ天で上部まで詰め物をされた木製の椅子に腰掛けた。前方には、芝生のなかを湖に向かってスロープを描いて建てられた、176室ある建物が見えた。網戸のない窓からは、蚊の群が唸りながら飛び込んできた。庭には、赤軍が赤いゼラニウムで大きな星を象っていた。警護は主に緑の軍帽を被った中央アジアの国境警備隊が担当していた。スマートな制服の婦人交通警官もいて、チャーチルが葉巻の灰を上着に落とし放しにした原因となった、とアンドレイ・グロムイコは語った。
 代表団は、湖のまわりや、森のなかの堅固なヴィラに滞在した。戦争の最後の段階で、ドイツの首都は破壊しつくされたが、バーベルスベルクは比較的痛手を蒙っていなかった。ほとんどの家にはまだグランド・ピアノが置いてあった。

 ヒトラーが自殺し、第三帝国が降伏してから10週間、ビッグスリーの関係はがたついたままだった。サン・フランシスコ会議では、国連行動に関する拒否権第一号として、大国に対して主張される反論は、かりに口頭のものですら抑止されなければならない、とソビエトは主張した。チャーチルは西側が、スターリンに対してより強く出ることを求めた。英国総選挙が近づくにつれて、戦争目的の諸原則が無視されて行くことの危険を認識していた。かれはクレムリンに、会議が、「クリミアで友好的に解決されたものと信じていた事柄が障壁となっている」、と書き送った。
 スターリンにあてて、春にチャーチルは20項目の「気持ちの発露」という書面で、ポーランドと、ユーゴスラビア問題についてのロンドンとモスクワの見解の相異について縷々所見を述べた。ユーゴでは、「チトーが完全な独裁者となり、[そして]自己の主な忠節の対象はソビエト連邦である」と宣言している。共産国家群と英語圏諸国の分裂は、「世界をこまかく引き裂いて」しまう、と警告した。「わが友スターリンよ、どうか、あなたが些少なことだろうと思われる事柄でも、英語圏の民主主義がその生活のシンボルと考える事柄について、あなたがたとの考え方の差異を過小評価しないでください、お願いです」。同時にかれは、英国統合計画局員に、ソ連との仮定の「全面戦争」に関する報告書を準備するよう指示した。「あり得ぬ作戦」の目的は、「ロシアに合衆国と英国の意思を押しつけ」、「ポーランド問題で公明正大な取引」を行うためのものだった。敵対行動は7月1日に開始予定となっていた。イギリスの幕僚長たちは、軍事的に実行不可能としてこれを却下した。
 トルーマンに書簡をしたため、チャーチルは、ソビエト国境に沿った「鉄のカーテン」の比喩の内容を変えた。かれは、「ソビエト指導者が、われわれの兵力が溶解したとき、ヨーロッパ全土で覇権を確立するために時間稼ぎをしているのではないか」と懸念を表明した。アイゼンハワーには、ドイツの航空機を破壊したが「いつか、大変に必要になるときが来る」のではないか、と憂慮を示した。イーデンへのメモでは、米軍撤退が、国内で英軍の動員解除の圧力となる一方、赤軍がバルト海からアドリア海まで、数百個師団を擁している危険に力点を置いた。
 トルーマンがモロトフに予言したように、ワシントンの空気も変化してきた。5月8日のドイツ降伏の4日のち、ソ連に対するレンドリースは中断された。スターリンはこの状況を「不幸なこと、野蛮ですらある」、ときめつけた。しかしこの措置はすぐに撤回され、役所の手違いの所為にされた。ワシントンはスターリンに、その対日参戦計画を取り止めさせたかったが、その理由は説明したくなかった。したがってその計画は、1945年9月までは生きることになった。
 スターリンは、その年のあとになってソ連の復興融資の話を持ち出したが、まだこの問題については話が出なかった。モスクワが、それぞれが影響力を持つその他各国の体制をビッグスリーが承認しよう、と提案したとき、大統領は、ルーマニア、ハンガリー、ブルガリアでは「表現の自由の権利に基づく人々の民主的要素に一致しない政府ができているのを見て、心がかき乱されている」、と返答した。
 しかしトルーマンは、まだそれとは知らずに、チャーチルに一つの衝撃を与えることになった。5月26日、大統領の使者がチェカーズを訪れ、チャーチルと午後11時から午前4時30分まで会談した。トルーマンは適材といえぬ使者を選んでしまったのだ。-それは親ソ、反英の元モスクワ大使、ジョセフ・デーヴィスだったのだ。この人選は、愛想の良いホワイトハウスの報道官、スティーヴ・アーリーの推薦によるもので、アーリーは、デーヴィスが役員をしている会社に入社する予定になっていた。チャーチルがソビエトの勢力が浸透することへの警戒の仕方は、まるでヒトラーの同志といわぬばかりであった、とデーヴィスは言っている。イーデンは、かれのことを「生まれながらの融和主義者、アメリカを紛争に巻き込ませぬためならば、ヨーロッパのすべてをロシアに捧げかねない、多分わが国を除いては」、と短評した。
 デーヴィスは、三巨頭会談にチャーチルが参加する以前に、大統領は、スターリンと二国会談を行いたいとしている、と言った。首相は二国間の取引を懸念した。-トルーマンが自らの優先順位をそれほどはっきり示したことに腹を立てるのみだった。三人が同時に、同じ条件で席に着かぬかぎり、自分はサミットに参加しない、とトルーマンに警告した。5月27日、ホワイトハウスあての長い電報で、ソビエトは徹頭徹尾「かれらが武力解放した犠牲国家すべてに、警察政府の方j法を適用している」、と指摘した。「英国とソビエトロシアは二つの外国勢力にすぎない、というアメリカの考え方に直ちに賛成するわけには行かない。18ヶ国のなかの6ヶ国については、戦争を原因とする紛争が調停されなければならない」、とチャーチルは続けた。「英国と米国が掲げて勝利した、偉大な大義と諸原則は、単にバランス・オブ・パワーをめざしただけのものではない。それは事実上、世界を救済するものなのだ」。
 チャーチルと同じく、トルーマンもアメリカで、ヤルタ以降の出来事に憂慮を深めていた。しかし、世論形成者と幕僚の一部には、依然モスクワの協力が不可欠、と信じるものたちがいた。-有力評論家、ウォルター・リップマンは、大使のハリマンがモスクワを批判する概要報告の席を途中で蹴った。空気を改善するため、トルーマンは、ホプキンスをモスクワに派遣し、スターリンに面談させることにした。ハリマンとボーレンがこのことを伝えにジョージタウンの自宅を訪れたとき、補佐官はやせ衰えてベッドに伏せていた。新大統領はクレムリンと「公明正大な理解」を深めたい、としている、しかしヤルタで決められたことの遂行方法を模索している。補佐官には「米国は、協定以外のことを期待しているわけではないし、そういったことを約束したつもりもないが、ソ連の行動は検証する」と、スターリンにはっきりと伝えて欲しい。論点を明らかにするために、ホプキンスに外交手腕を発揮して貰いたい、野球のバットだろうが何だろうが、適当と思うものを使ってよろしい。ルイーズが夫の看護のために同行した。彼女はソビエトの将軍たちへのヒットとなった。彼女が強制的に貰った贈り物のほとんどすべては、アメリカ側の規定によって返還させられた。
 ハリマン、ボーレンが同席し、10日間にわたり、ホプキンスはスターリンと6回面談した。かれは、トルーマンは世論の支持なく協力を継続して行くことが難しい立場にある、というところから話を始めた。問題の根幹に触れて、一般の関心は「ポーランド問題についてその解決に手をくだせないところの困惑感」にある、と述べた。
 スターリンは丁重だった。-かれはボーレンに一度、ホプキンスは「心から」話をする初めて会ったアメリカ人である、と語ったことがある。しかし、打ち解けた、非公式な趣きのある話し合いの裏にも、かれの態度は固く、テヘランやヤルタで示した弁舌の手管が展開された。一度、かれはこう言った。ソビエト連邦は常に約束を守る。そして一段と声を低めて付言した、「極端な必要に迫られないかぎり」。
 通訳のパブロフは、このあとの方の言葉をすぐには訳さなかった。
 「何かもうちょっとおっしゃったようですよ」とボーレンが言った。パブロフはもぐもぐと、限定句を通訳した。
 スターリンは一連の不満を並べ立てた。アルゼンチンは、ドイツにまったく宣戦布告をしていないのに国連参加が許されていること。レンドリースの一時的中断について。フランスを賠償委員会に加えるべきだ、という主張について。ソ連はドイツ艦隊の3分の1の分配にも預かれそうにない、という見通しについて。ホプキンスはそれぞれに答えた。しかし、肝心のポーランド問題は長引き、6月6日の最終会談まで持ち越されてしまった。
 ホプキンスは、この問題は「ソ連との間で解決できるか、能力が試される象徴的なもの」と言った。かれはアメリカ人が必要と考える自由の諸項目を羅列したースターリンがこれを認めれば協定はできあがる。「それら原則は一般的であり、ソビエト政府としても反論はしない」、とスターリンは答えた。しかしその適用は平時に限る、したがってある種の限定が必要である。ホプキンスは合意が目に見えてきた、と思った。しかし、スターリンの但し書きは、言質を与えていないことを意味する。いずれにしても、いつもどおり、西側はかれに約束を守らせる手段を見出せなかったのである。
 ワルシャワ政府の構成について、スターリンは、18から20名の閣僚中、4、5名は米英の指名する人物に席を与えても良い、と言った。ミコワイチクは、ほかの二人のロンドン在住ポーランド人、5人の非共産主義者とともに、新政府の協議においてその名が挙げられた。ホプキンスがモスクワ訪問後に逮捕された16人の非共産主義者の問題に言及すると、スターリンは硬化した。かれらは国が解放されたとき、赤軍兵士を背中から射殺したのだ、と言った。だからかれらは裁判にかけられるー連合軍は、破壊行為を行った人間を逮捕しなかったのですか?ホプキンスはチャーチルにメッセージを送った。自分は「力のかぎり、これらの人々を獄から解放しようと尽くしました」、しかし、より重要なことはミコワイチクとほかのポーランド人を、モスクワ会談に引き出すことである、とつけ加えた。 
 大国が国際連合のなかで活動する場合の論議においても、拒否権を行使できるようにすべきである、とソ連が固執した問題を提示したことで、補佐官はかなり点数を稼ぐことになった。「これはどういうことだね、モロトフ?」とスターリンが聞いた。外相は、大国はどんなことでも議論の最初からこの権利を持つということですよ、と答えた。「意味ないね」、スターリンは答えた。サン・フランシスコのグロムイコは、妥協せよ、という指示を得た。そして、国連憲章は採択されることになった。それがモスクワの基本条件だったとしても、ルーズベルトの考えと矛盾してはいなかった。かれはこの機構が真の意味で民主的だとは考えていなかった。言い換えれば、小国は列強によって支配される、と考えていたのである。
 またホプキンスは、ソビエトの極東戦争参加の確定日の情報を得たー8月8日ーヤルタの諸条件が確認されるかぎり、この日となる。スターリンは、ソ連は自国の復興に多忙となるので、中国ではアメリカが主役になると見ている、と言った。言葉に表さなかったが、かれの主要目的は、この広大な国家を脆弱な隣人として放置しておきたかったのである。共産主義者に権力を与えることよりも、欠点だらけの国民党体制を永続させた方が、この目的の達成には都合が良さそうだった。
 5月1日の夜、同盟国のお客に、スターリンは最後のクレムリンの宴会を用意した。その前の話し合いの例にならい、それは抑制的なものだった。40人のお客がいたが、ウォッカのボトルは早々に引き上げられた。食後、ホプキンスはまたもや16人のポーランド人の話を持ち出した。スターリンは立場を変えなかった。アメリカ人は降りた。14人が刑務所にいた。何人かは拘禁中に死に、ほかのものは一旦釈放されたあと、再逮捕されたー西に逃げたものもいた。ハリマンは、「ハリーは一番の仕事をやりました」と報告した。しかし、かれは、多分スターリンは失われてしまった大義について、そこに絞ってアメリカ人がかれこれ主張することに当惑しているだろう、と思った。「原則の問題としての自由ポーランド、というわれわれの関心を、スターリンが理解していない、また今後も理解することはないだろう」と思います、とハリマンはワシントンに書き送った。「かれは行動においてとにかくリアリストで、われわれが、抽象的な大義といったものを尊重することは理解できないのだと思います」。
 予期していたことは一応獲得した、と判断して、トルーマンとチャーチルは、7月初め、非共産主義者が加わったあと、ワルシャワの暫定政府を承認した。16人のポーランド人問題の状況を聞いて、ミコワイチクは用心してモスクワへ行き、連立内閣の話をすることにした。チャーチルは、「ドアを開けておくのだよ、チャンスを逃さないように」、と忠告した。クラーク・カーとハリマンに厳しく見守られて、ルブリン指導者たちとの最初の接触はうまく行った。ミコワイチクはワルシャワ新政府の副首相兼農業大臣に就任することになった。しかし、ソビエトを背後にする勢力、またそこを通じてモスクワは、警察と軍を掌握した。米国務省は、のちにルブリン委員会の首領を20年にわたる共産党のスパイである、と断じた。
 回顧録でチャーチルは、それ以上のことをしようとしても難しかった、しかし同時に、「われわれは、自由選挙でポーランド国民が意思の表明ができるよう、現実的な、公平な試みを続けてきた」とはいえる、と書いた。ワルシャワ行きのためモスクワを離れたミコワイチクはハリマンに、成功するチャンスがどれだけのものか、深い疑念を語った。「もうあなたとお会いできないかも知れません」。かれは米国で亡命中に人生を終えた。
 ホプキンスはベルリン経由帰国した。ベルリンで、妻は赤軍将校連と腕を組んで写真におさまった。まわりを囲んで笑っているほかのロシア人たちと同じように幸せそうな夫が写っている。補佐官は、ジューコフ元帥、ヴィシンスキーと昼食をともにした。ヴィシンスキーはソビエト地区の政務を担当していた。元検事(ヴィシンスキー)が、連合国の協力について楽観的な見通しの話を始めると、ホプキンスはコーヒーをすすりながら、ため息をついて答えた。「ルーズベル大統領が生きていて今日を見られないのが残念です。かれなら物事はもっと簡単なのですよ」。
 帰国の空路でボーレンと話しながら、ホプキンスはモスクワとの本当の意味での協力の可能性に疑問があることを口に出した。自由についての見解の相異は凶と出そうだ。しかし依然、目下の最大優先項目は、ドイツ軍国主義の復活を許さないことである、と思っていた。アメリカに戻り、かれは政府の仕事から辞任した。トルーマンは次回サミットへの参加を促したが、かれは断った。「だんだん快方へ向かって行くので、決意は正しかったのだと思います」、とかれはハリマンに書き送った。「わたしは、ニューヨークの婦人服業界の無任所会長の仕事に就きました・・・サラリーはなかなか良く、仕事はきつ過ぎないです。それから一つ本を書くので忙しくなりそうです。そんなこんなでやることは一杯あるのです」。かれはオクスフォードから名誉学位を授与された。トルーマンからは殊勲賞(DSM)を贈られた。これは「全世界を通じての軍事作戦上の計り知れぬ諸問題に対する、類稀なる洞察力」と、「戦争努力に対する私心なき、勇気ある、客観的貢献」に対する「卓越せる価値」を理由とするものだった。夏をメイン州で過ごし、ボーレンにワシントン、モスクワとロンドンの三者関係を促進するものはすべてやらなければならない、と伝えた。そして病院に戻った。
 

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2009/06/10

Alliance - 21 スプリングスに死す

 スエズ運河、ワシントン、ロンドン、ウォーム・スプリングス
 1945年2月13日ー4月12日

 ルーズベルトは巡洋艦、クインシーで帰国の途次、スエズ運河上のビター湖でイブン・サウド王に会った。中東に権益を持つイギリスが神経を尖らせていたが、さきのワシントンでの英米石油協議では、サウディ王国においては米国企業が主要な役割を果たすという協定が成立していた。2月5日にはチャーチルとクインシーで昼食を摂った。チャーチルは、大統領が「静かで、はかなく」見えた。かれを見るのはこれが最後だ。われわれは心をこめて別れを告げた、と記録している。ホプキンスの容態も悪化し、船旅は無理になった。
 米国爆撃機は東京を襲っており、硫黄島では6週間の激戦があった。7700の米兵が戦死し、日本軍はその倍以上が死んだ。北方では、モンゴメリーがブレーメンに迫っていた。赤軍はバルト海とウイーンの双方に達した。
 軍事的な朗報にかかわらず、ヤルタの空気はすぐに消えてしまった。モスクワに向かった、16人のポーランド人の非共産党員が失踪してしまった。ポーランドで破壊的な選挙が行われようとしていることで危険が見えてきた。それはチェンバレンがチェコスバキアを抹消したことの二の舞になる?スターリンはゲームのレベルを上げてきた。サンフランシスコのポーランド代表はルブリン・グループだけで構成する、と言ってきたのだ。ルーズベルトとチャーチルはスターリンに長い抗議電報を送った。
 ポーランド問題で英米は協調したが、軍事的戦略には考え方にギャップがあった。チャーチルは次第に「ソ連は自由世界にとって致命的に危険になる」と懸念を膨らませ、できるだけ新しい戦線を東方に広げ、赤軍のベルリンへの入城競争を阻止すべきだ、という信念を持っていたが、アイゼンハワーはベルリンの分割が決まっている以上、連合軍が首都へ入っても自分たちの地域でなければ撤退せざるを得ない、軍をずっと南のエルベ川方面へ向かわせ、そこで赤軍と邂逅しよう、と主張した。
 戦略論争の最中に、スイスの首都、ベルンで、アメリカOSS(戦略諜報局)長官のアレン・ダレスがドイツと秘密取引をしている、と素っ破抜かれた。これは、西側がヒトラーに対し、全力を挙げて赤軍を攻撃するにまかせる協定をするのではないか、という古くからのソビエトの疑惑を復活させた。モロトフは厳重な抗議の書簡を寄越し、スターリンも、ドイツの敵はロシアだけになってしまった、と書いてきた。ルーズベルトには衝撃を与えた。戦後は、自分の想像していたほど愉快なものではなさそうだ、と認めた。しかし、日本についてはクレムリンは誠実で、4月5日、モロトフは中立条約の終了を日本に通告した。4ヶ月後、百万の兵士がシベリア国境を越えることになった。
 3月23日の閣議のあと、ルーズベルトは倒れた。ウォーム・スプリングスの山荘で休養をとることにした。秘書のルーシー・ラザファード、従姉妹のマーガレット・サックリー、ポーリー・デラノ、そしてかれの肖像画を書いていた男勝りのロシア系の画家が集まっていた。モーゲンソーが訪ねてきて、ドイツ問題でくどくどと喋った。大統領は、100%きみに賛成、と言った。モーゲンソーが帰ると嬉しそうだった。
 翌4月12日、目覚めたとき、ルーズベルトは頭痛と寝違いを感じた。1時15分、画家に肖像を書かせていたルーズベルトは前のめりになって、何か探しているような格好をした。デイジー(サックリー)が、煙草を探しているの?と聞いた。「頭のうしろがものすごく痛いんだ」。医者が呼ばれた。患者は脳出血を起こしていた。午後3時55分、フランクリン・ルーズベルトは死亡した。翌日、その名は、アメリカ人戦没者のリストに載せられた。 
 ホワイトハウスの葬儀は4月14日午後4時に行われた。ハイドパークで、庭園の墓に柩が沈められた。喇叭手が吹奏した。ウェスト・ポイントの士官候補生がライフルで3回、斉射した。ファラがそのたびに吠えた。 
 重慶では、蒋介石が「ルーズベルトはときどき共産主義者を甘やかせたが、防ぐこともしていた」、と言った。パリでは、ド・ゴールが国民の服喪週間を決め、トルーマンに弔電を打った。ベルリンでは、ヒトラーが「永遠の一大戦争犯罪人の運命が果てた」と言った。東京のラジオは、「偉大な人材の喪失」とアナウンスした。
 新大統領、ハリー・トルーマンは、もともと小間物商人で、カンザスシティの親玉、トム・ペンダーガストの徒党で名を挙げ、上院の選挙に勝ち、酒とポーカー好きの陽気な議員仲間に入っていた。大統領となったとき、「月と星とすべての惑星が、わたしに降りかかってきたような気分」だった、と話している。第一次大戦のとき、フランスで軍務についたが、それ以外海外に出たことはなく、外交は全く未経験だった。ホワイトハウスの葬儀の翌日、ホプキンスと2時間話をした。一層青ざめ、細くなった補佐官は、ほかの二人のリーダーの印象を語った。自分はやめるつもり、と告げたが、トルーマンは、健康の許す限りやめないで欲しい、と頼んだ。初めて秘密文書に目を通したトルーマンは、スターリンのメッセージに潜む敵対的な感覚に驚いた。ワシントンでは度重なる会議が開かれたが、姿勢は強硬になりつつあった。とくにハリマンが厳しかった。あたかもルーズベルトの死が、自由な発言を解禁したような形になった。海軍長官のジェームズ・フォレスタルは、ソ連とのイデオロギーの戦いに警告を発した。 
 モロトフがやってきた。トルーマンは、ルーズベルトとヤルタで協定したモスクワの対日参戦を支持する、と述べた。合衆国は、ポーランドについて、できるだけのことをすると発言したが、米国世論の重要性も強調した。ポーランドでは協定が成立した、あとはスターリン元帥がその言葉どおり実行されることだけが残っている、と続けた。声音が高くなっていた。「わたしは生涯で、そのような話し方をされたことがない」、モロトフは抗議した。かれが極東問題に転じようとすると、「それで全部です。どうかわたしの見解を元帥にお取次ぎください」、とトルーマンはさえぎった。モロトフはスターリンに、ルーズベルトの政策は破棄された、と伝えた。その日、トルーマンははじめて原子爆弾の概要説明を受けた。3日後ドイツで、米軍と赤軍はソ連占領地区で初めて顔を合わせた。協定どおり、祝賀行事のあと米軍は引き揚げた。
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2009/06/09

Alliance - 20 (つづき)

Ⅸ 2月10日
 夕刻、ルーズベルトはスターリンと会い、秘密協定の確認をした。ソ連はドイツ敗北後、2-3ヶ月後に極東の戦争に参加する。見返りに、外蒙古の継続支配、樺太、千島諸島の返還、鉄道の中ソ共同運営を含む満洲の租借、大連の国際管理、旅順港の海軍基地保有が認めれらる。同様にクレムリンは蒋介石と、かれを政府首班と認め、満洲に対する中国の主権を認める協定に署名する。
 ルーズベルトがその同意を取ると約束した蒋介石は、その後4ヶ月、正式な伝達を受けていなかった。最終的にそれを知らされたとき、総統は、日記に、「深く傷ついただけでなく、中国国民は・・絶対絶命の窮地に追い込まれた」、と書いた。
 ポーランド問題で、イーデンは、幅広い民主的基盤のもとに暫定政府を再編する、という草案を読み上げた。草案は国境問題に全く触れていなかった。チャーチルはポーランドの拡張を西側のどこで止めるかを問題にした。スターリンの提案したラインでは人口移動の規模が大きくなり過ぎる。ポーランドは「西方において相当規模の領土を継承する、ただし最終的な国境確定は戦後の平和会議を待つ」というイギリス案をスターリンは了承した。
 ドイツの賠償問題になった。チャーチルは戦時内閣から数字の議論はしないよう伝えられていた。スターリンは、戦費は200億ドルで、モスクワはその半分を取る、と言った。チャーチルは、それはドイツの支払能力を超える。ソ連の100億ドルの要請には反対する、という議事録を作り、賠償委員会に報告する、ということになった。ルーズベルトが、エジプトのファルーク王、エチオピアのハイレ・セラシェ皇帝、サウジアラビアのイブン・サウド王に会うため中座する、と言ったとき、チャーチルは一旦引き止めた。「フランクリン、いま大事な話だから行っちゃ駄目ですよ」。チャーチルは大統領が中東におけるイギリスの地位を浸食しようとしているのではないか、と気にかかった。のち三人の君主には、自分自身との面談を準備するようメッセージを送った。

Ⅹ 2月11日
朝食のとき、チャーチルは主治医のモランに、ルーズベルトの体調が非常に悪いようにみえる、と話をした。医者は、ルーズベルトが理解力を失っているようにみえる、と述べた。「連合軍は、ドイツの軍国主義とナチズムを打倒し、二度と世界平和を撹乱することがないことを保証する」という確固たる目的が、ビッグスリーのコミュニケにうたわれた。ドイツは無条件降伏が課される、武装解除される、軍事目的に使用されたすべての工場は移転ないし破壊される、戦争犯罪人は速やかに法廷に引き出される・・連合軍は占領地区を各々確保し、フランスにも一つが与えられる。大西洋憲章を想い起して、解放された国々は、「自らの政府の形態を選択する全ての人々の権利、及び主権と自治の回復」にその基礎を置かなければならない、と宣言された。モロトフは、スターリンに、これは内政干渉を招く、と注意したがスターリンは取り合わなかった。自由選挙で共産主義者が勝利する、と信じているのだ、とハリマンは思った。声明はほかの部分で、4月25日にサンフランシスコで国際連合の総会を開催することを決めていた。
 ヤルタ会談は悪評の的になった。とくに招かれなかったフランスが、ビッグスリーがヨーロッパを切り分け、冷戦の基礎を築いた、と酷評した。のちにマッカーシー一派のルーズベルトに対する告発状の主要項目となり、共和党からは秘密の売国行為と弾劾された。半世紀のち、ジョージ・W・ブッシュは、「ミュンヘンは繰り返さない、ヤルタは繰り返さない」、と宣言した。中国問題での取引は、1949年、共産主義者が中国を制覇するまではだれも問題にしなかった。しかしこのとき、4人目の警察官が失われたことで、ヤルタの取引は非難を浴びることになった。参加した各国はそれなりに満足感があったとしても、西側にとって、それが錯覚であったことがやがて明らかになる。
 ソ連は大きく領土を広げ、西方の国境で奥深い安全地帯を確保した。それはヒトラーから得たもの以上であり、バルト海からアドリア海までを思いのままにするものだった。極東でも欲しいものを手に入れた。国際連合の票決に関する協定は、モスクワに対して敵対行動が取れないことを保証した。スターリンに敵対するということは、同盟の連携が粉砕されること、アメリカの世論が世界に背を向けるという二つのリスクを冒すことになる。ジョージ・ケナンは、クレムリンと取引すべきではない、と主張したが、3年の同盟関係を経て、受け入れられるものではなかった。ワシントンの支配層は、モスクワの協力なくして戦争は終わらない、と信じていた。アンクル・ジョーとその体制の本質を認めることは、ルーズベルトが手元に切り札を持っていなかったことの証(あかし)でもある。1千万もの強力なソビエト軍に対抗できる軍隊はヨーロッパに存在していなかった。有権者は戦争の終わる日を心待ちにしており、ルーズベルトは世界に新体制を齎(もたら)す夢の実現に、自らの時間があまり残されていないことを知っていた。
 
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2009/06/08

Alliance - 20 (つづき)

Ⅵ 2月7日
 全体会議はスターリンの要望で国際機構の話から始まった。モロトフは安全保障委員会の票決についてアメリカ案を了承する、と述べた。総会について、ソ連邦内の共和国16の追加議席を要求するモスクワ案に対し、ルーズベルトは合衆国の全州、48の議席を貰うと言った。ソ連の共和国は外交権限を持たない、1942年の連合国共同宣言に署名していない、などの反論が用意されていた。チャーチルは英国自治領とインドに総会議席を持たせたいと思っていたので、この問題では狡猾に立ち回った。外相会議では、白ロシア〔ベラルーシ)とウクライナの二議席の追加が合意された。ルーズベルトは票決問題で蒋介石の了解を電信で取っておくようステテニアスに指示をした。
 ポーランド問題について、モロトフはルブリン・グループと連絡が取れないので、ヤルタには呼べない、という戦術を取った。今後、モスクワでクラーク・カー(英国大使)、ハリマン(米国大使)とモロトフで協議するのがよかろう。

Ⅶ 2月8日
 午後、スターリンはルーズベルトを訪ねた。ルーズベルトは自室で、娘と昼食を済ませたところだった。話は極東問題となった。ルーズベルトは、日本との戦争はドイツ敗北後、1年くらいは続くだろうと思っていた。東京が空爆で降参することを期待していたが、日本人は最後まで戦う決意のようだった。しかしアジアで赤軍が活動することも大いに心配ではあった。
 スターリンは自らの条件を開陳した。千島列島と南樺太、満洲における鉄道に対する帝政時代の権利回復、その鉄路の終点である大連港、を要求した。鉄道の譲渡なくして「なぜロシアが日本との戦争に参加したのか、国民に説明できない」。
 本会議ではまたポーランドが討議された。チャーチルはルブリン委員会が代表権を持っているとは認めがたい、ロンドンの政府を無視すれば国際的抗議を喚び海外在住ポーランド人の一致した反対に会うだろうと述べた。スターリンはこれら意見を聞き流した。

Ⅷ 2月9日
 午後4時、リバディアの中庭で三人は写真を撮った。チャーチルがロシアの毛皮帽を被っていたことが笑いを誘った。カメラマンはロバート・ホプキンスである。テヘランで顔を合わせたことのあるスターリンはロバートを手招きした。「きみのやりたいことは?」と聞いた。「ベルリンでアメリカ人写真家として一番乗りしたいです」、と答えた。しかし米軍はまだ街から遠いですよね。赤軍といっしょになったらどうかね、スターリンは言った。そんなことできるんですか?「わたしの方の手続きはわたしがやる」、スターリンは請合った。握手をして戻り、父親の寝室に行ってニュースを伝えると、ホプキンスは反対した。戦場には行けても写真は禁じられるだろう、それが出来ても写真は持ち帰れないだろう。ロバートはスターリンンに伝えた。かれは肩をすくめた。
 全体会議でモロトフは、「現在のポーランド暫定政府は国内及び海外在住のものを含む、幅広い民主的基盤の上に再編成すべきである」という新しい言葉による提案を行った。ルーズベルトはこれでかれらは合意する、と言った。ポーランド人が自由に行動できることを、アメリカのポーランド人有権者に保証する必要がある。チャーチルはそこに監視者が必要である、と言い、ギリシャではソビエトの監視者を歓迎する、とつけ加えた。代償を払わされることを回避して、スターリンはギリシャではイギリスを完全に信頼している、と言った。ミコワイチクの復帰は認められますか?チャーチルが訊ねた。かれは非ファシスト政党に所属したので選挙に参加できます、とスターリンは答えた。

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2009/06/07

Alliance - 20 (つづき)

Ⅲ 2月4日
 2月4日朝、列車で到着したスターリンは、チャーチルとルーズベルトを別々に訪問した。チャーチルには、ソ連軍がオーデル川を越えて橋頭堡を確保したことを伝えた。そこはもうベルリンに80キロの地点だった。
 ルーズベルトはリバディア・パレスのエントランス・ホールの次の間でスターリンのためにマルティ二を作った。レモンの皮のないことを詫びたが、翌朝、アメリカ人たちはグルジアから空輸された、200個の実をつけた巨大なレモンの木をドアの傍に発見した。スターリンはチャーチルにした同じ話をしたが、厳しい戦闘で赤軍も立ち往生している、とつけ加えた。ルーズベルトは、アイゼンハワーは3月まではラインを渡河しないだろう、と言った。
 ビッグスリーの軍人も加えた第1会合で、スターリンは、赤軍は連合軍の一員としての義務を越えて、アルデンヌの攻勢で打撃を受けた英米軍救済のため、計画以上の速度で前進する、と述べた。ロシア側が、ドイツの輸送路をもっと空爆するよう要請すると、英米は、ベルリン、ライプチッヒ、ドレスデン空襲の増強を約束した。
 サミットの最初の晩餐はアメリカが主催した。ルーズベルトとチャーチルがおたがいの電信連絡のなかで、ソビエト指導者のことを「アンクル・ジョー」と呼んでいると、ルーズベルトが披露すると、気まずい雰囲気となった。テヘランでこの綽名を口にしたときには拒絶反応はなかった。国家動員局長、ジェームズ・バーンズがこの場を救った。「アンクル・サムと言ってもだれも何とも思わないのに、アンクル・ジョーはどうしていけないのですかね?」スターリンは沈黙した。モロトフが後刻、ボスがジョークを理解した、と告げた・

Ⅳ 2月5日
 毎日、リーダーたちは午後4時から3、4時間顔を会わせた。司令官たちは午前中会議をした。外相たちは昼食で集まったが、乾杯の応酬で議論が遅れた。きちんとした議題があるわけではなかった。問題は取り上げられたり、落とされたり、延期されたりした。これがルーズベルト風というもので、問題を沸騰点の前に消して行く効果がある。国務省は詳しい「閻魔帳」を用意していたが、ルーズベルトがこれに目を通していないことは明らかだった。スターリンはほかの二人が何を考えているか、英国のスパイ網と、ワシントンの「もぐら」たちによって、よく知らされていた。
 ドイツ問題では、ルーズベルトがテヘランで描いたように五つに分けるか、チャーチルがモスクワ訪問で主張した、プロシア、オーストリア=バヴァリア連邦、ルール及びウェストファリアの国際管理地域の三つとするか、議論されたが結論は出ず、軍事情勢にまかされる形となった。パリは、ドイツを押さえる役目を果たさなければならない、とチャーチルは述べた。「大統領のご意見は?」とスターリンが訊ねた。「平和について国民と議会に協力して貰わなければなりませんが、ヨーロッパに軍隊を長くおくわけには行きません。精々2年でしょう」。スターリンは、フランス人には助けて貰うとしても、管理面で機能することには反対した。
 モーゲンソー・プランはお蔵入りになったが、スターリンはマイスキーに厳格な賠償案の作成を命じた。重工業の80%となる工場、機械、在庫品は2年以内に移送される。現金賠償は10年で支払う。航空機を含む武器製造工場はすべて国外へ移す。チャーチルは第1次大戦後の賠償問題を想い起した。車を動かすのに馬を使うのであれば、少なくとも餌は与える必要があります、と言うと、スターリンは、そうです、しかし馬が振り向いて、蹴飛ばされることのないように注意をしなければなりません、と答えた。

Ⅴ 2月6日
 この日の議題はルーズベルトが力をいれる世界機構問題だった。ワシントンが2ヶ月前にあらかじめ送っておいた安全保障委員会の決議手続案をスターリンが全然呼んでいなかったことにアメリカ・チームは驚いた。機構が英米中ソに対抗する行動を取っても、拒否権のシステムが、実質的にその行動を無力化する、ということをチャーチルはスターリンに請合った。「もっと障害物が作れませんか?」とスターリンが聞いた。列強の間の信頼関係が違ってきたのです、とルーズベルトが答えた。「世界中の圧倒的多数の人々の善意が支配する平和」が前提とする趣旨、とルーズベルトが説明すると、スターリンは、新しい機構がソ連の防壁の一部の機能を果たし、モスクワに対する西側の反発の道具とならない保証が欲しい、と言った。ルーズベルトはいま返事はしないことが得策と判断し、もっと研究すると述べ、よりデリケートな問題、ポーランドに移った。
 スターリンはポーランドの安全保障はソ連の生死に関わる問題である、と強調した。そして自国がポーランドと取り決めた新しい国境は、第1次大戦後英仏によって唱導されたものであることを指摘した。ルブリン委員会は少なくともド・ゴールと同じ程度の民主的基盤を持っている。赤軍はドイツの後方に安全地域を確保する必要がある。しかし、ロンドンのポーランド人の一味が赤軍を攻撃している。会議は24時間延期された。
 ルーズベルトはチャーチルと協議した。ルブリンから代表2名、他のポーランド人グループから2、3名をヤルタに呼び、自由選挙の準備をする共同暫定政府設置の協議をさせたらどうか?と提案した。ポーランド問題で不協和音が表に出ると、米国世論がモスクワとの協力関係に否定的に転じ、国際連合構想を危殆にさらす危険があった。ルーズベルトは同盟の断層線に手をかけた。
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2009/06/06

Alliance - 20 ヤルタ

 マルタ、クリミア
 1945年1月30日ー2月15日
ーそれがわたしのできるベストのことだ。   ルーズベルト


Ⅰ 到 着
 2月2日午前、ルーズベルトの乗艦した重巡洋艦、クウィンシーが、マルタ島のヴァレッタに入港した。スピットファイアが空に舞い、英国軍楽隊が「スター・スパングルド・バナー(米国国家)」を演奏した。イギリス巡洋艦、オリオンが通り過ぎるとき、ルーズベルトは艦上のチャーチルをみつけた。リーダー二人はたがいに手を振った。
 二人の到着前、二国の幕僚長たちは戦争計画会議を数度開催していた。ライン川進撃の日程が討議され、勝利の日付を6月20日とすることが合意されたが、ソ連が4月中旬に早めることも考えられた。イギリスは日程を早めようとしたが、アメリカはより広汎な戦線からの接近を主張し激論となった。
 ルーズベルトはマルタでのイギリスとの会談にあまり積極的ではなかった。チャーチルはサミットでの議案、日程を予め米英で決めておきたかったのだが、ルーズベルトはそれを回避した。イーデンは、ルーズベルトがイギリスの頭越しにスターリンと決める場面がないか懸念した。ルーズベルトは、ほかの連中と同じように、スターリンを出し抜けると思っていた。ヤルタで、かれはスターリンの国際連合に関する同意と、極東におけるソ連参戦の確約を望んでいた。
 スターリンがヤルタにやってきた目的ははっきりしていた。ロシアを列強の一員と位置づけることの証明と、ドイツからみたび攻撃を受けないことの保証のため、東欧で赤軍が征服した地域を安全保障地帯として維持することの確認である。
 しかし同盟国のなかで英国の国力は最低であり、アメリカ人もロシア人も、将来は自分たちの帆に順風が吹くと感じていた。チャーチルは自分の持ち物にしがみつく「過去の人」という様相にあった。

Ⅱ 2月2-3日
 2月2日の夜、25機の飛行機が、700人に及ぶ米英人を乗せて、地中海、エーゲ海、黒海の上空を越えてクリミア半島のサキ飛行場に到着した。ルーズベルトは衰弱して、病人に見えた。飛行場からヤルタまで128キロの渓谷、山道のドライブがあった。ルーズベルトは破壊された建物、燃え尽きた列車や残骸となった戦車など、戦争の惨禍を初めて目にした。チェホフとの連想で有名な保養地のヤルタは、ドイツ軍が撤退する前の戦闘で徹底的な被害を蒙った。NKVDの4個連隊がこの街を警備し、高射砲陣地が設置され、160機の戦闘機が配備されていた。
 ルーズベルト一行は、リバディア・パレスに陣取った。以前の皇帝たちのサマーハウスで、マーク・トウェインが訪れたこともある。ルーズベルトは1階のスウィート、ルーズベルトとハリマンの娘たち、カトリーンとアンナは相部屋に入った。マーシャルは皇帝の寝室、キング提督は皇后の部屋を占領した。アンナは部屋で南京虫をみつけた。
 イギリス人は、海岸を下った皇太子用のゴシックとモロッコの混合風の建物に入った。サラ・チャーチルは母親に、「-朝7時半ころに寝室の脇の廊下を見ると、三人の元帥が一杯のバケツの水に行列を作っているのです・・」と手紙に書いた。ここでも南京虫が出没した。
 スターリンは、ラスプーチンを暗殺した男が所有していたヴィラに落ち着いた。本格的な庭園のなかに建物があり、邸の部屋数は20くらいだった。これら三つの邸のうしろには雪を頂いた山々が聳えており風を防いでいた。黒海が前方に広がり、街は、林、葡萄畑、果樹園、砂利浜に囲まれていた。
 朝、昼、晩とキャビアが出た。写真班として同行したホプキンスの息子は、何とかパントマイムで、朝食に卵料理を好むということを伝えることができた。翌朝、1ダースの目玉焼きが届けられ、キャビアが一皿添えられていた。
 
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2009/06/05

Alliance - 19 赤いブルース

 ロンドン、ワシントン、モスクワ、アテネ、パリ、重慶
 1944年11月ー1945年1月
ーこの前のときと同じように,全ては、すぐばらばらになるだろう。   チャーチル


 太平洋はうまく進んでいた。米軍はフィリピンを奪回し、日本海軍はレイテ湾でまた敗北した。ルーズベルトの健康悪化は、自分の生命と戦後の構想造りとどちらが早いか、という様相を呈してきた。
 ロンドン在住ポーランド人の超タカ派、スターリンの冷酷さ、西側の支持の欠如の狭間にあって、ミコワイチクは辞職した。その秋、モスクワの米大使館代理大使、ジョージ・ケナンが書いたように、ソ連は中欧、東欧で抜きん出た力をつけ、西側が「協力」と呼んだ曖昧な政策をとり始めた。ケナンは、古風な言い方で「第一にテイキング、第二にギビングである」と言った。「ロシアがそれをやろう、と思ったら、だれもかれらのテイキングを止められない、それをやらない、と決めたら、だれもかれらのギビングを押しつけられない」。しかし、あるときスターリンはギビングを行った。精強なギリシャ共産軍が、ロンドンが支持する政府から権力奪取を試みたとき、モスクワは援助を当てにするな、と通告した。ギリシャはソ連にとって限界部分であり、ルーマニアに支配権が認められるかぎり、ギリシャ共産党を犠牲にしても構わなかった。アテネでは市街戦がはじまり、左翼勢力が浸透した。イギリスはイタリアから増援部隊を送った。共産主義を阻むため西側が戦った唯一の出来事となった。チャーチルが巡洋艦、アジャックスに乗って現地に赴き、アテネ大主教、ゲオルギス・パパンドレウ首相、エラス共産党代表を一堂に集めて騒擾を調停した。
 こういった事態は、アメリカの姿勢とはほど遠いものだった。イギリスの帝国主義傾向、チャーチルの好戦性、勢力圏という概念、これらの過去の懸念が復活した。新しいアメリカの国務長官、ステティニアスはイーデンに、ポーランドとギリシャの問題が合衆国国民を憤慨させている、と告げた。12月、ドイツ軍25万がアルデンヌで大反撃を開始した。連合軍はライン方面への移動に遅れていた。クリスマスになってドイツへ向かっての進軍が再開した。東部では、赤軍は着実にドイツ国境に向かっていた。
 ド・ゴールは1960年代末まで、自身が続けた政策のとおり、ワシントンとモスクワの間で独自の勢力を維持するつもりだった。かれはドイツで占領地区を手に入れ、有利な国境を獲得する土台も得た。西部戦線の最後の戦闘に、仏軍8個師団が軍備をして参加することも合意された。年末、かれはモスクワを訪れた。戦後、ヨーロッパの小国は、ソ連の支配を避けるため、またフランスのまわりに集まってくるだろう、イギリスは島国だし、アメリカは遠い、と思っていた。示された友好条約案は気に障るものだった。一旦蹴ったド・ゴールは二度目の案に署名した。
 1945年1月、ポーランドでは、資産分割、土地の分配で農民の支持を得たため、ルブリン委員会が自らを暫定政府と宣言した。スターリンは即座にこれを承認した。国境変更で、ソ連は約18万平方キロの領土と1千万の人口を新たにポーランドから獲得し、ポーランドは面積約7万平方キロ、人口1千5百万の人口の地域を得た。圧倒的多数はドイツ人であり、その多くは西へ逃れた。ヨーロッパが経験した最大級の人口移動だった。
 モスクワは、バルト三国を併合し、フィンランドを奴隷状態においた。ブルガリア、ルーマニアはソ連圏に入り、ハンガリー、チェコスロバキアも危うかった。チトーはユーゴスラビアをまとめつつあり、アルバニアも解放戦線が権力を握った。オーストリアでは、テヘランで決まった中立が守られた。ドイツとの併合を大歓迎した国、というよりも、ヒトラーの最初の犠牲者という形で扱われることになった。
 ルーズベルトは、戦闘が終了次第、できるだけ早く兵士を復員させるという方針だった。チャーチルは、米軍が撤退して、フランスがまだまともな軍隊を編成していないで、ロシアの鼻先でだれが西ドイツを守るのですか?と疑問を呈した。「前回と同じように、すべてがばらばらになるでしょう」。クレムリンと波風を立てない、これがルーズベルトの望みだった。
 ダンバートン・オークスでは結論が出ぬまま終了した。グロムイコは、紛争問題の決定における全員一致の原則に固執した。米国務省は、全員一致原則はクレムリンの軍門に降ることだ、と警告した。ステティニアスは、早期の結論の必要性を強調した。この緊張と先行き不透明の空気が明らかに、次のビッグスリー・サミットを必要とさせた。地中海、エルサレム、と場所の候補が上がったが、飛行機嫌いのスターリンはクリミア半島にこだわった。それはビッグスリーとしては二度目の会談だったが、最後のものとなった。背後には、冷たい戦争の輪郭がかなりはっきりしてきた現実があった・
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2009/06/04

Alliance - 18 パーセンテージ

 モスクワ
 1944年10月9-18日
ー合衆国は自分の権利ばかり主張し過ぎる。   スターリン


 1944年10月9日深夜、チャーチルはクレムリンにいて、よからぬことを企んでいた。暗号名、トルストイと名づけたスターリンとの二国会談に臨んでいたのである。かれは、戦後も英国は地中海のリーダーにならなければならない、という信念を持っており、スターリンもこのことは認めていた。アメリカ人の反感を買わぬため、あからさまに、「勢力圏の分割」という言葉は使わないものの、イーデン、モロトフを交え、東欧、バルカンでの対ソ、力関係のバランスをパーセンテージで示す交渉を行っていた。
 ルーマニアはソ連90%、ギリシャは英国90%、あたりは双方で問題がなかったが、チャーチルがブルガリアにロシア、75、ハンガリー5分5分と書いた紙をみせると、スターリンは、少し吟味してから青鉛筆でチェックマークをつけて戻した。チャーチルは受け取らず長い沈黙が続いた。チャーチルが口を開いた。「何百万もの人々の運命をこんなに無雑作に決めてしまっていいでしょうかね?燃やしましょうか?」「いや持っていてください」、スターリンは答えた。問題は、イーデンとモロトフに乗っ取られた。ユーゴ、ハンガリー、ブルガリアをめぐって際限のないパーセンテージの話が続いた。
 米大使のハリマンは、クレムリンの夕食会で、チャーチルの思惑に気づいた。10月12日午前、チャーチルを訪れたが、かれはベッドでスターリンあてに手紙を書いているところだった。チャーチルが内容を読み上げると、ハリマンは、その構想にルーズベルトは確実に異議をとなえるだろう、と発言した。イーデンが入ってきた。イーデンはパーセンテージが書かれてはならない、と言った。
 ワルシャワ蜂起は1週間前にドイツ軍に降伏して終わった。チャーチルはこの機会にポーランド問題も解決しようと、ミコワイチクをモスクワへ呼んだ。ソ連政府の迎賓館でミコワイチク一行は、スターリン、モロトフ、チャーチル、イーデン、ハリマンと会った。ミコワイチクは、ロンドンにある内閣は、戦前の領域を回復し、東欧における原料供給と文化のセンターにならねばならない、と主張した。ルブリン・グループを意識して、自分の目的は「ポーランドとロシアの協定の作成であり、ロシアと外国人の影響下にある一握りのポーランド人との協定の作成ではない」と言った。
 カーゾン・ラインがテヘランにおける既定事実として押し付けられた。ルーズベルトと会ったとき、ルーズベルトがこのラインを支持しない、と自分に話していたことを想い起こして、ミコワイチクはチャーチルとハリマンを見た。モロトフを否定して貰いたかったのだ。ハリマンは下を向いた、チャーチルが静かに、「わたしがそれを確認します」、と言った。「あなたがたはテヘランでわたしたちの運命を決めた」、ポーランドのリーダーは反抗した。「ポーランドはテヘランで救われたのです」、チャーチルが答えた。
 10月11日、イギリス大使館でスターリンが夕食を共にしたことは、英国の社交的大成功だった。晩餐は英国式だった。スターリンが、どうしてもわからないのは、西洋人はなぜウィスキーを水で薄めて飲むのか、ということだった。チャーチルは「われわれ三大民主国家が、自由、人間の尊厳、そして幸福という高邁な理想を実現したのだ」と話をした。ソ連とポーランドの良い雰囲気を重要視するのはそのためである。ポーランドはカソリック国であることを考えれば、ヴァチカンとの関係が紛糾しないような状況が必要である、と付言した。スターリンが質問した。「ローマ法王は何個師団お持ちですかね?」
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2009/06/03

Alliance ‐17 計 画

 ワシントン、ケベック
 1944年9月12-16日
ーその辺のところは全然憶えていない。   ルーズベルト


 1934年以来の財務長官、ヘンリー・モーゲンソーは、大学教授のような風貌で53歳、人望はなく、偏頭痛に悩まされていた。あだ名は「ザ・モーグ(調査部)」、ルーズベルトからは「おカネのことを知らない唯一のユダヤ人」とコメントされていた。かれは年上のハルやスティムソンの上に立とうと、つねに野心を燃やしており、同じユダヤ人の、ハリー・デクスター・ホワイトという有能な補佐官を重用していた。ホワイトはヴァイトという苗字のリトアニア難民の息子で、モーゲンソーは知らなかったが、ソ連のスパイだった。1944年7月、ニューハンプシャーのブレトンウッズで開かれた戦後の国際金融システムを形づくる国際通貨基金と国際復興銀行創立の会議で、ホワイトの率いるアメリカ・チームはジョン・メイナード・ケインズが代表するイギリス・チームを圧倒した。
 ルーズベルトはドイツ処遇問題については、ホプキンスを議長とするモーゲンソー、スティムソン、ハルの四人委員会を作って、そこに丸投げした。ルーズベルト政権では国務、財務、国防など主要省庁の対立が日常茶飯だった。ホプキンスもモーゲンソーを嫌っていた。四人委員会ではしばしば激論が戦われ、おたがいにファースト・ネームで呼び合うこともやめて、肩書きで呼ぶような場面もあった。
 モーゲンソーのプラン(計画)は、ドイツのすべての工場と設備を解体し、賠償として西側諸国に移送する。ドイツ人は国外で強制労働に服する。小学校より上級の教育機関は「一定期間」閉鎖する。ドイツの貿易と資本流入は、20年間戦勝国が管理する。東プロシアはソ連とポーランドで分割する。ザール地方はフランスに所属する。ルール地方は国際管理とする。残りのドイツは二つに分割される。グライダー含め航空機保有、軍服着用、行進は禁止するなどなどとすさまじいものだった。スティムソンは反対、ハルも国務省の縄張りに財務省が踏み込んでくることを警戒した。
 オクタゴンと名づけられた英米サミットがケベックで開かれた。このときだけ、両首脳はたがいに妻を伴った。チャーチル夫人は国内で厳しい配給対象になっているナイロン・ストッキングを購入した。チャーチルは、ヒトラー打倒のあとの英国に対する援助の継続について討議したい、と申し入れた。レンドリース2として知られるものである。レンドリースは従来国務省の所管で、国務長官のハルを怒らせたが、会談には財務省のモーゲンソーが出席して主導権を取った。チャーチルは戦後のヨーロッパの均衡維持を認識していたが、ドイツ製造業の破壊は、英国の製品市場の開放につながり、その破産状態の救済になる、という理屈でモーゲンソー・プランの受け入れがやむをえない状況となった。戦後の援助資金についてチャーチルは、「わたしに後ろ足で立たせて、ファラ(ルーズベルトの愛犬)みたいにお願いさせようというのですか?」と悲痛な皮肉を言った。
 会談のあと、ルーズベルトとチャーチルはハイドパークで原子兵器の研究成果の配分について話し合った。「熟考のもとに」日本に対して原爆を使用する見通しも語られた。備忘録は厳重に封印されていた。デンマークから入国してきた著名な核科学者、ニールス・ボーアの活動を調査すること、という一項目もそこにあった。ボーアは原子兵器の管理は世界的な協定によるべきである、と主張しており、ロシアに秘密が漏れる懸念があったのである。
 モーゲンソーとホワイトは会議の成功に有頂天になり、ケベックの文書の内容を漏洩してしまった。ワシントン・ポストは、モーゲンソーをスティムソンとハルに対する勝利者と持ち上げた。財務省はやりすぎ、という非難が巻き起こった。ウォール・ストリート・ジャーナルは、モーゲンソー・プランで3千万のドイツ人が国外に追いやられる、と報道した。ある通信社は政府内部の対立を詳細に報じた。選挙の年の政治危機を目にして、ルーズベルトは四人委員会を解散した。モーゲンソーは個人的にルーズベルトに弁明するため、自宅を訪ずれたが門前払いを食わされた。ルーズベルトはハルにメモを送り、「本当の問題点は、戦争が終わったときイギリスが破産し、ドイツが20年のうちにまた戦争を始めたりしないようにすることなのだ。しかしだれもドイツをもう一度農業国にしたいなどと思っているわけではない」と伝えた。選挙結果は、53.4%の有権者票を獲得、499対99の選挙人を手にする、というものになった。
 
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2009/06/02

Alliance - 16 勝利と悲劇

 ロンドン、ワシントン、ノルマンディ、パリ、ワルシャワ
 1944年6-9月
ーみなにとっての喜びの源泉    スターリン


 6月9日午前4時、「OK、レッツゴー」、アイゼンハワーが命令をくだした。5千隻の船舶、60万の兵員を動員した海峡横断の一大作戦の火蓋が切られた。前夜、チャーチルは妻のクレメンタインと二人だけの夕食を摂った。「ねえ、わかるかい、きみが明日の朝目を覚ますまでに2万人が死ぬのだよ」と告げた。モロトフに第二戦線を約束してから、丁度2年が経っていた。
 一時孤立主義者であった、大統領の従兄弟、セオドア・ルーズベルト・ジュニアも最長老として最初の連合軍の上陸部隊に参加していた。かれはカーン、シェルブール地区の軍監に就任したが、まもなく心臓麻痺で急逝した。
 大丈夫といわれて、チャーチルもマーシャル、ブルックたちと視察に赴いた。前線から5キロほど離れたモンゴメリー将軍の司令部で昼食を摂ったあと、もう少し奥へ向かったとき、隠れていたドイツ兵2名が一行を狙撃することより降伏する方を選んで、森の中から現われ出てきた。
 チャーチルは、ギリシャを共産化しない協定をスターリンと結びたいと思っていた。スターリンに異議なく、そのかわり、ルーマニアでソビエトが主導的役割を果たすことになった。
 トーチ作戦から外されたド・ゴールがノルマンディ作戦のことを聞かされたのはDデイの二日前だった。かれは怒り、連合軍の道案内をする200名の自由フランスの兵員提供を拒んだが、思い直した。かれは古いノルマンの町、バイユーで凱旋将軍として迎えられた。その後ド・ゴールはワシントンを訪問し、ルーズベルトと会談した。かれはフランスを除く4国による警察軍構想に反対した。ルーズベルトは、フランス人は将来の政府について、自由に選択できる、この点で、ロンドンのフランス委員会が一時的な民政の権限が与えられる、というところまで譲歩した。アイゼンハワーは、8月24-25日のパリ入城にあたって、フランス軍を首都行進の先頭にたてた。チャーチルはパリ訪問の招きを受けて、感傷的な滞在をし、その独特なフランス語を喋りまくった。
 7月20日、陰謀者たちがヒトラーを爆弾で殺害しようとした。日本では小磯国昭が首相を拝命した。ルーズベルトは、民主党大会で4期目の大統領候補に選ばれた。ルーズベルトの健康問題からすれば副大統領候補の指名は重要であるはずだったが、実力評価よりも党内力学で、ハリー・トルーマンが選ばれた。共和党の対立候補は、エネルギッシュなトマス・デューイだった。選挙戦は熾烈だったが、4大国代表はダンバートン・オークスに集まって戦後の国際機構を練っていた。ソビエトの首席グロムイコの執拗な主張で、機構が独裁制にならぬよう、決定は全員一致、すなわち常任の大国は拒否権を持つことが認められた。ルーズベルトは、フランスが常任の席を持つことを認めた。
 6月22日、バルバロッサ作戦3年目の記念日に、赤軍は、ナポレオンを打ち破った偉大な帝政ロシアの将軍バグラチオンの名を冠した一大攻勢を開始した。170万の兵員、6千の航空機、2715台の戦車、2万4千の砲車、7万台のトラックが動員された。8月初めには、ソビエト勢力はバルト海のリガ、東プロシアを経由してワルシャワ近郊に迫り、南はハンガリー国境にまで拡がった。
 飛行機事故で死んだシコルスキのあとを継いだ、ロンドンのポーランド亡命政府の首相、スタニスラフ・ミコワイチクはルーズベルトと会談していた。ルーズベルトは、進軍しつつある赤軍とポーランド地下組織の協力関係の育成をねがい、モスクワとよく協議するよう勧告した。ソビエトはすでに占領したルブリンに、自らの傘の下に組織した共産化された解放委員会を保有していた。モスクワを訪れたミコワイチクにモロトフは、何しにきたのか?と聞き、スターリンに会わせるのに3日待たせた。ワルシャワから市民を強制連行する、というドイツの脅威で、8月1日、ワルシャワ蜂起が勃発した。亡命政府がホーム・アーミー(国内軍)を指導した。しかし赤軍は、ヴィストラ川の東で進撃を停止した。スターリンの命令だったがこれは秘匿された。ワルシャワ蜂起は市民20万が犠牲となる、第二次大戦中最大の悲劇の一つとなった。イギリスはイタリアから発進した航空機によってワルシャワへの物資投下を試みたが、3分の1は撃墜された。ドイツを爆撃していたウクライナの飛行場使用は、ソ連の外務次官ヴィシンスキーが同意しなかった。「ソ連政府が手を染めていない純粋な冒険」である、というのがその理由だった。ルーズベルトもこの件でスターリンとの関係悪化を避け、動こうとはしなかった。
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2009/06/01

Alliance - 15 向かい風

 カイロ、チュニス、カルタゴ、ワシントン
 1943年12月ー1944年5月
ーあの血なまぐさいロシア人たちを何とかしないといけない。


 ルーズベルトとチャーチルはもう一度カイロに戻ることになっていた。その前に、ルーズベルトは二つのことを決定しなけらばならなかった。蒋介石に約束したビルマ上陸を実行するかどうか、オーバーロードの指揮官にマーシャルを任命すべきか、の問題である。ビルマ作戦は、ほかへ転用できる資源の無駄づかいだ、と主張するものの意見に傾き、上陸は中止だ、とルーズベルトは結論を出した。蒋介石へは一般論を装った漠然とした理由をあげ、中止を知らせた。何とか納得させられたが、スティルウェルが特殊部隊を指揮する「メリルの略奪者作戦」で日本軍基地を奪回して、中国へ陸上から物資を補給する「リードロード」を開設した。ルーズベルトは、蒋にはうんざりさせられていたが、ほかに代わりはいなかった。国民党指導者は地位にしがみつき、アメリカが日本を打倒するのを待ち構えていた。そうなれば、かれは1927年以来つづけてきた共産党という敵の抹殺を再開できるのだ。
 オーバーロードへのマーシャルの任命は既定路線だったが、ルーズベルトはまだ逡巡していた。本人は政治過程を尊重し、自分から動くつもりはなかった。チャーチルと、スフィンクスとピラミッドの見物に出かけたとき、ルーズベルトは何気ない調子で、オーバーロードはアイゼンハワーに指揮させる、イギリスはそれで良いですか?と聞いた。チャーチルは頑固なマーシャルより扱い易いと思ったのだろう、前向きに返事をした。欧州全体の管理にくらべれば上陸作戦は大きな仕事ではない、そちらの方がマーシャルには適任である。陸軍参謀総長は、オーバーロードの指揮という希望を封印した。
 カイロでのサミットは素晴らしい天候に恵まれたが、蚊と蝿の大群に悩まされた。トルコの大統領が招かれ、連合軍への参戦が促されたが、スターリンの予測したとおり不調に終わった。戦後の国際金融機構についてのアメリカ案で、英国の拠出が10億ドルとされていたが、ロンドンの大蔵省は、それを取り返すのは大変だ、と感じていた。
 ルーズベルトはチュニスに寄って、アイゼンハワーに会った。人事異動の話だというので、かれはマーシャルに代わるためワシントンに戻る話だと思っていた。顔をみるなり、ルーズベルトは「やあ、アイク、きみがオーバーロードを指揮するんだよ」と言った。「ミスター・プレジデント、ご期待に沿えるよう頑張ります」と返事をした。モスクワもとくに反対しなかった。スターリンには、ビルマ作戦の中止、またドイツ空爆に最大の優先順位を与えた会談結果がつたえられた。5日間のハンブルク空襲は4万2千の生命を奪い、街を火の海にした。
 チャーチルはカイロで、下痢と鼻かぜに悩まされ、チュニスに向かったが、チュニス滞在中にまた肺炎を発症した。現地の英国救急隊が、オクスフォードからまだ実験段階だったペニシリンを取り寄せて、首相のお尻に注射した。クリスマス当日、かれはベッドを出て、地中海司令官会議の議長をつとめた。アンジオと名づけられたイタリア上陸作戦が決まった。
 ホプキンスはテヘランから戻り、新婦のルイーズと居心地の良い小さな新居をかまえたが、体調を壊していた。フロリダに療養に赴く前日、太平洋の海兵隊にいる下の息子のスティーブンに手紙を書いたが、この手紙が届くことはなかった。旅の途中で、大統領から電報が届いた。スティーブンは戦死した。電報には、「かれのことを誇りに思う。お気持ちお察しする、FDR。」とあった。
 1944年1月、米軍はイタリアのアンジオ上陸作戦を敢行した。ドイツ軍との死闘になった。太平洋からはサイパン島の上陸準備中というニュースが入った。クレムリンは、日本からの諜報機関情報を入手していた。スターリンは東京からの和平仲介打診の使者に、「くたばってしまえ」と返事した。モスクワに対するレンド・リースは、航空機7800、戦車4700、乗用車17万台、その他600万足の靴を含めて200%増しの計画となった。平時となったとき、合衆国の繁栄を保証する意味で、5億ドルの借款提供について交渉するよう、ルーズベルトは大使のハリマンに指示をした。
 ルーズベルトも徐々に健康を損ねていた。検査の結果は、「小児麻痺後遺症」で発症後2、30年生存したあと、筋肉萎縮、心因傷害を伴うものだった。慢性の肺疾患もかかえており、医者たちはかれがどこまで生き長らえられるか疑問を持っていたが、情報は秘匿されていた。
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