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2009/05/27

Alliance - 12      ロシア序曲

 モスクワ
 1943年10月
ー好きなことをやるよ。   スターリン


 大西洋両岸の力関係のバランスが移動していることは、1943年の秋にははっきりしてきていた。たとえば、イギリスが行ったロードス島攻撃は、オーバーロード作戦を損なう兵力ないし装備の転用となって、絶対に許されるものではない、とチャーチルはルーズベルトの厳しい非難を浴びた。
 まだ三巨頭が集まれる状況ではなかったが、スターリンは三国の外相会談を提唱してきた。これでサミットの道筋をつけられるかも知れない。アメリカは国務長官のコーデル・ハルが72歳、とヨーロッパ派遣にあたって高齢であるため、次官のサムナー・ウェルズを起用するつもりだったが、この二人は日ごろ折り合いも悪く、ハルの猛反対にあった。会議の場所は、チャーチルはロンドンと提案したが、スターリンはモスクワにこだわった。 
 10月18日、外相たちはモスクワで顔を合わせた。さわやかな快晴だった。米軍は太平洋を席捲しており、赤軍はドニエプル川を確保した。ポルトガルがアゾレス諸島に基地を提供したことから、Uボートが多数撃沈されていた。モロトフ、ハル、イーデンは、連日午後、スピリドノフカ宮殿で会議を行った。訪問者がモスクワ見物を希望すると、重装甲のリムジンが提供された。イーデンの提案で欧州諮問委員会の創設が決まった。ソビエトが情報不足を不満としたイタリアについては、共同の機関が設けられた。バルト三国について、英米はソ連の要求を受け入れた。大西洋憲章に関するモスクワの参加は、「1941年6月11日の国境を基本として」「ドイツの二度にわたる侵略戦争以前の」歴史的ロシアの国境を尊重するという、チャーチルの覚書をイーデンは持参した。
 イーデンは、三大国でヨーロッパの小国の連邦化を促進しようとしていたが、モロトフは戦後の調整問題の論議は時期尚早である、とした。東部戦線の戦況好転を背景に、クレムリンはもはや合意を必要とせず、赤軍社会主義を押しつければよい、その気になれば自らの息のかかった候補者を出すだけでよい、と考えていたのだ。ハルは国境問題については沈黙していた。かれの関心は戦後の国際機構の枠組みを発表することだけにあり、ヨーロッパの小国の未来については興味もなく、決定権限も持たされていなかった。クレムリンはこの点、ワシントンはとくべつな反対をするわけではなさそうだ、と受け取った。
 モロトフのご機嫌を損ねることなく、ハルは、連合国による戦後世界の国際組織に関する宣言を手にすることができた。そのあと、ハルは中国の宣言への署名問題にソ連の合意を取りつける交渉を行った。中国を外すと、太平洋及び米国世論の両面から「恐るべき反動」を蒙るだろう。中国の大使が招かれ、国民政府を代表して署名した。
 宴会でスターリンは、ハルに寄りかかるような格好で通訳を呼んだ。「一語一語ハルに訳すのだよ。ソビエト政府は極東情勢を検討し、ヨーロッパの戦闘が終了した直後・・日本に宣戦することを決意した。わが国の公式の立場で、これをハルからルーズベルトに伝えて欲しい。当面これは極秘にしたい。だからお前もこれはだれにも聞かれぬよう、低い声で話すのだよ、わかったね?」。
 ルーズベルトは、モスクワ会議を「ヒトラー打倒につながる三国協力関係の開始」と歓迎した。ハルは、議会で、今後勢力圏、バランス・オブ・パワーの諸概念、個別の同盟関係はなくなるだろう、と報告した。イーデンは欧州委員会を、今後イギリスが欧州再建に主導権を握る媒体にしたい、と思っていたが、ワシントンは最初から、イギリスのその役割を制限するように動いた。
 ルーズベルトとチャーチルは、モスクワでの合意の実現のため、カイロでスターリンと会うことを提案した。そしてルーズベルトは、蒋介石も招いてもう少し国際的なものにしたがった。スターリンは三つの理由でこれを断った。遠いこと。中国の指導者と会うことで、日本の反発を買うこと。エジプトという半植民地で行われることの自身の反感、である。ルーズベルトとチャーチルは、自分たちだけでカイロで蒋と会い、そのあとテヘランへ行こう、ということにした。
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