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2009/05/25

Alliance -10 時の過ぎ行くままに(アズ・タイム・ゴーズ・バイ)

 北アフリカ、モスクワ、カサブランカ
 1942年10月ー1943年3月
ー無条件降伏、アンクル・ジョーは自分も埋め合わできるわけだ。   ルーズベルト


 1942年の秋から冬にかけての時期を、チャーチルは「初めの終わり」と呼んだ。ドイツ軍はコーカサスの油田に到着したが、ロシア軍は撤退前に油井を爆破した。スターリングラードは一旦陥落したが、ドイツ軍の補給線は伸びすぎていた。ヒトラーはもう戦車に給油できないということだ。北極船団は再開された。米軍はガダルカナルに上陸、原子爆弾計画がマンハッタン・プロジェクトとして正式に発足した。
 11月7日、およそ10万の兵士が陸海空から北アフリカに上陸した。三日間で連合軍は2400キロの海岸を確保した。トーチ作戦はドワイト・アイゼンハワーが初めて指揮した陸戦だった。民主党の保守派はいきおいづき、イギリスでもトーチとエル・アラメインでのモンゴメリーの勝利が士気を昂揚させた。
 米ソ融和策として、ルーズベルトはウェンデル・ウィルキーをモスクワに派遣した。物資援助と第二戦線のプレッシャーをかけ続けながら、スターリンはイギリスの二重基準を非難してやまなかった。ルーズベルトは三巨頭会談を行うべき、と提案したが、スターリンは拒んだ。スターリンの目下の関心はスターリングラードの勝利にあり、もう少し軍事的に優勢な段階で巨頭会談に臨みたかったのである。
 1943年1月、チャーチルとルーズベルトはカサブランカで落ち合った。ルーズベルトとしては現職大統領、初めての空路による海外公務出張だった。カサブランカはドイツ空軍の勢力範囲で、ときどき空襲警報が鳴った。並行した幕僚長たちによる軍事会議で、イギリスはフランス上陸よりも、地中海作戦、シチリア侵入そ主張し、ルーズベルトの支持を得た。中国とビルマをめぐっても議論が長引いた。蒋介石は、イギリスとロシアに比べると、アメリカは中国を未成年者のように扱っている、と不満を述べていた。アメリカの軍事顧問、ジョセフ・スティルウェルは、国民党軍は日本軍との戦闘を抑制し、戦後の共産党軍とのたたかいに力を温存している、と報告していたが、ルーズベルトは戦後のアジアの空白をを埋めるため、中国を大国として育てたい意向だった。モスクワ訪問の帰途、重慶に立ち寄ったウィルキーは、蒋介石夫人と一夜を過ごした。
 トーチ作戦以後、フランスと北アフリカの状況は大きく動いてきた。アメリカはヴィシー政府と外交関係を絶った。ルーズベルトは個人的に自由フランスの指導者、シャルル・ド・ゴールをあまりにも独裁的であるとして嫌っていた。一方アメリカが保護している、ヴィシー政権で内務相をつとめたのち、ドイツの抑留から脱走してきたアンリ・ジロー将軍に対する評価も低かった。またこの二人は犬猿の仲でもあった。しかし枢軸と戦うフランスを統合するためには、この二人の和解が不可欠だった。カサブランカに招いた二人の説得は容易なことではなかったが、ルーズベルトとチャーチルは何とか成し遂げた。二人は嫌々ながら握手をし、記念写真におさまった。南北戦争で、グラントとリーの二人の将軍の会談を設定するのと同じくらい難しかった、とルーズベルトは述べた。突然思い出したが、とルーズベルトは続けた。グラント将軍は、「無条件降伏」という言葉で有名になったが、自分も敵に対しては、この言葉を以て連合軍の政策の定義づけをしたい、と言った。思いつき、ということになっているが、この言葉を周到に準備していたメモがある。スターリンは、これがドイツの決心を頑なにしかねないことを懸念した。ドイツ軍はスターリンで降伏した。タイム誌は、スターリンを、マン・オブ・ザ・イヤーにした。>
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