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2009/05/23

Alliance - 8      たいまつ(トーチ)の歌

 ハイドパーク、重慶、ワシントン、ロンドン
 1942年6-7月
ー戦略のちょっとした行き違い       マーシャル


 「ミスター・ワインシュタイン」と変名を使ったチャーチルは、スコットランドから王室郵便飛行艇でワシントン、ポトマック河畔に着水した。翌日はハイドパークへ飛んだ。ルーズベルトは特別仕様の、ペダルを使う必要のないハンド・ギアの幌付きフォードを自身で運転し、飛行場まで出迎えた。ドライブは二人だけで話を交わせるまたとない機会となった。
 ハイドパークの会談では原子爆弾の共同開発も合意されたという。しかし、この問題は、アメリカ人はロンドンが只乗りするのではないか、イギリス人はワシントンが原子兵器を独占するのではないか、と互いに疑心暗鬼で、その後いささか暗礁に乗り上げた。第二戦線に関して、チャーチルは、アラン・ブルックより、作戦(スレッジハンマー)は舟艇の不足でうまく行きそうもない、と聞かされていた。この辺、アメリカ側の兵力の詳細、上陸地点など具体的な計画をチャーチルはルーズベルトに訊ねたが、ルーズベルトは答えられなかった。
 ワシントンで、二人は、軍司令官たちを交えて三回目のサミット、暗号名アルゴノートを行った。アメリカの陸軍長官、ヘンリー・スティムソンは、できるだけ早期に米軍をドイツとの戦闘に投入すべきだという意見だった。サミット協定の最終案は、北フランスへの上陸作戦(スレッジハンマー=ラウンドアップ)に優位はおくものの、その前に北アフリカへ上陸するべきである、という結論になった。ある日の朝食後、チャーチルがホプキンスたちとオーヴァルオフィスに坐っていると、一人の海軍補佐官が入ってきて大統領に紙片を渡した。一読してルーズベルトは、「これをウィンストンに見せなさい」と言った。知らせは、トブルクでの英軍のロンメルへの降伏を告げるものだった。
 チャーチルは急遽滞在を切り上げた。地方の補充選挙で保守党は敗北した。戦争のやり方についての英国世論の支持は50%を割り込んだ。ロシア支援の貨物船団34隻のうち、23隻がドイツの潜水艦と航空機に沈められ、チャーチルは北極航路の船団を秋まで中止させたが、このことはスターリンを怒らせる結果になった。
 米側の軍人たちは、ルーズベルトが北アフリカ進攻に関心を示すことには嫌な顔をした。6月のミッドウェイの海軍の勝利はアメリカの自信を深めた。共同幕僚部イギリス代表のジョン・ディルは、北アフリカ作戦に英側が固執すると、ワシントンは前線の矛先を変えるかも知れない、とロンドンに警告した。しかし、ルーズベルトは、「太平洋へ切り替える別路線」に乗らなかった。それは真珠湾以後のドイツの狙い通りになるし、ロシアの掩護にもならないからだった。かれはマーシャル、ホプキンス、海軍のキング提督をロンドンに派遣し、協議を続けさせることにした。ホプキンスは7月30日に結婚する予定だった。未来の花嫁は、出発するホプキンスに向かって「その日大丈夫よね」と言った。
 英米軍事協議は難航した。報告を受け取ったルーズベルトは、結局、1942年におけるフランス攻撃計画を放棄した。自身の59回目の誕生日、ブルックはジョージ・マーシャルと二人だけで「大変楽しい友好的な雰囲気」の夕食を摂った。
 大統領が賛成したからには、北アフリカ上陸はできるだけのスピードで実施されなければならない。準備はすぐ始める必要がある。「全速前進!」とルーズベルトは指示した。「どうか投票日の前にしてください」と両手をあわせてルーズベルトが祈る声が聞えてきた。
 北アフリカ上陸作戦には、たいまつ(トーチ)というコード・ネームが与えられた。ひとつちょっとした問題があった。モスクワに伝達しなければならなかったのである。ルーズベルトはロンドンに電報を打って、「アンクル・ジョー」の面倒をよく見るように言ってきた。チャーチルはマイスキーをダウニング街に呼んだ。自分はこれからカイロに飛び、そのあとロシアでスターリンに会い、「いっしょに戦況の分析をし、手を取り合って決めて行く」と伝えた。
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