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2009/05/18

Alliance - 3    アンクル・ジョー

    モスクワ 
    1941年9月
ーそこには、まだまだ長く困難な道程(みちのり)があった。    ルーズベルトとチャーチル


 サミットの三日後、スターリンは米英からの「ドイツを打ち負かすために、ソ連の勇敢かつ着実な抵抗がいかに重要かを認識している。真の意味での最大規模の物資が供給される」、というメッセージを受け取った。ルーズベルトは、重大視しているあらわれとして、ホプキンスをソ連向け援助担当に任命した。ドイツ軍のモスクワ攻撃は準備段階にあり、多くの西側観測者はソビエトの崩壊をここ数週間の問題とみていたが、ルーズベルトは、ソ連が持ちこたえれば、チャーチルの、アメリカを戦争に引き入れるという目標を少しでも遅らせることができると思っていたし、英国にとっても、ドイツの矛先を西部戦線からそらせる、という意味で、ソ連の生き残りは死活的に重要な問題だった。
 とはいえ、1939年の独ソ条約、赤軍の東側からのポーランド侵入、フィンランド攻撃、1940年、モロトフがベルリン訪問で英帝国の切り分けを提案したことなどの記憶を、チャーチルが消し去ることは難しかった。スターリンの欲するものは、バルカンかフランスへの攻撃であり、3万トンのアルミニュームであり、最低月間400機の航空機と500台の戦車だった。マイスキーがチャーチルに、スターリンの「このままでは負けてしまう」というメッセージを手渡したとき、チャーチルは、「たった4ヶ月前まで、われわれはあなたがドイツ側に立つのかわからなかったのですよ。お国はわれわれに文句をいう資格はありますまい」と述べた。
 第二戦線問題はその後三年間、何回も繰り返された議論となった。西側には兵員と上陸用舟艇が不足していた。スターリンも本当にできるとは思っていなかった。北フランスへ上陸する、という脅しだけでドイツ軍25師団を釘付けにする、という戦略だった。そしてモロトフはそのかわりに必要物資を調達したのである。
 イギリスからはビーヴァーブルック卿、アメリカからはアヴェレル・ハリマンがソ連への使節となって三国のハイレベル協議が開始された。三回の会談で、ソ連は1ヶ月に航空機200、戦車250、トラック1000台の供給を約束された。ほかに3億4千万ドルにのぼる鉄鋼、アルミ板、有刺鉄線など、そして1500万ドル相当の医薬品が加わった。ビーヴァーブルックは、チャーチルをモスクワに招待することを示唆した。「かれは来るかね?」スターリンが訊いた。「あなたが仰れば来るでしょう」とビーヴァーブルックは答えた。会談はこの上なく和やかに終了した。しかし、並行していた軍事会議は膠着していた。ロシア人たちは秘密主義でほとんど情報を与えなかった。欲しいものだけ取って何もあたえなければ、ヒトラーの思いのままにされますよ、と言いたかったが、ワシントンとロンドンは対決を避けた。
 船積の遅延がスターリンを苛立たせた。ルーズベルトは国内でソ連援助に反対する意見を片づけなければならなかった。チャーチルはイーデンをモスクワに派遣して、空気を打開させることにした。チャーチルは単独で日本と戦う羽目に陥るのを警戒していたが、アメリカはまだ軍事力増強の時間稼ぎをしており、ルーズベルトと国務長官のコーデル・ハルは、日本とのまわりくどい交渉に明け暮れていた。歴史を変える行動は、またもや枢軸側からやってくることになった。
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