--/--/--

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
スポンサー広告
2009/05/15

Alliance - 1     バッファロー、熊、そしてドンキー

ー世界平和の枠組みは・・・世界全体の協調に基づく平和でなければならぬ。  フランクリン・ルーズベルト

 戦争は第一次大戦とくらべて途轍もなく拡がった。大西洋、太平洋を横切り、ヨーロッパとアジアを通り抜け、北極から北アフリカにまで及んだ。1939年から1945年まで、2174日の戦いで5千万以上が死んだ。北米は被害を免れたが、ソ連の資本財は4分の1が破壊され、ドイツと日本は真っ平らになってしまった。
 英国は下り坂を歩んでいた。ボルシェビキ革命のあとソ連に根をおろした巨大な政府は、同盟のほかの二国に対して確固たる存在となった。アメリカの軍事支出は大恐慌からの回復を可能とし、ルーズベルトは手管を用いて帝王的な大統領として君臨した。軋轢のなかから国際連合、国際通貨基金、世界銀行などの機構が実現し、主導権争いは偉大な技術的進歩を生み出した。原子爆弾、コンピュータを促進した暗号解読機などである。
 英米軍は基本的に赤軍と行動をともにしたことはない。西側同盟国が二正面で戦争をしていた間、スターリンは1945年夏まで日本との不可侵条約を継続した。アメリカ参戦の以前からワシントンとロンドンは詳細な軍事協議を始めていたが、基本的戦略には相異があった。アメリカは北フランスのドイツ軍に一槌をくだすべきだ、と主張していたのに対し、イギリスは北アフリカと南ヨーロッパの「柔らかい下腹部」を叩く間接攻撃を支持した。アジアでは、ルーズベルトは中国を戦後世界の四人の警察官のひとりと考えていたが、チャーチルは、中国は膨大な援助を期待するだけの国で、機会を与える必要はない、という意見だった。真珠湾攻撃の前からルーズベルトは、英国を第一線の防禦線として、アメリカは形の上では中立国ではあるが、英国にさまざまな援助を与えていた。しかし、1943年夏以降、ルーズベルトはスターリンとの二国対話を模索していた。
 チャーチルの回顧録にはこのあたりの複雑怪奇な同盟関係の動きが述べられている。三国の政策の違いは救いがたいものになりつつあった。ワシントンは領土問題を取引材料とすることを拒否したが、スターリンは大幅な安全保障地帯を設けるべき、と地図上に仕切りを示した。ルーズベルトは植民地の終焉を望んでいた。チャーチルは自分は大英帝国を解体する権限を持たない、と宣言した。ルーズベルトが、勝利ののち二年で米軍を欧州から撤退させる、と言いだして以来、チャーチルは徐々にソ連の力に懸念を抱きはじめた。しかし、ルーズベルトはスターリンのあしらいに自信を持っているつもりで、ソ連に、ニューディールによく似た体制が出来上がることを期待していた。
 同盟が成立したとき、 チャーチルは67歳、スターリンは62歳、ルーズベルトは59歳だった。チャーチルは母親がアメリカ人だったが、本人はまるまる英国人だった。「英語を総動員して」国民を戦争に駆り立てたが、この戦争の惹き起こした「変化」にはついて行けず、勝利のあとの新世界の人間ではなかった。ルーズベルトは、「アメリカ人とは何でもやってのける国民」の権化のような人物だった。ホワイトハウスでの12年、最初の100日間の大恐慌退治の暴風雨にはじまって、かれは自らを無上の政治アニマルに仕立て上げた。グルジアの貧しい靴屋の息子から立身したスターリンは、革命資金獲得のための銀行強盗を働く前、ロシア正教の神学校で学んだ。権力を握って、人間世界の超法規的存在と自認しはじめた。
スポンサーサイト
未分類 | Comments(0) | Trackback(0)
2009/05/15

Aliance - プロローグ テヘランの晩餐

  1943年11月29日
ー同盟国の利点は、唯一、持った方がましだということだ。   ウィンストン・チャーチル


 1941年8月から1945年8月までの4年にわたるこの物語は、映画的手法で、ほぼその真ん中のエピソード、ビッグ・スリー(ルーズベルト、チャーチル、スターリン)が初めて顔を合わせたテヘラン会談の一場面から始まる。
 豪勢なロシア料理の晩餐会の席上、スターリンは意識してチャーチルを挑発し続ける。チャーチルは我慢していた。スターリンは、ヨーロッパ西側での第二戦線開設の英国側の遅延に、大いに不満を持っていたのである。英国はドイツに対する隠れた愛着があるのではないか、「柔軟和平」を持ちかけるつもりだろう、とスターリンが言及したときでもチャーチルは抑制した。
 1940年に首相となったチャーチルは、ルーズベルトの友情を得るために心血を注いだ。一方、ルーズベルトの目的は、スターリンの信頼獲得にあり、この疑り深い独裁者に、自分のことをいささかなりともイギリス寄りと目されるような言動は絶対に取るまい、と心に決めていた。チャーチルから提案のあった英米二国の予備会談を断ったルーズベルトは、テヘランのソ連公使館を訪れて、スターリンと二人だけで会っていた。1940年、独ソが手を握ったため、ヒトラーと単独で戦う羽目に陥ったことのあるチャーチルとしては、このことが面白い筈はない。
 晩餐の終わりに、ルーズベルトの首席補佐官、ハリー・ホプキンスがソビエト軍のために乾杯をした。それに応えてスターリンは、ドイツ軍の参謀将校の話をした。少なくとも5万人、いや10万人の高級将校を即決で射殺しなければならない、と述べた。
 チャーチルは切れた。「その考えは英国の正義の感覚に合わない。ナチであろうがなかろうが、だれでもその場で銃殺隊の的になって良いわけはない」。スターリンは、「5万人は殺されなければならない」ともう一度呟いた。チャーチルは、「わが国の名誉がそんな侮辱で汚されるくらいなら、この場でわたしを射殺してくれ」と大声を出した。ルーズベルトは軽口でことを収めようとした。「こんな風にいえませんかね、5万人の戦争犯罪人を処刑するかわりに、もっと少ない数、たとえば4万9千人を・・」。
 チャーチルはゆっくりと部屋を出て行った。何年振りかで、だれかがスターリンを見限った瞬間だった。隣の部屋で、かれは背中にだれかの手を感じた。振り返るとスターリンと外務大臣のモロトフがいた。かれらは大きく笑って、これはただの冗談だよ、と言った。チャーチルは、クレムリンとの決別が戦争遂行にどういう影響を及ぼすかを知っていた。かれはテーブルに戻った。
 「わたしの片側には巨大なロシアの熊がいた。反対側には大きなアメリカ・バッファローが居た。その間にみすぼらしいイギリスのドンキーが坐っていた。それがただ一人・・帰り道を知っていたのだ」とチャーチルは記録した。
 三人は、戦うことと同時に、あとに続く平和の枠組みを作ろうとしていた。前大戦と違って、一回かぎりの講和会議で結論は出ず、その過程には5年を要した。戦争に勝つために隠されていた相違点が、新たな世界が姿を見せるにつれて表に現われだした。戦後60年が経過した。三巨頭がいかにして同盟を組み、それを活用し、またそれを維持できなかったか、については、高いレベルでの国際政治の第一級の研究課題となるのである。
未分類 | Comments(0) | Trackback(0)
 | HOME | 

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。