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2009/05/31

Alliance - 14 ( つづき)

Ⅳ 12月1日
 ルーズベルトはスターリンとまだ親密な関係が築かれていない、と思っていた。それにはチャーチルを虐めることが有益だった。チャーチルのジョン・ブルかたぎ、葉巻、癖、がからかいの対象になった。スターリンはいっしょになって笑った。ルーズベルトは独裁者を「アンクル・ジョー」と呼んだ。スターリンもときどき冗談をとばすようになった。ドイツの分割案にさまざまな意見が出た。チャーチルは、とにかく諸悪の根源はプロシア、その陸軍と参謀本部にあると。ルーズベルトは五つの自治地域と、二つの国連監督地域(ハンブルク、キールの北部港湾地域と、ルール、ザールの工業地域)にわける案を出した。チャーチルはこれを「こまかすぎる」と言った。要はプロシアを孤立させることだ。スターリンは、ドイツ人は北も南も同じだ。オーストリアとハンガリーは切り離す、そしてドイツ民族はばらばらにして散らすのが良い、と言った。オーバーロードのあと、西側連合軍がどのように侵攻して行こうが、赤軍の進撃は、ヒトラーが斃れたあとのドイツの形を決めるのに、強力な地歩を占めている、ということをスターリンは知っていた。
 次の問題、それはもっと深刻だった。ポーランド‐チャーチルは東端をモスクワに広大な土地をもたらすカーゾン・ライン、代償としてポーランドにドイツ領土を提供するオーデル川とする案を提出した。スターリンは、温暖なバルト海の港、ケーニヒスベルク(現在のカリーニングラード)を「ドイツの首根っこ」として抑えたい、と言った。
 基本的にルーズベルトは東欧問題に無関心だった。しかし、合衆国には、ポーランド系、バルト三国系の有権者がいるので、綺麗ごとの宣言は出しておこう、という態度だった。バルト諸国問題では戦争をしない、とルーズベルトはスターリンに保証した。1942年の国境問題に関する厳格な方向は忘れ去られ、大西洋憲章には全く触れられなかった。
 共同声明が4日後発表された。またもやそれは、ソ連の現実を無視して、「世界中の人々が暴虐に支配されることなく、その多様な欲求と自らの意識にしたがって自由な生活を送ることができるような社会」を目標としていた。ソ連の新聞には、同盟に対する論調に変化が現われた。新聞はテヘランにおける「歴史的な決定」を歓迎した。セルジオ・ベリアは、父親が、スターリンがゲームに勝ったと言った、とつたえたことを覚えている。スターリンは、オーバーロードの決行日と南仏上陸の約束を手にした。ポーランドでそこそこの領土をソ連が確保する基本的な了解を獲得した。そしてほかの二人の指導者の弱点と、見解の違いを知ることができた。
 1943年の終わり頃、NKVD(ソ連秘密警察)は、赤軍占領地域で、93万1千人を逮捕した。そしてソビエト国家に有害とみなされる少数民族の大量浄化(クレンジング)を開始した。イランから空路での出発をホプキンスと待ちながら、リーヒ提督は言った。「ねえ、ハリー、良い友だちを持ったもんだ、としかいえないね」。
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2009/05/30

Alliance - 14 (つづき)

Ⅱ 11月29日
 午前、ブルック(英)、ヴォロシーロフ(ソ)、マーシャル(米)の軍事トップが集まった。英国はイタリア攻撃を主張した。アメリカは欧州に160万、太平洋に180万の兵力が展開できる、ただ輸送に問題がある、と言った。ソビエトは西側連合軍が本当に海峡横断作戦をするのか、確認したかった。
 午後、スターリンはルーズベルトとの二度目の非公式会談を行った。ソ連のアジア地区沿岸に、日本空爆のための1000機までの4発爆撃機を収容する空軍基地の提供について覚書がまとまった。戦後の国際機構の話が続いた。大西洋憲章に署名した35ヶ国は創設メンバーとなり定期的に会合する。合衆国、ソ連、英国、中国、プラス欧州から二国、南米から一国、極東から一国、近東から一国、英国自治領から一国で構成する小グループに勧告を提出する。スターリンは、ヨーロッパの小国が中国の存在に抵抗するだろう、英米ソ、にヨーロッパの一国を入れて切り離した方がよい、と言った。しかしアメリカ議会が、必要に応じて米軍に大西洋を横断して欲しい、とするヨーロッパ・グループへのアメリカの参加を望むだろうか?立法府に関するルーズベルトの説明はスターリンには伝わらなかった。かれはアメリカの政治システムを全く理解できないようだった。
 主会議場に三リーダーが集まった。オーケストラがそれぞれの国家を演奏した。チャーチルからスターリンへ、「鋼鉄の精神を抱くスターリングラードの市民」へ捧げる両刃の大きな十字剣が贈呈された。「スターリングラード市民を代表し、深甚な謝意を表明するものです」、スターリンは剣に接吻した。独裁者の目に浮かぶ涙がみられた。うしろにいるヴォロシーロフに手渡すときに、剣が鞘から抜けた。それが床に落ちたのか、ヴォロシーロフがうまく受け止めたのか、よくわからなかった。その夜の晩餐で、スターリンはチャーチルを標的にした。挑発のあまり、チャーチルは退場してしまったが何とか連れ戻した。

Ⅲ 11月30日
 午前、チャーチルはスターリンと会った。これからいうことはアメリカ人を非難する意味ではない、と冒頭に言った。ルーズベルトはビルマ上陸を希望しているが、それを中止すれば地中海、ノルマンディ双方の上陸作戦に充分な船舶が確保される。合衆国は太平洋に神経質になっており、カイロでは蒋介石が出席したために中国問題が主流になってしまった。オーバーロードに戻して、チャーチルは英国の準備状況について説明した。そしてイタリア戦線での大規模作戦も希望する、と述べた。
 正午、幕僚長たちの軍事会議の勧告書がルーズベルトとチャーチルに伝えられた。「イタリアではピサとリミニを結ぶ線にまで進出する。作戦に使用の戦車搭載船舶は、1月中旬までにオーバーロードのために送り返す。南フランスに舟艇の利用が可能であるかぎりの規模で、オーバーロードと同じ日に上陸する。オーバーロードは5月中に実施する、とスターリンに伝える」。
 その夜、英国公使館でチャーチルの誕生パーティーが催された。チャーチルはルーズベルトを右に、スターリンを左にして座った。反対側には、イーデン、モロトフ、ホプキンスが座った。家族席には、エリオット・ルーズベルト、ロバート・ホプキンス、サラとランドルフ・チャーチルがいた。三巨頭はたがいに杯をあげた。偉大なるスターリン!、これぞ大統領、ルーズベルト、わたしの親友、などの乾杯が行き交った。スターリンがホストに、「わたしの偉大な友だちと呼んでもいいか」と訊ねると、「ウィンストンと呼んでくれ」と答が返ってきた。チャーチルがホプキンスに乾杯すると、ルーズベルトは「ディア・ハリー、きみがいなかったら、ぼくたちはどうすれば良いだろうか?」と言った。通訳のチャールズ・ボーレンは、ルーズベルトのもっとも親密な補佐官に対する謝意の言葉を聞いた唯一の機会だった、と回想している。ルーズベルトは、戦争の結果は、世界中のさまざまな濃淡、陰影、色彩を、希望の名のもとに個体性を失わせる一つの「虹」に混ぜ合わすことになるだろう、と言った。
 ルーズベルトもチャーチルも赤とはいわないまでも、この夕食でピンク色に染まった、とだれかが論評した。ピンクの頬は健康の証拠、とスターリンが片棒を担いだ。
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2009/05/29

Alliance - 14 虹の彼方に(オーバー・ザ・レインボウ)

 テヘラン
 1943年11月28日ー12月1日
ー世界の中心   チャーチル


Ⅰ   11月28日
 「やっと!お目にかかれて嬉しいです」。世界最強の国の指導者は、唯一、かれに対する挑戦者と思われる人物に手を伸ばした。「長いことこうしたいと思っていたのですよ」。 胸にレーニン勲章をつけ、辛子色のチュニックに赤線の入ったズボンのスターリンは、紺のスーツで車椅子に座ったルーズベルトと握手をした。ここは中庭のあるテヘランのソ連公使館で、二人は警護の問題からここに宿泊することにしていた。チャーチルは、200メートルほど離れた英国公使館に滞在した。会議場もソ連館に設定された。しばらくの間、このあたりが世界の中心になるのである。
 スターリンの娘が憧れている、警察長官ベリアの息子、セルジオは、お客の盗聴係りだった。「かれらは聴かれているかも知れないのに、そんな開けっ広げな話をしているのか?」、アメリカ人の会話の報告を受けたスターリンは感心した。ルーズベルトがマイクのあることがわかっているのだとすれば、二枚舌、三枚舌の問題である。判断を間違えさせようとしているのか、そうでないのか?それはたいした問題ではいのかも知れない。ルーズベルトのテヘランへきた目的は、ソ連を国際社会に引き込む、孤立し、不満を持つロシアを作らないことにあった。スターリンは病的に疑り深かったが、個人的な関係を確立すれば大丈夫だろう。ルーズベルトは確信していた。
 通訳のほかに、ハリマンとホプキンスが同席した。ホプキンスはすでにスターリンと旧知の間柄であり、スターリンは特別な個人的配慮をかれに示していた。ほかに陸海軍の将官が加わり、スターリンには、モロトフ、ヴォロシーロフ、通訳ほか、チャーチルにはイーデン及びブルックほか将官が従った。 アメリカは戦線の概況を報告した。太平洋では海軍力のほとんどと100万の兵力が日本に向けられていた。いかに中国を活用するかが問題だが、日本をできるだけ早いスピードで攻撃することが重要である、と語った。ヨーロッパでは、輸送の困難性が海峡横断作戦の日程確定を阻んでいる。チャーチルは、オーバーロードの実行の前に地中海作戦の実施を主張した。またチャーチルはスターリンに、ソビエトを助ける最良の手段は何か、と質問した。スターリンはルーズベルトに向かって、それが一番聞きたかったことだ、と言った。極東ソ連軍は防禦には充分の兵力だが、攻撃となるとその3倍が必要である。ドイツを負かすまでは無理だが「それから、われわれは連合して日本を攻略できる」。
 対独戦争に移った。ドイツ軍は210個師団、東欧枢軸軍から50個師団を東部戦線に投入している、赤軍は330個師団、しかしイタリア攻撃が地中海の海運を開放しても戦いの進展には余り価値はない。最良策はフランス攻撃である、とスターリンは主張した。これに対するチャーチルの話は冗長で、みなの反感を買った。スターリンの目的は、早い時期にノルマンディ上陸を決定する、それだけだった。1941年に、自分が最初に第二戦線を強要したとき、ソビエトは悲惨な状況にあった。いまこれを要請の核心としている理由は、戦争が終わったとき、確保したソ連の安全地帯を確定したいからだった。ルーズベルトはスターリンの望んだことをみな聞いてやった。チャーチルは、スターリンの抜け目なさにアメリカ人の近視眼が輪をかけて、どこへ行くとも知れぬ危険地帯に入り込んでしまった、と日記に書いた。 
 夕食会で、ドイツは分割されるべきだ、とスターリンは強調した。しかし、無条件降伏の原則が、ドイツ人を結束させてしまわないか、と疑問を持っていた。突然ルーズベルトは青ざめた。消化不良による発作で車椅子のまま外に出て、夕食会には戻らなかった。チャーチルはその機会にスターリンと二人だけで話し合った。ドイツはヴェルサイユのあと急速に復興した。また同じことが起こりかねない。再軍備をさせてはならない。すべての航空事業を禁止し、ドイツの工場は監視下におくのだ。ロシアは陸軍を保有し、英米は空軍と海軍を持つーわれわれは平和の保証人になるのだ、とチャーチルは言った。ポーランドがソ連に割譲した土地の見返りに、「ドイツのつま先に少し踏み込んだ土地をロシアがとったらどうですか?国境線を引いてみましょうか?」、「はい」。
 チャーチルは3本のマッチ棒を使ってポーランドの国境がどう動くか、を示した。これは「スターリンを喜ばせた」、と英国の記録が残している。
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2009/05/28

Alliance - 13     ピラミッド

 カイロ
 1943年11月21-26日
ー仲間のあるものは、上陸作戦が成功するのか疑い始めている。   ホプキンス


11月11日、ルーズベルトはホワイトハウスを出た。プラセンシア湾行きのときの消失トリックが再現された。かれは専用ヨット、ポトマックによるクルージングとみせかけて、実は戦艦、アイオワに乗艦し、3隻の駆逐艦と、2隻の航空母艦による空の護衛を伴って大西洋に向かった。艦内の作戦会議で、ルーズベルトはナショナル・ゲオグラフィックのドイツの地図に三本の線を引き、各国の占領地域を示した。アメリカの占領戦力におおむね100万は必要だろう、と言った。どのくらいの期間になるか、と聞かれ「少なくとも1年。2年かもね」と答えた。チャーチルはプリムスから巡洋戦艦、レナウンに乗った。副官として、婦人航空部隊にいる娘のサラを伴った。彼女はミュージカルのダンサーとなり、フレッド・アステアの映画、ロイヤル・ウェディングに出演している。チャーチルはいささか「鬱状態」に陥っていた。
 米ソは、チャーチルを蚊帳の外において交信していた。スターリンは相変わらず英米二国に秘密協定があるのではないか、と疑っており、三巨頭には依然、たがいに疑心暗鬼が残っていた。その間、ワシントンには親ソ的流れが定着しつつあり、国務省ロシア課長、ロイ・ヘンダーソンは自分の現実的な分析評価が無視されたことで辞職した。ルーズベルトは、カイロにモロトフと赤軍の代表を招くことで、ソ連に「誤魔化し」がないことのあかしにするつもりだった。しかし、スターリンは、同様に蒋介石も招かれていることを知って、外相の派遣を断った。日本との関係で、中国との同席は依然回避する方針だった。
 カイロの会議では、マーシャルが主役を演じて、まるでアメリカが連合軍の立ち位置を決めて行く感があった。チャーチルは、ロードス島ほかエーゲ海諸島攻撃案を持ち出した。マーシャルは、「アメリカ兵は一人といえどもあんなくだらない浜辺で死のうとは思っていません」、と応酬した。アメリカはビルマでの二段攻勢、中国軍による雲南国境を越える陸からの攻撃と、アンダマン海の海からの攻撃をするつもりだった。
 先に到着していた蒋介石と妻の宋美齢は、ルーズベルトが到着すると、その午後早速訪問し、夜も二回目の会談を行った。マダム蒋は、セックスと政治が両立する風変わりな性格を持っており、その双方を利用している、とブルックは評している。3リーダーの集合写真には彼女も入り込んでいる。蒋介石とルーズベルトの会話では、満洲、台湾、澎湖諸島が中国に返還されるべきことが合意された。琉球諸島はソ連と分割されるだろう。蒋は、90個師団用の武器貸与、10億ドルの借款、そして日本爆撃用の四川省の航空基地建設の労働者賃金として1億ドルの資金支出を要請した。ルーズベルトはビルマに対する海陸作戦を保証した。しかしかれは、なぜ20万の国民政府軍が日本軍と戦わず、北方で共産軍を包囲しているのか、を訊ねた。アメリカの銀行に5億ドルの援助資金をおいたままで、10億ドルがなぜ必要なのかも聞いてみたいところだった。
 蒋介石が連れてきた幕僚長たちが、支援についての「権利」という言葉を使ったとき、マーシャルが聞きとがめた。「率直に言わせてください。みなさんは、権利と仰るが、これらはアメリカの飛行機であり、アメリカの兵員であり、アメリカの物資と考えています。あれこれ、われわれが出来るとか出来ないとか、あなたがたが仰る意味がわかりません」、と言った。
 フラストレーション漬けだったが、チャーチルにはルーズベルトとの友情をよみがえらせる機会が二回あった。一度、サラに準備させて、ルーズベルトとピラミッド見物に行った。またルーズベルトは感謝祭の晩餐に、サラとチャーチルを招いた。蒋は招ばれなかった。ルーズベルトの息子、エリオットと義理の息子、ジョン・ボティンガー、それにホプキンス、ホプキンスの息子で軍人のロバートが同席した。アメリカ陸軍軍楽隊が、チャーチルのリクエスト、「オールマン・リバー」「懐かしきヴァージニアへ」を演奏した。ルーズベルトは「ドーバーの白い崖」をリクエストした。レコードがかけられ、唯一の女性、そしてダンスの名手、サラは引っ張りだことなった。
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2009/05/27

Alliance - 12      ロシア序曲

 モスクワ
 1943年10月
ー好きなことをやるよ。   スターリン


 大西洋両岸の力関係のバランスが移動していることは、1943年の秋にははっきりしてきていた。たとえば、イギリスが行ったロードス島攻撃は、オーバーロード作戦を損なう兵力ないし装備の転用となって、絶対に許されるものではない、とチャーチルはルーズベルトの厳しい非難を浴びた。
 まだ三巨頭が集まれる状況ではなかったが、スターリンは三国の外相会談を提唱してきた。これでサミットの道筋をつけられるかも知れない。アメリカは国務長官のコーデル・ハルが72歳、とヨーロッパ派遣にあたって高齢であるため、次官のサムナー・ウェルズを起用するつもりだったが、この二人は日ごろ折り合いも悪く、ハルの猛反対にあった。会議の場所は、チャーチルはロンドンと提案したが、スターリンはモスクワにこだわった。 
 10月18日、外相たちはモスクワで顔を合わせた。さわやかな快晴だった。米軍は太平洋を席捲しており、赤軍はドニエプル川を確保した。ポルトガルがアゾレス諸島に基地を提供したことから、Uボートが多数撃沈されていた。モロトフ、ハル、イーデンは、連日午後、スピリドノフカ宮殿で会議を行った。訪問者がモスクワ見物を希望すると、重装甲のリムジンが提供された。イーデンの提案で欧州諮問委員会の創設が決まった。ソビエトが情報不足を不満としたイタリアについては、共同の機関が設けられた。バルト三国について、英米はソ連の要求を受け入れた。大西洋憲章に関するモスクワの参加は、「1941年6月11日の国境を基本として」「ドイツの二度にわたる侵略戦争以前の」歴史的ロシアの国境を尊重するという、チャーチルの覚書をイーデンは持参した。
 イーデンは、三大国でヨーロッパの小国の連邦化を促進しようとしていたが、モロトフは戦後の調整問題の論議は時期尚早である、とした。東部戦線の戦況好転を背景に、クレムリンはもはや合意を必要とせず、赤軍社会主義を押しつければよい、その気になれば自らの息のかかった候補者を出すだけでよい、と考えていたのだ。ハルは国境問題については沈黙していた。かれの関心は戦後の国際機構の枠組みを発表することだけにあり、ヨーロッパの小国の未来については興味もなく、決定権限も持たされていなかった。クレムリンはこの点、ワシントンはとくべつな反対をするわけではなさそうだ、と受け取った。
 モロトフのご機嫌を損ねることなく、ハルは、連合国による戦後世界の国際組織に関する宣言を手にすることができた。そのあと、ハルは中国の宣言への署名問題にソ連の合意を取りつける交渉を行った。中国を外すと、太平洋及び米国世論の両面から「恐るべき反動」を蒙るだろう。中国の大使が招かれ、国民政府を代表して署名した。
 宴会でスターリンは、ハルに寄りかかるような格好で通訳を呼んだ。「一語一語ハルに訳すのだよ。ソビエト政府は極東情勢を検討し、ヨーロッパの戦闘が終了した直後・・日本に宣戦することを決意した。わが国の公式の立場で、これをハルからルーズベルトに伝えて欲しい。当面これは極秘にしたい。だからお前もこれはだれにも聞かれぬよう、低い声で話すのだよ、わかったね?」。
 ルーズベルトは、モスクワ会議を「ヒトラー打倒につながる三国協力関係の開始」と歓迎した。ハルは、議会で、今後勢力圏、バランス・オブ・パワーの諸概念、個別の同盟関係はなくなるだろう、と報告した。イーデンは欧州委員会を、今後イギリスが欧州再建に主導権を握る媒体にしたい、と思っていたが、ワシントンは最初から、イギリスのその役割を制限するように動いた。
 ルーズベルトとチャーチルは、モスクワでの合意の実現のため、カイロでスターリンと会うことを提案した。そしてルーズベルトは、蒋介石も招いてもう少し国際的なものにしたがった。スターリンは三つの理由でこれを断った。遠いこと。中国の指導者と会うことで、日本の反発を買うこと。エジプトという半植民地で行われることの自身の反感、である。ルーズベルトとチャーチルは、自分たちだけでカイロで蒋と会い、そのあとテヘランへ行こう、ということにした。
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2009/05/26

Alliance - 11      嵐(ストーミー・ウェザー)

 ワシントン、モスクワ、ロンドン、ハイドパーク、ケベック
 1943年1-8月
ー赤軍だけが戦争のすべての重荷を負っている。   スターリン


 カサブランカ会談のあと、ルーズベルト、チャーチルは二人とも病気になってしまった。ルーズベルトは5日間、チャーチルの方は肺炎で1週間寝ることになった。英米で小競り合いはあったが、原爆計画はワシントン主導のものとなり、責任は科学者から国務省に移された。
 スターリンはスターリングラードの勝利を背景にまた強気にでてきていた。ストックホルムの米国公使が、ドイツが日本のルートを使ってスターリンと接触している、という情報を伝えてきた。シチリア攻撃は、ロシア向け船団の船腹の転用となるということで、スターリンは破局的な状況、と批判した。一方、ドイツ軍がロシア西部のカチンの森で、ポーランド将校の大量の墓標を発見したことで、同盟関係に新たな検証が必要となってきた。ロンドンの亡命ポーランド人が赤十字の調査を求めたが、ソ連はナチの仕業である、と調査を拒絶した。モスクワとロンドン在住ポーランド人との亀裂が始まった。
 3月、イーデンが出張し、ルーズベルトと会談した。大西洋憲章に明白に違反することを隠さず、ルーズベルトは列強で戦後のポーランドほか、ヨーロッパの形を決めて行こう、と言いだした。また合衆国、ソ連、イギリス、中国によって運営される戦後の国際機構の構想の話をした。かれによれば軍備が許されるのはこの四大国だけである。イギリスをヨーロッパの中核におきたいチャーチルの思惑と異なり、ルーズベルトの構想のなかでは、英国は重要な同盟国ではあっても特権を持つパートナーではなかった。
 5月、トライデント、と名づけられた二国サミットが開幕した。幕僚長たちによる軍事会議で英米の戦略の相異が明白になってきた。マーシャルとブルックは衝突した。アメリカは、イギリスが北アフリカという裏庭に引きずり込み、今度はシチリア、とまた筋違いに引っ張ろうとしている、と思い。イギリスはアメリカが太平洋に優先順位をおこうとしているのではないか、と疑心暗鬼になっていた。結局、シチリア作戦を7月に行うことが決まった。海峡横断作戦は1944年5月と、アメリカのスレッジ・ハンマー作戦から2年の遅れとなった。
 チャーチルの知らないところで、ルーズベルトはスターリンと秘密の接触を始めていた。親ソ派の駐モスクワ米国大使、ジョセフ・デーヴィスが取り持っていた。ルーズベルトはスターリンとの二国会談をもちかけており、スターリンは乗り気だったが、フランス上陸がまた流れたというトライデントの結論がブレーキをかけてしまった。このことがチャーチルに暴露されそうになってルーズベルトはかなり慌てた。8月のケベックでの会談(暗号名、クワドラント)は、この罪滅ぼしの意味もあった。
 1943年7月25日、チャーチルが夕食後、映画「パリの屋根の下」を観ているとき、ムソリーニが罷免されたニュースがとどいた。かれは夜中過ぎの戦時内閣を召集した。イタリアは講和に向かって走り出した。
 ケベックでは、原子力計画の拡散防止のため、すべて大統領の決定事項とすることが保証された。ルーズベルトはフランス解放委員会を認め、ジローが副総裁となり、ド・ゴールが支配することになった。かねてフランス上陸は、ブルックに指揮をさせる、とチャーチルは約束していたが、力関係で、その仕事はアメリカに行くことになった。チャーチルはブルックを会議場であるケベックの城砦のテラスに誘い、そのことを告げた。帝国参謀総長の失望ははかり知れなかった。北フランス上陸作戦のコード・ネームは「オーバーロード」と決まった。
 ルーズベルトとチャーチルは、三巨頭会談をアラスカで開催しないか、という提案をモスクワに送った。しかし、スターリンは相変わらず気難しい雰囲気にあった。スターリンは子飼の亡命ポーランド政府を後援する傍ら、ドイツ共産党員と上級戦争捕虜主体の自由ドイツ国民委員会を創設し、モスクワで大会を挙行させていた。
 シチリアからは最後のドイツ兵が追い出された、というニュースが入った。チャーチルはハーヴァードへ赴き名誉学位を授けられた。ワシントンへの帰路、通り過ぎる列車や駅に集まっている人々にVサインを作ってみせた。同行した妻のクレメンタインも同じことをした。ルーズベルトと別れるとき、かれは「神のご加護を」と言った。ルーズベルトは、「来春、おたくにお邪魔しますよ」と答えた。これは空手形に終わった。ルーズベルトの妻エレオノラは、ロンドン訪問のおり、車椅子が入る幅があるか、メイフェアのフラットの入り口を測っていた。
 
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2009/05/25

Alliance -10 時の過ぎ行くままに(アズ・タイム・ゴーズ・バイ)

 北アフリカ、モスクワ、カサブランカ
 1942年10月ー1943年3月
ー無条件降伏、アンクル・ジョーは自分も埋め合わできるわけだ。   ルーズベルト


 1942年の秋から冬にかけての時期を、チャーチルは「初めの終わり」と呼んだ。ドイツ軍はコーカサスの油田に到着したが、ロシア軍は撤退前に油井を爆破した。スターリングラードは一旦陥落したが、ドイツ軍の補給線は伸びすぎていた。ヒトラーはもう戦車に給油できないということだ。北極船団は再開された。米軍はガダルカナルに上陸、原子爆弾計画がマンハッタン・プロジェクトとして正式に発足した。
 11月7日、およそ10万の兵士が陸海空から北アフリカに上陸した。三日間で連合軍は2400キロの海岸を確保した。トーチ作戦はドワイト・アイゼンハワーが初めて指揮した陸戦だった。民主党の保守派はいきおいづき、イギリスでもトーチとエル・アラメインでのモンゴメリーの勝利が士気を昂揚させた。
 米ソ融和策として、ルーズベルトはウェンデル・ウィルキーをモスクワに派遣した。物資援助と第二戦線のプレッシャーをかけ続けながら、スターリンはイギリスの二重基準を非難してやまなかった。ルーズベルトは三巨頭会談を行うべき、と提案したが、スターリンは拒んだ。スターリンの目下の関心はスターリングラードの勝利にあり、もう少し軍事的に優勢な段階で巨頭会談に臨みたかったのである。
 1943年1月、チャーチルとルーズベルトはカサブランカで落ち合った。ルーズベルトとしては現職大統領、初めての空路による海外公務出張だった。カサブランカはドイツ空軍の勢力範囲で、ときどき空襲警報が鳴った。並行した幕僚長たちによる軍事会議で、イギリスはフランス上陸よりも、地中海作戦、シチリア侵入そ主張し、ルーズベルトの支持を得た。中国とビルマをめぐっても議論が長引いた。蒋介石は、イギリスとロシアに比べると、アメリカは中国を未成年者のように扱っている、と不満を述べていた。アメリカの軍事顧問、ジョセフ・スティルウェルは、国民党軍は日本軍との戦闘を抑制し、戦後の共産党軍とのたたかいに力を温存している、と報告していたが、ルーズベルトは戦後のアジアの空白をを埋めるため、中国を大国として育てたい意向だった。モスクワ訪問の帰途、重慶に立ち寄ったウィルキーは、蒋介石夫人と一夜を過ごした。
 トーチ作戦以後、フランスと北アフリカの状況は大きく動いてきた。アメリカはヴィシー政府と外交関係を絶った。ルーズベルトは個人的に自由フランスの指導者、シャルル・ド・ゴールをあまりにも独裁的であるとして嫌っていた。一方アメリカが保護している、ヴィシー政権で内務相をつとめたのち、ドイツの抑留から脱走してきたアンリ・ジロー将軍に対する評価も低かった。またこの二人は犬猿の仲でもあった。しかし枢軸と戦うフランスを統合するためには、この二人の和解が不可欠だった。カサブランカに招いた二人の説得は容易なことではなかったが、ルーズベルトとチャーチルは何とか成し遂げた。二人は嫌々ながら握手をし、記念写真におさまった。南北戦争で、グラントとリーの二人の将軍の会談を設定するのと同じくらい難しかった、とルーズベルトは述べた。突然思い出したが、とルーズベルトは続けた。グラント将軍は、「無条件降伏」という言葉で有名になったが、自分も敵に対しては、この言葉を以て連合軍の政策の定義づけをしたい、と言った。思いつき、ということになっているが、この言葉を周到に準備していたメモがある。スターリンは、これがドイツの決心を頑なにしかねないことを懸念した。ドイツ軍はスターリンで降伏した。タイム誌は、スターリンを、マン・オブ・ザ・イヤーにした。>
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2009/05/24

Alliance - 9 モスクワの夜は更けて(ミッドナイト・イン・モスコー)

 モスクワ
 1942年8月
ーあの男に侮辱された。これからは、一人で戦うことだね。   チャーチル


 チャーチルは、今回は「ミスター・グリーン」というコード・ネームで、アメリカのB24改造爆撃機で、カイロ、テヘラン経由、モスクワに到着した。モロトフが出迎え、短いスピーチのあと、チャーチルは儀杖兵ひとりひとりの顔を覗きこむように閲兵をした。宿泊先のスターリンのダーチャ(別荘)に入った。チャーチルがバスルームに入ったのち、同行の主治医ウィルソンは叫び声を聞いた。首相はバスタブに坐り悪態をついていた。蛇口のキリル文字の意味がわからず、かれは冷水を浴びたのだった。
 夜、チャーチルはクレムリンを訪れた。スターリンはモロトフ、ヴォロシーロフ元帥と通訳とで待っていた。「ようこそモスクワへ、首相閣下」、スターリンは無表情に挨拶した。チャーチルは満面に笑みを浮かべた。スターリンは、前線のニュースが「冴えない」と言い、問題は単純だ、西側はナチスの矛先を変えるのに何をすれば良いのか、だけなのだ、と言った。「第二戦線の話をしたいのですね?」、チャーチルの質問に「ご随意に」と答えた。チャーチルは、モロトフのロンドン訪問の最後に渡した覚書で、1942年に海峡を渡る約束は何もしていない、と言及し、しかし、翌年の実行のためにロンドンとワシントンが27個師団を準備中である、と伝えた。 チャーチルは海峡横断作戦の難しさは、1940年にヒトラーが英国侵攻できなかったことを例に挙げた。「いまの状況には当てはまりませんよ」、スターリンは言った。「英国は国を挙げて抵抗するだろうが、フランス人は大歓迎するだろう」。
 チャーチルは、第二戦線は北フランスばかりとは限らない、とトーチ作戦の概要を話した。時期について質問があり、おそくとも10月末まで、と返事をした。モロトフは9月の方が良いだろう、と口をはさんだ。「神よ、この試みを成功させたまえ」、とかつての神学生、いまの無神論共産国家の首領が叫んだ。
 第二回会談でソ連の態度は変った。ソ連側は、フランスの1942年における第二戦線の開設は、モロトフ訪問時に明確に合意されていた、と主張した。チャーチルの覚書への言及はまったくなかった。スターリンは最高に不愉快な状態にあるように見えた。論議は平行線をたどった。翌夕のクレムリンの宴会で、スターリンは、チャーチルがロシア内乱のときに、ボルシェビキに敵対干渉をしていたことを思い出させた。それには色々わけがある、「赦してもらえますか?」チャーチルは訊ねた。「みなもう済んだことです。済んだことは神様のものなんですよ」、と答がかえってきた。
 午前1時30分、チャーチルは立ち上がり、意味ありげに「さようなら」と告げた。ダーチャに戻ったチャーチルは、相手から新しい動きがないかぎり、話は終わらせるつもりだった。
 一触即発の雰囲気のなかで、鍵を握ったのは駐ソ、英国大使のクラーク・カーだった。かれは当初のチャーチルたちの楽観論にタテついたのでチャーチルに嫌われ、第二回会談以降同席を禁じられていた。チャーチルの弱点の一つは、まわりにイエス・マンが多すぎ、「聞きたい話だけを聞いているのだ」。クラーク・カーは翌朝散歩しているチャーチルをつかまえて説得した。「あの男はわたしを侮辱した、これからは一人で戦争するのだ」。スターリンが単独で戦うことになって、ロシアが負けたらどうなりますか?どれだけのイギリス、アメリカの若い生命が犠牲になるか・・?クラーク・カーは注意した。ロシアを見棄てると、チャーチルはソ連をナチスに進呈した男となり、政治生命はそこで絶たれると。
 チャーチルは再度スターリンに会った。言葉の問題を懸念して、チャーチルは通訳を大使館スタッフの武官、バース少佐に変えた。スターリンは通訳を見て目を細めた。第二戦線の話が蒸し返された。
 だんだんとスターリンの気分が晴れてきたようだった。「クレムリンのわたしのアパートで一杯やりませんか?」「そういうお誘いは断ったことがありません」。スターリンの住居に向かった。16歳の赤毛の娘、スヴェトラーナがお客に挨拶をした。両者は意気投合し、コミュニケの作成のために英文タイプライターが持ち込まれ、バースが清書した。二国政府は、ヒトラー打倒に全力を尽くす、会談では「至情と完璧な誠意」が示され、「ソビエト連邦、大英帝国、アメリカ合衆国の同盟関係のもとに緊密な友情と相互理解」が再確認された。
 チャーチルはルーズベルトに、「アンクル・ジョーを袋に閉じ込めた」と打電した。しかし、クレムリンの一夜の盛宴がソビエトの疑念を払拭するものではなかった。ケンブリッジ卒業生によるモスクワのスパイ網が、チャーチルの反ソ的陰謀の証拠を捉え損なったとき、モスクワは、フィルビー、バージェス、マクリーンその他を英国の二重スパイである、と断定した。
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2009/05/23

Alliance - 8      たいまつ(トーチ)の歌

 ハイドパーク、重慶、ワシントン、ロンドン
 1942年6-7月
ー戦略のちょっとした行き違い       マーシャル


 「ミスター・ワインシュタイン」と変名を使ったチャーチルは、スコットランドから王室郵便飛行艇でワシントン、ポトマック河畔に着水した。翌日はハイドパークへ飛んだ。ルーズベルトは特別仕様の、ペダルを使う必要のないハンド・ギアの幌付きフォードを自身で運転し、飛行場まで出迎えた。ドライブは二人だけで話を交わせるまたとない機会となった。
 ハイドパークの会談では原子爆弾の共同開発も合意されたという。しかし、この問題は、アメリカ人はロンドンが只乗りするのではないか、イギリス人はワシントンが原子兵器を独占するのではないか、と互いに疑心暗鬼で、その後いささか暗礁に乗り上げた。第二戦線に関して、チャーチルは、アラン・ブルックより、作戦(スレッジハンマー)は舟艇の不足でうまく行きそうもない、と聞かされていた。この辺、アメリカ側の兵力の詳細、上陸地点など具体的な計画をチャーチルはルーズベルトに訊ねたが、ルーズベルトは答えられなかった。
 ワシントンで、二人は、軍司令官たちを交えて三回目のサミット、暗号名アルゴノートを行った。アメリカの陸軍長官、ヘンリー・スティムソンは、できるだけ早期に米軍をドイツとの戦闘に投入すべきだという意見だった。サミット協定の最終案は、北フランスへの上陸作戦(スレッジハンマー=ラウンドアップ)に優位はおくものの、その前に北アフリカへ上陸するべきである、という結論になった。ある日の朝食後、チャーチルがホプキンスたちとオーヴァルオフィスに坐っていると、一人の海軍補佐官が入ってきて大統領に紙片を渡した。一読してルーズベルトは、「これをウィンストンに見せなさい」と言った。知らせは、トブルクでの英軍のロンメルへの降伏を告げるものだった。
 チャーチルは急遽滞在を切り上げた。地方の補充選挙で保守党は敗北した。戦争のやり方についての英国世論の支持は50%を割り込んだ。ロシア支援の貨物船団34隻のうち、23隻がドイツの潜水艦と航空機に沈められ、チャーチルは北極航路の船団を秋まで中止させたが、このことはスターリンを怒らせる結果になった。
 米側の軍人たちは、ルーズベルトが北アフリカ進攻に関心を示すことには嫌な顔をした。6月のミッドウェイの海軍の勝利はアメリカの自信を深めた。共同幕僚部イギリス代表のジョン・ディルは、北アフリカ作戦に英側が固執すると、ワシントンは前線の矛先を変えるかも知れない、とロンドンに警告した。しかし、ルーズベルトは、「太平洋へ切り替える別路線」に乗らなかった。それは真珠湾以後のドイツの狙い通りになるし、ロシアの掩護にもならないからだった。かれはマーシャル、ホプキンス、海軍のキング提督をロンドンに派遣し、協議を続けさせることにした。ホプキンスは7月30日に結婚する予定だった。未来の花嫁は、出発するホプキンスに向かって「その日大丈夫よね」と言った。
 英米軍事協議は難航した。報告を受け取ったルーズベルトは、結局、1942年におけるフランス攻撃計画を放棄した。自身の59回目の誕生日、ブルックはジョージ・マーシャルと二人だけで「大変楽しい友好的な雰囲気」の夕食を摂った。
 大統領が賛成したからには、北アフリカ上陸はできるだけのスピードで実施されなければならない。準備はすぐ始める必要がある。「全速前進!」とルーズベルトは指示した。「どうか投票日の前にしてください」と両手をあわせてルーズベルトが祈る声が聞えてきた。
 北アフリカ上陸作戦には、たいまつ(トーチ)というコード・ネームが与えられた。ひとつちょっとした問題があった。モスクワに伝達しなければならなかったのである。ルーズベルトはロンドンに電報を打って、「アンクル・ジョー」の面倒をよく見るように言ってきた。チャーチルはマイスキーをダウニング街に呼んだ。自分はこれからカイロに飛び、そのあとロシアでスターリンに会い、「いっしょに戦況の分析をし、手を取り合って決めて行く」と伝えた。
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2009/05/22

Alliance - 7      人民委員(モロトフ)の訪問

 モスクワ、ロンドン、ワシントン
 1942年5-6月
ーロシア人をイコール・パートナーとして仲間に入れずに、イギリス人とわれわれだけで世界をまとめて行くのは無理である。     ホプキンス

 
 ホプキンス、ハリマン、ビーヴァーブルック、そしてイーデン、みなモスクワへ行った。今度はスターリンが西側に使節を出す番だ。1942年5月20日、モロトフはスカンディナヴィア半島をソ連爆撃機で横切り、スコットランド経由、汽車でロンドンへ向かった。この車中で、かれはイギリスのスパイとして抱き込まれたという説がある‐これは後年のスターリンの死によって救われたのだといえる。かれは政権の仲間のなかでは高い教育を受けていたが、いささかどもりで、無表情、冷たい眼をしていた。
 モロトフの大きな懸案事項は二つ、第二戦線開設問題と国境問題である。スターリンはバルバロッサ作戦以前の国境と、フィンランド、ルーマニアの赤軍駐留基地を確認する秘密協定を要求していた。しかし、アメリカは国境問題については強い反対姿勢を示していた。英米同盟をつなぎとめるためには、イギリスも態度を変え、強硬姿勢を取らざるを得なかった。モロトフはスターリンと協議の上、イギリスの協定案を受け入れることにした。その第5条には、両国は「自らの領土拡張を図らない、相互の国内問題に干渉しない、という二つの原則のもとに行動する」とあった。協定があろうがなかろうが、赤軍に恒常的に物資が供給されるのであれば、ロシアは領土を超えて進出してしまえば良いのだ。第二戦線については、モスクワの希望する効果が期待できるかは疑問だが、「年内には」という返事だった。
 5月末、ルーズベルトは従姉妹のマーガレット・サックリーに、「あまり楽しくない、滅多に笑顔をみせないお客がくる」と伝えた。モロトフの爆撃機はワシントンに到着した。
 第1回の会合は、通訳をはさみながらのやりとりとなったので、ルーズベルトもいつもの調子が出ず、もうひとつ打ち解けてこなかった。ルーズベルトは、晩餐のカクテルを作りながら、米英、ソ連それに中国が戦後の世界を管理する、という構想の話をした。国際連合を補強するためには、ワシントン、ロンドン、モスクワで経済の枠組みを作ろう。協定から国境問題が外れたことを喜んでいる、とルーズベルトが伝えると、モロトフは、英国に敬意を表し、大統領の立場も充分考慮したからだ、と答えた。会談は昼食会などでも進んだ。
 大統領が、同席していたジョージ・マーシャル(陸軍参謀総長)に、スターリンに、第二戦線の準備ができていると伝えられるか?と質問した。将軍は鸚鵡返しに「イエス」と答えた。会談は「完全な合意に達した」、という趣旨の共同声明が作成され、作戦は「1942年」と、具体的に記載されることになった。モロトフは、同盟国側ではもっとも最近ヒトラーに会った人物だった。訊かれて、ヒトラーは共通理解に達するのに難しい人間ではない、と答えた。
 モロトフはワシントンからロンドンに戻った。米ソの声明を踏襲した英ソ共同声明が出された。チャーチルは別途単独でモロトフと会い、コミュニケに記載された「合意」と、現実行動との相異を率直に示す覚書を手渡した。上陸用舟艇の動員問題の厳しさが指摘されていた。
 モロトフが別れを告げるとき、チャーチルはその腕を取った。たがいに顔を見合わせた。モロトフの外観のなかから突然人間が現われた。かれにもプレッシャーがかかっていたのだ。
 
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2009/05/21

Alliance - 6     結論未定(アンディサイデッド)

 ロンドン、ワシントン
 1942年1-4月
ースターリンは、あなたがた上層部の肚を嫌っている。  ルーズベルトからチャーチルへ。


 米英は、第二戦線とソ連の国境要求を封じ込めた。スターリンはほかの二人に対する圧力を緩めず、堅忍持久の態度を固守していた。戦線には大きな変化があった。日本はシンガポールを占領して、チャーチルに「わが歴史で最大の災厄」と言わしめた。北アフリカではロンメルが進撃し、ロシアでも国防軍が新しい攻撃を仕かけてきた。マッカーサーはフィリピンを撤退した。そうこうしているうちにも英米の不協和音が炸裂しはじめていた。
 イーデンは、かつて対独反融和主義者だったが、ソ連政府との実りある協力関係確立のために、スターリンの領土要求を認める立場をとった。アメリカのホプキンス、ハル、ウェルズなどは、戦後世界をニューディールを拡大したような民主主義の新しい秩序の世界とみており、平和の鍵は、自由貿易と、帝国主義システムの終焉にあると考えていた。一方、ニューディーラーのなかにはモスクワの信頼を得るため特別な行動を起こすものもおり、政府部内にはソ連のスパイが浸透していた。ルーズベルトはこれら疑わしいエージェントのリストを見せられたが関心を示さなかった。
 イーデンの執拗な意見により、チャーチルは方向を転じ、大西洋憲章は、モロトフ=リッベントロップ協定でロシアが得た領土を否定的に解釈するものではない、という意見をルーズベルトに伝えることになった。チャーチルは、またこのこと自体を、戦後のロシアの国境問題について、米英ソで協定を締結することを認めるようルーズベルトに伝えた、という形でスターリンにも報告した。
 ルーズベルトは動かなかった。別途、戦後の通貨協定の基礎となる作業が続けられていたが、前年、イギリス代表、ジョン・メイナード・ケインズが合意取得に失敗したあと、貿易と英帝国の特恵制度について新たな論争が巻き起こっていた。国境要求には反対していたが、ルーズベルトは、スターリンをうまく操縦できるという自信を持っており、直接ソ連と接触する動きに出ていた。
 ジョージ・マーシャル、ドワイト・アイゼンハワーなどアメリカの軍人たちは、早期に欧州で戦うことを望んでいた。ルーズベルトは、この年の中間選挙で苦戦することを予想していた。アメリカの世論は何かドラマティックな展開を期待していたのである。イギリスの世論の大部分は、スターリンは要求しすぎる、としていた。独ソ不可侵条約の記憶はまだ醒めていなかったのである。
 英国新任の参謀総長、アラン・ブルックは、アメリカのノルマンディ上陸作戦計画に大反対だった。ラウンド・アップ=スレッジハンマーと名づけられたこの作戦には、そもそも舟艇が不足しており、ドイツ空軍の脅威にさらされながら100キロ以上の海面を渡る必要があった。ブルックとマーシャルの間柄には、個人的な関係は別として、よそよそしいものがあった。早すぎた上陸がアメリカの世論を損なう危険もあった。ルーズベルトは焦点を太平洋に切り替えることにした。蒋介石と、米国軍事顧問、スティルウェルとが反目しているなか、日本軍はビルマを占領していた。しかし、ルーズベルト、チャーチル双方とも大西洋をはさんだ同盟国の間で不和は生じないよう、努力は続けていた。
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2009/05/20

Alliance -5     四人の交渉

 モスクワ、ワシントン、ロンドン
 1941年12月9日ー1942年1月14日
ー宣言といったものは代数のようなものだ。わたしは実用的な算術が好きだ。  スターリン


Ⅰ    西への航海
 真珠湾のあと、チャーチルが最初に考えたのはワシントンへ行くことだった。イーデンがモスクワに行っているときに、まずい、といいう意見もあったが、英国のトップが両首都に赴くのは「三大同盟国の重大問題解決に役立つでしょう」、とかれはジョージ六世に説明した。
 12月14日、かれは新鋭戦艦、デューク・オブ・ヨークに乗艦し、スコットランドから大西洋横断に向かった。アトリーを代理首相に任命した。チャーチルはルーズベルトに電報を打った。「さて、突然に戦争は勝つことになりました。英国は安全です」。
 現実問題として戦況は悲惨だった。ヨーロッパはファシストに支配されていた。Uボートは引続いて大西洋の海運を血祭りに上げており、イギリスはリビアのイタリア軍相手に得点を稼いでいたが、ロンメルが進攻してきた。日本は、フィリピン、蘭領東インド、マレーシア、シンガポール、ビルマ、香港を蹂躙しつつあり、チャーチルをプラセンシア湾に運んだプリンス・オブ・ウェールズをも撃沈していた。チャーチルは将官たちと戦略を練った。イギリスは北アフリカ上陸を最優先と考え、いずれにせよ、地中海に焦点をあてるべきだと考えていた。そこを英国の支配範囲と見ていたからだ。 
 米英が一致点を見出すのは難しそうだった。

Ⅱ    地図の書き直し
 チャーチルが西へ航海しているとき、イーデンは酷寒をついてモスクワに向かった。チャーチルがワシントンへ行くので、自分の影が薄くなる、と心配した。実際たいしたお土産は持たせられていなかった。かれは、過去チェンバレンと衝突して閣外に出た。枢軸国に対しては必ずしも強硬派ではなかったが、融和派とは一線を画した。自身、1935年にすでにスターリンと面会しており、ソビエト通と自認していた。
 モスクワ攻撃を退けたあと、スターリンは自信に満ちている、とイーデンはみた。スターリンは二つの条約案をイーデンに渡した。一つは軍事同盟に関するものであり、もう一つは欧州の戦後処理に関するものだった。ルーズベルトとチャーチルが、戦争の問題を超えて大西洋憲章を起案したように、スターリンは戦況の帰趨を無視して、戦後の領土確定問題に専心した。
 スターリンの案は、ドイツをばらばらにして、帝政ロシアの版図をしのばせる大規模な領土をソビエトに与えて安全保障地帯を確保させるもので、ソ連も署名した大西洋憲章には明らかに違反するものだった。またポーランドについては、ヒトラーと協定したときの国境をワシントンが同意してくれれば幸いだ、と言った。イーデンは、領土問題は三巨頭の会談まで待とうと提案した。ロンドンがバルト問題などのこまかい問題についても、いちいちワシントンにお伺いを立てないとならない、というイーデンの対応にスターリンはかなり傷ついたようだった。大西洋憲章は、世界制覇を目論む国家に向けて作られたと思っていたが、今やソ連に向けられているようだ、と皮肉を言った。イーデンは、単に時間が欲しいだけなのです、と答えた。
 イーデンの報告を受け取ったとき、チャーチルは海の上だった。1940年、英国はスターリンをヒトラーから切り離すため、代償として、バルト三国とポーランドの一部についてのモスクワの既得権を認めた。しかし情勢は変化した。英国はもう孤立していない。プラセンシア湾でルーズベルトが、終戦以前における領土問題の約定に対して反対したことを想起した。「当然スターリンに失礼があってはならないが、アメリカに対して秘密の協約をするわけには行かない」、そのために会談が不成功に終わってもやむを得ない、とチャーチルはイーデンに打電した。

Ⅲ    ワシントンのクリスマス
 スターリンがイーデンにさようならを告げたころ、デューク・オブ・ヨークは合衆国に近づいていた。ルーズベルトは妻に、お客がくる、とだけ言った。極上のシャンペン、ブランデー、そしてたくさんのウィスキーが用意された。
 ルーズベルトは、二回目のサミットが友好的に進むようできるだけのことをした。しかし、この二人は難しい決定を避けたので、それだけ将来の不協和音のタネが蒔かれた。二人はたがいに部屋を行ったりきたりした。あるとき、ルーズベルトが車椅子でお客の部屋に入ってきたとき、お客は素っ裸でピンク色の身体になってバスルームから出てきたところだった。ルーズベルトが謝って出て行こうとすると、「大英帝国首相は合衆国大統領に何も隠すところはありません」、という返事が返ってきた。
 北アフリカからは朗報が舞い込んだ。しかしチャーチルは依頼人の立場に徹することにした。ルーズベルトの米・英・ソ・中の最高戦争会議の構想は陽の目をみなかったが、大西洋両岸の関係は進展した。これはのちのNATOに結びつく。チャーチルのいう北アフリカ攻撃は幕僚たちには不評だったが、ルーズベルトはこれを支持した。
 日本軍はフィリピンを攻撃していた、チャーチルの懸念は、かれらがシンガポールにまで来るかどうかだった。アメリカ側が驚いたのは、チャーチルの作戦計画が、アメリカの兵力を英国の防衛に利用しようとする部分を含んでいることだった。
 クリスマス・イブの夜、ルーズベルトはチャーチルを案内して、ホワイトハウスの庭にあるツリーの点火式に列席した。3万人が集まっていた。チャーチルは、「合衆国の中心にいて、わたしは自分が外国人であるとは全く感じていません。世界中が大変な闘争のなかに閉じ込められました・・一晩だけ英語世界の各々の家庭は、幸福と平和の輝く小島でなければなりません・・自由で公正な社会に住む権利が拒否されないよう、われわれの犠牲と勇気を以て邁進しましょう」、と挨拶した。翌日は議会で演説した。かれはVサインで締めくくり、議員たちは歓呼の声を挙げた。ニューヨーク・タイムズは「新しいヒーロー」と謳った。
 チャーチルはオタワを訪問した。帰りの汽車のなかで「さあ、1942年だ!しんどい年、闘争と危険の年、勝利への長いみちのりの年だ!」と記者団に語った。
 ロンドンでは、イーデンがモスクワとの妥協点を説明しながら、戦時内閣と戦後のソ連の国境問題を協議していた。かれはチャーチルに電報を打ち、1941年の国境を認めるよう、ルーズベルトと協議することを要請した。チャーチルは、戦後の欧州をモスクワが支配する、という考えを拒絶した。戦後、ソ連は援助が必要になる筈で、いずれにせよ米英が主導権を取ることになるだろう、と思っていた。
 
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2009/05/19

Alliance ‐4     世界大戦

 ワシントン、チェカーズ、モスクワ、重慶、ローマ、ベリリン
 1941年12月6-12日
ーわれわれは、いまや、みな同じボートに乗った。   ルーズベルト
 

 1941年12月6日の夜、ルーズベルトはオーヴァル・オフィスでホプキンスとおしゃべりしながら趣味の切手収集の作業をしていた。一人の海軍士官が、ワシントンの日本大使館あてに東京から打電された長い傍受電報の最初の13の部分を翻訳したものを持って飛び込んできた。「これは戦争だね」、目を通したルーズベルトはそれをホプキンスに渡した。ホプキンスは、アメリカが先制攻撃できなかったことを口惜しがった。「いや、それはやっちゃいけないんだ。われわれは民主主義で、平和愛好国民なのだからね」。12月7日日曜日、午前10時30分、最後の電文が入ってきた。それには、これ以上交渉の余地はない、と書かれていた。昼食のとき、海軍長官、フランク・ノックスが電話をかけてきて、真珠湾攻撃の第一報をつたえた。
 4800キロ離れたチェカーズにいたチャーチルは、日曜日の夜、ハリマンと夕食を摂っていた。臨時ニュースが、米国がたったいま真珠湾を攻撃されたと発表した、と報道した。
 ホワイトハウスに電話がつながった。「日本がどうかしたのですか?」チャーチルが訊ねた。「みな本当なんだよ」ルーズベルトが答えた。「やつらは真珠湾を襲った。われわれはいま、みな同じボートに乗ったんだよ」。
 モスクワでニュースは西側報道機関からつたわった。赤軍はモスクワの外側で国防軍に抵抗していたが、戦況はそれで手一杯だった。スターリンは4月に東京と締結した中立条約を命綱とみていた。
ルーズベルトから共同行動を呼びかけられたときは、それを太平洋の戦いに巻き込むトリックではないか、と疑った。モスクワでの軍事会議の提案にも乗らなかった。ワシントンのシベリアに軍事基地を設けたい、という提案も蹴っていた。
 ロンドンで、シャルル・ドゴールは、真珠湾の重大性に疑いを抱いていなかった。「戦争は終わった。この工業力の戦争でアメリカに勝てるものはいない」。
 重慶では蒋介石が「アヴェ・マリア」のレコードに続くニュースでマイクの前に立った。中国は、12月9日、ドイツ、イタリア、日本に宣戦布告した。東京との紛争は「事変」であることをやめたのである。中国は同盟国の戦争努力をアジアにおいて分担する、と宣言した。
 ヒトラーは、ニュースがとどいたとき、東プロシアの「狼の巣」で夕食中だった。かれがロシアに攻め入ったとき日本に知らせなかったように、日本も攻撃を通知してこなかった。ヒトラーのモスクワ進撃は阻止されていた。総統の機嫌は悪く、老いて陰鬱にみえた。
 枢軸側にとっては巨大な敵の出現となったが、ヒトラーはアメリカは半分ユダヤ人、半分黒人の国で商業主義に冒されており、太平洋で泥沼に陥り、イギリスとソ連に対する援助を減少させるだろう、とみていた。
 12月12日、ムソリーニはベネチア広場で15万人の前で演説した。しかし群集の反応はいまひとつだった。昼食前だったことと、この日の寒さのせいにされた。
 ドイツは米国に宣戦した。ルーズベルトは、初めて一国全体をしたがえることになった。
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2009/05/18

Alliance - 3    アンクル・ジョー

    モスクワ 
    1941年9月
ーそこには、まだまだ長く困難な道程(みちのり)があった。    ルーズベルトとチャーチル


 サミットの三日後、スターリンは米英からの「ドイツを打ち負かすために、ソ連の勇敢かつ着実な抵抗がいかに重要かを認識している。真の意味での最大規模の物資が供給される」、というメッセージを受け取った。ルーズベルトは、重大視しているあらわれとして、ホプキンスをソ連向け援助担当に任命した。ドイツ軍のモスクワ攻撃は準備段階にあり、多くの西側観測者はソビエトの崩壊をここ数週間の問題とみていたが、ルーズベルトは、ソ連が持ちこたえれば、チャーチルの、アメリカを戦争に引き入れるという目標を少しでも遅らせることができると思っていたし、英国にとっても、ドイツの矛先を西部戦線からそらせる、という意味で、ソ連の生き残りは死活的に重要な問題だった。
 とはいえ、1939年の独ソ条約、赤軍の東側からのポーランド侵入、フィンランド攻撃、1940年、モロトフがベルリン訪問で英帝国の切り分けを提案したことなどの記憶を、チャーチルが消し去ることは難しかった。スターリンの欲するものは、バルカンかフランスへの攻撃であり、3万トンのアルミニュームであり、最低月間400機の航空機と500台の戦車だった。マイスキーがチャーチルに、スターリンの「このままでは負けてしまう」というメッセージを手渡したとき、チャーチルは、「たった4ヶ月前まで、われわれはあなたがドイツ側に立つのかわからなかったのですよ。お国はわれわれに文句をいう資格はありますまい」と述べた。
 第二戦線問題はその後三年間、何回も繰り返された議論となった。西側には兵員と上陸用舟艇が不足していた。スターリンも本当にできるとは思っていなかった。北フランスへ上陸する、という脅しだけでドイツ軍25師団を釘付けにする、という戦略だった。そしてモロトフはそのかわりに必要物資を調達したのである。
 イギリスからはビーヴァーブルック卿、アメリカからはアヴェレル・ハリマンがソ連への使節となって三国のハイレベル協議が開始された。三回の会談で、ソ連は1ヶ月に航空機200、戦車250、トラック1000台の供給を約束された。ほかに3億4千万ドルにのぼる鉄鋼、アルミ板、有刺鉄線など、そして1500万ドル相当の医薬品が加わった。ビーヴァーブルックは、チャーチルをモスクワに招待することを示唆した。「かれは来るかね?」スターリンが訊いた。「あなたが仰れば来るでしょう」とビーヴァーブルックは答えた。会談はこの上なく和やかに終了した。しかし、並行していた軍事会議は膠着していた。ロシア人たちは秘密主義でほとんど情報を与えなかった。欲しいものだけ取って何もあたえなければ、ヒトラーの思いのままにされますよ、と言いたかったが、ワシントンとロンドンは対決を避けた。
 船積の遅延がスターリンを苛立たせた。ルーズベルトは国内でソ連援助に反対する意見を片づけなければならなかった。チャーチルはイーデンをモスクワに派遣して、空気を打開させることにした。チャーチルは単独で日本と戦う羽目に陥るのを警戒していたが、アメリカはまだ軍事力増強の時間稼ぎをしており、ルーズベルトと国務長官のコーデル・ハルは、日本とのまわりくどい交渉に明け暮れていた。歴史を変える行動は、またもや枢軸側からやってくることになった。
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2009/05/17

Alliance - 2     (つづき)

Ⅲ    憲章騒動
 8月9日朝、プリンス・オブ・ウェールズはプラセンシア湾に錨をおろした。ホプキンスは大統領に報告するため、すでに米軍艦に乗り換えていた。ルーズベルトは、オーガスタのデッキで、帽子を胸にあててイギリス戦艦に敬意を表した。チャーチルも後甲板に立ち、海軍帽に指を添えた。甲板長の笛がひびき、水兵が歓呼の声を挙げ、軍楽隊が両国歌を吹奏した。チャーチルが乗船し、二人は握手を交わした。「とうとうごいっしょになりましたね」、ルーズベルトが言った。「ええ」、チャーチルが答えた。昼食の席へ二人は降りて行った。ホプキンスだけが伴われた。
 会話は最初は順調だったが、すぐにすれ違ってきた。チャーチルは、日本を厳しく警告するよう迫ったがルーズベルトは躊躇した。英国首相としてはこの会談で具体的な成果を持ち帰りたかったのだが、大統領は、これは相手がどんな人間か判断するだけの機会だと思っていた。続く三日間、会談は二隻の軍艦を行ったりきたりした。参戦問題については、アメリカ側は一般論に終始して、言質を与えるつもりがないことがはっきりしてきた。まるで「鮫のはびこる海岸で、海に入るのを嫌がる海水浴客」のようだった。
 アメリカの陸軍参謀総長、ジョージ・マーシャルは、イギリス人は古めかしい陰謀の専門家たちで、アメリカの国力を英帝国の盾として利用しようとしている、とみていた。英国は、「一般戦略概況」を作成し、勝利の力点を「封鎖、爆撃、破壊」に置き、1万機の航空機の供給を要請した。マーシャルは、ドイツを空から攻める考えには反対した。戦闘は、最終的には陸軍の使用なくして勝てない、と主張した。チャーチルの悪夢は、連合軍がフランスに侵入してドイツ国防軍にたたかれる、ヒトラーには二度目の風が吹き、アメリカの欧州戦争に対する世論が反転する・・場面にあった。チャーチルの脳裏には第一次大戦の大量の犠牲が離れなかったのである。
 ドイツは、ロシアを席捲し、ヨーロッパではだれからの挑戦も受けておらず、近東ではイギリスを脅威にさらし、Uボートは大西洋で暴れまわっていた。日本は東南アジアを狙っていた。手も足も出ない状況ではあったが、ルーズベルトとチャーチルは、戦場の問題にとどまらない「原則」を作ってみることにした。かれらは旗印として、偽善的ではあったが、枢軸勢力に対する戦いを「善い戦争」にする必要があったのである。作業は英米の二人の外交官、アレクサンダー・カドガンとサムナー・ウェルズに委ねられた。
 草案の、「すべての国が、世界の市場と原料に接し得る、分け隔てのない、平等な、自由の享受」云々に関して、チャーチルは、これは英連邦の特恵体系にも適用されるのか、と質問した。基本的な問題点だった。延々と議論が続き、チャーチルは叫んだ。「ミスター・プレジデント、あなたは大英帝国を解体しようとしている!」。しかし、ここで英米が合意できなければ問題を投げ出したと同じことで、この状況はそのまま戦後に残ってしまう。貿易協定は、「既存の責務に正当な配慮を払いつつ・・」締結される、という一句が加わることになった。
 ほかにも曖昧な箇所があった。「すべての人々の、政体を選択する権利・・」について、アメリカ人は植民地一般に適用する、と解釈したが、チャーチルは、これはファシスト国家に適用されるもので、英帝国に適用される筈はない、と考えた。
 大西洋憲章が発表された。アメリカは、戦争に一歩近づいたのですか?との記者団の質問に、大統領は、「ノー」と答えた。
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2009/05/17

Alliance - 2    (つづき)

Ⅱ    四人目の男
 ルーズベルトとチャーチルの最初のサミットのお膳立てをしたのハリー・ホプキンスである。かれは3年というものホワイトハウスに住み込んでいた。そのレゾン・デートルは「大統領の胸のうちを理解する、感じる、予想する、しばしば推測する‐そして通常正しく推測する」という点にあった。かれは「同盟」の修理工として、風通しをよくするために、また不統一きわまるルーズベルトの官僚たちに秩序を持ち込むべく休みなしに働いた。しかし1937年に胃の三分の二を摘出しており、常に病気がちだった。
 1940年末から翌年にかけて、チャーチルの救援要請に対して、ルーズベルトは個人的特使としてホプキンスを英国に派遣した。ホプキンスはチャーチルとの信頼関係を築くことに成功した。7月、ホプキンスの二回目の訪問時には、閣議の席での同席も許された。7月19日、チェカーズのチャーチルの別荘に誘われて懇談中に、ソ連大使のイワン・マイスキーがチャーチルを訪ねてきた。マイスキーは、スターリンからの、イギリスのフランス上陸を促す緊急メッセージを携えていた。チャーチルはそビエトの苦境に深い同情を示しながらも、いまは実際的ではない、と断った。チャーチルは応接室にマイスキーを案内し、ホプキンスを紹介した。
 チェカーズで会ったお客の重要性を認識したマイスキーは、次の週の昼食のアポイントを取った。この機会に第二戦線確立の協議に持って行くつもりだった。ホプキンスは注意深くマイスキーの話を聞き、「ソ連に対する明白な同情」を示した。「合衆国は目下交戦国ではない、したがって第二戦線についてあなたがたを助けることはできないが、物資の供給は別問題です。何が良いのか教えてください」、とホプキンスは言った。マイスキーは、「あなたご自身でモスクワに来られませんか?そしてソ連政府から直接お聞きになったら?」と応えた。
 ルーズベルトはかれのモスクワ行きを承認した。ホプキンスはカタリナ水上機に乗って、アルハンゲリスク経由、モスクワに向かった。ちょうどその頃、百万の赤軍がキエフとスモレンスクで釘付けとなっていた。ミンスクは30万の犠牲を払った上陥落した。ドイツ軍はレニングラードに進軍していた。機中から広大な森林を見下ろしながら、ホプキンスは、常勝のドイツ国防軍や空軍といえどもこの巨大な国を支配することはできまい、という印象を深くした。
 クレムリンでかれはスターリンと会った。あとはモロトフと通訳がいるだけだった。ナチスは国家間の最小の倫理基準を破り、「現代社会の反動勢力」となった、この点で米ソの見方は一致している、とスターリンは発言した。スターリンの話し方は簡潔で、ワシントンとロンドンの議論と違って、会話がビジネスライクに進むことに感心した。ホプキンスは、できることは何でもやるつもりです、と述べた。合衆国が参戦するか、という微妙な問題について、スターリンは、今後ホプキンスをチャネルとすることにした。ホプキンスは、質問に対し、ヒトラーがアメリカの利権をどれだけ侵害するかによる、と答えた。ただし、日本の問題を別にすれば・・。かれはスターリンが東京と敵対関係にならぬよう警戒していることを知っていた。しかし、ヒトラーの侵入を予言した大物スパイ、リヒアルト・ゾルゲが、スターリンに、東京はソ連を攻撃するつもりがない、と伝えていたことまでは知らなかった。
 疲れきったホプキンスは、スカパ・フロー基地のプリンス・オブ・ウェールズに戻り、18時間眠り続けた。船は大西洋横断の旅に出た。乗っているチャーチルはスターリンのお土産のキャビアを大いに喜んだ。
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2009/05/16

Alliance - 2    第1回のサミット

 ニューファンドランド プラセンシア湾  
 1941年8月9-12日
ーついに・・われわれはいっしょになった。   ルーズベルト


Ⅰ   歩み
 1941年8月、ルーズベルトは母親を喪ったばかりでもあり、健康状態は良くなかった。インフルエンザ、静脈不全、腸疾患、心臓肥大による高血圧、に見舞われ、痔の下血による鉄分不足もあり、ホワイトハウスに閉じこもりがちだった。しかし、近東で勝ち続けロシアに押し寄せるナチスにどう立ち向かうか、イギリス代表と秘密の軍事協議が行われていた。50隻の駆逐艦が提供されることになり、交戦国への輸出を制限する中立法も緩和された。英国の戦費は枯渇しはじめ、1282隻の商船がドイツの潜水艦に沈められた。アメリカの議会はレンドリース(武器貸与)法を可決しており、1941年5月、ルーズベルトは「無期限国家非常事態」を宣言していた。それでもかれは議会に参戦を求めてはいなかった。
 1940年再選時の共和党の相手、ウェンデル・ウィルキーは、孤立主義者(イソレーショニスト)として全力で戦ったがルーズベルトに敗れた。しかし、反戦論者は、ヘンリー・フォード、チャールズ・リンドバーグ、セオドア・ルーズベルト・ジュニアなどと広汎な連携を組み、ハースト系新聞と、シカゴ・トリビューンなどが参戦反対の空気を煽り立てた。
 イギリスは、米国内で密かにプロパガンダを企てた。英国安全保障共同行動(BSC)というプログラムである。偽のアメリカの対独戦争計画をでっち上げ、「FDR(ルーズベルト)の戦争計画」として大々的に新聞に載せ、ヒトラーに対米宣戦をさせるつもりだったが、ヒトラーはその手に乗らなかった。
 アメリカは地球の反対側でもうひとつ問題を抱えていた。1937年、日本は中国と全面戦争を開始したが、東京は注意深くこれを「事変」と呼び、アメリカの対日輸出の中断を回避した。アメリカもこの虚構につき合った。ニューイングランドで教育を受けた蒋介石夫人は、アメリカのラジオ放送を通じて援助を呼びかけ続けたが、アメリカは常にイギリスを優先した。石油の禁輸処置が東京を平手打ちにした。合衆国内の日本資産は凍結された。しかし国務省は、新しい首相の東条大将はもう少し物分りが良いかも知れぬ、と交渉を続けていた。
 8月4日、サングラスをかけた大統領はロングアイランドの魚釣りに出る様子で、ヨットのポトマック号から観衆に向かって手を振った。かまえたシガレット・ホルダーが大統領であることを教えていたが、これは替え玉の水兵だった。ルーズベルト本人は、重巡洋艦オーガスタに乗って大西洋に向かっていたのである。400キロの船旅ののち、オーガスタはニューファンドランドのプラセンシア湾に入った。
 ウィンストン・チャーチルは、英国のもっとも華麗な戦艦、プリンス・オブ・ウェールズで大西洋を横断した。かれにとって首相就任以来もっとも重要な旅になった。英国の将来を決める国のリーダーに会うのである。「好きになってもらえるかな」、かれはルーズベルトに与える自分の印象に気を遣った。
 レンドリースによる援助物資はイギリスの必要度にまだまだ足りなかった。また条件も厳しく、アメリカ側にも援助は輸出を阻害する、という批判があり、双方に不満が残っていた。
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2009/05/15

Alliance - 1     バッファロー、熊、そしてドンキー

ー世界平和の枠組みは・・・世界全体の協調に基づく平和でなければならぬ。  フランクリン・ルーズベルト

 戦争は第一次大戦とくらべて途轍もなく拡がった。大西洋、太平洋を横切り、ヨーロッパとアジアを通り抜け、北極から北アフリカにまで及んだ。1939年から1945年まで、2174日の戦いで5千万以上が死んだ。北米は被害を免れたが、ソ連の資本財は4分の1が破壊され、ドイツと日本は真っ平らになってしまった。
 英国は下り坂を歩んでいた。ボルシェビキ革命のあとソ連に根をおろした巨大な政府は、同盟のほかの二国に対して確固たる存在となった。アメリカの軍事支出は大恐慌からの回復を可能とし、ルーズベルトは手管を用いて帝王的な大統領として君臨した。軋轢のなかから国際連合、国際通貨基金、世界銀行などの機構が実現し、主導権争いは偉大な技術的進歩を生み出した。原子爆弾、コンピュータを促進した暗号解読機などである。
 英米軍は基本的に赤軍と行動をともにしたことはない。西側同盟国が二正面で戦争をしていた間、スターリンは1945年夏まで日本との不可侵条約を継続した。アメリカ参戦の以前からワシントンとロンドンは詳細な軍事協議を始めていたが、基本的戦略には相異があった。アメリカは北フランスのドイツ軍に一槌をくだすべきだ、と主張していたのに対し、イギリスは北アフリカと南ヨーロッパの「柔らかい下腹部」を叩く間接攻撃を支持した。アジアでは、ルーズベルトは中国を戦後世界の四人の警察官のひとりと考えていたが、チャーチルは、中国は膨大な援助を期待するだけの国で、機会を与える必要はない、という意見だった。真珠湾攻撃の前からルーズベルトは、英国を第一線の防禦線として、アメリカは形の上では中立国ではあるが、英国にさまざまな援助を与えていた。しかし、1943年夏以降、ルーズベルトはスターリンとの二国対話を模索していた。
 チャーチルの回顧録にはこのあたりの複雑怪奇な同盟関係の動きが述べられている。三国の政策の違いは救いがたいものになりつつあった。ワシントンは領土問題を取引材料とすることを拒否したが、スターリンは大幅な安全保障地帯を設けるべき、と地図上に仕切りを示した。ルーズベルトは植民地の終焉を望んでいた。チャーチルは自分は大英帝国を解体する権限を持たない、と宣言した。ルーズベルトが、勝利ののち二年で米軍を欧州から撤退させる、と言いだして以来、チャーチルは徐々にソ連の力に懸念を抱きはじめた。しかし、ルーズベルトはスターリンのあしらいに自信を持っているつもりで、ソ連に、ニューディールによく似た体制が出来上がることを期待していた。
 同盟が成立したとき、 チャーチルは67歳、スターリンは62歳、ルーズベルトは59歳だった。チャーチルは母親がアメリカ人だったが、本人はまるまる英国人だった。「英語を総動員して」国民を戦争に駆り立てたが、この戦争の惹き起こした「変化」にはついて行けず、勝利のあとの新世界の人間ではなかった。ルーズベルトは、「アメリカ人とは何でもやってのける国民」の権化のような人物だった。ホワイトハウスでの12年、最初の100日間の大恐慌退治の暴風雨にはじまって、かれは自らを無上の政治アニマルに仕立て上げた。グルジアの貧しい靴屋の息子から立身したスターリンは、革命資金獲得のための銀行強盗を働く前、ロシア正教の神学校で学んだ。権力を握って、人間世界の超法規的存在と自認しはじめた。
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2009/05/15

Aliance - プロローグ テヘランの晩餐

  1943年11月29日
ー同盟国の利点は、唯一、持った方がましだということだ。   ウィンストン・チャーチル


 1941年8月から1945年8月までの4年にわたるこの物語は、映画的手法で、ほぼその真ん中のエピソード、ビッグ・スリー(ルーズベルト、チャーチル、スターリン)が初めて顔を合わせたテヘラン会談の一場面から始まる。
 豪勢なロシア料理の晩餐会の席上、スターリンは意識してチャーチルを挑発し続ける。チャーチルは我慢していた。スターリンは、ヨーロッパ西側での第二戦線開設の英国側の遅延に、大いに不満を持っていたのである。英国はドイツに対する隠れた愛着があるのではないか、「柔軟和平」を持ちかけるつもりだろう、とスターリンが言及したときでもチャーチルは抑制した。
 1940年に首相となったチャーチルは、ルーズベルトの友情を得るために心血を注いだ。一方、ルーズベルトの目的は、スターリンの信頼獲得にあり、この疑り深い独裁者に、自分のことをいささかなりともイギリス寄りと目されるような言動は絶対に取るまい、と心に決めていた。チャーチルから提案のあった英米二国の予備会談を断ったルーズベルトは、テヘランのソ連公使館を訪れて、スターリンと二人だけで会っていた。1940年、独ソが手を握ったため、ヒトラーと単独で戦う羽目に陥ったことのあるチャーチルとしては、このことが面白い筈はない。
 晩餐の終わりに、ルーズベルトの首席補佐官、ハリー・ホプキンスがソビエト軍のために乾杯をした。それに応えてスターリンは、ドイツ軍の参謀将校の話をした。少なくとも5万人、いや10万人の高級将校を即決で射殺しなければならない、と述べた。
 チャーチルは切れた。「その考えは英国の正義の感覚に合わない。ナチであろうがなかろうが、だれでもその場で銃殺隊の的になって良いわけはない」。スターリンは、「5万人は殺されなければならない」ともう一度呟いた。チャーチルは、「わが国の名誉がそんな侮辱で汚されるくらいなら、この場でわたしを射殺してくれ」と大声を出した。ルーズベルトは軽口でことを収めようとした。「こんな風にいえませんかね、5万人の戦争犯罪人を処刑するかわりに、もっと少ない数、たとえば4万9千人を・・」。
 チャーチルはゆっくりと部屋を出て行った。何年振りかで、だれかがスターリンを見限った瞬間だった。隣の部屋で、かれは背中にだれかの手を感じた。振り返るとスターリンと外務大臣のモロトフがいた。かれらは大きく笑って、これはただの冗談だよ、と言った。チャーチルは、クレムリンとの決別が戦争遂行にどういう影響を及ぼすかを知っていた。かれはテーブルに戻った。
 「わたしの片側には巨大なロシアの熊がいた。反対側には大きなアメリカ・バッファローが居た。その間にみすぼらしいイギリスのドンキーが坐っていた。それがただ一人・・帰り道を知っていたのだ」とチャーチルは記録した。
 三人は、戦うことと同時に、あとに続く平和の枠組みを作ろうとしていた。前大戦と違って、一回かぎりの講和会議で結論は出ず、その過程には5年を要した。戦争に勝つために隠されていた相違点が、新たな世界が姿を見せるにつれて表に現われだした。戦後60年が経過した。三巨頭がいかにして同盟を組み、それを活用し、またそれを維持できなかったか、については、高いレベルでの国際政治の第一級の研究課題となるのである。
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2009/05/14

Allianceの目次

プロローグ テヘランの晩餐
       1943年11月29日
1      バッファロー、熊、そしてドンキー
2      第1回のサミット
       ニューファンドランド、プラセンシア湾
        1941年8月9-12日

3      アンクル・ジョー
       モスクワ
        1941年9月

4      世界大戦
       ワシントン、チェカーズ、モスクワ、重慶、ローマ、ベルリン
        1941年12月6-12日

5      四人の交渉
       モスクワ、ワシントン、ロンドン
        1941年12月9日ー1942年1月14日

6      結論未定(アンディサイデッド)
       ロンドン、ワシントン
        1942年1月ー4月

7      人民委員の訪問
       モスクワ、ロンドン、ワシントン
        1942年5月ー6月

8      たいまつ(トーチ)の歌
       ハイドパーク、重慶、ワシントン、ロンドン
        1942年6月ー7月

9      モスクワの夜は更けて(ミッドナイト・イン・モスコー)
       モスクワ
        1942年8月

10     時の過ぎ行くままに(アズ・タイム・ゴーズ・バイ)
       北アフリカ、モスクワ、カサブランカ
        1942年10月ー1943年1月

11     嵐(ストーミー・ウェザー)
       ワシントン、モスクワ、ロンドン、ハイドパーク、ケベック
        1943年1月ー8月

12     ロシア序曲
       モスクワ
        1943年10月

13     ピラミッド
       カイロ
        1943年11月21ー26日

14     虹の彼方に(オーバー・ザ・レインボウ)
       テヘラン
        1943年11月28日ー12月1日

15     向かい風
       カイロ、チュニス、カルタゴ、ワシントン
        1943年12月ー1944年5月

16     勝利と悲劇
       ロンドン、ワシントン、ノルマンディ、パリ、ワルシャワ
        1944年6月ー9月

17     計 画
       ワシントン、ケベック
        1944年9月12-16日

18     パーセンテージ
       モスクワ
        1944年10月9-18日

19     赤いブルース
       ロンドン、ワシントン、モスクワ、アテネ、パリ、重慶
        1944年11月ー1945年1月

20     ヤルタ
       マルタ、クリミヤ
        1945年1月30日ー2月15日

21     スプリングスに死す
       スエズ運河、ワシントン、ロンドン、ウォーム・スプリングス
        1945年2月13日ー4月12日

22     旅の終わり
       ポツダム
        1945年7月17日ー8月2日


(注)ちなみに、6、9、10、11、14各章の原タイトル、アンディサイデッド、ミッドナイト・イン・モスコー、アズ・タイム・ゴーズ・バイ、ストーミー・ウェザー、オーバー・ザ・レインボウは、いずれも昔懐かしい、アメリカン・ポピュラー、ジャズ、映画音楽の題名ですね。著者の遊び心が潜んでいます。
   
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2009/05/13

Alliance (同盟) by Jonathan Fenby

まず、ジョナサン・フェンビーというイギリスのジャーナリストが、2008年に出したペーパーバックを読んでみます。(出版社:Simon & Shuster UK Ltd., London) 
原題は、 Alliance ‐ The Inside Story of How Roosevelt, Stalin & Churchill Won One War and Began Another (同盟 - ルーズベルト、スターリン、チャーチルは、いかにして一つの戦争に勝ち、もう一つの戦争を始めたか、の内幕話) です。
フェンビーは1942年11月生まれ、国際ジャーナリストとして活躍、1993-1995年、The Observer、 1995-2000年、香港の中国返還時には、South China Morning Post紙の編集者で、現在は、 Trusted Sourcesという研究所のChina ResearchのDirectorの由です。
著書に:
Dealing with the Dragon: A Year in the New 
Hong Kong
On the Brink: The Trouble with France
Generalissimo: Chiang Kai‐Shek and China He Lost
The Sinking of the Lancastria:British Worst Naval Disaster and Churchill’s
 Cover-Up
The Seventy Wonders of China
China’s Journey 1850-1949
The History of Modern China: The Fall and Rise of a Great Power
などがあります。
Allianceは、1941年8月、ルーズベルト、チャーチルの大西洋上会談に始まって、1945年8月のポツダム会談までを舞台に、英米ソ、三巨頭(ルーズベルト、チャーチル、スターリン。ただしルーズベルトの死後はトルーマンが引き継ぐ)の虚虚実実の駆け引きを描いたものです。これら三人の主役、そしてかれらを取り巻く脇役たちの等身大の実像、が呼吸の音の聞える近さに現われ、読者を魅了します。
この連合国が現在の「国連」の母体になったことはご存知のとおり。しかし、かれらの戦いは果たして「聖戦」だったのでしょうか?
alliance表紙 001

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